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2010年9月

2010年9月29日 (水)

都合の悪い根拠を隠し、断章取義を繰り返す確信犯

親鸞会では宿世の善根によって、信心決定できるかどうかが決まると教えています。

その根拠の1つが、『御文章』4帖目第15通

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。

です。宿善とは宿世の善根であり、信心決定までの善根が宿善となる、と教え込んでいます。だから、宿善を厚くせよというのですが、これが根本的におかしいのです。

かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず

のところでも述べましたが、『口伝鈔』第四章を再度説明します。

説明の都合上、前段、中段、後段の3つに分けて、長い前段のみ現代語訳を付けておきます。

前段

上人[親鸞]仰せにのたまはく、
「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。
善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より)

聖人が仰せられたことには、
「わたしは決して、善を行ないたいとも思わないし、また悪を犯すことも恐れはしない。善を行いたいとも思わないわけは、阿弥陀仏の本願を頂いて信ずる以上に勝れている善はないからであり、悪を恐れないというのは、阿弥陀仏の本願のはたらきをさまたげる悪は無いからである。ところが世間のひとはつねに「善のたねをたくわえなければ、たとい念仏を称えるとしても、浄土に生れることはできない」と思い、また「たとい念仏を称えるとしても、罪悪が重ければ、浄土に生れることはできない」と思っている。しかし、この考えは二つともはなはだしく間違っている。もし、心のままに悪事をとどめ、思いどおりに善のたねをそなえて、この生死をくりかえす迷いから逃れ出て、浄土に生れることができるときは、強いて阿弥陀仏の本願を信じ、納得しなくても、なんの不足があろうか。しかしこれがいずれも意のままにならないために、罪を恐れながらも、恐れる心のはしからこれを犯し、善のたねをたくわえたいと願っても、そうすることができない愚かなものなのである。こうした、貪りと怒りと心の暗い愚かさとにまみれ、罪悪を犯す素質だけしかもたない、自分の力では迷いから逃れ出る途の絶えた素質のひとを救い取るために、五劫という永いあいだ、熟思に熟思を重ねた末、たてられた本願であるから、ただ仰いで、この阿弥陀仏の智恵を信ずるよりほかにはない。ところが、善を行える素質をもったものが念仏を称えるのを見ると、かならず浄土に生れることができると思い、悪人が念仏するのを見ると、生れるとはかぎらないと疑うから、ここに本願の面目は失われ、また自分が悪しか行えないことが素質のものであることを知らないで終わるのである。おおよそ、愚かなものを救おうとする絶対平等の慈悲をもって、修行の結果、その目的のとおりに、成就することができた真実の仏の浄土に、どんな教えを奉ずるものもすべて等しく導きいれようという阿弥陀仏の誓いは、阿弥陀仏以外の諸仏のいまだかつておこしたことのない、どのような世界にもなかった、思惟を超えた誓いであるから、たといつねに大乗の経典を読み、勝れた教えを理解することができる素質のよいひとであっても、生れつきそなわっている善だけで、その浄土に生れることは許されない。また悪い行為は、もともと仏の教えからは捨てられるものであるから、罪悪を犯す素質だけしかもたないものが悪をますます重ねることによって、その浄土に行くというものでもない。

こうしたわけだから、生れつき素質としてそなえている善・悪のいずれも、真実の浄土に生れるための好条件にも悪条件にもならないということは、もちろんである。したがって、この善・悪の素質をそなえたままで、与えられたところの阿弥陀仏の智恵をますますはげしくたのむよりほかに、愚かなものにどうして浄土に生れるための好条件があるだろうか。あるはずがないのである。だからこそ、「悪を犯すことも恐れはしない」ともいい、「善を行いたいとも思わない」ともいったのである。」

と親鸞聖人のお言葉として覚如上人が紹介しておられます。

前段は、親鸞聖人のお言葉を書かれたものです。

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

とありますように、報土往生には、過去に行ってきた善悪は全く関係がない、ということです。

中段

ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

ここでは善導大師のお言葉から、

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と覚如上人御自身の考えを述べておられます。覚如上人がここで仰っていることは、
宿善あつきひと
=過去世において善に励み悪を慎んできて、「今生に善をこのみ悪をおそる」人
宿悪おもきもの
=過去世において善をせず悪行を重ねてきて、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
ということです。『唯信鈔』で聖道門における宿善の定義であり、親鸞会でいうところの宿善の厚薄に近い意味ですが、その結論が親鸞会とは全く違います。

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

過去に行ってきた善悪、宿善の厚薄は、往生と関係付けてはいけないということです。

後段

これによりて、あるときの仰せにのたまはく、「なんだち、念仏するよりなほ往生にたやすきみちあり、これを授くべし」と。「人を千人殺害したらばやすく往生すべし、おのおのこのをしへにしたがへ、いかん」と。ときにある一人、申していはく、「某においては千人まではおもひよらず、一人たりといふとも殺害しつべき心ちせず」と[云々]。上人かさねてのたまはく、「なんぢ、わがをしへを日ごろそむかざるうへは、いまをしふるところにおいてさだめて疑をなさざるか。しかるに一人なりとも殺害しつべき心ちせずといふは、過去にそのたねなきによりてなり。もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし」。

更に後段に親鸞聖人のお言葉を再度紹介されて、

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

と、過去世、現在世の善悪は、往生の助けにも障りにもならないと仰っています。

このように覚如上人は、親鸞会で教えているような宿善の厚薄と往生とが関係あるとする考えを、前段・中段・後段で、繰り返し破邪しておられるのです。親鸞会の宿善論は、完全な邪義です。

なぜ、『教学聖典』に『唯信鈔』を出しながら『口伝鈔』のお言葉を載せなかったのか。その理由は、親鸞会の宿善論が『口伝鈔』では明確に否定されていますので、同じ内容でも表現が複雑で古文では理解しにくい『唯信鈔』の方を断章取義して、逆の意味で理解させようとしたのでしょう。確信犯です。

親鸞会では、

今年、阿弥陀仏に救われた人(獲信者)は、昨年、自己の修した善をふりかえり、宿善と喜ぶことになります。
獲信と、よい関係にある、修善をすすめることは間違いでしょうか?

