« 当たり前のことも理解できないなら、質問にだけ答えてください。 | トップページ | M講師からの反論-逆謗1 »

2010年10月25日 (月)

善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。

法然上人のお言葉は、簡潔明瞭で、しかも慈愛に満ち溢れています。複雑怪奇理解不能で脅迫の塊である親鸞会教義からの脱却には、法然上人のお言葉は最適であると思っています。

『勅伝』の中で次のような法然上人のお言葉が伝えられています。

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

上の龍樹菩薩、天親菩薩から、下は「末世の凡夫十悪五逆の罪人」まで浄土往生が勧められていると法然上人は仰っていますが、もちろん、龍樹菩薩、天親菩薩が「末世の凡夫十悪五逆の罪人」ではないことは、日本語が判るならば、理解できるでしょう。判りやすく言えば、善人と悪人がいるのですが、「最下の凡夫」である我等は、

  • 善人をすゝめ給へる所をば善人の分
  • 悪人を勧め給へる所をば我分

と見分けていけば、信心決定して、往生が遂げられるのだと教えられているのです。
親鸞会とは、全く反対のことを仰っています。善を勧められているところは、善人に対してのことであり、念仏を勧められているところを悪人の我等は自分のこととして経典を拝読すべきなのです。悪人が善人のための教えを自分のことと考えてはならないのです。

これまで何度も何度も書いてきた通り、『観無量寿経』では善人には善が勧められていますが、悪人の下品上生、下品中生、下品下生には、善は勧められず、念仏が勧められています。ですから、悪人の往生の為に、善を勧める教えはどこにもないのです。それが全く理解できないし、理解したくないのが親鸞会の会員です。

歴代の善知識方が仰っていることは、皆同じです。悪人に対しては念仏だけなのです。耳四郎に悪を止めよといっても、無理な話です。阿弥陀仏が18願に、悪も止められない人に善をさせるという条件を付けられたならば、その条件を満たすことのできない人は救われません。どんな極悪人をも洩らさずに救うためには、善という条件を付けてはいけないのです。

『選択本願念仏集』には

次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。
このゆゑに『往生礼讃』にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、観をなさしめずしてただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるや。
答へていはく、すなはち衆生障重く、境は細く心は粗し。識?り神飛びて、観成就しがたきによるなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちにもつぱら名字を称せよと勧めたまふ。まさしく称名の易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」と。[以上]
また『往生要集』(下)に、「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

(現代語訳)

次に難易の義とは、念仏は修め易く諸行は修め難い。

それゆえ《往生礼讃》にいわれてある。
「問うていう。どうして観察の行を勧めないで、ただもっぱら名号を称えさせられるのか。これにはいかなる意味があるのか。
答えていう。それは、衆生が障りが重く、観ずるところがこまやかであるのに、心はあらく、想いが乱れ飛んで、観察の行が成就しがたいからである。そういうわけで、釈尊はこれを哀れみくださって、ただもっぱら名号を称えることを勧められたのである。これはまさしく称名の行がたやすいから、これを相続して往生することができるのである。」

また《往生要集》に、
「問うていう。すべての善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答えていう。いま念仏を勧めることは、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも低いものでも、行住座臥の区別なく、時・処やいろいろの場合を論ぜず、これを修めるのにむずかしくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏に及ぶものはないからである。」

といわれている。故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多い。もし、多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多い。もし、戒律を持たもつことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者は甚だ多い。そのほかの諸行はこれに準じて知るべきである。故に、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。そういうわけであるから、弥陀如来は法蔵比丘の昔に平等の慈悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。

と教えられている通りです。
これら法然上人のお言葉を、「十方衆生」の意味を知らず選民思想に徹している親鸞会の会員には是非ともよく読んで頂きたい。

|

« 当たり前のことも理解できないなら、質問にだけ答えてください。 | トップページ | M講師からの反論-逆謗1 »

コメント

法然上人の選択本願念仏集、こんなに有り難いことが書かれていたのですね。
今まで、本当に気が付きませんでした。(と言うか、全部読んでない)
すごいですね、釈尊からずっと続く浄土門の教え。すばらしい。
何も言うこと無し。

投稿: とくよしみね | 2010年10月26日 (火) 19時45分

とくよしみね 様

『選択本願念仏集』は、親鸞会の会員が読むと、目から鱗が落ちる思いになるでしょう。私がそうでした。
少しずつでも、一通り読まれるとよいと思います。

投稿: 飛雲 | 2010年10月26日 (火) 20時25分

そうですね。
無理せず、少しずつ読ませていただきます。

投稿: とくよしみね | 2010年10月26日 (火) 22時38分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 当たり前のことも理解できないなら、質問にだけ答えてください。 | トップページ | M講師からの反論-逆謗1 »