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2010年9月29日 (水)

都合の悪い根拠を隠し、断章取義を繰り返す確信犯

親鸞会では宿世の善根によって、信心決定できるかどうかが決まると教えています。

その根拠の1つが、『御文章』4帖目第15通

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。

です。宿善とは宿世の善根であり、信心決定までの善根が宿善となる、と教え込んでいます。だから、宿善を厚くせよというのですが、これが根本的におかしいのです。

かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず

のところでも述べましたが、『口伝鈔』第四章を再度説明します。

説明の都合上、前段、中段、後段の3つに分けて、長い前段のみ現代語訳を付けておきます。

前段

上人[親鸞]仰せにのたまはく、
「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。
善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より)

聖人が仰せられたことには、
「わたしは決して、善を行ないたいとも思わないし、また悪を犯すことも恐れはしない。善を行いたいとも思わないわけは、阿弥陀仏の本願を頂いて信ずる以上に勝れている善はないからであり、悪を恐れないというのは、阿弥陀仏の本願のはたらきをさまたげる悪は無いからである。ところが世間のひとはつねに「善のたねをたくわえなければ、たとい念仏を称えるとしても、浄土に生れることはできない」と思い、また「たとい念仏を称えるとしても、罪悪が重ければ、浄土に生れることはできない」と思っている。しかし、この考えは二つともはなはだしく間違っている。もし、心のままに悪事をとどめ、思いどおりに善のたねをそなえて、この生死をくりかえす迷いから逃れ出て、浄土に生れることができるときは、強いて阿弥陀仏の本願を信じ、納得しなくても、なんの不足があろうか。しかしこれがいずれも意のままにならないために、罪を恐れながらも、恐れる心のはしからこれを犯し、善のたねをたくわえたいと願っても、そうすることができない愚かなものなのである。こうした、貪りと怒りと心の暗い愚かさとにまみれ、罪悪を犯す素質だけしかもたない、自分の力では迷いから逃れ出る途の絶えた素質のひとを救い取るために、五劫という永いあいだ、熟思に熟思を重ねた末、たてられた本願であるから、ただ仰いで、この阿弥陀仏の智恵を信ずるよりほかにはない。ところが、善を行える素質をもったものが念仏を称えるのを見ると、かならず浄土に生れることができると思い、悪人が念仏するのを見ると、生れるとはかぎらないと疑うから、ここに本願の面目は失われ、また自分が悪しか行えないことが素質のものであることを知らないで終わるのである。おおよそ、愚かなものを救おうとする絶対平等の慈悲をもって、修行の結果、その目的のとおりに、成就することができた真実の仏の浄土に、どんな教えを奉ずるものもすべて等しく導きいれようという阿弥陀仏の誓いは、阿弥陀仏以外の諸仏のいまだかつておこしたことのない、どのような世界にもなかった、思惟を超えた誓いであるから、たといつねに大乗の経典を読み、勝れた教えを理解することができる素質のよいひとであっても、生れつきそなわっている善だけで、その浄土に生れることは許されない。また悪い行為は、もともと仏の教えからは捨てられるものであるから、罪悪を犯す素質だけしかもたないものが悪をますます重ねることによって、その浄土に行くというものでもない。

こうしたわけだから、生れつき素質としてそなえている善・悪のいずれも、真実の浄土に生れるための好条件にも悪条件にもならないということは、もちろんである。したがって、この善・悪の素質をそなえたままで、与えられたところの阿弥陀仏の智恵をますますはげしくたのむよりほかに、愚かなものにどうして浄土に生れるための好条件があるだろうか。あるはずがないのである。だからこそ、「悪を犯すことも恐れはしない」ともいい、「善を行いたいとも思わない」ともいったのである。」

と親鸞聖人のお言葉として覚如上人が紹介しておられます。

前段は、親鸞聖人のお言葉を書かれたものです。

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

とありますように、報土往生には、過去に行ってきた善悪は全く関係がない、ということです。

中段

ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

ここでは善導大師のお言葉から、

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と覚如上人御自身の考えを述べておられます。覚如上人がここで仰っていることは、
宿善あつきひと
=過去世において善に励み悪を慎んできて、「今生に善をこのみ悪をおそる」人
宿悪おもきもの
=過去世において善をせず悪行を重ねてきて、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
ということです。『唯信鈔』で聖道門における宿善の定義であり、親鸞会でいうところの宿善の厚薄に近い意味ですが、その結論が親鸞会とは全く違います。

