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2010年9月20日 (月)

なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

親鸞会は、妄想と論理の飛躍が顕著です。前回のエントリーを読んだからかどうか判りませんが、O講師のブログ「奥越親鸞学徒の集い」には、五逆罪、謗法罪のことが書かれていました。O講師のブログを読んで、正しいことが書いてあると思える人は、重症でしょう。1つ1つ解説する程の内容ではありません。根拠と解釈が乖離していますので、詭弁を見破る訓練用に使われては如何でしょうか。

自分は五逆誹謗正法の者と懺悔することは御自由にされれば結構ですが、よく知りもしない他人に対して、

お前は五逆誹謗正法の者だから、必堕無間だ

とは仏法者として言うべきではありません。その人が五逆罪、謗法罪を造っているという確証がどこかにあるのでしょうか?
確証があるなら別です。親鸞会の講師部員は、明らかに故意に謗法罪を造り続けていますから、必堕無間でしょう。
しかし確たる証拠もないのに、

五逆罪、謗法罪を造っているに決まっているから死んだら必ず無間地獄に堕ちる

と言うこと自体が謗法罪になります。なぜなら、前回も述べましたように、そのような教えはどこにもないからです。親鸞会独特の断章取義とデタラメ解釈によならければ、O講師のブログに書いてあるような支離滅裂の理論にはなりません。

さて、十方衆生はそれぞれ機が異なります。そのために機に応じて法門が説かれ、それを八万四千の法門というのです。もし仮に、親鸞会で教えているように、十方衆生が「逆謗の一機」であるならば、八万四千の法門は不要ですし、『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と教えられている通りで、十方衆生に念仏だけを説かれればよいのです。『観無量寿経』下品下生だけで十分です。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。

『観無量寿経』の下品下生以外の者がいるから、他の方便を説かれる必要があったのです。
大体「逆謗の機」は、善ができると自惚れてはいません。阿闍世は善ができるなどと自惚れていたでしょうか。阿闍世は五逆罪を犯したことで必堕無間に怯えていたのです。その阿闍世に対して釈尊は、必堕無間ではないと仰った上で、善を勧められることはありませんでした。さすれば高森会長は、釈尊とは真逆のことを教えていることになります。高森会長は、釈尊よりも偉大な無二の善知識と思っているのでしょう。
釈尊が善を勧められている相手は、善ができると思っている人です。善ができる人は、自分の行った善によって、成仏できる、あるいは報土往生できると自惚れているのです。しかし、真実の善はできませんから、成仏、報土往生は叶わないのですが、善ができる人は、真実の善ができて、成仏、報土往生ができると堅く信じ込んでいます。そんな人にとっては、聖道門や要門は権仮方便となるのです。聖道門や要門が権仮方便と思って善をしている人はありません。聖道門や要門が真実だと思っているのです。

『十住毘婆沙論』易行品には、

問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。 あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

(現代語訳)

問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。
(中略)
こういうわけであるから、もし諸仏の説きたもう中に、易行道ですみやかに不退の地位に至ることのできる方法があるならば、どうか、わたしのためにこれを説かれよ。

答えていう。そなたのいうようなことは、根機の劣った弱い者のいうことで大きな志ではなく、これは雄々しく堅固な志を持つ者のことばではない。なぜかというと、もし人が願いを起こし無上仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間は身命を惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにせねばならぬ。
(中略)
大乗を行ずる者には、仏は次のように説かれてある。「発願して仏果を求めることは三千大千世界をもち挙げるよりも重い」と。そなたが不退の位を得る法は甚だむずかしく、久しい間かかってようやく得ることができる。もしすみやかに不退の位に至ることのできる易行の道があろうかというならば、これはすなわち根機の劣った弱い者の言葉で、すぐれた人、堅固な志を持つ者のいうことではない。
しかしながら、そなたが、もし必ずこの方法を聞きたいと思うならば、今まさにこれを説くであろう。

