« 耳四郎は宿善あつきもの? | トップページ | 当たり前のことも理解できないなら、質問にだけ答えてください。 »

2010年10月21日 (木)

思考力アップのトレーニングにはいい教材

M講師は相変わらずです。ブログを更新していたので、ひょっとしたら私からの質問に答えてくれたのかと思えば、やはりいつもの妄想です。その妄想も、次はこれを言うだろうと私が予想していたこととぴったりでしたので、思わず笑ってしまいました。なぜ予想できたのかといえば、かつてのコメント、「夢幻界裡の覚醒」の論理展開から考えれば、次の手は予想がつきます。

それと、高森会長の言ったことのない根拠を出しているところからみると、M講師は高森会長以上の善知識を演じたいようでもあります。

その内容はといえば、一々吟味するほどのものでもありません。
「AならばB」、「BならばC」、だから「AならばC」として論理展開をしていますが、「AならばB」の部分から間違っていますので、どうしようもないです。「夢幻界裡の覚醒」で香樹院師の言葉をトンデモ解釈した時と全く同じです。
大体、そんな回りくどい説明をしなければ理解できないような教えを親鸞聖人が説かれたと考える方がどうかしているでしょう。高森会長と、高森会長以上の善知識であるM講師しか読み取れない文底秘沈の教えが、正しい親鸞聖人の教えと主張するのは、雑多な新興宗教と同じ理屈です。

これまで当ブログで膨大な根拠を挙げての説明が少しでも理解できれば、レベルの低い詭弁は容易に見抜けると思います。親鸞会の現役会員も、元会員も、考える能力が著しく低下している傾向にありますので、思考力アップのトレーニングにはいい教材になるのではないでしょうか。

さて、大事な部分の復習も少ししておきましょう。

『往生要集』

『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

『高僧和讃』源信讃

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

『正信偈』

極重の悪人はただ仏を称すべし。

『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

これが浄土門の基本中の基本です。なぜなら、『観無量寿経』の下品下生とは、平生に仏法も聞かず、世福という程度の低い善をしようとしてもそんな善もできない極重の悪人のことであり、そんな者に対しては、臨終の病の苦しみの中でやっとやっとでもいいから念仏を称えよとしか勧められていないからです。
前回、耳四郎のことを書きましたが、犯罪を止めよと言われても止めることさえできない者に、往生の為の善を勧めることは理に叶わないことです。だからそんな者の為には念仏だけなのです。それを善知識方が繰り返し繰り返し仰っているのです。

そうなると、聖道門の学僧達は、念仏は下根の為の教えであり、上根の為には諸善が説かれている、と当然ながら考える訳です。阿弥陀仏の48の願でも19願なら大いに認めていましたので、そんな聖道門の学僧達に対して、親鸞聖人が『教行信証』化土巻・要門釈の結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

と仰っているのです。『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を敢て加えられたのであって、日本語からしても、当時の時代背景からしても「極重悪人」が「定散の諸機」であるなどというイカレタ解釈になる訳がないのです。それはその後の

濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

を読んでも明らかです。実に簡単なことです。

しかし、M講師がイカレタ解釈を間違いと認めたら、完全に終りですから、死ぬまで邪説を言い続けるでしょう。謗法罪を造るな、といってもますます造り続ける謗法の機には、永久に沈んでもらうしかないのです。

|

« 耳四郎は宿善あつきもの? | トップページ | 当たり前のことも理解できないなら、質問にだけ答えてください。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 耳四郎は宿善あつきもの? | トップページ | 当たり前のことも理解できないなら、質問にだけ答えてください。 »