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

過去に行ってきた善悪、宿善の厚薄は、往生と関係付けてはいけないということです。

後段

これによりて、あるときの仰せにのたまはく、「なんだち、念仏するよりなほ往生にたやすきみちあり、これを授くべし」と。「人を千人殺害したらばやすく往生すべし、おのおのこのをしへにしたがへ、いかん」と。ときにある一人、申していはく、「某においては千人まではおもひよらず、一人たりといふとも殺害しつべき心ちせず」と[云々]。上人かさねてのたまはく、「なんぢ、わがをしへを日ごろそむかざるうへは、いまをしふるところにおいてさだめて疑をなさざるか。しかるに一人なりとも殺害しつべき心ちせずといふは、過去にそのたねなきによりてなり。もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし」。

更に後段に親鸞聖人のお言葉を再度紹介されて、

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

と、過去世、現在世の善悪は、往生の助けにも障りにもならないと仰っています。

このように覚如上人は、親鸞会で教えているような宿善の厚薄と往生とが関係あるとする考えを、前段・中段・後段で、繰り返し破邪しておられるのです。親鸞会の宿善論は、完全な邪義です。

なぜ、『教学聖典』に『唯信鈔』を出しながら『口伝鈔』のお言葉を載せなかったのか。その理由は、親鸞会の宿善論が『口伝鈔』では明確に否定されていますので、同じ内容でも表現が複雑で古文では理解しにくい『唯信鈔』の方を断章取義して、逆の意味で理解させようとしたのでしょう。確信犯です。

親鸞会では、

今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善をふりかえり、宿善と喜ぶことになります。
獲信と、よい関係にある、修善をすすめることは間違いでしょうか?

という悪意に満ちた詭弁を弄していますが、阿弥陀仏の救いを何も知らない者と真宗界では見下されています。『唯信鈔』と『口伝鈔』をしっかり読んでから、再度同じ言葉を吐いてみれば、普通は恥ずかしくなると思いますが、そんな感覚も欠落しているようです。

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コメント

>今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善をふりかえり、宿善と喜ぶことになります。

こんな事を喜んでいる人がいたら、それは「自力有功」だと思っている人=捨自帰他していない人ですよね。

こんな幼稚な文章を書いている時点で、会長の安心が如何なるものかがうかがわれます。

投稿: Rudel | 2010年9月30日 (木) 01時23分

機の深信の理解が根本的に間違っていますので、何を言っても間違いです。
すべてが御粗末なのです。

投稿: 飛雲 | 2010年10月 1日 (金) 06時12分

いつも明快な解説に感服であります。
高森さんが宿善と喜んでいる自己の修した善とは、どんな善だったのでしょうか?
もしそれを列記したものがあれば、恥かしすぎてとても読めない筈でしょう。

投稿: YGM | 2010年10月 1日 (金) 08時39分

YGM 様

会長から具体的な善を聞いたことがありません。
それが有っても無くても、恥ずかしいことです。

投稿: 飛雲 | 2010年10月 3日 (日) 21時02分

Abcです。

>会長から具体的な善を聞いたことがありません。
>それが有っても無くても、恥ずかしいことです。

「具体的な善」ですか、会長から直接聞いたわけではありませんが、
「財施:会に献金を行い、会に貢献すること(福徳学徒「教賞」や「行賞」といわれるあれです)」
「法施:会に都合のいいことだけを、広め不都合なことは避ける『断章説法』を行うこと」と会の中ではされています。(それに依って会が回っていますので当然ともうしたならば当然ですね


「口伝抄」4章と5章は、支部長に突きつけたことがある文言ですね、「諸善は蓄えがたいと申されているのになぜ諸善をすすめるのか」と
其のときの答えもまた「諸善は悪いように言われるが、悪いのは自力で云々」でしたが

「万善自力貶勧修」という親鸞の文言、「この三国の祖師等、念仏一行をすすめ」という蓮如の文言、そして覚如の文言を以ってしても、『会長第一主義』なのは変わらないみたいですので「知識帰命」となって、高森さんが懇ろに申されている「無間地獄」にゆかれるのでしょう。

Abc

投稿: Abc | 2017年9月17日 (日) 00時39分

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