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2010年8月21日 (土)

高森会長が60数年間学んできたことは何か?

化土往生は誰もできない机上の空論と親鸞会は言い続けるより仕方がないでしょうが、、O講師(高森会長)が20願化土往生の条件として出した『阿弥陀経』の御言葉について、昨日、親鸞聖人が解釈された『教行信証』化土巻

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。
これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。
釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。

を紹介しました。無知な善知識の勉強のために、敢て解説をしませんでした。
これについて今のところ何も反論してきませんので、少しは勉強したのかも知れませんが、理解できていないと思いますので、少しだけ説明したいと思います。

基礎知識として『阿弥陀経』の隠顕は

  • 顕説(方便)20願意-自力念仏往生(化土往生)
  • 隠彰(真実)18願意-他力念仏往生(報土往生)

となります。
これを踏まえて、上記の御言葉を見ると、化土往生にあたる顕説の解説が

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」といへり。

です。この中の「無過念仏往西方三念五念仏来迎」ですが、

念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。三念・五念まで仏来迎したまう

と読みます。これは『法事讃』

種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。上一形を尽し十念に至り、三念・五念まで仏来迎したまふ。

で、一部を省略されたものです。「上一形を尽し十念に至り」が従多向少、「三念・五念まで仏来迎したまふ」が従少向多の念仏です。それぞれが他力念仏と自力念仏を顕されたものと見られて、「上一形を尽し十念に至り」は省略されています。
ここを親鸞聖人は『一念多念証文』で、

「上尽一形」といふは、「上」はかみといふ、すすむといふ、のぼるといふ、いのちをはらんまでといふ。「尽」はつくるまでといふ、「形」はかたちといふ、あらはすといふ、念仏せんこといのちをはらんまでとなり。

「十念・三念・五念のものもむかへたまふ」といふは、念仏の遍数によらざることをあらはすなり。

と仰っています。親鸞聖人が顕説のところで敢て引かれている「三念・五念まで仏来迎したまう」の意味は、

念仏の遍数によらざることをあらはす

です。もうお判りでしょう。

ですから、『末灯鈔』12

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

は、普通に読めばいいのです。わざわざ、化土往生に難しい条件を付加して、親鸞聖人を嘘つきにする必要はないのです。
『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

も、何も矛盾はありません。

以前にもいいましたが、論点をずらしても論破され、また論点をずらしても論破され、の繰り返しです。なぜなら、真宗教義の基本中の基本が高森会長には理解できていないからです。

かつての弟子たちに、ここまで遊ばれている布教歴60数年の高森会長は、何なのでしょうか。60数年間、宗教ビジネスしか学んでこなかったようです。

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コメント

管理人様

 大変長文のコメントで失礼します。この記事に引用されている文証についてですが、
>基礎知識として『阿弥陀経』の隠顕は
>
> * 顕説(方便)20願意-自力念仏往生(化土往生)
> * 隠彰(真実)18願意-他力念仏往生(報土往生)

と、あなたは説明しながら、その後に引用した文証を「化土往生する人が沢山いる」と善知識方が教えられた根拠として挙げています。

『教行信証・化土巻』
>これを踏まえて、上記の御言葉を見ると、化土往生にあたる顕説の解説が
 以下、顕説(方便)について解釈された文証と、その後の『法事讃』と『一念多念証文』の文証を関連づけて、まるで顕説(方便)が仏の正意であるかのように説明しています。

 ところが、引用の『教行信証・化土巻』の文証には、
「釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。」と説かれ、
「しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。」
と、十方の諸仏方も七高僧方も、隠彰(真実)の他力念仏を開かれて、末世の人々に勧めて導かれたことを述べておられますが、それを無視しています。

『一念多念証文』
 引用文の直後に、
「「直為弥陀弘誓重」といふは、「直」はただしきなり、如来の直説といふなり。諸仏の世に出でたまふ本意と申すを直説といふなり。」
と仰っていますから、隠彰(真実)の他力念仏の意味で解釈されたことが分かります。だから元の『法事讃』の文証は当然、同じ御意で述べられたものです。

『末灯鈔』12
 これも引用文の直前に、
「また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。」
と仰っていますから、これは顕説(方便)の「二十願の教えの通り」に称える、自力念仏について述べられたことが分かります。

