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2010年10月

2010年10月31日 (日)

M講師からの反論-化土往生1

M講師とは誰か、と疑問に思われる方も多いようですが、初期の教学課に属していた古参の講師です。

化土往生についてのM講師の反論は、以下のようなものでした。

親鸞聖人は

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。教行信証総序

ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。教行信証行巻

と仰り、蓮如上人は

後世とは永き世まで地獄におつることなれば(帖外御文)

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。御文章2帖目第2通

と仰っておられるが、これらが間違いであるのか、と問い、また化土往生の行ができる人を教えよ、というものでした。

これは、O講師とのやりとりででてきた内容ですので、覚えておられる方も多いと思います。
これは、元々の

「親鸞会の邪義を正す」
化土往生について1

をそのまま読まれればお終いの話を、それを断章取義した根拠で全否定するいつものパターンです。

源信僧都は、信心がなくても浄土を願って行を行えば、阿弥陀仏の願力によって化土往生できるし、化土往生している人は少なくないと仰っています。
親鸞聖人も源信僧都の教えを受け継がれて、19願、20願は方便の行信であるから、方便の行信では方便の利益(化土往生)しか得られないことを繰り返し仰っています。化土にしか往けないから、19願、20願を願うなと厳しく誡めておられますが、誰も化土往生できないのに、このようなことを仰る道理がありません。
19願、20願を願って行じている人は必堕無間だ、という教えなどあろう筈がないです。

親鸞会のこのような御粗末な思考に対しては、根拠の羅列が一番でしょうから、以下のように返答されました。

これも多くの根拠を出しましたが、悉く無視ですか。再度根拠を挙げておきます。

『往生要集』信毀因縁には、

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、
「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経・三)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。

『往生要集』報化得失

雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。ゆゑに経に別に説けり。実には相違せず。

『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり

『末灯鈔』

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

『正信偈大意』

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。

『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

『正像末和讃』誡疑讃

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる

仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく

転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり

自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり

七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし

辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ
 はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり

ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり
 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる

如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり

仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ

仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ

自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり

仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ

これらの多くの根拠をすべて嘘と断言なされる訳ですか。

親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、殆どが20願自力念仏についてです。自力念仏の行が誰にもできないなんて、まさか仰らないと思いますが、O講師は念仏さえ称えられないのが私たちだと主張して墓穴を掘っています。

『教行信証』化土巻・真門釈

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知ん、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

と仰っています。真門釈ですから、20願自力念仏についてですが、親鸞聖人は自力念仏を「多功徳・多善根・多福徳因縁」と仰っています。因果の道理を信じておられるならば、

他力念仏⇒報土往生
自力念仏⇒必堕無間
念仏誹謗⇒必堕無間

に矛盾を感じられないとおかしいと思いますが、如何でしょうか。自力念仏に大した功徳がないと仰るならば、最早、浄土門ではありません。

ちなみにM講師の出された親鸞聖人のお言葉は、阿弥陀仏の本願も知らずに、報土往生も化土往生もできないならば、ということであって、化土往生できない根拠ではありません。
蓮如上人のお言葉も、都合のいいところだけと断章取義されていますが、他の御文章では、地獄に堕ちると仰っているのは、異安心、邪義の者に対してです。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。1帖目第11通

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。2帖目第14通

もし、信心決定できなければ、死後は必ず無間地獄に堕ちるのであれば、このようなことを仰ったことは無意味なことになります。異安心も、邪義も関係なく必堕無間なのですから。
従ってM講師の挙げられた2つも、それらの者に対して仰ったと考えるべきではありませんか。
参考までに後生の一大事について、他の御文章は読まれたことはありませんか。

もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。1帖目第11通

ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。2帖目第7通

この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽はまことにもてかなふべからず。2帖目第10通

いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはなし。(帖外御文)

以上のことから、後生の一大事とは、死んで必ず無間地獄に堕ちる一大事という意味ではありません。親鸞会は、都合の悪い根拠は無視することしかしませんが、それで正しい解釈ができる訳がないです。

かつて教学課だったM講師ですが、親鸞聖人の御著書の1%くらいしか読んだことがないと思います。本当に何も知りません。親鸞会は、自分の知識外のことを言われると、自分の極めて狭い知識内での話に引き摺り込もうとしますが、そんな状態で親鸞聖人の教えがすべて判っているような顔をするな、と言いたいです。

断章取義して意味を取り違えた1%の根拠で、真宗学が完璧に理解できていると思っている愚かさに、早く気付いて欲しいものですが、あの傲慢さをなんとかしない限りそれは無理でしょうね。

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2010年10月30日 (土)

M講師からの反論-逆謗2

M講師との法論の発端は、ある会員さんがM講師に「親鸞会の邪義を正す」を見せて、反論を依頼したことです。前回書いたM講師の逆謗についての反論は、

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

の部分に対してです。「親鸞会の邪義を正す」では、善導大師、法然上人、親鸞聖人のお言葉を挙げて説明しているのですが、M講師はそれらをすべて無視した上で、断章取義したたった1つの根拠で、これこそが秘中の秘の教えとでも考えていて、金科玉条のように『末灯鈔』のお言葉を出しています。

しかし、この考え方こそが、カルト的な危険な思考です。

1つの根拠がそれに反する他の多くの根拠を否定しうる訳がないことは、論理的な思考ができる人ならばごく当たり前のことです。それぞれの根拠には、それぞれ関連があると考えていくのが普通です。親鸞会は、物事を総合的に考えることが全くできないのです。ここにこう書いてあるから、他は無視するなどという発想は、まさに行き当たりばったりの会長らしい思考です。

ですから、親鸞会が出してくる、他の根拠を根本から否定する根拠というのは、その解釈が元々間違っていると考えていいでしょう。親鸞会教義の間違いを指摘するには、その前後を読めばいいです。
従って、親鸞会との法論して勝つには、教学がなくてもちょっとした国語力があればいいのです。中には小学生レベルの国語力でも勝てる内容もあります。親鸞会の教義など、その程度のものです。

さて、親鸞会は会長をはじめ、講師部員も皆、傲慢で、他人を徹底的に見下す態度をとります。M講師も傲慢そのものの文章を書いています。その原因の1つが、

十方衆生=逆謗の機

という間違った理解にあると私は考えています。
つまり、すべての人は自分と同じ無間業ばかり造っているどうしようもない者しかいないが、その中で自分たちは”真実”を知っているエリートだ、と思い込んでいるのです。龍樹菩薩も、天親菩薩も、善導大師も、親鸞聖人も自分と同じだ、くらいにしか思えないのでしょう。