という悪意に満ちた詭弁を弄していますが、阿弥陀仏の救いを何も知らない者と真宗界では見下されています。『唯信鈔』と『口伝鈔』をしっかり読んでから、再度同じ言葉を吐いてみれば、普通は恥ずかしくなると思いますが、そんな感覚も欠落しているようです。

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2010年9月28日 (火)

宿善とは、遇法の善因縁

さよなら親鸞会」に教義論争から逃げた高森会長のことが書かれてありました。別に驚くことでもありません。会長が法論をしても、勝てる見込みがありませんので、無視するのが最善の策でしょう。
当ブログでも、H講師、O講師との法論に関わってきましたが、会長のことをよく知っている人ならば、途中で会長が直々に法論に加わったことに気が付かれたと思います。mixiでのH講師の方は、

1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉については、

『教行信証』全体

(中略)

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

のところです。
O講師のブログの方は、二種深信のところです。

ちなみに、偽僧侶のM講師は、単独で書いているのでしょう。難しい立場のようです。

どれもボコボコにされて、逃亡しています。会長が絶対的な自信をもって書いた部分が、間違っている、と指摘されるとは会長も講師も夢にも思っていなかったことでしょう。しかし、親鸞聖人の教えられたことに照らし合わせてみれば、明らかな間違いです。尤も親鸞聖人の教えを知らなくても、高校生並みの読解力があれば、会長の間違いを指摘できるでしょうが。

さて、ここ最近ずっと書いていることは、『観無量寿経』の下品下生に関することばかりです。聖道門の解釈と浄土門での解釈は、大きく異なっているのです。それで、善知識方が聖道門の解釈を論破なされてきたので、それを説明してきましたが、親鸞会の解釈は、論破された聖道門の解釈に近いものが多くあります。故意なのか無知なのか判りませんが、親鸞会の解釈が浄土門の解釈と乖離していることは確かです。

宿善もそうです。往生と諸善とは、宿善という言葉で繋がっていると考えているのが、親鸞会です。その間違いを、前々回、前回で述べてきましたが、『口伝鈔』

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

も宿善の意味を理解する上で、判りやすいお言葉です。

宿善あつきもの浄土教を信受する機
宿福なきもの信受せざる機

です。聖道門を信じている人は、我々よりも遥かに宿世の善根は厚い人ですが、「浄土教を信受する」ことができない「信受せざる機」、「宿福なきもの」です。宿世の善根のない下品下生の逆謗の機でも、善知識に遇って「浄土教を信受する」人は、「宿善あつきもの」になります。宿善を諸善で説明する親鸞会ではとても理解できないでしょう。
つまり宿善とは

浄土教(18願)を信受する善因縁
遇法の善因縁

ということです。これを、

獲信の善因縁
往生の善因縁

と勘違いしているのが親鸞会です。このことが判れば、善知識方が往生のため、獲信のために諸善を勧められていないのも、難なく理解できるのです。
ある退会者が現役の幹部会員に、善知識方が獲信のための諸善を勧められていないことを指摘したところ、その幹部会員は『教学聖典』の


 「後生の一大事を知らされるほど、善根功徳を修め
 ずにおれなくなる」と教えられた蓮如上人のお言葉
 と、その根拠を書け。


 これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎ
 いかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃
 をも願うべき事なり。
                         (御文章)

を持ち出してきて、蓮如上人も獲信のために善を勧めておられると反論してきたそうです。このことについては、

私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白

で解説しましたが、断章取義です。蓮如上人が聖道門のことを説明された部分であるのに、それが獲信のために善を勧められた根拠と説明する幹部会員の知能を疑います。一流大学に入るだけの受験テクニックは十分だったのでしょうが、知能は御粗末です。
現役の会員に言いたいことは、仏教の勉強の前に、文章を読みこなす読解力をまず身につけましょう。そうすれば、会長の詭弁など、簡単に見破れます。詭弁のネタが判れば、会長のレベルが知れるでしょう。

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2010年9月27日 (月)

「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」の御心

『往生要集』では、『華厳経』と『浄土十疑論』を引用されて、前世に浄土を欣求して阿弥陀仏を念じてきて、宿善開発した人が善知識に遇えるのだと教えられました。

これは『大無量寿経』

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。

とあることや『定善義』

この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得

と説かれているのも同様のことです。
また『改邪鈔』には、

かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや

宿善のある機」は善知識に遇えるし、「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付くと教えられています。
更には存覚上人の『浄土見聞集』には

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

とあります。つまり、宿善とは、善知識に遇えるかどうか、正しい教えを聞けるかどうか、信じられるかどうかの問題なのです。
この『浄土見聞集』を承けられて蓮如上人は『御文章』2帖目第11通

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。

と五重の義を立てられましたが、宿善がなければ善知識に遇えないという、往生できるかどうかの最初の条件が、宿善ということです。善知識に遇わなければ、阿弥陀仏の18願が聞けませんので、宿善が重要なのです。善知識に遇った後に宿善を厚くするとかいうような話ではありません。

以上のことを踏まえられて仰ったのが、『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

です。「宿善開発の機はおのづから信を決定すべし」ですから、善知識から阿弥陀仏の18願を聞ける「宿善の機」か聞けない「無宿善の機」かが問題になるから、「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」なのです。
この御文を、

宿善の薄い人は宿善を厚くするように勧められた根拠

と理解しているのは、読解力や知能に問題があり、そのように教えている人は間違いなく悪知識です。
未だにその悪知識から離れることのできない人は、

宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべき

です。往生を願わず、サークル活動で満足しているような現会員は、残念ながら「宿善なき機」といわざるを得ません。

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2010年9月24日 (金)

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

聖道門の学僧にとりましては、『観無量寿経』に五逆罪を犯した下品下生の者が、臨終に十回の念仏を称えたことで往生できると説かれてあることが、信じがたいものであったと思います。それで聖道門では様々に強引な解釈がなされました。五品の位までしか到達できなかった智顗も同様です。智顗が著したとされる『浄土十疑論』には、

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、善知識に遇って十回の念仏で往生できたのだと解釈したのです。ここに宿善という言葉が見られますが、単純に宿世の善根という意味で使われています。

これを承けて『往生要集』には

『華厳』の偈に、経を聞くものの、転生の時の益を説きてのたまふがごとし。
 「もし人、聞くに堪任せるものは、大海および、
 劫尽の火のなかにありといへども、かならずこの経を聞くことを得ん」と。
 「大海」とは、これ竜界なり。
釈していはく、「余の業によるがゆゑにかの難処に生る。 前の信によるがゆゑにこの根器を成ぜり」と。
『華厳』を信ずるもの、すでにかくのごとし。 念仏を信ずるもの、あにこの益なからんや。かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。 かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。

(現代語訳)

《華厳経》の偈に、経を聞いた者が、生を変えた時の利益を説いていうとおりである。

もし経を聞くに堪えたものがあれば 大海に在っても
劫末の大火の中に在っても 必ずこの経を聞くことができる
「大海」というのは、竜のいる海である。

《華厳経》の釈にいわれている。その他の業に由るからかの難処に生まれ、前の信に由るから、この《華厳経》を聞きうる根機と成るのである。
《華厳経》を信ずる者であっても、すでにこのような利益がある。念仏を信ずる者に、どうして、この利益のないことがあろうか。かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。
それ故に《十疑論》にいわれている。
臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

と源信僧都は宿善の解説をなされています。『浄土十疑論』を引用しながら、『華厳経』を信じる人に倣って意味を変えられ、宿善を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。

更にこれらを承けられて聖覚法印は『唯信鈔』

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(現代語訳 「21世紀の浄土真宗を考える会」宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)

次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

と書かれています。聖道門の宿善の定義を

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

とされた上で、浄土門の宿善の定義は

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。

とされています。聖道門での定義とは、明らかに異なっています。五逆の者は、聖道門では「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の「宿善すくなきもの」になりますが、浄土門では「逆者の十念すら宿善によるなり」の人ですし、五逆罪を犯していない聖道門でいうところの「宿善すくなし」の念仏者は、浄土門では「宿善あさしとおもふべき」ではないのです。
親鸞会で教えている宿善とは、明らかに聖道門の宿善です。浄土門の宿善ではありません。