『高僧和讃』源信讃
 この和讃に教えられていることは『教行信証・化土巻』に引証なさっているが、その直後に、
「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。 」
 『観経』の定散の諸機もまた極重の悪人であり、ただ他力の念仏を称える(信心獲得)しかないのだと、勧励なさっている。濁世の道俗よ、化土往生の善ができる者かどうか、自身の能力をよく反省すべきである、と結論づけられています。
 つまり、化土往生の教えは方便であることを、親鸞聖人が顕かになさったことが分かります。

 このように、顕説の義を説かれた文証と、隠彰の義を説かれた文証では意味が全く違うのですが、あなたは引用した文証を全て関連づけ、顕説の意味で説明しています。
 このような説明で、親鸞聖人が顕説(方便)の自力念仏を称えて「化土往生する人が沢山いる」と教えられたと、本気で主張しているのであれば、あなたは教学的な知識は豊富でも、何が真実か、何が方便か、全く分別がついていないということです。

 しかも、あなたはよく「親鸞会は断章取義だ」と批判しますが、そのあなたが相手を批判するのに都合のよい部分だけを「断章」しています。一体どちらが「断章取義」なのでしょうか?

 つまりは、善知識方が顕説で化土往生を説かれたのも、人々をして弥陀の浄土を欣慕せしめ、 隠彰の十八願・他力念仏の世界まで導かんがための方便(手段・手立て)であるということです。

投稿: 名無し | 2010年8月25日 (水) 01時52分

(続きです)

管理人様

 誤解のないように言っておきますが、私は「方便=ウソ」などという、とんでもない意味では、もちろん使っていません。
 だからOさん(「奥越●●●●●集い」の管理人なので、そのイニシャルと理解しています)も、化土往生の教えをウソだとか、机上の空論だとは全く言われていません。仏説だから当然です。それはブログをよく読めば分かることです。

 いくら善知識方が化土往生を説かれていても、「十九願の教えの通り」「二十願の教えの通り」の行ができれば化土往生できるのであり、そういう行ができなければ往生はできないという事です。それは仏説(『観経』『小経』所説の通り)であって、何も親鸞会が勝手に条件を決めた訳ではありません。

 もっとも「十九願・二十願不要論者」のあなたですから、「十九願の教えの通り」「二十願の教えの通り」と言っても、理解できないのかも知れませんが。

 考えてみて下さい。現在この時代に「化土往生する人がいる」ということは、「十九願の教えの通り」「二十願の教えの通り」の行を実行できる人がいることになります(そうでなければ化土往生はあり得ません)。
 ところが『教行信証・化土巻』「真門決釈」に、親鸞聖人は「十九願の教えの通り、二十願の教えの通りの行はできなかった」と告白なさっていますが、この現代に親鸞聖人以上の、十九願・二十願の行人がいるという事でしょうか?(回答を求めているのではありません。)

 もはやあなたの主張は、見る人が見れば教義的に矛盾に満ちたものでしかなく、破綻しているのは明らかです。真実が正しく分からないと、方便も正しく分からず、真実と方便の分別がつかずに混同し、矛盾と混乱をきたしてしまうのです。

>論点をずらしても論破され、また論点をずらしても論破され、の繰り返しです。
 「論点ずらし」と言うけれど、逃げたり誤魔化したりしている訳ではなく、思わず本音を漏らされているように、ただ親鸞会を論破する・勝他の目的の議論であれば不毛の議論でしかないので、議論を打ち切ったり、真摯に真仮を顕かにできるところへ論点を移したりする事もある、だけのことです。

 ただ、それをあなたが「親鸞会理論だ!」と反発して認めず、自説を繰り返し主張しているに過ぎません。はたしてどちらが独自理論なのか、やがて必ず明らかになる時が来ます。

投稿: 名無し | 2010年8月25日 (水) 01時56分

名無し 様

化土往生について、これまで長々と論じてきましたが、誤解される方もあると危惧しておりました。過去のエントリーをよく読んで頂ければ、私の意図がお判り頂けるのではないかと思います。

化土往生は方便であるから、真実報土往生を願求せよ、と親鸞聖人が教えておられる

これを私はこれまで一貫して述べてきました。今でも全く変りません。
ただ、親鸞会は「一切衆生必堕無間」が真実で、化土往生できる人はいない、と言ってきたために、化土往生できる人があることを説明してきたに過ぎません。

