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2010年9月 2日 (木)

多善根・多功徳・多福徳因縁の念仏

僧侶を名乗る人物が管理人をしているブログで、2ヶ月半もの間考えてきて、何やら書いています。反論はこれしかないと思っていましたので、予想通りの結果で、苦笑しています。所詮は、これまで私が述べてきたことを理解することのできない人物が、根拠もなく親鸞会の妄想をそのまま書いただけです。”無解の一道”か”無下の一道”に出た人物の発想は、この程度です。

何度も何度も同じことを書いていても仕方がありませんので、

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

を読んで下さい。これだけで十分でしょう。
前回のエントリーで書いたことも無視です。
少しだけ補足すれば、

要門釈の最初に、聖道門の人を浄土門に誘引する願が19願と仰って、19願について解釈をされた結論として仰ったのが、

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

です。何度も書いていますが、聖道門では阿弥陀仏の本願の中で19願が最も勝れていると解釈していますので、そんな19願に拘っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。

『正像末和讃』に

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

とありますように、龍樹菩薩や天親菩薩でさえも18願に帰依されたのだから、自分の能力をよく見て、はやく18願に帰依せよと仰ったのです。
それを断章取義して「定散の諸機」=「極重悪人」としか理解できないところが、救い難いところです。龍樹菩薩も「極重悪人」と理解するような人とは話ができません。

関係のないことをいろいろと言っていますが、結局のところ、こうへい氏と同じで、”三願転入の教え”なるものの根拠、親鸞聖人が19願を勧められた根拠を示せないからあの程度の屁理屈で誤魔化すしかないのです。
従いまして、

予告通り”三願転入の教え”はないと言うことで決着しました。

以前にも書きましたが、『観無量寿経』を読めば、下品下生である極重の悪人に対して、釈尊が善を勧められていないことくらいは、誰でも判ることです。極重の悪人に善を勧める親鸞会や偽僧侶は、釈尊よりも偉いつもりなのです。そんなことも理解できないから、本願寺から見下されて、相手にされていないのです。相手にされていないことを勝ったと宣伝している幼稚さに、更に見下されています。詳しくは

五逆・十悪の罪人、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる

に書きましたので、読まれればよいでしょう。

構ってほしいのは判りますが、いつまでもレベルの低い相手をするつもりはありません。

さて、親鸞会が浄土仏教ではないことは、「諸善よりも念仏は間違い」ということをいう人物の主張で明らかです。これに反論する根拠は山ほどありますので、過去にも沢山の根拠を紹介してきました。

『教行信証』化土巻・真門釈に

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知ん、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。

「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。

かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえた行である>」

とあります。真門釈ですから、20願自力念仏についての功徳として親鸞聖人が引かれているのです。これは以前に20願化土往生の根拠として紹介した『阿弥陀経』の隠顕釈

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。

の「多善根・多功徳・多福徳因縁」の部分です。「多善根・多功徳・多福徳因縁」の念仏を軽視して、「一切諸行の少善」を尊重する念仏誹謗の団体が、浄土真宗を名乗ること自体信じられないことです。
親鸞会では、

方便の行信(自力念仏)⇒必堕無間
念仏誹謗⇒必堕無間

と教えています。
因果の道理を信じていると言いながらこれが正しいと思える人は、偽僧侶と同じレベルです。

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コメント

しかし笑える。
2chとコメントとブログと皆、同時期に書き始めてさ。
同一人物とばればれでないの。誰が書いているかって、1人しかいないでしょう。

コメントも、ブログも実に低レベル、底レベルと言った方がいいかな?

親鸞会にいた時には、善ができると自惚れているから、善のできない者と知らされるまで、精一杯の善をせよ、といわれていたけど、下々品の者に、定散の機と自惚れているんだから、と自惚れを押しつけていただけだよね。

それを飛雲さんがあのように巧く表現されたんだけど、Mさんには通じなかった。京大に上位で入ったことを自慢していても、思考力はほとんど0。

ああはなりたくないものだ。

投稿: どんちゃん | 2010年9月 2日 (木) 22時28分

M野さんのお陰で、親鸞会の間違いがよくわかりました。
本願寺は、正しい解釈をしていることも。
「さよなら」に書いてありましたが、本願寺に魂を売った講師部員は、M野さん以外には考えられません。
親鸞会教義が如何に間違っているかを、アホなコメントや間抜けなブログで明らかにしているとは、大したものです。
M野さん、応援していますので、今後も墓穴掘りまくってください。

投稿: 元バリバリ | 2010年9月 3日 (金) 18時46分

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