龍樹菩薩も「丈夫志幹」「大人志幹」に対しては、難行道を説かれ、「儜弱怯劣」「怯弱下劣」に対しては易行道(18願)を説かれたのです。成仏できるような善がとてもできないと思っている「儜弱怯劣」「怯弱下劣」に、他の方便はありません。しかし、善ができると信じ込んでいる「丈夫志幹」「大人志幹」には、易行道(18願)を受け入れる心はありません。それで「丈夫志幹」「大人志幹」に対しては、難行道が易行道(18願)を受け入れさせるための権仮方便となるのです。
善ができると自惚れている人は、「儜弱怯劣」「怯弱下劣」ではありません。「儜弱怯劣」「怯弱下劣」に、

本心では善ができると自惚れているのだから、その自惚れが廃るまで善に励め

と善を強要するのは如何にも頓珍漢な話です。

もし仮に、十方衆生が「逆謗の一機」と言うのであれば、18願だけを説くのが筋です。十方衆生が「逆謗の一機」というのも、「逆謗の一機」に対して18願に入るために権仮方便の19願、諸善を勧める思考も、釈尊にも歴代の善知識方にもなかった、全く新しき教えです。従いまして、親鸞会は仏教の範疇から外れた宗教です。

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コメント

私自身は親鸞会の教義には批判的ですが、
親鸞会の会員が、
「全人類は逆謗の一機だが、自分ではそう思わずうぬぼれているから
 方便として、いろいろな人がいると仮定して法をとかれたのではないですか」
と言ってきたら、どのように反論されますか?

「逆謗の機は善ができるとうぬぼれてはいない」とは、
なぜ言えるのでしょうか。

投稿: | 2010年9月20日 (月) 13時51分

このような質問が出てくるものと思っておりました。

まず、「逆謗の機」とは、五逆罪、謗法罪を造っている人のことです。親鸞会で教えているように、親を邪魔に思っただけで五逆罪とか、法を説かれる方を評価したら謗法罪というものとは違います。前回そこを「親鸞会教義の誤り」のリンク先も紹介しながら説明してきたつもりです。また善とは、成仏のため、往生のための善のことですので、そこをまず御理解下さい。

具体的に言えば、謗法の人は、仏教自体を否定している人ですから、仏教で教えている善ができるかどうかという以前の問題です。五逆の人は、親を故意に殺す人です。そんな人が自分は仏教で教えている善ができると自惚れてはいません。罪の意識がないならば、悪に誇る人ですし、阿闍世のように罪の意識があれば、罪悪感で一杯になるでしょう。

ただし回心すれば、変わってきます。

親鸞会で教えている逆謗と善の定義が間違っていますので、「全人類は逆謗の一機」が根本的におかしいことについてもこれまで何度も述べてきました。
高森教学が染みついている親鸞会の会員には、判りにくいところかもしれませんが、お聖教に基づいて理解して下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年9月20日 (月) 17時32分

分かりやすい説明、有難うございました。

親鸞会では全人類が「逆謗の者」と教えますが、結局、根拠なく言っているということですね。

親鸞会では高森会長や講師は、
「親鸞聖人の御言葉が大事」
「常に親鸞聖人の御言葉を出して話をしなさい」
などと言われ、最初は御言葉を出して話をしますが、
大事なところは、お聖教の根拠ではなく、
高森会長の解釈による部分が大きいようにおもいます。

小倉講師のブログを読んでいても明らかです。
解釈の元になる御言葉を示していませんので、あまりにも論理の飛躍が
大きすぎると感じます。

投稿: | 2010年9月20日 (月) 21時55分

大沼師の味わいに会長の意図的な珍解釈とで作られているのが、親鸞会の教義です。
その正当性を主張するO講師は、親鸞聖人の教えなど、どうでもよいのでしょう。

投稿: 飛雲 | 2010年9月22日 (水) 21時46分

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