もし、お時間があるならば、当ブログを最初から読んで頂きたいと思います。

化土往生については、善知識方のお言葉を素直に受け取るかどうかの問題です。私は20願についてしか、ここでは述べていません。よく読んで頂ければ、御理解頂けるものと思っています。

くどいようですが、私は、化土往生を勧めるつもりは毛頭ありません。実際、化土往生を願っている人に対して、私はそれを誡めてきました。報土往生を願いなさいとしか言ったことはありません。

私は、殆どのエントリーを親鸞会向けに書いておりますので、親鸞会と関係がない方が読まれると誤解や不快に思われるところがあると思います。その点は御了承頂きたく思います。

投稿: 飛雲 | 2010年8月25日 (水) 07時16分

名無しさんの主張は、親鸞会の主張ですよね。M野さんですか?
「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。 」
は、十九願はできないであって、二十願ができないではないですよね。飛雲さんは、そのことを言われているのに、論理のすり替えですよ。

二十願は誰もできないと、親鸞聖人初め、七高僧が仰ったお言葉はありませんよね。
真門決釈については、飛雲さんも言及されてますが、どうしてあれが二十願の行人がいない根拠になるのでしょうか。

飛雲さんの主張を断章取義しているのは、あなたですよ。

もし、あなたの主張の正しさを証明したいのならば、現代において二十願の行人は誰もいない、もしくは化土往生は誰もできないと仰った親鸞聖人のお言葉を示されるべきでしょうね。

はたしてどちらが独自理論なのか、やがて必ず明らかになる時が来ます。

投稿: 元会員 | 2010年8月25日 (水) 08時09分

> このような説明で、親鸞聖人が顕説(方便)の自力念仏を称えて「化土往生する人が沢山いる」と教えられたと、本気で主張しているのであれば、あなたは教学的な知識は豊富でも、何が真実か、何が方便か、全く分別がついていないということです。

あなたも、もちろん親鸞会も真実と方便が全くわかっていませんね。
源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人も
「化土往生する人が沢山いる」
と仰っているのですから、あなたの曲がった”真実”と”方便”の理解では、善知識方のお言葉は無視するしかありませんね。


> つまりは、善知識方が顕説で化土往生を説かれたのも、人々をして弥陀の浄土を欣慕せしめ、 隠彰の十八願・他力念仏の世界まで導かんがための方便(手段・手立て)であるということです。

珍しき教えを主張するのは結構ですが、その根拠を出せないところが、親鸞会的ですね。

飛雲さんは、根拠を出して、明確に解説されています。顕説と隠彰についても、十分に踏まえられた上で、顕説のところで親鸞聖人が引用されたことをそのまま書かれたに過ぎません。しかし、あなたは、顕説の話に隠彰を持ち込んでいるのですから、あなたの理解のお粗末さを恥じるべきでしょうね。

何度も何度も飛雲さんに破邪されて悔しいのはわかりますが、下らないコメントを書いて恥の上塗りをすることはないでしょう、M野さん。

投稿: 元会員 | 2010年8月25日 (水) 08時27分

管理人さんは、以下のようにしっかりと断って説明されています。

>親鸞聖人が顕説のところで敢て引かれている「三念・五念まで仏来迎したまう」の意味は、

親鸞聖人が【敢て】「三念・五念まで仏来迎したまう」を顕説のところで引用されていると言われているのに、頓珍漢なことをいうものではないですよ。

M野さんの考えでは、

「三念・五念まで仏来迎したまう」

は、七万遍、八万遍の念仏と解釈するのでしょうか。もう少しまともなことを言われるべきですよ。

机上の空論と管理人さんが言われているのも、実際に化土往生できる人がいないと親鸞会が主張しているから、机上の空論と表現されているのが解らないのでしょうかね。

まず日本語の勉強をしてからコメントしましょう。

投稿: M野さんへ | 2010年8月25日 (水) 12時58分

飛雲氏は19願と20願を区別して論じている。
ところが親鸞会やM野氏?は、19願と20願を一緒にしている。

浄土往生には、報土往生と化土往生とがあることが親鸞会とM野氏?には理解できていない。19願にしても20願にしても化土往生と思って実践しているのではなく、報土往生と勘違いしている人ばかりだから、19願、20願では方便の浄土(化土)にしか往生できないと親鸞聖人は教えられている。要門結勧の文は、報土往生できるような善ができないことを知れ、であって、化土往生できないという意味ではない。