試験にたとえて言えば、十方衆生は皆、0点しかとれない、龍樹菩薩も天親菩薩も、善導大師も、親鸞聖人も皆自分と同じ0点だった、と考えているのでしょうが、そこがとんでもない”自惚れ”なのです。100点は取れなくても、80点、70点を取っているエリート方は沢山おられるのです。それが『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

です。龍樹菩薩もよい点を取られていますし、善導大師も低い点数ではあっても点数はあります。しかし、我々は0点なのです。
0点の中でも、もう少しで点が取れる人もあれば、白紙の人もあるのです。逆謗の機とは、いわば全くの白紙で0点の人のようなものです。

この事実を知れば、傲慢な態度にはなれない筈です。点数のある善導大師でさえ嘆かれたのです。ましてや0点の我々は、大いに恥じるべきでしょう。

そんな0点の我々が阿弥陀仏のお力によって、100点を取らせて頂けるのですから、自己のとんでもない落ちこぼれを深く懺悔して素直に阿弥陀仏に感謝することができるのです。

ところが親鸞会のように十方衆生は皆、白紙で0点、つまりは

十方衆生=逆謗の機

と言っているは、仏教のイロハも知らないからで、自分たちは十方衆生の中でのエリートと本気で思い込んでいます。言葉にこそ出しませんが、龍樹菩薩も白紙で、同じ落ちこぼれ同志程度にしか思っていないのは、仏弟子としては根本的に感覚が狂っています。

親鸞聖人は御自身のことを無慚無愧と仰っていますが、親鸞聖人は無慚無愧の自分と恥じておられるのです。無慚無愧と胸を張っている会長や講師部員とは雲泥の差です。

これだけ説明しても、文章をまともに読む気のない、読む能力のない会長と講師部員、そして幹部会員には、このエントリーも理解不能なのでしょうけど。

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2010年10月29日 (金)

M講師からの反論-逆謗1

M講師(いつも愉快なブログをたくさん書いているM講師とは別人)が、「親鸞会の邪義を正す」を読んで、ある会員さんに反論文を書いて渡したそうです。その反論文をそのまま紹介したいところですが、著作権侵害を主張してメールの公開を阻止した例のM講師と同じことを言ってくるかもしれませんので、暫くは原文を伏せておきます。ただし、内容についての解説は今後していきます。

項目は、三願転入、化土往生、逆謗についての3つです。これらはすべて、mixiでのこうへい氏(H講師)とのやりとり、O講師のブログ上でのやりとりで、すでに論破されて、共に逃亡した内容ですが、そのことが伝わっていないために、同じことを自信満々に言ってきています。進歩のない団体です。

M講師に対しては、すでに反論がなされていまして、M講師からの返答待ちの状態です。少しずつ紹介していきます。

まず最初にM講師は、ネット上でしか主張できない、と見下しています。それに対しては、


まず、こそこそとネットで書いたものと思われているようですが、大きな誤解です。これは、mixiでH講師と三願転入について法論して、H講師が法論を放棄した内容と、O講師のブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」と法論して、やはりO講師が法論を放棄した内容を、主にまとめたものです。
従って、すでに両講師との法論で議論し尽された内容ばかりですが、M講師は御存知ないようです。その時の法論の内容に少し補足しながら説明させて頂きます。

全般的なこととして、私は沢山の根拠を挙げました。経典、善知識方のお言葉で説明していますが、その根拠についてM講師が触れているのは、大経の異訳本についてのみです。他の根拠を無視されていることは、仏弟子として如何なものでしょうか。帽子に合わせて頭を削っているのはどちらかよくお考え下さい。


と誤解を解き、根拠を無視する姿勢を疑問視する前置きがあります。実に親鸞会らしい態度ですが、それで仏弟子を名乗るのですから、呆れたものです。

さて本題に入りますが、M講師の文章を伏せたままで説明するのはやりにくいので、一番判りやすい逆謗について今回は紹介しておきます。
M講師の主張は、『末灯鈔』

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。

を出してきて、謗法、五逆の者でない人を示せ、という内容でした。これは当ブログの読者の方ならば、簡単に論破できることだと思います。

一応、それに対しての返答は以下の通りでした。



法然上人の『往生大要鈔』では

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰り、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

ともあります。
聖覚法印の『唯信鈔』には、

五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。

とか、

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。

と仰っていますが、これらも嘘ということですか。
親鸞聖人は『唯信鈔』を何度も御自身で写されて、関東の同行に読むようにと送っておられますが、嘘の書いてある書物を読むように勧められたことになります。

さてM講師の質問に答えますと、『末灯鈔』には

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。明法の御坊の往生のことをききながら、そのあとをおろかにもせんひとびとは、その同朋にあらずそうろうべし。

とあります。後の部分もしっかり読んで下さい。
訳してみますと、

善知識をおろそかに思い、師を謗る人を、謗法の者というのです。親を謗る人を五逆の者というのです。このような人とは同席をしてはいけないといわれています。ですから、北の郡にいた善証房は、親を罵り、親鸞を様々に謗っていましたので、親しく接しようとは思わずに、近づけないようにしていました。明法房の往生のことを聞きながら、その遺志をおろそかにする人々は、同朋ではありません。

このようになります。
謗法罪の人、五逆罪の人とは親しくしてはいけないと教えられていますから、謗法罪、五逆罪を犯していた善証房を遠ざけていました、と親鸞聖人は仰っているのです。ここで謗法罪、五逆罪の者とは、善証房のことを指しています。
このお言葉に近い内容として、同じく『末灯鈔』

この御なかのひとびとも、少々はあしきさまなることもきこえそうろうめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんどしあわせたまうよしきこえそうろう。あさましくそうろう。すでに、謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。『浄土論』(論註)ともうすふみには、「かようのひとは、仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」とそうろうめり。また、至誠心のなかには、「かように悪をこのまんひとには、つつしみてとおざかれ、ちかづくことなかれ」とこそ、おしえおかれてそうらえ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ、ときおかれそうらえ。

とあります。このお言葉も、関東の同行に宛てたお手紙の一部です。訳してみますと、

皆さんの中にも、少々悪い噂が聞こえてきます。師を謗り、善知識を軽んじ、同行を貶めあっていると聞いています。浅ましいことです。こんな人は、すでに謗法の人であり、五逆の人です。親しく接してはいけません。『浄土論註』という書には、「このような人は、仏法を信ずる心がないから、この心が起こるのだ」と書かれています。また、『観無量寿経疏』の「至誠心釈」の中に、「このように悪を好む人には、慎んで遠ざかれ、近付いてはならない」と教えられています。善知識・同行には親しみ近づきなさいと説かれているのです。