親鸞聖人は宿善という言葉をどこにも使っておられませんが、覚如上人、蓮如上人は宿善という言葉を、『往生要集』『唯信鈔』に倣って使われています。

さて、親鸞会では最近、また宿善について強調するようになったそうです。親鸞会結成35周年大会の際に、”宿善の教え”から”三願転入の教え”に切り替わりましたが、”三願転入の教え”については様々なところから徹底的に否定されたからでしょうか、今度は”宿善の教え”に戻るのかも知れません。

それならば、宿善について、また徹底的に親鸞会の邪義を明らかにするまでです。所詮は無教学の会長ですから、小手先で誤魔化そうとしても、根拠を出せずに自滅するだけで、そのことも判っていないようです。

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2010年9月22日 (水)

因果の道理を撥ねつける外道の信者

こうへい氏(H講師)は議論から逃亡しただけでなくmixiからも撤退し、本願寺の布教師を名乗るM講師は偽聖教を出して、珍珍説を連発して、沈黙したままです。O講師も「Kさん」との法論を完全に放棄し、相手をUR氏にすり替えるも、UR氏から法論を挑まれると尻尾を捲いて退散するという腑甲斐なさです。もちろん、講師部員の陰に隠れた会長がこれらを指示していることは言うまでもないことです。

しかし、どうも腹の虫がおさまらないO講師は、『会報』を写したり、自分で考えた断章取義による珍説をブログに書きまくっています。内容は超低レベルですので、当ブログで私が述べてきたことを理解して頂ければ、O講師の主張は漫才のネタ程度にしか思えないでしょう。

五逆罪、謗法罪については、半年前にも、『教行信証』信巻『浄土論註』『散善義』を引用して、連続で詳しく述べてきました。

五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり
惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く
『浄土論註』を読んだことがある訳ない
未造業はいないというワシの解釈が正しいから理屈抜きで信じよ

三乗の五逆罪
謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。
味わいと教義は異なります

大沼師が味わいとして書いたものを親鸞聖人の教えと勘違いした不勉強の会長は、『教行信証』信巻も、もちろん『浄土論註』『散善義』もまともに読んだことがないのは、間違いありません。その上、故意に断章取義して、善知識方の意図と反対のことを平気で書くO講師は、間違いなく謗法罪を犯しています。会長もO講師も、因果の道理を信じていない証拠です。

外道を相手にすることは馬鹿気ていますが、自信満々のO講師に誰でもできる反論を紹介しておきましょう。

しかし、親鸞聖人のみ教えを
聞いている人の中に、
それどころか
自分は阿弥陀如来に救われたと
言っている者の中に
私は五逆罪も謗法罪も犯してはいないと
言い張るものがいるのだから驚きだ。

と書いていますが、法然上人の『往生大要鈔』では

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰り、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

ともあります。

また聖覚法印の『唯信鈔』には、

五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。

とか、

われら、罪業おもしというとも、五逆をばつくらず。

とあります。
自分は阿弥陀如来に救われたと仰っている法然上人、聖覚法印のお言葉に大いに驚いてもらいたいものです。

なお、善導大師が間違いを正された相手の一人である智顗は、臨終に「吾れ衆を領せずんば必ず六根を清めん。他のために己を損す。位はただ五品の位のみ。」と言っています。つまりは、「われ信外の軽毛なり」と仰った善導大師とほぼ同じ位まで至ったということです。「下品下生」について『観無量寿経』には

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。

とあります。全人類が「下品下生」「逆謗の機」であるならば、善をしようともしませんので、因果の道理に従って、全人類は最下位である初信までも至ることができないと普通の人なら理解するでしょう。ところが因果の道理を無視する外道の信者は、無善でも十信、十住、そして龍樹菩薩のように自力で初地に至ることができると考えているようです。

因果の道理を撥ねつける外道の人には何を言っても無駄でしょうけど。

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2010年9月20日 (月)

なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

親鸞会は、妄想と論理の飛躍が顕著です。前回のエントリーを読んだからかどうか判りませんが、O講師のブログ「奥越親鸞学徒の集い」には、五逆罪、謗法罪のことが書かれていました。O講師のブログを読んで、正しいことが書いてあると思える人は、重症でしょう。1つ1つ解説する程の内容ではありません。根拠と解釈が乖離していますので、詭弁を見破る訓練用に使われては如何でしょうか。

自分は五逆誹謗正法の者と懺悔することは御自由にされれば結構ですが、よく知りもしない他人に対して、

お前は五逆誹謗正法の者だから、必堕無間だ

とは仏法者として言うべきではありません。その人が五逆罪、謗法罪を造っているという確証がどこかにあるのでしょうか?
確証があるなら別です。親鸞会の講師部員は、明らかに故意に謗法罪を造り続けていますから、必堕無間でしょう。
しかし確たる証拠もないのに、

五逆罪、謗法罪を造っているに決まっているから死んだら必ず無間地獄に堕ちる

と言うこと自体が謗法罪になります。なぜなら、前回も述べましたように、そのような教えはどこにもないからです。親鸞会独特の断章取義とデタラメ解釈によならければ、O講師のブログに書いてあるような支離滅裂の理論にはなりません。

さて、十方衆生はそれぞれ機が異なります。そのために機に応じて法門が説かれ、それを八万四千の法門というのです。もし仮に、親鸞会で教えているように、十方衆生が「逆謗の一機」であるならば、八万四千の法門は不要ですし、『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と教えられている通りで、十方衆生に念仏だけを説かれればよいのです。『観無量寿経』下品下生だけで十分です。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。

『観無量寿経』の下品下生以外の者がいるから、他の方便を説かれる必要があったのです。
大体「逆謗の機」は、善ができると自惚れてはいません。阿闍世は善ができるなどと自惚れていたでしょうか。阿闍世は五逆罪を犯したことで必堕無間に怯えていたのです。その阿闍世に対して釈尊は、必堕無間ではないと仰った上で、善を勧められることはありませんでした。さすれば高森会長は、釈尊とは真逆のことを教えていることになります。高森会長は、釈尊よりも偉大な無二の善知識と思っているのでしょう。
釈尊が善を勧められている相手は、善ができると思っている人です。善ができる人は、自分の行った善によって、成仏できる、あるいは報土往生できると自惚れているのです。しかし、真実の善はできませんから、成仏、報土往生は叶わないのですが、善ができる人は、真実の善ができて、成仏、報土往生ができると堅く信じ込んでいます。そんな人にとっては、聖道門や要門は権仮方便となるのです。聖道門や要門が権仮方便と思って善をしている人はありません。聖道門や要門が真実だと思っているのです。

『十住毘婆沙論』易行品には、

問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。 あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

(現代語訳)

問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。
(中略)
こういうわけであるから、もし諸仏の説きたもう中に、易行道ですみやかに不退の地位に至ることのできる方法があるならば、どうか、わたしのためにこれを説かれよ。