親鸞会もM野氏?も真実と方便はもちろんだが、読解力に相当の問題がある。教学の前に、読解力を身につける訓練をすべきであろう。

投稿: カルト教義反対 | 2010年8月25日 (水) 22時51分

元会員様

 多分、根拠を求められるだろうと思っていましたが、あまりに長文になるので省略した次第です。ちなみに「M野さん」とは誰のことか知りませんが、私はM野さんではありません。元会員ですが今も親鸞会の支持者です(こういう人間もいることを知ってください)。

>現代において二十願の行人は誰もいない、もしくは化土往生は誰もできないと仰った親鸞聖人のお言葉を示されるべきでしょうね。
『教行信証・化土巻』「真門決釈」に、
「悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。」
 煩悩の垢障にまみれた愚鈍の凡夫は、無始よりこの方まで、二十願の教えの通りの行を修めようとしても、雑修の心や定散の自力心が離れきらないために、六道から出離する時期はなかった、何と悲しきことであろうか、ということを仰っています。
 もし化土往生している人が沢山いるのなら、六道を出離している人が沢山いることになるから「出離その期なし」とは仰いません。
 もしこのお言葉を「それは親鸞聖人の時代までのことだ、現代はそんなことはない」と受け取る人がいれば、「浄土真宗は真実ではない」と考えているに等しいという事です。

>> つまりは、善知識方が顕説で化土往生を説かれたのも、人々をして弥陀の浄土を欣慕せしめ、 隠彰の十八願・他力念仏の世界まで導かんがための方便(手段・手立て)であるということです。
「顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。
 彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。」

「顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。
 これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。」

 すでに管理人さんが引用されている文証なので、意味はよく理解されていると思っていましたが、そうではなかったようですね。

 要門の顕義は「如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。」
 真門の顕義は「これすなはち真門のなかの方便なり。」
と解釈なさっています。だから阿弥陀仏の本心は「人々を諸善や自力の念仏の方便の行で救う」ことではないのは明らかです。

投稿: 名無し | 2010年8月31日 (火) 01時19分

M野さんへ様

 私の説明したことを、ご理解頂けなかったようですが、私は管理人さんが引用した文証で「化土往生する人が沢山いる」と主張するのは無理がある、ということを述べたのです。
 管理人さんは「顕説は方便である」と言いながら、その「方便の教えで救う」のが阿弥陀仏の本心であるかのような、説明をしていることに異議を唱えたのです。
 阿弥陀仏の本心(目的)は、あくまでも「十八願(真実)で救う」ことであり、十九願・二十願はそこまで導くための方便(手段)なのです。根拠は上記の元会員さんのレスに挙げたとおりです。
 だから「方便の教えで救う」のが、阿弥陀仏の本心ではないことが本当に分かれば、管理人さんの挙げた文証が「化土往生する人が沢山いる」根拠とはなり得ないことも分かると思います。

投稿: 名無し | 2010年8月31日 (火) 01時21分

カルト教義反対様

>要門結勧の文は、報土往生できるような善ができないことを知れ、であって、
 よく仰って頂きました。それが知らされれば、化土往生できるような善ができるのかどうかも、ご理解頂けるはずです。
 要門には「『観経』の三心」、真門には「自利の一心」を起こして行じよとの仰せあり、決して虚仮不実の心のままでよいとは仰っていません。
 実際にやってみれば、そのような心で行ずる事ができるのか、自身が本当に報土往生や化土往生ができるような者なのか、どうかが、はっきりと知らされます(親鸞聖人は「真門決釈」に、はっきりと知らされたと仰っています)。
 十九願と二十願は決して区別したり、分断したりして論じることはできません。それは『教行信証・化土巻(本)』をよく拝読すれば分かることです。そもそも三願を個別のものと見なしているところに、根本的な誤解があるのです。

投稿: 名無し | 2010年8月31日 (火) 01時24分

名無しさんへ

貴方は、このブログをまともに読んでいない
御本典も理解できないで、くだらないことをよくも書いているだけ。

「報土往生できるような善ができない」
=「化土往生ができない」

という論理が最初から破綻している。
三願は生因三願といわれ、独立したもの。御本典や三経往生文類を読んだことがないから理解できないのだろう。管理人さんも「真仮廃立と従仮入真」「親鸞聖人の19願観」で説明されている通り。