となります。
これらのお言葉から、かつて親鸞聖人から直接話を聞いていた関東の同行の中に、謗法罪、五逆罪の者がいるから、彼らに近付くな、と仰っていることがわかりますし、このような恐ろしい悪を慎むように誡めておられます。もちろん謗法罪、五逆罪を犯していない同行がいる前提で仰っていることは明らかです。
ですから当然のごとく全ての人が謗法罪、五逆罪を犯しているという意味合いで、親鸞聖人は仰っていません。
前後を読めば、謗法罪、五逆罪の人とは、一部の人という意味にしか解釈できませんが、違いますか。


断章取義による典型的な邪義でした。

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2010年10月25日 (月)

善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。

法然上人のお言葉は、簡潔明瞭で、しかも慈愛に満ち溢れています。複雑怪奇理解不能で脅迫の塊である親鸞会教義からの脱却には、法然上人のお言葉は最適であると思っています。

『勅伝』の中で次のような法然上人のお言葉が伝えられています。

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

上の龍樹菩薩、天親菩薩から、下は「末世の凡夫十悪五逆の罪人」まで浄土往生が勧められていると法然上人は仰っていますが、もちろん、龍樹菩薩、天親菩薩が「末世の凡夫十悪五逆の罪人」ではないことは、日本語が判るならば、理解できるでしょう。判りやすく言えば、善人と悪人がいるのですが、「最下の凡夫」である我等は、

  • 善人をすゝめ給へる所をば善人の分
  • 悪人を勧め給へる所をば我分

と見分けていけば、信心決定して、往生が遂げられるのだと教えられているのです。
親鸞会とは、全く反対のことを仰っています。善を勧められているところは、善人に対してのことであり、念仏を勧められているところを悪人の我等は自分のこととして経典を拝読すべきなのです。悪人が善人のための教えを自分のことと考えてはならないのです。

これまで何度も何度も書いてきた通り、『観無量寿経』では善人には善が勧められていますが、悪人の下品上生、下品中生、下品下生には、善は勧められず、念仏が勧められています。ですから、悪人の往生の為に、善を勧める教えはどこにもないのです。それが全く理解できないし、理解したくないのが親鸞会の会員です。

歴代の善知識方が仰っていることは、皆同じです。悪人に対しては念仏だけなのです。耳四郎に悪を止めよといっても、無理な話です。阿弥陀仏が18願に、悪も止められない人に善をさせるという条件を付けられたならば、その条件を満たすことのできない人は救われません。どんな極悪人をも洩らさずに救うためには、善という条件を付けてはいけないのです。

『選択本願念仏集』には

次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。
このゆゑに『往生礼讃』にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、観をなさしめずしてただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるや。
答へていはく、すなはち衆生障重く、境は細く心は粗し。識?り神飛びて、観成就しがたきによるなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちにもつぱら名字を称せよと勧めたまふ。まさしく称名の易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」と。[以上]
また『往生要集』(下)に、「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

(現代語訳)

次に難易の義とは、念仏は修め易く諸行は修め難い。

それゆえ《往生礼讃》にいわれてある。
「問うていう。どうして観察の行を勧めないで、ただもっぱら名号を称えさせられるのか。これにはいかなる意味があるのか。
答えていう。それは、衆生が障りが重く、観ずるところがこまやかであるのに、心はあらく、想いが乱れ飛んで、観察の行が成就しがたいからである。そういうわけで、釈尊はこれを哀れみくださって、ただもっぱら名号を称えることを勧められたのである。これはまさしく称名の行がたやすいから、これを相続して往生することができるのである。」

また《往生要集》に、
「問うていう。すべての善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答えていう。いま念仏を勧めることは、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも低いものでも、行住座臥の区別なく、時・処やいろいろの場合を論ぜず、これを修めるのにむずかしくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏に及ぶものはないからである。」

といわれている。故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多い。もし、多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多い。もし、戒律を持たもつことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者は甚だ多い。そのほかの諸行はこれに準じて知るべきである。故に、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。そういうわけであるから、弥陀如来は法蔵比丘の昔に平等の慈悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。

と教えられている通りです。
これら法然上人のお言葉を、「十方衆生」の意味を知らず選民思想に徹している親鸞会の会員には是非ともよく読んで頂きたい。

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2010年10月22日 (金)

当たり前のことも理解できないなら、質問にだけ答えてください。

念仏は暫用還廃の方便ではない”と当たり前のことが書かれていました。それで何?という感じですが、実は5ヶ月前に「他の方便なし」のお言葉を出した時点で、この反論が出てくると想定していました。
ところが、よく理解できなかったのでしょうか、これに対するコメントが5ヶ月もの間どこからもありませんでした。
意味が判らずにコメントしてこないのだと思いまして、『観無量寿経』の下品下生に関することを、延々とこれまで書いてきました。これで理解できたであろうと安心していたところに、今頃こんなことを言ってくるとは、余程の知能の持ち主です。

方便についても、過去に何度も書いてきましたし、あれだけ説明しても、こんな幼稚園児並みのことを今頃書いてくるようでは、国語のレクチャーも必要なのでしょうか。

それでは、これならどうでしょう。大善知識様よりは格下ですが、50年前の無二の善知識のお言葉です。

高森顕徹著『顕正』(昭和33年発行)

 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

他の方便なし」とは、こういうことです。

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは5

にもありますように、

「宿善の機」には、「常に虎の説法をしなければならない」と蓮如上人は教えておられます。もちろん親鸞聖人も、「常に虎の説法」しかしておられません。

虎を描きたいと弟子入りした人に、猫どころか鼠の手本をわたしてどうするつもりでしょうか。

ということです。
まあ、これでも理解できないでしょう。仕方がないですね。

以下の問いにだけ答えてもらえれば結構です。

  1. 2chや講師部合宿でも問題として取り上げられた講師部員の犯罪行為については、往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」ゆえにしてしまったのか。
    あるいは、廃悪修善を実践する親鸞会講師部員にあっては、犯罪行為を行った講師部員は存在しないと全面否定をするのか。(ここではあえて具体的な内容は伏せておきますが、否定された場合には具体的なことを後ほどお尋ねします)
  2. 高森会長の盗作及び浄財の私的流用は、間違いのない事実として多くの人が確認できることではあるが、世間一般の人でもしないような犯罪行為を何十年もし続けている会長は、講師部員よりも更に「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」といえる。しかし、そんな「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」のままの会長が獲信したというのは親鸞会の宿善論と矛盾しないのか。 (盗作、浄財の私的流用を否定されるのであれば、また具体的なことをお尋ねします)
  3. 『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

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2010年10月21日 (木)

思考力アップのトレーニングにはいい教材

M講師は相変わらずです。ブログを更新していたので、ひょっとしたら私からの質問に答えてくれたのかと思えば、やはりいつもの妄想です。その妄想も、次はこれを言うだろうと私が予想していたこととぴったりでしたので、思わず笑ってしまいました。なぜ予想できたのかといえば、かつてのコメント、「夢幻界裡の覚醒」の論理展開から考えれば、次の手は予想がつきます。