答えていう。そなたのいうようなことは、根機の劣った弱い者のいうことで大きな志ではなく、これは雄々しく堅固な志を持つ者のことばではない。なぜかというと、もし人が願いを起こし無上仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間は身命を惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにせねばならぬ。
(中略)
大乗を行ずる者には、仏は次のように説かれてある。「発願して仏果を求めることは三千大千世界をもち挙げるよりも重い」と。そなたが不退の位を得る法は甚だむずかしく、久しい間かかってようやく得ることができる。もしすみやかに不退の位に至ることのできる易行の道があろうかというならば、これはすなわち根機の劣った弱い者の言葉で、すぐれた人、堅固な志を持つ者のいうことではない。
しかしながら、そなたが、もし必ずこの方法を聞きたいと思うならば、今まさにこれを説くであろう。

龍樹菩薩も「丈夫志幹」「大人志幹」に対しては、難行道を説かれ、「儜弱怯劣」「怯弱下劣」に対しては易行道(18願)を説かれたのです。成仏できるような善がとてもできないと思っている「儜弱怯劣」「怯弱下劣」に、他の方便はありません。しかし、善ができると信じ込んでいる「丈夫志幹」「大人志幹」には、易行道(18願)を受け入れる心はありません。それで「丈夫志幹」「大人志幹」に対しては、難行道が易行道(18願)を受け入れさせるための権仮方便となるのです。
善ができると自惚れている人は、「儜弱怯劣」「怯弱下劣」ではありません。「儜弱怯劣」「怯弱下劣」に、

本心では善ができると自惚れているのだから、その自惚れが廃るまで善に励め

と善を強要するのは如何にも頓珍漢な話です。

もし仮に、十方衆生が「逆謗の一機」と言うのであれば、18願だけを説くのが筋です。十方衆生が「逆謗の一機」というのも、「逆謗の一機」に対して18願に入るために権仮方便の19願、諸善を勧める思考も、釈尊にも歴代の善知識方にもなかった、全く新しき教えです。従いまして、親鸞会は仏教の範疇から外れた宗教です。

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2010年9月18日 (土)

高森会長の創作教義が、浄土真宗の教義と重なる部分はどこ?

親鸞会では根拠がほとんどなく主張しており、出している根拠も断章取義と無茶苦茶な解釈で統一されています。それに対して当ブログではできる限り多くの根拠を出しています。多くの根拠を出すことで、正しい解釈を導き出すためです。

これまで何回も述べてきましたように、

定散諸機≠極重の悪人

です。当たり前のことです。従いまして

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

の通りです。矛盾はありません。
親鸞会では、

十方衆生=唯除五逆誹謗正法

という前提でしか話がなされませんが、この前提となる根拠は全くありません。以前にも

先哲にどんな解釈をされた方があったかは問題外です
[mixi]三願転入議論の解説1

で『大無量寿経』異訳との比較をしましたが、18願について再度みてみたいと思います。親鸞聖人は『教行信証』の中で、『無量寿如来会』『大阿弥陀経』『平等覚経』を引いておられますので、それを挙げておきます。

『無量寿如来会』(『教行信証』信巻より)

もしわれ無上覚を証得せんとき、余仏の刹のうちのもろもろの有情類、わが名を聞き、おのれが所有の善根、心心に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。もし生ぜずは菩提を取らじと。ただ無間の悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く。

『大阿弥陀経』(『教行信証』行巻より)

それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ。

『平等覚経』(『教行信証』行巻より)

われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ。

『大阿弥陀経』『平等覚経』の前半は『大無量寿経』17願に当り、後半が18願に当ります。

『無量寿如来会』には、「唯除五逆誹謗正法」に相当する部分がありますが、『大阿弥陀経』『平等覚経』にはありません。ですから、『大阿弥陀経』『平等覚経』からは、

十方衆生=唯除五逆誹謗正法

ということはいえません。
『大阿弥陀経』『平等覚経』に「蜎飛・蠕動の類」「蠕動の類」とあるのは、虫の類いに至るまで漏れているものはないことを表わされているのです。
同様に、「唯除五逆誹謗正法」も、無間業を造っているどんな極悪人も漏れているものはないことを表わされているのです。それが『尊号真像銘文』の、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。漏れているものがないことを異なった言葉で表現されているに過ぎないのです。

親鸞会でよく言われることに「逆謗の屍」という言葉がありますが、親鸞聖人が十方衆生のことを「逆謗の屍」と仰ったお言葉は全くありません。単なる無知です。
詳しくは

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか9

に解説がありますので、読まれると良いでしょう。

法然上人は、『選択本願念仏集』

しかのみならず下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。

と仰っておられます。ここでも阿弥陀仏の救いは「極悪最下の人」を対象としていて、漏らさないことを誓われているのであって、十方衆生が「極悪最下の人」という意味にはなり得ません。
法然上人は御自身のことを『勅修御伝』で

我はこれ烏帽子も着ざる男なり。十悪の法然房、愚痴の法然房が念仏して往生せんと言うなり。

と「十悪の法然房、愚痴の法然房」と仰っていますが、「五逆の法然房、謗法の法然房」とは仰っていません。それどころか『往生大要鈔』に

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰っておられ、また『浄土宗大意』には、

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

とも仰っておられます。
親鸞聖人も『末灯鈔』

善知識をおろかにおもい、師をそしるものをば、謗法のものともうすなり。親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。同座をせざれとそうろうなり。されば、きたのこうりにそうらいし善証坊は、親をのり、善信をようようにそしりそうらいしかば、ちかづきむつまじくおもいそうらわで、ちかづけずそうらいき。

と、五逆謗法の善証坊には近付くな、と仰っておられるように、一般の人は五逆謗法ではないという前提です。これについても

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか8

に詳しい解説があります。

なお、以前にも簡単に述べましたが、ついでに『大無量寿経』の「若不生者」のところは、『大阿弥陀経』『平等覚経』共に

わが国に来生せしめ

です。「わが国」とは、浄土のことです。

「若不生者」に当益の意味は全くない

と昨年1月の教学講義で断言した高森会長は、阿弥陀仏の本願について、本当に何も知らないのです。阿弥陀仏の本願について無知な善知識とはこれ如何に。

高森会長の話しか聞いたことがない会員には、驚きのお言葉ばかりですが、驚くべきことは高森会長の創作教義です。

講師部員や幹部会員に質問です。

高森会長の創作教義が、浄土真宗の教義と重なる部分はどこでしょうか?