なお、「真門決釈」は管理人さんが

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

は、「本願の嘉号をもつておのれが善根」としている「大小聖人、一切善人」は、流転するとは書かれていません。「報土に入ることなきなり」ですから、化土往生ということを仰っているのです。これが化土往生は誰もできない根拠だと解釈するのですから、救いようがありません。

とすでに書かれている。断章取義して、「本願の嘉号をもつておのれが善根」としていない人が流転輪廻していることをいっても、的外れ。

M野氏は、日本語から勉強したまえ。

投稿: カルト教義反対 | 2010年8月31日 (火) 06時22分

M野さんは、本当に日本語が理解できないのですね。
管理人さんの説明のどこがわからないのかわかりません。

方便の行信によって方便の利益、真実の行信によって真実の利益を与えて頂ける。

どこがわからないのでしょうか。方便であっても、嘘ではありませんから、それなりの利益を獲られるのは、因果の道理からいっても当たり前ではないですか。

それとも、外道の者と方便の行信の者と、同じ結果になると思っているのですか?

因果の道理を信じていない外道のM野さんには、難しい話でしょうか。

まず日本語の勉強をしましょう。

投稿: M野さんへ | 2010年8月31日 (火) 12時09分

>だから阿弥陀仏の本心は「人々を諸善や自力の念仏の方便の行で救う」ことではないのは明らかです。


何を今更自信満々に書いているのかね。
こんなことを誰が言ったのか。知能が足りないんじゃないですか。

それと私の質問、

>M野さんの考えでは、
>
>「三念・五念まで仏来迎したまう」
>
>は、七万遍、八万遍の念仏と解釈するのでしょうか。

これに答えていませんが、誤魔化しですか、M野さん。

投稿: 元会員 | 2010年8月31日 (火) 12時44分

カルト教義反対様
M野さんへ様
元会員様

 前のコメントでも言ったように、私は「M野さん」でも「M野氏」でもありません。何を証拠にそのように断言されるのでしょうか?

 「M野さん」ではないと言ったにも拘らず、一方的に決め付けるような方々の質問に答える必要はないと考えます(ただし、答えられずに誤魔化している訳ではありません)。

 それから、自分の意にそわないコメントに対して、罵詈雑言を浴びせるような人とも係わるつもりはありませんから、予め言っておきます。

投稿: 名無し | 2010年9月 1日 (水) 22時25分

答えられないなら、こなくて結構です。
早々と終了ですね、M野さん。

投稿: 元会員 | 2010年9月 2日 (木) 02時49分

やっぱり、M野か。
あんなデタラメを言っていたら矛盾だらけで、答えられないわね。

夢幻ブログも酷いね。自分でもおかしいことがわかって書いているんだろうけど、保身のために御苦労なことだ。

二度とコメントを書込まなくていいから。

投稿: カルト教義反対 | 2010年9月 2日 (木) 18時00分

M野さんではないと言っている名無し 様

管理人さんも新しいエントリーで書かれていたことも踏まえて

真実の行信(他力念仏)⇒真実の利益(報土往生)
方便の行信(自力念仏)⇒方便の利益(化土往生)
念仏誹謗⇒必堕無間

ということですよね。
どこに矛盾があるのでしょうか。
善知識方が口を揃えて仰っている通り、

一般の人は五逆罪・謗法罪を犯していないので、六道輪廻。
新聞に載るような五逆罪を犯した人と謗法罪を犯している人は、必堕無間。

今生で造っている因が違えば、次生の果も違いますよね。
もちろん、方便の行信は人それぞれ違いますから、化土往生もそれぞれ異なるのですよね。

当たり前のことではないですか。

必堕無間で一味という考えのおかしさは、因果の道理がわかっていないからです。会長に進言されては如何ですか、M野さんではないと言っている名無しさん。

投稿: M野さんへ | 2010年9月 2日 (木) 21時20分

 諸事情でしばらくコメントできませんでしたが、これからは誰々宛てと限定せず投稿させてもらいます。8月26日の記事のコメントのように、飛雲さん宛てに投稿しても、飛雲さんからレスポンスがないこともありますから。

 なお、私は「M野さん」でも「ちび丸さん」でもなく、ただの元会員であることを重ねて言っておきます。またしても長文のコメントで失礼します。

>基礎知識として『阿弥陀経』の隠顕は

> * 顕説(方便)20願意-自力念仏往生(化土往生)
> * 隠彰(真実)18願意-他力念仏往生(報土往生)

