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2010年9月27日 (月)

「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」の御心

『往生要集』では、『華厳経』と『浄土十疑論』を引用されて、前世に浄土を欣求して阿弥陀仏を念じてきて、宿善開発した人が善知識に遇えるのだと教えられました。

これは『大無量寿経』

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。

とあることや『定善義』

この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得

と説かれているのも同様のことです。
また『改邪鈔』には、

かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや

宿善のある機」は善知識に遇えるし、「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付くと教えられています。
更には存覚上人の『浄土見聞集』には

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

とあります。つまり、宿善とは、善知識に遇えるかどうか、正しい教えを聞けるかどうか、信じられるかどうかの問題なのです。
この『浄土見聞集』を承けられて蓮如上人は『御文章』2帖目第11通

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。

と五重の義を立てられましたが、宿善がなければ善知識に遇えないという、往生できるかどうかの最初の条件が、宿善ということです。善知識に遇わなければ、阿弥陀仏の18願が聞けませんので、宿善が重要なのです。善知識に遇った後に宿善を厚くするとかいうような話ではありません。

以上のことを踏まえられて仰ったのが、『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

です。「宿善開発の機はおのづから信を決定すべし」ですから、善知識から阿弥陀仏の18願を聞ける「宿善の機」か聞けない「無宿善の機」かが問題になるから、「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」なのです。
この御文を、

宿善の薄い人は宿善を厚くするように勧められた根拠

と理解しているのは、読解力や知能に問題があり、そのように教えている人は間違いなく悪知識です。
未だにその悪知識から離れることのできない人は、

宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべき

です。往生を願わず、サークル活動で満足しているような現会員は、残念ながら「宿善なき機」といわざるを得ません。

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