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2010年9月15日 (水)

三願転入の背景

根拠のないことを根拠があるかのように装って、論理展開も無茶苦茶なのが親鸞会教義です。”三願転入の教え”なるものがその典型です。

これまでに三願転入については、しつこいくらいに述べてきました。19願の対機からのまとめもしてきましたが、今回は歴史的、社会的背景から、三願転入についてまとめてみました。

法然上人は『選択本願念仏集』に、

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。
いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

(現代語訳)

およそこのような三義の別があるけれども、いずれもこれは一向に念仏するというわけをあらわすのである。初めの義は、これは廃立のために説く。すなわち諸行は廃するために説き、念仏は立てるために説かれたという意味である。次の義は、助正のために説く。すなわち念仏の正業を助けるために諸行の助業を説かれたという意味である。後の義は、傍正のために説く。すなわち念仏と諸行との二門を説かれるけれども、念仏をもって正とし諸行をもって傍とする。こういうわけで三輩に通じてみな念仏というのである。ただしこれらの三義の殿最は知りがたい。どうか学ぶ人たちは、おのおのの心にしたがって取捨せられよ。今もし善導に依れば、初めの廃立の義をもって正意とするのである。

と仰っています。「諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く」と廃立で説かれています。また、

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。
例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

ともあります。『観無量寿経』で定散二善が説かれている理由は、念仏が定散二善よりも優れていることを顕すためと法然上人は仰っています。
それに加えて、

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。
一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

とまで仰り、末法にあっては、往生の為の諸行を否定されました。諸行を重んじ、念仏を「下劣根機」のための行と考え、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も重んじていた聖道門の学僧達が、法然上人の教えに対して猛烈に反発したのは、いわば当然なことです。

法然上人の念仏往生の教えを、「下劣根機」に限定すれば、聖道門の学僧達は納得したと思いますが、自分たちを含めた「天下の諸人」にまで適応することは我慢のならないことでした。それは明恵高弁の『摧邪輪』にある

称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也、汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎、無礼之至り称計す可からず

で判ります。『摧邪輪』は法然上人の教えを徹底的に攻撃した書ですが、内容的には根拠も論理もしっかりした論文でしたので、法然上人の亡くなられた後、法然上人の弟子でも『摧邪輪』に十分に反論することができず、諸行往生を肯定する人まで出てきました。
そんな中、親鸞聖人が『教行信証』を著されて、『摧邪輪』に反論されたのです。

親鸞会では善の勧めを正統化させるために、親鸞会批判者に対して

釈尊が一切経で説かれている善の勧めが無駄であったというのか

とよく言いますが、聖道門の学僧達も同じことを強烈に主張し続けました。この問いに答えるには、18願と聖道門、19願との関係についての説明が不可欠です。そこで親鸞聖人は、真実について『教行信証』真仏土巻までで一通り解釈をされた後に、聖道門、19願及び20願について仰ったのです。

真仏土巻の最後

しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。
(中略)
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

(現代語訳)

ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
第十八願を因として真実の仏と浄土が成就されたのである。
(中略)
方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。

と18願が真実の願であり、19願・20願は方便の願であると断言されて、化土巻で方便の願と方便の浄土(化土)について解説されたのです。
化土巻・要門釈の最初

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。現代語訳では細かいところが判りにくいと思いますので、以前にも紹介しました解説書を2つ出しておきます。

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。
(中略)
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。


山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

親鸞聖人は、『観無量寿経』の定散二善と19願とは、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものと最初に明言された後、これは方便の行信であるから、方便の利益(化土往生)しか与えられないことを説明されて、結論として要門釈の結勧の文

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

と自分の能力をよく考えて、18願他力念仏1つを勧められているのです。
ここで「下劣根機」たる「極重悪人」だけではなく、「上機」を自負する「定散の諸機」も18願に依らなければ報土往生は遂げられないことを教えられているのです。

そしてこの後の隠顕釈にて

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。

と法然上人の廃立に対して、親鸞聖人は隠顕で『観無量寿経』を解説されたのです。それは、法然上人は18願を信じて願い求める「宿善の機」に対して仰ったのと、親鸞聖人が18願を見下した聖道門の学僧達への反論との違いです。親鸞聖人は、聖道門の学僧達のために、『観無量寿経』は、聖道門から浄土門へ、そして最後は18願へと導かれることを説かれた経典であることを、善導大師の解釈から説明されているのです。

文証に加えて、御自身の体験を述べられた三願転入の文により、聖道門の人から浄土門、最後は18願へと導かれたことを証拠として出されたのです。

つまりは

釈尊が一切経に説かれている善の勧めが無駄であったというのか

この非難に対して、三願転入の文でまとめの答えとされたのです。
歴史的、社会的な背景を考えれば、聖道門の学僧達を意識して三願転入を説かれた親鸞聖人の御心が普通の思考の方は理解できると思います。

それは三願転入の文の直後に

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の財施時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊財施の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

と仰っていることからも聖道門の人に向けて言われていることは明白です。
自分は聖道門に長らく迷ってきたけれども、聖道門を信じている皆さんも、早く浄土門に入って、18願を願求して救われてください、とのお言葉です。

以上のように、法然上人の教えの正しさを仏教全体を通して証明されるために、親鸞聖人は従仮入真論を化土巻で展開され、御自身の体験として三願転入の文を添えられた訳です。従って、同行向けに書かれた御著書には、三願転入について触れられることもなく、親鸞聖人の御心を理解されていた覚如上人、蓮如上人も三願転入について言及されていないのです。もちろん、七高僧方も三願転入という概念を持っておられませんでした。

親鸞聖人の教えを信じて、18願他力念仏での救いを求めている「宿善の機」には、三願転入の概念は不要であるからです。

ところが、そんなことも全く理解できない異安心の邪義集団は、18願を信じて報土往生を願っている人に対して、19願から始めなければならないなどと教えているのです。「宿善の機」を18願から遠ざけて、平生業成を多生業成としながら、真実を説いている唯一の団体と公言しているのは、正気の沙汰とは思えません。

善導大師は、『玄義文』

弘願といふは、『大経』に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなし」と。また仏の密意弘深なり、教門暁めがたし。 三賢・十聖も測りて闚ふところにあらず。 いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや。

(現代語訳)

弘願というのは、『無量寿経』に説かれている通りである。善人も悪人もすべての凡夫が往生できるのは、みな阿弥陀仏の大いなる本願のはたらきをもっともすぐれた力として、それによるからである。また仏の思し召しは広くて奥深いから、その教えは容易に知ることができない。三賢・十聖という位にある菩薩でさえはかり知ることはできないのである。ましてわたしは十信の位にも入ることのできない愚かな凡夫である。どうしてその思し召しを知ることができようか。

と仰っています。「三賢・十聖」でもはかり知ることのできない阿弥陀仏の救いを、「信外の軽毛」である善導大師もはかり知ることはできないと仰っています。「信外の軽毛」とは、十信位という説と、十信位よりも下という説がありますが、いずれにしても、善導大師は低い覚りではありますが、そこまでは自力で到達された方です。ですから龍樹菩薩や天親菩薩はもちろんのことですが、善導大師に対しても「下劣根気」「極重悪人」の方とは言い難いでしょう。

一方で、初信位さえも覚っていない「下劣根気」「極重悪人」が、善知識を装って、

阿弥陀仏の御心が判っているのは自分だけだ、親鸞聖人は直接仰ってはいないが三願転入の教えを説かれた

と断言しているのをどう思いますか?
そんな人物は、聖道門の人よりも浄土門の理解がお粗末ですよ。『摧邪輪』でも読んで浄土門への非難の仕方を学んではどうかとアドバイスをしたくなります。

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2010年9月12日 (日)

「汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎」との明恵高弁の言葉を知っていますか?