 以前の説明では、誤解を与える説明になってしまったかも知れませんが、私は飛雲さんの上記の解釈に異議を唱えたのです。

 釈尊は『小経』の正宗分に、
「名号を執持すること(若しは一日乃至若しは七日)、一心にして乱れざれ」
と説かれていますが、これを親鸞聖人は「善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。」(小経隠顕釈)と解釈なさっています。
 ところが『小経』にはその教説の後に、
「この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。 (中略) もし衆生ありてこの説を聞かんものは、まさに発願してかの国土に生ずべし。」
と説かれています。「阿弥陀仏の極楽国土」とは、経の冒頭から極楽の依正二報が説かれていますが、それは報土であることは明らかです。そして「まさに発願してかの国土に生ずべし」とは、まさに発願回向心を生じて報土往生すべしということで、これは他力念仏往生のことです。
 つまり顕説には、自力念仏往生と他力念仏往生の、両方が説かれていることが分かります。

 それで親鸞聖人は顕説の解釈で、
「『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」といへり。」
と引証なさっているのは、
 要門の散善諸機に対して、自力諸善と対比して他力念仏は「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説かれたのであり、「自力の心をひるがえして不退の証を得よ」と勧められたのであり、自力の心をひるがえして他力の念仏を称えれば「三念・五念まで仏来迎したまう」と仰ったのです。他力の念仏だからこそ、『一念多念証文』には「念仏の遍数によらざることをあらはすなり。」と釈されています。
 決して「三回か五回或いは十回の自力念仏で、仏様は来迎してくださる」という意味ではありません。それ位の回数の自力念仏で化土往生を願っている人は、十九願・要門の自力念仏を称えている人です。『観経』には下輩に称名念仏を勧められていますが、これは「自力の称名念仏を説きて」(三経往生文類)と仰るように、顕説では自力の念仏と解釈されています。
 釈尊はすでに『小経』の顕説で、そういう散善諸機に対して、はやく真門に入って一心の他力念仏を称える境地に帰せよと、示唆しておられると解釈なさったのです。

 ところが信前の者は、どれだけ一心不乱に称えようと努めても、助正間雑する心や定散の自力心が離れきれず、称え心(機)に欠点があるため機法ともに他力の念仏とはならず、定散自力の念仏しか称えることができない。これが真門の自力念仏です。
 そのことを親鸞聖人は「真門釈」に、
「真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。」と述べられています。
 そんなことは釈尊はとうにお見通しで、「自利の一心を励まして難思の往生を勧」められたのは、「これすなはち真門のなかの方便なり。」(小経隠顕釈)と仰っているように、如来の方便(手段)であると解釈なさっています。

 『小経』の顕説の義が「方便(手段)」であれば、当然果たされる「目的」があります。目的なくして手段というものはあり得ません。その目的とは釈尊の出世の本懐であり、それが隠彰の義です。それについても「小経隠顕釈」に、
「彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。」
と述べられているように「真実難信の法を彰す」こと、すなわち弥陀の本願海を光闡し、無碍の大信心海に帰入せしめる、ことにあると解釈なさっています。さらにその後に、
「しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。」
と、釈尊をはじめとする十方諸仏の正意(目的)は、ただこのこと一つであるとご教示になっています。
 つまり親鸞聖人は、顕説には自力念仏往生と他力念仏往生が説かれているが、その正意は凡夫に他力念仏往生の正因である、他力真実の信心を獲させることにあると、仏意を顕かになさったのが隠彰の義です。

 以上で、飛雲さんが顕説の解釈の説明として挙げた『法事讃』と『一念多念証文』の文証は、自力念仏往生ではなく、他力念仏往生の根拠であることがお分かり頂けると思います。飛雲さんは顕説の義と隠彰の義を分断し、別ものとして考えている、つまり方便と真実の関係を正しく理解していないために、この記事のような解釈が出てくるのです。

投稿: 名無し | 2010年10月 3日 (日) 10時40分

M野さんではないと言っている名無し 様

しつこい人ですね。
あなたのおもしろい主張に対して、私も他の方も異義を唱えている訳です。いくつも質問もしましたが、それらには答えずに独自の解釈をし続けて、何が楽しいのでしょうか。