それと、高森会長の言ったことのない根拠を出しているところからみると、M講師は高森会長以上の善知識を演じたいようでもあります。

その内容はといえば、一々吟味するほどのものでもありません。
「AならばB」、「BならばC」、だから「AならばC」として論理展開をしていますが、「AならばB」の部分から間違っていますので、どうしようもないです。「夢幻界裡の覚醒」で香樹院師の言葉をトンデモ解釈した時と全く同じです。
大体、そんな回りくどい説明をしなければ理解できないような教えを親鸞聖人が説かれたと考える方がどうかしているでしょう。高森会長と、高森会長以上の善知識であるM講師しか読み取れない文底秘沈の教えが、正しい親鸞聖人の教えと主張するのは、雑多な新興宗教と同じ理屈です。

これまで当ブログで膨大な根拠を挙げての説明が少しでも理解できれば、レベルの低い詭弁は容易に見抜けると思います。親鸞会の現役会員も、元会員も、考える能力が著しく低下している傾向にありますので、思考力アップのトレーニングにはいい教材になるのではないでしょうか。

さて、大事な部分の復習も少ししておきましょう。

『往生要集』

『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

『高僧和讃』源信讃

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

『正信偈』

極重の悪人はただ仏を称すべし。

『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

これが浄土門の基本中の基本です。なぜなら、『観無量寿経』の下品下生とは、平生に仏法も聞かず、世福という程度の低い善をしようとしてもそんな善もできない極重の悪人のことであり、そんな者に対しては、臨終の病の苦しみの中でやっとやっとでもいいから念仏を称えよとしか勧められていないからです。
前回、耳四郎のことを書きましたが、犯罪を止めよと言われても止めることさえできない者に、往生の為の善を勧めることは理に叶わないことです。だからそんな者の為には念仏だけなのです。それを善知識方が繰り返し繰り返し仰っているのです。

そうなると、聖道門の学僧達は、念仏は下根の為の教えであり、上根の為には諸善が説かれている、と当然ながら考える訳です。阿弥陀仏の48の願でも19願なら大いに認めていましたので、そんな聖道門の学僧達に対して、親鸞聖人が『教行信証』化土巻・要門釈の結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

と仰っているのです。『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を敢て加えられたのであって、日本語からしても、当時の時代背景からしても「極重悪人」が「定散の諸機」であるなどというイカレタ解釈になる訳がないのです。それはその後の

濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

を読んでも明らかです。実に簡単なことです。

しかし、M講師がイカレタ解釈を間違いと認めたら、完全に終りですから、死ぬまで邪説を言い続けるでしょう。謗法罪を造るな、といってもますます造り続ける謗法の機には、永久に沈んでもらうしかないのです。

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2010年10月19日 (火)

耳四郎は宿善あつきもの?

M講師に、親鸞会の教義上、極めて重要な質問をしたのですが、答える気がないようです。もとより、期待はしておりませんでしたが。

さて、自分で書いた質問ですが、自分で少しだけ回答してみます。
法然上人のお弟子であった耳四郎のことは、親鸞会でも聞いたことのある人もいると思います。
『勅伝』に

河内国に天野の四郎とて、強盗の張本なるものありけり。人をころし財をかすむるを業として世をわたりけるが、としたけて後、上人の化導に帰し、出家して教阿彌陀佛と号しけり。

とありますように、耳四郎は強盗、殺人を平気で犯す人物でしたが、ある時、法然上人の御法座に紛れて盗みの機会を窺っていたところ、法然上人の御説法を聞いて、それが我が事と思い、潜んでいた縁の下から出てきて、法然上人のお弟子になったと伝えられています。高森会長は、法然上人の弟子の中で極めて短期間で救われた人として耳四郎を挙げています。
では、耳四郎は法然上人のお弟子になった後、犯罪を止めたのかといえば、盗みは相変わらず行っていたようです。止めようと努力しても止めることができなかったのです。

つまり、耳四郎は信前信後を通して、盗みという粗い悪も止まなかったということです。耳四郎のことを『唯信鈔』でいえば、「宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず」ですし、『口伝鈔』でいえば、「宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし」です。親鸞会的な宿善論ならば、耳四郎は、信後も宿善薄いものであって、宿善が厚くなっていないのに、救われたことになります。

一方では、耳四郎は宿善の厚い頓機のものであったから、すぐに救われたとも説明します。

これは、高森会長自身にも当て填まる矛盾です。信前の者とはいいながらも、盗みをするような講師部員がもしいれば、一般の人と比較しても宿善薄い人になりますし、高森会長は何十年もそれを続けてきているので、宿善厚い人とはとてもいえません。

宿善を「宿世の善根」と理解し、宿善厚い人は、「今生にも善根を修し悪業をおそる」と教えている間は、この矛盾はなくなりません。

宿善については

「親鸞会の邪義を正す」
宿善の意味

で詳しい説明がありますので、そちらを読んで下さい。

親鸞会では、とにかく善をさせる、という結論ありきですべて論理の組立てをするから、教義が破綻するのです。親鸞会の「宿善すくなきもの」達は、粗い悪さえも止められないのですから、善を勧める以前のレベルです。

今からでもいいですから説明して下さい、M講師。

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2010年10月16日 (土)

哀れなM講師へ質問

2chやコメント欄でも質問がありましたが、当ブログを読んで、批判記事を書いているM講師へ、私からも改めて質問します。

親鸞会では十方衆生は下品下生の極重の悪人であるとした上で、宿善薄きものは、宿善を厚くして、信心決定すると教えていますが、『唯信鈔』

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

と、『口伝鈔』

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

との関係から、現実的な問題として以下のことに答えて下さい。

  1. 2chや講師部合宿でも問題として取り上げられた講師部員の犯罪行為については、往生の障りとならないと思ってしたのか、往生の障りにはなるが「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」ゆえにしてしまったのか。
    あるいは、廃悪修善を実践する親鸞会講師部員にあっては、犯罪行為を行った講師部員は存在しないと全面否定をするのか。(ここではあえて具体的な内容は伏せておきますが、否定された場合には具体的なことを後ほどお尋ねします)
  2. 高森会長の盗作及び浄財の私的流用は、間違いのない事実として多くの人が確認できることではあるが、世間一般の人でもしないような犯罪行為を何十年もし続けている会長は、講師部員よりも更に「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」といえる。しかし、そんな「宿善すきなきもの」「宿悪おもきもの」のままの会長が獲信したというのは親鸞会の宿善論と矛盾しないのか。 (盗作、浄財の私的流用を否定されるのであれば、また具体的なことをお尋ねします)
  3. 『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