日本浄土仏教の歴史も知らないで、善知識ごっこをしている者達のために、蛇足ですがもう少し説明します。
前々回、前回と要門釈の結勧の文

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

について解説をしてきました。このように仰らなければならなかった歴史的背景も知る必要があります。
法然上人が諸行を廃して念仏を立てられたことに対して、聖道門の学僧達から激しい非難があったことは、何度も言及して来ましたが、

「親鸞会教義の誤り」
親鸞会は諸行往生10

に、その内容が具体的な文証を挙げて解説されています。一部を紹介します。

法然上人が阿弥陀仏の48願中18願を選択本願、王本願とされて、諸善を廃して念仏を専修すべきことを主張されたことは、これまで何度か述べてきました。これに対して、当然のごとく聖道仏教の学僧達から激しい非難が浴びせられました。
『延暦寺奏状』に

一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事

とあり、この中に

諸悪莫作諸善奉行は寧ろ七仏通誡にあらずや。

と書かれてあります。七仏通誡偈を根拠に、諸善を廃することの誤りを指摘しようとしていることが分かります。
また『興福寺奏状』九箇条の中に、

六、浄土に暗き失。
七、念仏を誤る失。

があります。浄土と念仏という浄土仏教の根本的教義に踏み込んでの非難です。つまり、これまでの浄土仏教の教義に照らしても、法然上人の主張は間違っていると説明したものです。

六、浄土に暗き失には、『観無量寿経』の散善について書かれています。親鸞会の公式ホームページの「承元の法難」には、「六、浄土に暗き失」が省かれているのですが、これは意図的なものであることに間違いありません。
この内容は
「用管窺天記」の自業自得の救済論
に詳しく書かれてありますので、御参照下さい。

七、念仏を誤る失」には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

と念仏往生の18願のみを選択された本願としているが、他の47願も本願ではないか、と法然上人の主張に異議を唱えているのです。

また明恵高弁が『摧邪輪』を著して『選択本願念仏集』を徹底的に非難しています。その中で以下のように

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しているのです。善を勧められた19願は本願ではないのかと。
これ以外にも『観無量寿経』の定散二善を解説し、菩提心等の余行を廃するという法然上人の教えは、間違っていると長々と述べているのです。

『興福寺奏状』には以下のことも書かれています。

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

また『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也、
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也、汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎、無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す

ともあります。念仏は「下劣根機の為」のもので、「下機を誘ふるの方便」あって、世の中の人が皆「下劣根機」ではないとしているのです。『往生要集』にも

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

とありますので、『観無量寿経』の九品の差別を見れば、高弁らの主張は一応筋の通ったものです。この高弁の『摧邪輪』に対しての反論書が、『教行信証』なのです。要門釈において、19願と定散二善について解釈された内容は、これまでに散々述べて来た通りです。

このような時代背景を踏まえれば、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

の御心が判るでしょう。法然上人の御心を親鸞聖人が解説をされたお言葉です。
ちなみに、高弁ら聖道門の学僧は、18願が真実の願で、19願が方便の願であるなどとは、夢にも思っていません。19願を通って18願に入るという考えも、もちろんありません。阿弥陀仏の48の願の中では19願が最も勝れていると考えているからこそ、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願として意味をなすのです。

それを、浄土門内の18願真実を信じている悪人に対して、まず方便の19願から始めなさいなどとは、どんな思考回路なのでしょうか。歴史的背景を知るだけでも、化土巻の内容で相当のことが理解できます。

定散の諸機」=「極重悪人

と堂々とブログで書き立てていて、自分の浅智を世界中に宣伝していることにも気が付かないのでしょうね。少なくとも、本願寺で教育を受けた布教師ならば知らない筈のない基礎知識です。「夢幻界裡の覚醒」の管理人が浄土門外の団体に属する布教師であることが、ここでも証明できます。

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2010年9月 9日 (木)

悪人正機も理解できない親鸞会

根拠を出すことができず、妄想による珍説を延々と述べている偽僧侶のブログを読む気にはなりません。偽聖教を出しても平気、香樹院師の意図を無視して逆のことを言っても平気、親鸞聖人のお言葉を断章取義しても平気な人物が、誇大妄想を膨らませても、まともに相手にする人はいないでしょう。会長の御機嫌取りをするピエロにしか見えません。

さて、親鸞会の人は会長も含めて、『観無量寿経』を読んだことがないから、「定散の諸機」の意味も判らないのです。

定散の諸機」を大きく分ければ、「定善の機」と「散善の機」ですが、「散善の機」は更に九種類に分けられています。「上品上生」から「下品下生」までの九品です。三福(行福・戒福・世福)と九品との関係は、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を行じている善人
「中品上生」「中品中生」は、戒福を行じている善人
「中品下生」は、世福を行じている善人
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福の悪人

になります。無三福の悪人に対して釈尊が勧められているのは、定善でも散善でもない本願力回向の念仏です。
これを善導大師の弟子であった懐感禅師は『釈浄土群疑論』で

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と言われました。それを承けられて源信僧都は『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と言い換えられました。「極重の悪人」には、念仏以外の方便はないのです。逆に言えば、善人には念仏以外の方便があるということです。「定善の機」には定善、「上品上生」から「中品下生」までは三福が説かれていますので、善人には諸善という方便があるということです。

聖道門の学僧達は、『観無量寿経』を解釈して、善のできない悪人には劣行である念仏が説かれてあるが、釈尊の本意は勝行である諸善を勧められているとしました。親鸞会の発想は、聖道門と同じです。

善導大師は『散善義』の深心釈の中で二種深信の次に

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

と仰っています。七深信中の第三深信と呼ばれるものです。ここで、釈尊は浄土を欣慕せしめるために『観経』で諸善を説かれたのだと仰っています。もちろん、浄土を欣慕していない聖道門の人(善人)に対してです。

親鸞聖人はこの善導大師の深心釈を承けられて、19願、定散二善は、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、実践しても化土往生しかできない、と要門釈で解説され、浄土門に入った「定散の諸機」も18願他力念仏に帰せよ、と結論付けられたのです。それで『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、要門釈の最後

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とされたのです。昨日述べたように、機の深信は「定散の諸機」も「極重の悪人」も同じです。しかし、「極重の悪人」には他の方便がありませんが、「定散の諸機」には他の方便がありますので、「定散の諸機」は「極重の悪人」よりも報土往生が遠回りになります。

それを『歎異抄』第3章では

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

(現代語訳)

善人でさえ浄土に往生することができるのです。 まして悪人はいうまでもありません。ところが世間の人は普通、 「悪人でさえ往生するのだから、 まして善人はいうまでもない」 といいます。 これは一応もっともなようですが、 本願他力の救いのおこころに反しています。なぜなら、 自力で修めた善によって往生しようとする人は、 ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、 阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。 しかしそのような人でも、 自力にとらわれた心をあらためて、 本願のはたらきにおまかせするなら、 真実の浄土に往生することができるのです。
あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、 どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。 阿弥陀仏は、 それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、 そのおこころはわたしどものような悪人を救いとって仏にするためなのです。 ですから、 この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、 まさに浄土に往生させていただく因を持つものなのです。それで、 善人でさえも往生するのだから、 まして悪人はいうまでもないと、 聖人は仰せになりました。