管理人さんも、同意見でしょうからあなたのことを相手にしていないのです。

忘れた頃に何やら書いてくるところが、いかにもM野さんらしいですね。

投稿: M野さんへ | 2010年10月 3日 (日) 11時11分

真宗の常識を勉強しましょう

教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社より


浄土真宗で、『観経』と『小経』の説相を解釈するのに用いる名目で略して隠顕といい、顕を顕説、隠を隠彰ともいう。

顕説とは顕著に説かれている教義で、『観経』では定散諸行往生すなわち要門の教義であり、『小経』では自力念仏往生すなわち真門の教義である。隠彰とは隠微にあらわされている真実義で、両経ともに他力念仏往生の法すなわち弘願(ぐがん)法である。

投稿: M野さんへ | 2010年10月 3日 (日) 11時24分

浄土真宗やっとかめ通信より

生因三願 (衆生が浄土に往生する因として)

 生因とは衆生が浄土に生れさせてもらう因(たね或いはもと)をいい、その願いかたによって生因は、

・他力念仏往生
・自力念仏往生
・自力諸行往生
の三種類ある事を示し、また、その浄土にも真実の浄土(報土)、方便としての浄土(化土)があることを教行信証 真仏土、化身土の二巻にあきらかにされている。

 浄土三部経と生因三願の関係は次のとおりとされています。

大経
 第十八願意 他力念仏往生  (真実)
観経
 顕説第十九願意 自力諸行往生  (方便)
 隠彰第十八願意 他力念仏往生  (真実)
小経
 顕説 第二十願意 自力念仏往生  (方便)
 隠彰 第十八願意 他力念仏往生  (真実)

投稿: M野さんへ | 2010年10月 3日 (日) 11時28分

M野は、あいかわらず筋が悪いね。

隠顕釈の

これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。

が理解できないのだろうし、真門釈を読んだことがないのだろうね。
真門釈に

またいはく、「種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるは無し。上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」と。

と引文なされているよね。
真門釈ということは、20願。20願ということは、自力念仏。
細かくいえば、

ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す

の部分は、顕説から除かれていることから、ここが他力念仏を表わしているということ。
つまりは自力念仏の部分と他力念仏の部分を区別なされて、自力念仏から他力念仏へ入るように勧められたお言葉と解釈されている。

理解力に問題があるだろうから、再度いうと、

種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるは無し。上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。

のところを真門自力念仏と親鸞聖人は見做されているということ。

断章取義を繰り返していると、そのトリックが暴かれた時に恥をかく。
お解りかな?

ちなみに、『末灯鈔』『三経往生文類』の自力念仏化土往生のところでも、念仏の数を問題にされてはいない。もちろん、誡疑讃でもそう。

不勉強極まりないぞ。

投稿: カルト教義反対 | 2010年10月 3日 (日) 14時59分

M野さんへ

どうしようもない知能の持ち主ですね。
管理人さんが、あなたのためにあれ程詳しくエントリーで解説をされているのに、レスポンスがないとか、よくいいますよね。
私も他の方も、皆あなたのために説明をしているのですが、なにが分からないのか分かりませんね。
珍説にもならない妄想を語られてもね。

国語力に大きな問題がありますので、義務教育からやり直されることをおすすめします。

投稿: 元会員 | 2010年10月 3日 (日) 19時10分

名無し 様

せっかく長文を書かれましたが……。
他の方が指摘されている通りで、エントリーでもくどいほど解説したつもりで、ある読者から苦情が出た程です。
それでも御理解いただけないようで、極めて残念です。

一言だけ、カルト教義反対さんも出された通り

これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。

これをよく読んでください。

投稿: 飛雲 | 2010年10月 3日 (日) 20時29分

名無し さんへ

飛雲さんが書かれていましたが、これをよく読んでおきなさい。
アホな解釈をして喜んでいることを少しは恥じたらどうですか。


『教行信証』化土巻

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。
これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。
釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
 その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは隠彰の義をあらわすものである。『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」と説かれている。「執」という言葉は、心がしっかりと定まって他に映らないことを顕している。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた教典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。


