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2010年9月 9日 (木)

悪人正機も理解できない親鸞会

根拠を出すことができず、妄想による珍説を延々と述べている偽僧侶のブログを読む気にはなりません。偽聖教を出しても平気、香樹院師の意図を無視して逆のことを言っても平気、親鸞聖人のお言葉を断章取義しても平気な人物が、誇大妄想を膨らませても、まともに相手にする人はいないでしょう。会長の御機嫌取りをするピエロにしか見えません。

さて、親鸞会の人は会長も含めて、『観無量寿経』を読んだことがないから、「定散の諸機」の意味も判らないのです。

定散の諸機」を大きく分ければ、「定善の機」と「散善の機」ですが、「散善の機」は更に九種類に分けられています。「上品上生」から「下品下生」までの九品です。三福(行福・戒福・世福)と九品との関係は、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を行じている善人
「中品上生」「中品中生」は、戒福を行じている善人
「中品下生」は、世福を行じている善人
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福の悪人

になります。無三福の悪人に対して釈尊が勧められているのは、定善でも散善でもない本願力回向の念仏です。
これを善導大師の弟子であった懐感禅師は『釈浄土群疑論』で

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と言われました。それを承けられて源信僧都は『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と言い換えられました。「極重の悪人」には、念仏以外の方便はないのです。逆に言えば、善人には念仏以外の方便があるということです。「定善の機」には定善、「上品上生」から「中品下生」までは三福が説かれていますので、善人には諸善という方便があるということです。

聖道門の学僧達は、『観無量寿経』を解釈して、善のできない悪人には劣行である念仏が説かれてあるが、釈尊の本意は勝行である諸善を勧められているとしました。親鸞会の発想は、聖道門と同じです。

善導大師は『散善義』の深心釈の中で二種深信の次に

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

と仰っています。七深信中の第三深信と呼ばれるものです。ここで、釈尊は浄土を欣慕せしめるために『観経』で諸善を説かれたのだと仰っています。もちろん、浄土を欣慕していない聖道門の人(善人)に対してです。

親鸞聖人はこの善導大師の深心釈を承けられて、19願、定散二善は、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、実践しても化土往生しかできない、と要門釈で解説され、浄土門に入った「定散の諸機」も18願他力念仏に帰せよ、と結論付けられたのです。それで『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、要門釈の最後

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とされたのです。昨日述べたように、機の深信は「定散の諸機」も「極重の悪人」も同じです。しかし、「極重の悪人」には他の方便がありませんが、「定散の諸機」には他の方便がありますので、「定散の諸機」は「極重の悪人」よりも報土往生が遠回りになります。

それを『歎異抄』第3章では

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

(現代語訳)

善人でさえ浄土に往生することができるのです。 まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、 「悪人でさえ往生するのだから、 まして善人はいうまでもない」 といいます。 これは一応もっともなようですが、 本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、 自力で修めた善によって往生しようとする人は、 ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、 阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。 しかしそのような人でも、 自力にとらわれた心をあらためて、 本願のはたらきにおまかせするなら、 真実の浄土に往生することができるのです。
あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、 どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。 阿弥陀仏は、 それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、 そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。 ですから、 この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、 まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。それで、 善人でさえも往生するのだから、 まして悪人はいうまでもないと、 聖人は仰せになりました。

とあるのです。他の方便のある善人でさえ浄土に往生できるのだから、他の方便のない悪人が浄土往生できることはいうまでもないのです。悪人正機とは、善という方便のない悪人が正機ということです。

悪人に善と言う遠回りの方便を勧めることがどれほど愚かな教えであるかが、賢明な読者の皆さんなら十分お判り頂けると思います。しかし、国語力に問題のある偽僧侶には、理解不能なのでしょう。

また『歎異抄』後序には

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。

(現代語訳)

聖教というものには、 真実の教えと方便の教えとがまざりあっているのです。 方便の教えは捨てて用いず、 真実の教えをいただくことこそが、 親鸞聖人のおこころなのです。くれぐれも注意して、 決して聖教を読み誤ることがあってはなりません。

ともあります。二種深信も第三深信も欠けて、何が真実で何が権仮であるか判らない異安心者には、本日のエントリーは到底理解できないでしょう。国語力にさえ問題がありますから、根拠は出さずに、誇大妄想を書き続けるのがよいでしょう。

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