以上について、これまで当ブログでは何度も何度も述べてきた内容ですが、講師部員が下らないことを言い続けて評価を落し続けていても仕方がないので、往生と善悪との関係という極めて重要な問題について、経典や善知識方の聖教から根拠を挙げて説明して下さい。根拠に基づかない珍理論は一切不要です。

念の為日本語の説明をしておきますと、『教行信証』化土巻・要門釈

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

から、「極重悪人」は「定散の諸機」のことだから、すべての人に善を勧められた、という意味にはどう頑張ってもなりえません。「定散の諸機」に対しても、「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」と念仏を勧められていることを仰っているだけです。従って、中学生にまで笑われるようなヘンテコ解釈をしないように。

mixiではこうへい氏は雲隠れしました。「奥越親鸞学徒の集い」でもO講師は議論を放棄しました。「夢幻界裡の覚醒」でも偽僧侶は1ヶ月以上沈黙しています。
さて、活きのいい「正しい真宗教義の伝承のために」管理人M講師は、当ブログも読んでいますし、当ブログ批判もしていますので、答えてくれるでしょう。

まさか今更、

私はM講師ではないから関係ない

とか言わないようにして下さいよ。

もし親鸞会の講師部員ではないと主張されるのであれば、法論に応じない腰抜けの会長の意向は無視できますので、尚更回答に躊躇する理由はない筈です。M講師のように、話を逸らしたり、質問で返すような卑怯なこともないでしょうしね。「夢幻界裡の覚醒」管理人偽僧侶の立場で答えてもらっても結構ですよ。

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2010年10月15日 (金)

愚かで哀れな講師部員

善知識方のお言葉を断章取義して、故意に意味を変えているのは、教団と一族の名利のためと本当に無知なことによるものです。これはもちろん大問題ですが、下っ端の講師部員もそのことを知りながら、その手助けをしているのは、何とも哀れです。

読者の方からお叱りを受けるかも知れませんが、愚かな講師部員に騙される人があるかも知れませんので、くどいようですが、一応書いておきます。

悪人正機も理解できない親鸞会

のところで、「定散の機」についての説明をしました。『観無量寿経』『観無量寿経疏』を読まれれば、お判りいただけると思いますが、法然上人がまとめて下さっていますので、九品の解説を『選択本願念仏集』で見てみます。

次に九品とは、前の三福を開して九品の業となす。
いはく上品上生のなかに「慈心不殺」といふは、すなはち上の世福のなかの第三の句に当る。次に「具諸戒行」とは、すなはち上の戒福のなかの第二の句の「具足衆戒」に当る。次に「読誦大乗」とは、すなはち上の行福のなかの第三の句の「読誦大乗」に当る。次に「修行六念」とは、すなはち上の第三の福のなかの第三の句の意なり。
上品中生のなかに「善解義趣」等といふは、すなはちこれ上の第三福のなかの第二・第三の意なり。
上品下生のなかに「深信因果・発道心」等といふは、すなはちこれ上の第三の福の第一・第二の意なり。
中品上生のなかに「受持五戒」等といふは、すなはち上の第二の福のなかの第二の句の意なり。
中品中生のなかに「或一日一夜受持八戒斎」等といふは、また同じく上の第二の福の意なり。
中品下生のなかに「孝養父母・行世仁慈」等といふは、すなはち上の初めの福の第一・第二の句の意なり。
下品上生は、これ十悪の罪人なり。臨終の一念に罪滅して生ずることを得。
下品中生は、これ破戒の罪人なり。臨終に仏の依正の功徳を聞きて、罪滅して生ずることを得。
下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。
この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。もし上の三福に准ぜば、第三福の大乗の意なり。定善・散善大概かくのごとし。文(散善義)に、すなはち「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども」といふこれなり。
次に念仏とは、もつぱら弥陀仏の名を称するこれなり。念仏の義常のごとし。しかるにいま、「正明付属弥陀名号流通於遐代」(同)といふは、おほよそこの『経』(観経)のなかに、すでに広く定散の諸行を説くといへども、すなはち定散をもつて阿難に付属し後世に流通せしめず。ただ念仏三昧の一行をもつてすなはち阿難に付属し遐代に流通せしむ。

(現代語訳)

次に九品というのは、前の世・戒・行の三福を開いて九品往生の行業とするのである。
すなわち上品上生の中に「慈心にして殺さず」というのは、上の世福の中の第三句に当たる。次に「諸の戒行を具す」というのは、上の戒福の中の第二句の「衆戒を具足する」に当たる。次に「大乗を読誦する」とは、上の第三の行福の中の第三句の「大乗を読誦する」に当たる。次に「六念を修行する」とは、上の第三の行福の中の第三句 (「読誦大乗」の大乗) の意味におさまる。
上品中生の中に「善く義趣を解さとる」などというのは、すなわち上の第三行福の中の第二句 (深信因果)、第三句 (読誦大乗) の意味である。
上品下生の中に「深く因果を神事道心を発おこす」などというのは、すなわち上の第三行福の第一句 (発菩提心)・第二句 (深信因果) の意味である。
中品上生の中に「五戒を受持し」などというのは、すなわち上の第二戒福の中の第二句 (具足衆戒) の意味である。
中品中生の中に「或いは一日一夜八戒斎を受持する」などというのは、また同じく上の第二戒福の意味である。
中品下生の中に「父母に孝養し、世の仁慈を行ずる」などというのは、すなわち上の第一世福の中の第一句 (孝養父母)、第二句 (奉事師長) の意味である。
下品上生とは、これは十悪の罪人である。臨終の一声の念仏で罪が滅して往生を得る。
下品中生とは、これは破戒の罪人である。臨終に阿弥陀仏やその浄土の功徳を聞いて、罪が滅して往生を得る。
下品下生とは、これは五逆の罪人である。臨終の十声の念仏で罪が滅して往生を得る。
この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。もしこれを上の三福に対照すれば、第三行福 (読誦大乗) の「大乗」の意味である。
定善・散善は、おおむねこのようである。文に、「これまで《観経》の始めから定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども」というのがこれである。
次に念仏とは、専ら阿弥陀仏の名号を称えることがこれである。念仏の意味は常にいう通りである。しかるに、今「まさしく弥陀の名号を付属して末の世まで流通することを明かす」というのは、およそこの《観経》の中に、ひろく定散の諸行を説いたけれども、定善・散善をもって阿難に付属してはるか後の世まで流通させることをしないで、ただ念仏三昧の一行のみをもって阿難に付属して末の世まで流通させるのである。

