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2010年9月18日 (土)

高森会長の創作教義が、浄土真宗の教義と重なる部分はどこ?

親鸞会では根拠がほとんどなく主張しており、出している根拠も断章取義と無茶苦茶な解釈で統一されています。それに対して当ブログではできる限り多くの根拠を出しています。多くの根拠を出すことで、正しい解釈を導き出すためです。

これまで何回も述べてきましたように、

定散諸機≠極重の悪人

です。当たり前のことです。従いまして

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

の通りです。矛盾はありません。
親鸞会では、

十方衆生=唯除五逆誹謗正法

という前提でしか話がなされませんが、この前提となる根拠は全くありません。以前にも

先哲にどんな解釈をされた方があったかは問題外です
[mixi]三願転入議論の解説1

で『大無量寿経』異訳との比較をしましたが、18願について再度みてみたいと思います。親鸞聖人は『教行信証』の中で、『無量寿如来会』『大阿弥陀経』『平等覚経』を引いておられますので、それを挙げておきます。

『無量寿如来会』(『教行信証』信巻より)

もしわれ無上覚を証得せんとき、余仏の刹のうちのもろもろの有情類、わが名を聞き、おのれが所有の善根、心心に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。もし生ぜずは菩提を取らじと。ただ無間の悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く。

『大阿弥陀経』(『教行信証』行巻より)

それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ。

『平等覚経』(『教行信証』行巻より)

われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ。

『大阿弥陀経』『平等覚経』の前半は『大無量寿経』17願に当り、後半が18願に当ります。

『無量寿如来会』には、「唯除五逆誹謗正法」に相当する部分がありますが、『大阿弥陀経』『平等覚経』にはありません。ですから、『大阿弥陀経』『平等覚経』からは、

十方衆生=唯除五逆誹謗正法

ということはいえません。
『大阿弥陀経』『平等覚経』に「蜎飛・蠕動の類」「蠕動の類」とあるのは、虫の類いに至るまで漏れているものはないことを表わされているのです。
同様に、「唯除五逆誹謗正法」も、無間業を造っているどんな極悪人も漏れているものはないことを表わされているのです。それが『尊号真像銘文』の、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。漏れているものがないことを異なった言葉で表現されているに過ぎないのです。

親鸞会でよく言われることに「逆謗の屍」という言葉がありますが、親鸞聖人が十方衆生のことを「逆謗の屍」と仰ったお言葉は全くありません。単なる無知です。
詳しくは

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか9

に解説がありますので、読まれると良いでしょう。

法然上人は、『選択本願念仏集』

しかのみならず下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。

と仰っておられます。ここでも阿弥陀仏の救いは「極悪最下の人」を対象としていて、漏らさないことを誓われているのであって、十方衆生が「極悪最下の人」という意味にはなり得ません。
法然上人は御自身のことを『勅修御伝』で

我はこれ烏帽子も着ざる男なり。十悪の法然房、愚痴の法然房が念仏して往生せんと言うなり。

と「十悪の法然房、愚痴の法然房」と仰っていますが、「五逆の法然房、謗法の法然房」とは仰っていません。それどころか『往生大要鈔』に

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰っておられ、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

とも仰っておられます。
親鸞聖人も『末灯鈔』

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。

と、五逆謗法の善証坊には近付くな、と仰っておられるように、一般の人は五逆謗法ではないという前提です。これについても

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか8

に詳しい解説があります。

なお、以前にも簡単に述べましたが、ついでに『大無量寿経』の「若不生者」のところは、『大阿弥陀経』『平等覚経』共に

わが国に来生せしめ

です。「わが国」とは、浄土のことです。

「若不生者」に当益の意味は全くない

と昨年1月の教学講義で断言した高森会長は、阿弥陀仏の本願について、本当に何も知らないのです。阿弥陀仏の本願について無知な善知識とはこれ如何に。

高森会長の話しか聞いたことがない会員には、驚きのお言葉ばかりですが、驚くべきことは高森会長の創作教義です。

講師部員や幹部会員に質問です。

高森会長の創作教義が、浄土真宗の教義と重なる部分はどこでしょうか?

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コメント

信心(信楽)については二種深信が間違っていますし、乃至十念のお念仏はお礼という説明しか聞いたことがありません。本当に、高森会長の創作教義が、浄土真宗の教義と重なる部分とはどこなのでしょうかね?

投稿: 淳心房 | 2010年9月18日 (土) 22時15分

淳心房 様

おめでたい講師部員と幹部会員は、「すべて」と答えるでしょう。
「根拠は?」と尋ねれば、「『なぜ生きる』『歎異抄をひらく』だ」と答えるかも知れません。

おめでた過ぎて、私は反論に窮するかも知れませんので、その時は、私の替わりに反論して下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年9月19日 (日) 22時07分

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