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2010年10月12日 (火)

高玉・智覚は、みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

前回、聖道諸宗の祖師方で、聖道門から浄土門に入られて往生されている方も多いと仰った法然上人のお言葉を紹介しました。今回は、親鸞聖人のお言葉を見てみましょう。

『教行信証』信巻

禅宗の智覚、念仏の行者を讃めていはく(楽邦文類)、「奇なるかな、仏力難思なれば、古今もいまだあらず」と。

律宗の元照師のいはく、「ああ教観にあきらかなること、たれか智者(智顗)にしかんや。終りに臨んで『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、たれか杜順にしかんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。業儒、才ある、たれか劉・雷・柳子厚・白楽天にしかんや。しかるにみな筆を秉りて、誠を書して、かの土に生ぜんと願じき」と。

(現代語訳)

禅宗の智覚が『楽邦文類』に、念仏の行者をほめていっている。
「不可思議なことである。仏の力は思いも及ばないものであり、いまだかつてない尊いものである」

律宗の元照師がいっている。
「ああ、智者ほど教義と実践に通じていたものはいない。彼もまた臨終には『観無量寿経』を仰ぎ、阿弥陀仏の浄土をたたえてこの世を去った。杜順ほど法界の教理に達していたものはいない。彼もまた出家や在家の人々に勧めて念仏し、臨終に奇瑞を感得して、西方浄土に往生した。高玉や智覚ほど禅定に入って自己の本性を見たものはいない。彼らもまた仲間とともに念仏し、すぐれた往生をとげた。劉程之や雷次宗、柳子厚や白楽天ほど儒学者の中で学識のあったものはいない。ところが彼らもまた、誠実な心を文にあらわして、浄土に生れたいと願った」

親鸞聖人も法然上人と同様に、智覚禅師に対して、「禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。」と、上品上生の往生をされた方との見方をされていることが判ります。
くどいようですが、親鸞会で教えているような、

十方衆生=下品下生

を法然上人も親鸞聖人も否定されているのです。

ここの直前には、親鸞会でも有名な

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。弥勒菩薩は等覚の金剛心を得ているから、竜華三会のときに、この上ないさとりを開くのである。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。だから、すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。そればかりでなく、他力の金剛心を得たものは、韋提希と同じように、喜忍・悟忍・信忍の三忍を得ることができる。これは往相回向の信心をいただいたからであり、阿弥陀仏の不可思議な本願によるからである。

があります。
つまりは、この御文を証明されるために、聖道の祖師方も聖道修行の限界を知り、最後は浄土門に帰依し、往生されたという文を引かれているのです。

聖道門を実践できる善人が実際にあるから、聖道門を説かれ、聖道門での修行に限界を感じた人を浄土門に誘引する19願が建てられ、釈尊は定散二善が説かれたのです。そして19願を信じている人を20願自力念仏に、そして最後は18願他力念仏往生に転入させる、これが三願転入であり、権仮方便ということです。
親鸞会の邪義に毒されていると、これは高森会長が教えていることと同じとしか理解できないようですが、対象が違うのです。19願、定散二善は浄土門以外の教えを信じている人、つまり聖道門の人(一番最初の文では儒学者も含まれている)を浄土門に入れるためのものということです。浄土を願っていない人を誘引するのが目的です。

それを化土巻・隠顕釈

如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と善導大師の釈を用いられて仰っているのです。18願での他力念仏往生を願っている人に「欣慕浄土の善根」は不要です。18願を願求している人には、18願しか善知識方は説かれていません。
要門釈の最初には、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

とあるのも、19願の対機、定散二善を説かれた相手について仰っています。ここをmixiでるぅでる氏が説明されていました。

外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、
実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり堅出堅超に入るといえども、真実のものは
はなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

そして次の

「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく
諸有海を化したまふ。」

に続くのです。

半満・権実の法門」である聖道門に行き詰まった人を浄土門に入れるのが定散二善であり、19願であるのです。ここの「群生海」「諸有海」や19願文の「十方衆生」の意味は、全人類だから聖道門の人に限らない、と親鸞会、H講師、O講師、M講師は同じことをいうしか能がないのですが、それについては豊富な根拠を挙げて説明してきました。まとめたものが

「親鸞会の邪義を正す」
”三願転入の教え”の誤り1

にありますので、詳しい説明は省略します。
高森会長のよく使うたとえで補足すれば、大統領に立候補した人が、「私は全国民と約束をします。私が大統領になりましたならば、消費税以外の税金を半分にします。」と公約したとします。約束の相手は全国民です。しかし、税金が半分になっても恩恵を受ける人と受けない人が出てきます。税金を元々払っていない人には、関係のないことです。「全国民に定額給付金を出します。」ならば、関係のない人はいません。全国民と約束をしたからといって、すべて関係があると思う方が、御粗末でしょう。
実際、善知識方も、聖道門の学僧でさえも、「十方衆生」とある三願すべてが私達と関係があるとは誰も仰っていません。浄土門の善知識方は18願だけ、聖道門の学僧は19願だけが自分と関係ある願と看做されていました。

三願転入については要門釈の結勧の文

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

がすべてです。19願の対機である「定散の諸機」も、「ただ弥陀を称せよ」と親鸞聖人は結論を仰ったことは、本日のエントリーで挙げた親鸞聖人のお言葉すべてに繋がっています。もちろん、

定散の諸機≠極重悪人

です。M講師の主張の愚かさがここだけでも判ります。

当然ながら、親鸞会のどの主張も本日の親鸞聖人のお言葉と矛盾しています。

高森会長にしても、教学課にしても、O講師、M講師も、次なる詭弁を考え出す知恵もなく、過去の議論を無視して同じことを言い続けることしか能がないようです。

ここまで落ちぶれると哀れなものです。

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