とあるのです。他の方便のある善人でさえ浄土に往生できるのだから、他の方便のない悪人が浄土往生できることはいうまでもないのです。悪人正機とは、善という方便のない悪人が正機ということです。

悪人に善と言う遠回りの方便を勧めることがどれほど愚かな教えであるかが、賢明な読者の皆さんなら十分お判り頂けると思います。しかし、国語力に問題のある偽僧侶には、理解不能なのでしょう。

また『歎異抄』後序には

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。

(現代語訳)

聖教というものには、 真実の教えと方便の教えとがまざりあっているのです。 方便の教えは捨てて用いず、 真実の教えをいただくことこそが、 親鸞聖人のおこころなのです。くれぐれも注意して、 決して聖教を読み誤ることがあってはなりません。

ともあります。二種深信も第三深信も欠けて、何が真実で何が権仮であるか判らない異安心者には、本日のエントリーは到底理解できないでしょう。国語力にさえ問題がありますから、根拠は出さずに、誇大妄想を書き続けるのがよいでしょう。

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2010年9月 8日 (水)

「定散の諸機」「極重悪人」と「機の深信」

O講師は、多くのエントリーと長文を書くことで、これまでの議論を霞ませようとしているのでしょう。親鸞会のやり方は、いつも同じです。異安心の者は、「機の深信」を言葉だけで理解しているので、ツッコミを入れると、すぐにもたもたになってしまいます。

ついでですから、偽僧侶が絡んで来た要門釈の結論である

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

のお言葉について、「定散の諸機」「極重悪人」を「機の深信」との関係から整理してみます。

『高僧和讃』善導讃

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

(現代語訳)

本願力で完成した浄土には、
自力の心や修行では至れないので、
大乗・小乗の聖人がみなともに、
阿弥陀如来の弘き誓いにおまかせするのである。

大小聖人」の左訓(註)には、「大乗の聖人、小乗の聖人」とあります。聖者の位にいる方々も、自力では報土に往生することができないので、報土に至るには他力18願に帰さなければなりません。「大小聖人」は、我々底下の凡夫とは違う方々です。親鸞聖人は明らかに区別しておられます。

この次の御和讃で、「機の深信」について仰っています。

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

(現代語訳)

煩悩まみれであると信じて、
本願の済いにまかせるならば、
必ず迷いの身を捨てて、
さとりの自由を得させていただける。

煩悩具足と信知して」が「機の深信」です。「大小聖人」も「煩悩具足と信知して」ですから、ここは我々底下の凡夫と共通しているところです。

また『教行信証』行巻で三選の文を引かれた後には、

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

(現代語訳)

上来引用された経、論、釈の文によって、本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らのはからいによって往生の行にしていくような自力の行ではないということが明らかにわかりました。
阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者のほうからは不回向の行と名づけられています。大乗の聖者も小乗の聖者も、自らの善をたのまず、また悪人も罪の重い軽いをあげつらうことなく、同じく自力のはからいを離れて、大海のような広大無辺の徳をもって一切を平等に救いたまう選択本願に帰入して、念仏し成仏すべきです。

と、ここでも「大小の聖人」聖者と「重軽の悪人」凡夫を分けておられます。聖者であっても、自力を捨てて他力18願に帰入して「念仏成仏」するのです。悪人にも「重軽」があります。

またmixiで、こうへい氏がしつこく、的外れの質問を言い続けていた『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無碍光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

でも、「大小の聖人」「善悪の凡夫」は、自力無功の「機の深信」が共通です。言うまでもなく「法の深信」も共通です。善凡夫と悪凡夫の区別までされています。底下の者として「具縛の凡愚・屠沽の下類」と表現なされていますが、これが「大小の聖人」のことと考える人はいないでしょう。
これを言葉を変えれば、阿弥陀仏の18願の前では、「定散の諸機」も「極重悪人」も自力無功で同一であるから、「定散の諸機」であっても、18願他力念仏に帰せよと勧められているだけなのです。だからといって

定散の諸機」=「極重悪人

である筈がありません。これは国語の問題であって、仏教の問題ではありません。

十方衆生」は、真実の善ができないから、自力では仏に成ることができず、報土往生もできません。しかし、「大小の聖人」「定散の諸機」は、真実の善ではありませんが、善のできる方です。高い覚りを開かれているのですから、「極重悪人」とは大きな差があるのは当然なことですが、親鸞会ではこれが理解できないのです。

スポーツでも、世界の頂点に立っている人から、底辺のスポーツ音痴まで、能力にはピンからキリまでの差があります。仏教で説かれている善行においても、できる人できない人の能力差が存在するのです。

この超常識が理解できなければ、要門釈も「機の深信」も判りません。それで、親鸞会は異安心の邪義集団といっているのに、全く反論もできず、関係のないことを延々と書いて誤魔化さなければならないのです。

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2010年9月 6日 (月)

法論の決着は?

O講師のブログの
七大経⑫-35(四つの角目を聞け、東本願寺僧侶の悲鳴)
という9月4日投稿の記事に、

URさんの真宗大谷派の教義と
浄土真宗親鸞会の親鸞聖人の教義と
どちらが正しいのか。
1対1で法論できる
絶好の機会がきた。

とあったために、UR氏が9月4日に法論を申し込みました。
このエントリーを書いている時点では、完全無視です。このまま無視することが予想されます。

勝手なことをするな

と高森会長が激怒しているのではないのでしょうか。

当ブログではこれまで、親鸞会の講師部員及び陰の高森会長との法論に何回か絡んできましたが、すべて親鸞会側が逃亡しています。
今回のUR氏とO講師とのここまでの経緯は、もともと「Kさん」のコメントから始まったものでした。

「さよなら親鸞会」
助けてと悲鳴の聞こえそうなメールを公開します。

にその「Kさん」がコメントを書いています。

O講師のブログにコメントをした「Kさん」と呼ばれている者です。
機の深信に関する話は、化土往生についての以下のコメントが発端です。

-----------------------------------

善知識方が化土往生は誰もできない、と教えられた根拠は示せないから、いつもの屁理屈を並べています。

親鸞会で教えられてきた邪義が邪義と理解できないから、自己矛盾も分からないのです。
Oさんが出してきた根拠にだけ答えておきましょう。

>「『自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、
>  昿劫より已来常に没し常に流転して、
>  出離の縁有る事無し』
> と、深信す。
>   (機の深信)

自分の力では出離することができない、ということです。

>「一切凡小一切時の中に、
> 貪愛の心常に能く善心を汚し、
> 瞋憎の心常に能く法財を焼く。
> 急作・急修して頭燃を灸うが
> 如くすれども、
> 衆て「雑毒・雑修の善」と名け、
> また「虚仮・諂偽の行」と名く。
> 「真実の業」と名けざるなり。
> この虚仮・雑毒の善を以て、
> 無量光明土に生ぜんと欲す、
> これ必ず不可なり
> (教行信証信巻)