上品の三生と中品の三生は善人です。下品の三生は悪人です。九品に定善の機を併せて、すべての人ということになります。
ここで判りにくいところは、下品に説かれている念仏を、散善に入れる場合と非定非散として入れない場合があります。上の『選択本願念仏集』でもそこを配慮なされて書かれています。同様に、「定散の機」に悪人を含める場合と含めない場合があります。「宿善」についてもそうでしたが、文章によって違う意味で使われていることがあります。断章取義の輩には、理解できないことでしょうが、前後の文脈からどちらの意味であるかを判断しなければなりません。

判りやすい例を挙げれば、『正信偈』

善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して

『正信偈大意』

「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

は明らかに後者です。
一方存覚上人の『浄土真要鈔』

『観経義』の第二に、「十三定善のほかに三福の諸善をとくことを釈す」として、「若依定行 即摂生不尽 是以如来方便 顕開三福 以応散動根機」(序分義)といえり。文のこころは「もし定行によれば、すなわち生を摂するにつきず、ここをもって、如来、方便して三福を開顕して散動の根機に応ず」となり。いうこころは「『観経』のなかに、定善ばかりをとかば、定機ばかりを摂すべきゆえに、散機の往生をすすめんがために散善をとく」となり。これになずらえてこころうるに、散機のなかに二種のしなあり。ひとつには善人、ふたつには悪人なり。その善人は三福を行ずべし。悪人はこれを行ずべからざるがゆえに、それがために十念の往生をとくとこころえられたり。

とあるのは、明らかに前者です。
いずれの場合でも、善人と悪人がいることにかわりはありません。

ところが親鸞会のように

十方衆生=下品下生、極重の悪人、逆悪の機

という結論ありきで考えると、破綻した論理にしかなりえません。

因果の道理を撥ねつける外道の信者

でも述べましたが、因果の道理を信じているならば、このようなことを言える訳がありません。初地まで到達された龍樹菩薩が、極重の悪人などという仏教徒はいないでしょう。法然上人、親鸞聖人が上品上生の人と仰った智覚禅師のことを、どうして下品下生と理解できるのでしょうか。御自身のことを「信外の軽毛」と仰った善導大師も、低いさとりではあっても、そこまでは自力で至られた方であり、機の深信を『往生礼讃』では、

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し

と表現なされています。当たり前のことですが、「善根薄少」ではあっても「善根皆無」ではありません。
底下の凡夫であっても、自分の都合で親を殺してマスコミに取り上げられるような人もいれば、結婚もせず、就きたい職業にも就かずに何十年も親の介護をしている立派な人もいます。
法然上人、聖覚法印は、「五逆をもつくらさるわれら」と仰っていますが、五逆罪を造っている人は少数なのです。
これはもちろん、信前信後変わるものではありません。信前は善人で、信後は悪人となることはありません。

参考までに

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

も読んでおかれるとよいでしょう。

こんな基本中の基本さえも理解できずに、

十方衆生の真実の相は、極重の悪人で善人は一人もいない

と悪に誇るから、世間一般の人がしないような”法律上の悪”までも平気で行うことになるのです。会長や講師部員が造悪無碍になるのも、因果の道理を信じていない外道の信者であるからです。
外道の信者が鬼の首を取ったように超低レベルのことをブログで書いて騒いでいますが、論破されても論破されても、また他人に成りすまして別のブログで同じことを書いて、どこまで愚かなことをすれば気が済むのでしょうか。プライドが高く、論破された悔しさを少しでも誤魔化したいのと、ネット対策に勤しんでいます、と上司に報告したいだけでしょうから、相手にする価値はありません。

お暇な方は、相手になって適当に遊んであげて下さい。

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2010年10月12日 (火)

高玉・智覚は、みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

前回、聖道諸宗の祖師方で、聖道門から浄土門に入られて往生されている方も多いと仰った法然上人のお言葉を紹介しました。今回は、親鸞聖人のお言葉を見てみましょう。

『教行信証』信巻

禅宗の智覚、念仏の行者を讃めていはく(楽邦文類)、「奇なるかな、仏力難思なれば、古今もいまだあらず」と。

律宗の元照師のいはく、「ああ教観にあきらかなること、たれか智者(智顗)にしかんや。終りに臨んで『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、たれか杜順にしかんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。業儒、才ある、たれか劉・雷・柳子厚・白楽天にしかんや。しかるにみな筆を秉りて、誠を書して、かの土に生ぜんと願じき」と。

(現代語訳)

禅宗の智覚が『楽邦文類』に、念仏の行者をほめていっている。
「不可思議なことである。仏の力は思いも及ばないものであり、いまだかつてない尊いものである」

律宗の元照師がいっている。
「ああ、智者ほど教義と実践に通じていたものはいない。彼もまた臨終には『観無量寿経』を仰ぎ、阿弥陀仏の浄土をたたえてこの世を去った。杜順ほど法界の教理に達していたものはいない。彼もまた出家や在家の人々に勧めて念仏し、臨終に奇瑞を感得して、西方浄土に往生した。高玉や智覚ほど禅定に入って自己の本性を見たものはいない。彼らもまた仲間とともに念仏し、すぐれた往生をとげた。劉程之や雷次宗、柳子厚や白楽天ほど儒学者の中で学識のあったものはいない。ところが彼らもまた、誠実な心を文にあらわして、浄土に生れたいと願った」

親鸞聖人も法然上人と同様に、智覚禅師に対して、「禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。」と、上品上生の往生をされた方との見方をされていることが判ります。
くどいようですが、親鸞会で教えているような、

十方衆生=下品下生

を法然上人も親鸞聖人も否定されているのです。

ここの直前には、親鸞会でも有名な

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。弥勒菩薩は等覚の金剛心を得ているから、竜華三会のときに、この上ないさとりを開くのである。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。だから、すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。そればかりでなく、他力の金剛心を得たものは、韋提希と同じように、喜忍・悟忍・信忍の三忍を得ることができる。これは往相回向の信心をいただいたからであり、阿弥陀仏の不可思議な本願によるからである。

があります。
つまりは、この御文を証明されるために、聖道の祖師方も聖道修行の限界を知り、最後は浄土門に帰依し、往生されたという文を引かれているのです。

聖道門を実践できる善人が実際にあるから、聖道門を説かれ、聖道門での修行に限界を感じた人を浄土門に誘引する19願が建てられ、釈尊は定散二善が説かれたのです。そして19願を信じている人を20願自力念仏に、そして最後は18願他力念仏往生に転入させる、これが三願転入であり、権仮方便ということです。
親鸞会の邪義に毒されていると、これは高森会長が教えていることと同じとしか理解できないようですが、対象が違うのです。19願、定散二善は浄土門以外の教えを信じている人、つまり聖道門の人(一番最初の文では儒学者も含まれている)を浄土門に入れるためのものということです。浄土を願っていない人を誘引するのが目的です。