虚仮・雑毒の善しかできないから、報土には往生できない、ということです。

どこに矛盾があるのでしょうか?
-----------------------------------

これに対してO講師が

体験至上の異安心の機の深信とは、この程度

と暴言を放ったので、私が機の深信について、『往生礼讃』のお言葉を挙げて、高森会長が教えている機の深信の解釈こそが間違いと指摘したのです。

ところがその後、その指摘を無視し続けて、答えられないなら高森会長は異安心決定ですよ、と何度も念を押しても無視し、挙げ句の果てに東本願寺学者による機の深信の解釈を出してきて、「東本願寺は間違っているだろう」と言って来たのです。全く本末転倒です。

体験至上の異安心の機の深信とは、この程度

とまで言いきったのですから、高森会長の機の深信の解釈が間違いだという私の指摘について、まず答えるべきでしょう。

論点をずらすのは親鸞会の常套手段ですが、今回は法論の相手まですり替えてしまっています。
O講師のブログを「Kさん」との法論が始まった頃から読んでいくと、主張さえも「Kさん」に擦り寄っていることが判ります。

UR氏に法論を挑む前に「Kさん」との法論に決着を付けて下さいよ、O講師。

決着はすでに付いていると皆思っていますけどね。

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2010年9月 4日 (土)

哀れな親鸞会の実態

こうへい氏(H講師)、O講師、M講師は皆議論から逃亡しました。途中で会長直々の御教導があった議論も、根拠を知らなさ過ぎて墓穴を掘り、会長は早々と退散しています。これが、何百年に一度の善知識擁する親鸞会の実態です。

O講師のブログについて私が書かなくなったのは、議論に破れながら話を東本願寺のことにすり替えて、延々と書いていることを哀れに思うからです。相手にしようという気も起きません。

「夢幻界裡の覚醒」の方は、歴代の善知識方のお言葉を出さず、香樹院師の言葉から、何とか親鸞会の正当性を導きだそうと必死になっています。香樹院師の意図を無視した超論理展開です。ツッコミを入れる価値のない御粗末さですし、ツッコミは「真偽検証」でなされると思いますので、無視しようとも思ったのですが、重要なところを少しだけ書いておきます。

念仏と六度万行

のところでも書きましたが、加藤智学編『香樹院講師語録』では、獲信のために諸善を勧められてはいません。香樹院師の言葉をそのまま引用すれば

  • 骨折って聞くべし
  • 衣食も思わず聞くことに候
  • 常に絶え間なく聞くべし
  • 法話なき時は、聞きたることを常に思うべし
  • 常に聖教を拝見すべし
  • もしまた世事にかかりあい、聞見常に縁なき時は、口に常に名号を称すべし、これまた法を聞くなり

です。廃悪修善に励みなさいとは書かれていません。

また

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか11(化土往生について)

にも、香樹院師の化土往生についての語録が紹介されています。香樹院師は、未信の人に対して化土往生ができるのだから

なにも悲しまずに、喜びて念佛すべし

と言われた上で、

本願を心にかけ念佛せん人、
辺地の往生を遂げしめ給う御慈悲なれば、
身心を投げ込んで聞けば、信は得ずとも念佛申す御徳にて、
悪道に堕ちぬことなれば、命限り疑いのはるるまで求めて、
聞きとげずばおくまいと、勇み励んで聞き求むべし。

と聞法に励むことを強く勧められています。「一切衆生必堕無間」を説いていませんし、獲信の為に廃悪修善を勧めた言葉がないから、あのような無茶苦茶な論理を書いているのです。

さよなら親鸞会」に

親鸞会の講師部や親友部で、本願寺に対して従うことを誓い、布教をすると申し出ている人たちがいます。

と書かれてありましたが、保身の為とはいえ、断章取義と改竄、捏造を繰り返した謗法ブログを書き続けることはないでしょう。早く親鸞会を辞めればよいのです。

次回は香月院師の言葉を出して、「これを読め」と書いてくるかもしれません。

後生の一大事、後生の一大事と他人を脅すよりも、謗法罪を造るわが身の必堕無間を心配しなさい。

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2010年9月 2日 (木)

多善根・多功徳・多福徳因縁の念仏

僧侶を名乗る人物が管理人をしているブログで、2ヶ月半もの間考えてきて、何やら書いています。反論はこれしかないと思っていましたので、予想通りの結果で、苦笑しています。所詮は、これまで私が述べてきたことを理解することのできない人物が、根拠もなく親鸞会の妄想をそのまま書いただけです。”無解の一道”か”無下の一道”に出た人物の発想は、この程度です。

何度も何度も同じことを書いていても仕方がありませんので、

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

を読んで下さい。これだけで十分でしょう。
前回のエントリーで書いたことも無視です。
少しだけ補足すれば、

要門釈の最初に、聖道門の人を浄土門に誘引する願が19願と仰って、19願について解釈をされた結論として仰ったのが、

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

です。何度も書いていますが、聖道門では阿弥陀仏の本願の中で19願が最も勝れていると解釈していますので、そんな19願に拘っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。

『正像末和讃』に

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

とありますように、龍樹菩薩や天親菩薩でさえも18願に帰依されたのだから、自分の能力をよく見て、はやく18願に帰依せよと仰ったのです。
それを断章取義して「定散の諸機」=「極重悪人」としか理解できないところが、救い難いところです。龍樹菩薩も「極重悪人」と理解するような人とは話ができません。

関係のないことをいろいろと言っていますが、結局のところ、こうへい氏と同じで、”三願転入の教え”なるものの根拠、親鸞聖人が19願を勧められた根拠を示せないからあの程度の屁理屈で誤魔化すしかないのです。
従いまして、

予告通り”三願転入の教え”はないと言うことで決着しました。

以前にも書きましたが、『観無量寿経』を読めば、下品下生である極重の悪人に対して、釈尊が善を勧められていないことくらいは、誰でも判ることです。極重の悪人に善を勧める親鸞会や偽僧侶は、釈尊よりも偉いつもりなのです。そんなことも理解できないから、本願寺から見下されて、相手にされていないのです。相手にされていないことを勝ったと宣伝している幼稚さに、更に見下されています。詳しくは

五逆・十悪の罪人、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる

に書きましたので、読まれればよいでしょう。

構ってほしいのは判りますが、いつまでもレベルの低い相手をするつもりはありません。

さて、親鸞会が浄土仏教ではないことは、「諸善よりも念仏は間違い」ということをいう人物の主張で明らかです。これに反論する根拠は山ほどありますので、過去にも沢山の根拠を紹介してきました。

『教行信証』化土巻・真門釈に

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知ん、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。

「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。

かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえた行である>」

とあります。真門釈ですから、20願自力念仏についての功徳として親鸞聖人が引かれているのです。これは以前に20願化土往生の根拠として紹介した『阿弥陀経』の隠顕釈

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。

の「多善根・多功徳・多福徳因縁」の部分です。「多善根・多功徳・多福徳因縁」の念仏を軽視して、「一切諸行の少善」を尊重する念仏誹謗の団体が、浄土真宗を名乗ること自体信じられないことです。
親鸞会では、

方便の行信(自力念仏)⇒必堕無間
念仏誹謗⇒必堕無間

と教えています。
因果の道理を信じていると言いながらこれが正しいと思える人は、偽僧侶と同じレベルです。

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