それを化土巻・隠顕釈

如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と善導大師の釈を用いられて仰っているのです。18願での他力念仏往生を願っている人に「欣慕浄土の善根」は不要です。18願を願求している人には、18願しか善知識方は説かれていません。
要門釈の最初には、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

とあるのも、19願の対機、定散二善を説かれた相手について仰っています。ここをmixiでるぅでる氏が説明されていました。

外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、
実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり堅出堅超に入るといえども、真実のものは
はなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

そして次の

「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく
諸有海を化したまふ。」

に続くのです。

半満・権実の法門」である聖道門に行き詰まった人を浄土門に入れるのが定散二善であり、19願であるのです。ここの「群生海」「諸有海」や19願文の「十方衆生」の意味は、全人類だから聖道門の人に限らない、と親鸞会、H講師、O講師、M講師は同じことをいうしか能がないのですが、それについては豊富な根拠を挙げて説明してきました。まとめたものが

「親鸞会の邪義を正す」
”三願転入の教え”の誤り1

にありますので、詳しい説明は省略します。
高森会長のよく使うたとえで補足すれば、大統領に立候補した人が、「私は全国民と約束をします。私が大統領になりましたならば、消費税以外の税金を半分にします。」と公約したとします。約束の相手は全国民です。しかし、税金が半分になっても恩恵を受ける人と受けない人が出てきます。税金を元々払っていない人には、関係のないことです。「全国民に定額給付金を出します。」ならば、関係のない人はいません。全国民と約束をしたからといって、すべて関係があると思う方が、御粗末でしょう。
実際、善知識方も、聖道門の学僧でさえも、「十方衆生」とある三願すべてが私達と関係があるとは誰も仰っていません。浄土門の善知識方は18願だけ、聖道門の学僧は19願だけが自分と関係ある願と看做されていました。

三願転入については要門釈の結勧の文

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

がすべてです。19願の対機である「定散の諸機」も、「ただ弥陀を称せよ」と親鸞聖人は結論を仰ったことは、本日のエントリーで挙げた親鸞聖人のお言葉すべてに繋がっています。もちろん、

定散の諸機≠極重悪人

です。M講師の主張の愚かさがここだけでも判ります。

当然ながら、親鸞会のどの主張も本日の親鸞聖人のお言葉と矛盾しています。

高森会長にしても、教学課にしても、O講師、M講師も、次なる詭弁を考え出す知恵もなく、過去の議論を無視して同じことを言い続けることしか能がないようです。

ここまで落ちぶれると哀れなものです。

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2010年10月 9日 (土)

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

最近の顕正新聞を見ると、体験談ばかりを語る団体に迷わないよう警告する内容ばかりです。会員流出を食い止めようと必死なのはわかりますが、読んでいると吐き気を催すほど、下劣でくどいです。会長の本心が如実に現われています。
親鸞会は、”三願転入の教え”に基づいて、真仮を説いている唯一の団体だと言い続けていますが、三願転入の意味も、方便の意味も相変わらずデタラメです。

三願転入、方便の正しい意味をこれまで何度も何度も、多くの根拠を挙げて説明してきました。mixiではこうへい氏は、退会者からの質問に何1つ答えられず、親鸞会の主張が根本から覆されて、逃亡しました。O講師も、『観無量寿経』で釈尊が韋提希に定善を勧められていないことを指摘されて、論点をずらすも、また親鸞会の主張どころか会長の安心さえも否定されて動揺し、外部からの意見をシャットアウトすることでしかブログが書けなくなりました。M講師に至っては、会長も言ったことの無い超珍説を持ち出してきては即退散、また超珍説を出して即逃亡。挙げ句の果てに負け犬の遠吠えを2chに書くことしかできない惨めな状況です。

三願転入と方便について当ブログで述べてきたことは、

「親鸞会の邪義を正す」

にまとめてありますので、エントリーの多い当ブログを読み返されるよりも、そちらを読まれた方が効率はいいと思います。

今までに紹介していない根拠として『勅伝』には、

上人のたまはく、諸宗の祖師は、みな極楽に生じ給へり。所謂真言の祖師、竜樹菩薩、天台の祖師、南岳、智者、章安、妙楽等、三論の祖師、僧叡、華厳の祖師、智厳、法相宗には、懐感禅師、本宗をすてゝ、浄土宗に入る。天親菩薩は、法相宗の祖師なり。往生論を作て、極楽をすゝむ。達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。其他名僧の中に、往生人これ多し。あぐるに遑あらず。

とあります。法然上人が、聖道諸宗の祖師方が、聖道門から浄土門に入られて、往生されたことを仰ったお言葉です。龍樹菩薩や天親菩薩はもちろんですが、聖道門の名僧と呼ばれる方の中には、往生された方も多いということです。
権仮方便とはこういうことです。

度々挙げている『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

は、「極重の悪人」である下品下生には、「他の方便」つまり念仏以外の方便のないことを仰ったものですが、定善の機、上品上生から中品下生までは、「他の方便」として定散二善が説かれているのです。もちろん、定善の機、上品上生から中品下生の善人が実際にいるから、説かれた教えです。これは先の

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

の一文でも明らかなことです。親鸞会のように、

十方衆生=下品下生=逆謗の機

などとは、どの聖教にも書かれてある訳が無いです。大沼師個人の味わいを、親鸞聖人の教えと錯覚した無学の師とその弟子達の夢幻です。
善人である聖道諸宗の祖師方は、レベルの高い善が実践できますので、19願が権仮方便となるのです。なぜなら、善の全く必要の無い18願念仏往生は、自分とは関係がないとしか思えないから、真実18願へ導くための方便が必要なのです。ちなみに、本願文に「十方衆生」とあるからすべて自分のことだと考えるのは親鸞会だけです。
前回の「四依」でいえば、

人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。

です。指しか見ない思考がおかしいです。
19願は、聖道門から浄土門に誘引する願ですから、それを法然上人は『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)で

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

と仰っています。これを承けられて親鸞聖人も要門釈の最初に同様のことを仰っています。
しかし、最後は18願に帰依しなければ報土往生はできませんので、『教行信証』化土巻・要門釈の最後

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と親鸞聖人は要門釈の結論とされたのです。「定散の諸機」である善人にも、「極重悪人」同様に、「ただ弥陀を称せよ」としか親鸞聖人は仰っていないのです。

ですから、聖道門の人達などの善人に対しては三願転入という概念は当て填まるかも知れませんが、悪人には三願転入など無関係なのです。従って、”三願転入の教え”もなければ、親鸞聖人が往生、獲信のために善を勧められたお言葉も全くないのは当然なことです。
もし19願が自分と関係あると思うならば、その人は極重の悪人ではありません。善人です。
こんな単純なことさえも理解できないから、支離滅裂な説法や吐き気を催すような新聞を、有難い有難いと思うのでしょう。

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2010年10月 5日 (火)

法に依りて人に依らざるべし

親鸞聖人は化土巻で、三願転入の文の後に、聖道門は時機不相応であり、浄土真宗は時機相応であると仰っていることは何度か紹介しました。
その次に浄土三部経は間違いのない仏説であることを仰った上で、四依を教えて下さっています。

『大論』(大智度論)に四依を釈して云わく、涅槃に入りなんとせし時、もろもろの比丘に語りたまわく、「今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし」と。「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり、と。
 しかれば末代の道俗、善く四依を知りて法を修すべきなりと。

(現代語訳)

『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなされるとき、比丘たちに仰せになった。<今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。真実の智慧を依りどころとし、人間の分別によってはならない。仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。
 教えを依りどころとするとは、仏の説いた教えには十二部経があり、この教えにしたがうべきであって、説く人にしたがってはならないということである。教えの内容を依りどころとするとは、教えの内容に、よいと悪い、罪と功徳、嘘とまことなどの違いをいうことなく、だから言葉は教えの内容を表わしているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。真実の智慧を依りどころとするとは、真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、人間の分別は常に楽しみを求め、さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。だから、人間の分別に依ってはならないといったのである。真実を完全に説き示した経典を依りどころとするとは、智慧あるものすべての中で仏を第一とし、教えを受けるものすべての中で出家のものを第一とするということである>と。
 仏のおられない世の衆生を、仏は罪が重いとされた。これは仏を見たてまつる功徳を積まなかった人なのである」
 このようなわけであるから、末法の時代の出家のものも在家のものもこの四つの依りどころをよく知って仏法を修めなければならない。

釈尊が涅槃に入られた後、何に従っていくべきかを教えられたものです。最初に、「法に依りて人に依らざるべし」とあります。「「法に依る」とは、法に十二部あり。この法に随うべし、人に随うべからず。」です。仏の教えに従うのであって、教えを説く人に従ってはならない、ということです。たとえどんなに立派で優秀な知識であっても、仏ではありません。間違いを犯すことはあります。衆知の通り、親鸞聖人も間違いを犯されたことがあります。

以前に何度か紹介しています七深信の中、第五深信を『教行信証』信巻・深心釈

また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。

(現代語訳)

また、すべての行者たちよ、ただこの『観無量寿教』に示される行を深く信じることだけが、決して人々を誤らせないのである。なぜなら、仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩もその習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。ものごとの道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、必ず仏にその証明をお願いして、当否を定めるべきである。もし、仏のおこころにかなえば、仏はこれを認められて<その通り>といわれる。もし、仏のおこころにかなわなければ、<あなたがたのいうこの理解は正しくない>といわれるのである。仏がお認めにならない説は、無意味で利益のない言葉と同じである。仏がお認めになる説は、仏の正しい教えにかなうものなのである。仏のお言葉はすべて、正しい教であり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧なのである。多数のものでも少数のものでも、菩薩であっても人間であっても神々であっても、その説の善し悪しを定めることなどできない。仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、すべてみな不完全な教えというのである。よく知るがよい。だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。

と『散善義』から引かれています。
高い位にいる菩薩でさえも、完全な教えは説けません。ましてや底下の凡夫は、間違いばかりです。ですから、人に従ってはならない、仏の説かれた教えに従うのだということです。また言葉に囚われたり、凡夫の分別によることも誡められています。
断章取義は、まさに言葉に依るの典型です。会長の理解不能な指示は、凡夫の分別に間違いありません。聖教を読むことを禁じて、会長の著書のみを読ませることは、「不了義経に依る」です。

ですから、”善知識だのみ”は異安心に陥る可能性が非常に高いのです。

親鸞会の場合は、

人に依りて法に依らざるべし、語に依りて義に依らざるべし、識に依りて智に依らざるべし、不了義経に依りて了義経に依らざるべし

と四依と正反対のことを強要しているのです。

会長の説く教えが、了義経やその解説書である歴代の善知識方の御著書と、全く別物となっていることは、これまで述べてきた通りですし、他のブログでも激しく非難されています。

仏から直接教えを受けることのできない我々は、この四依に心掛けていかなければなりません。知識を尊敬することと、無条件服従することは違います。尊敬できる知識であれば、大いに尊敬すればいいのですが、阿弥陀仏と私との間に知識を入れてはいけません。知識は、間ではなく、横です。間に入れると阿弥陀仏に一心一向にはなりません。

以上のことを踏まえた上で、まずは知識が正しい法を説いているかどうかを自分で判断する必要があります。それを怠っているのが、親鸞会の会員なのです。

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2010年10月 3日 (日)

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり

『御一代記聞書』294

前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ。

とありますように、蓮如上人が『安心決定鈔』から多大なる影響を受けられたのは、先哲方の指摘されているところです。

『安心決定鈔』は最初に、衆生の往生と阿弥陀仏の正覚の機法一体について説示され、

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。

と述べられています。
ここで、「衆生がこのことわりをしること」は、「仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり」と対応していますので、「衆生がこのことわりをしること」が信心ということです。親鸞会ならば、十劫安心と貶すところでしょう。
この信心については、この後様々な表現がされています。

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。

法蔵菩薩の五劫兆載の願行」によって、「凡夫の願行を成ずる」のであり、「下品下生の失念の称念」も「機の願行にあらずとしるべし」なのです。
これは先の、「弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり」と同じことです。
また、

第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり。名号をこころうるといふは、阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。

とも表現されています。
これらを承けて、

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

とあります。これは最初に紹介した部分と同じことを言葉を換えられただけです。

衆生がこのことわりをしること不同なれば
=「昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり
=「仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

です。これらを踏まえられたのが、『御一代記聞書』307です。

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

『安心決定鈔』と『御一代記聞書』307との関係については、すでに

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは3

で解説されていますので、抜粋します。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では


すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども



ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の


仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり



に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に


昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり


とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、


弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり



に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。
『御一代記聞書』にも『安心決定鈔』にも、善を勧められたところは皆無です。

『安心決定鈔』には、「弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり」ということばかり書かれています。すべて阿弥陀仏がなされることで、我々の方から、何かを加えることはないのです。蓮如上人が「一念の信心」と仰ることも、これです。『安心決定鈔』を読むと、『御文章』『御一代記聞書』がよく理解できるようになります。

会長は『安心決定鈔』も、もちろん学術論文も読んだことがないでしょうから、本日のエントリーは理解できないと思います。退会者には簡単に理解してもらえることが、講師部員や幹部会員には理解できないようで、困ったものです。大学受験時に身につけた筈の読解力は、長年の活動でいつの間にか無くなってしまいますので、リハビリが必要です。

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