『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願(第二十願)によって「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。ところが、自力で修める行にとらわれている人は、阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、如来の名号を自分の善根とし、その功徳を自ら回向して、必ず浄土往生を果たしとげると誓われた願に頼るのである。本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、たたえ尽すことも、説き尽すことも、思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。それは深く思い罪であり、浄土に生れて七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、五百年の間、自由に振舞うことができず、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、お仕えすることもできないと如来は説いておられる。それでも、如来の名号を称えるから、胎宮というわれる方便の浄土にはとどまるのである。あらゆる功徳をそなえた名号によるから「難思往生」というのである。不可思議の本願を疑う罪によって「難思議往生」とはいわないと知らなければならない。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年10月 4日 (月) 07時02分

読解力があれば、

「この『経』の顕の義」
=「真門のなかの方便」
=「多善根・多功徳・多福徳因縁」(阿弥陀経)
=「九品ともに回して不退を得よ」(法事讃)
=「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(法事讃)

「彰」
=「真実難信の法」
=「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」(法事讃)
=「執持」(阿弥陀経)
=「一心」(阿弥陀経)

ということ位は理解できるのではないですかね。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年10月 4日 (月) 07時15分

つまり、
阿弥陀経の隠顕を化土巻では、

顕説 第二十願意 自力念仏往生(方便)

「多善根・多功徳・多福徳因縁」(阿弥陀経)
「九品ともに回して不退を得よ」(法事讃)
「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(法事讃)


隠彰 第十八願意 他力念仏往生(真実)

「執持」(阿弥陀経)
「一心」(阿弥陀経)
「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」(法事讃)

と仰っているということですね。飛雲さんの主張が正しいことは明らかです。

こんなにはっきり書かれてあるのにね、屁理屈ばかり並べても虚しいだけですよ。

投稿: 不良学徒 | 2010年10月 4日 (月) 14時28分

 皆様、ご意見ありがとうございました。
 未だに「M野さん」と決めつけている方もおられますが、私はM野さんではないので、この件についてはこれ以上コメントしません。私が前回に投稿した日時を(今回も)見て頂けば分かると思いますが、現役学徒でそういう時間に投稿する人は、まずいないでしょう。
 
 ただ、この機会に言っておきたい事があります。飛雲さん・その支持者の方は、本願寺派系刊行物の「現代語訳」なるものをよく引用されます。そしてそれを読んで経典・聖教の意味を正しく理解したおつもりのようです。

 以前に、親鸞会元講師のK氏が「●●問答」というブログで、
「私は親鸞会で教えていることを、全てが間違いだとは思わないが、全てが正しいとも思わない。」
という趣旨の発言をしていました。言われてみれば、そうかもしれないと思います。しかしそれは同じく、本願寺派の解釈についても言える事ではないでしょうか?

 つまり本願寺派の解釈・現代語訳が、必ずしも全て正しいという保証はないという事です。だから、それに異なる解釈を見て「日本語の理解力」「知能」云々などの、罵詈雑言を浴びせるのは如何なものしょうか。

 このブログは「正しい親鸞聖人の教えをお伝えする」ための場であって、対立する相手を罵倒する場ではないはずです。

投稿: 名無し | 2010年10月10日 (日) 14時35分

名無し 様

ご意見、有難うございます。
仰ることはよく判りますが、本願寺の解釈が必ず正しいとは決して思っておりませんので、誤解されませぬようにお願いいたします。

ここの部分に関しまして、本願寺の解釈が間違っているとは私は思えませんので、私個人の意見ではなく、一般的な解釈であることを示すために引用したのです。

解釈に疑問のあるところは、あえて引用しないようにしてきました。

仰る通り「正しい親鸞聖人の教えをお伝えする場」を目指したいと思います。

投稿: 飛雲 | 2010年10月10日 (日) 16時54分

>私が前回に投稿した日時を(今回も)見て頂けば分かると思いますが、現役学徒でそういう時間に投稿する人は、まずいないでしょう。

M野は以前に2ちゃんで同じことをよく言ってたね。
原稿を事前に書いておいて、誰かにコメントさせるとか方法はいくつもある。

ところで本願寺の間違いを正せるだけの自信のある解釈なら、現代語訳もしてほしい。

投稿: カルト教義反対 | 2010年10月10日 (日) 18時26分

あのー、本願寺の解釈は実によく筋が通っています。同様に、管理人さんの解釈には何も違和感も矛盾もありません。
一方で、名無しさんは、超論理です。筋が通っていると思っているのは、あなたと親鸞会だけでは?
親鸞聖人は、同じ文章を顕説で引用されたり、隠彰で引用されたりと二面的に使われることがありますが、名無しさんはそのことを御存知ないのでしょう。
化土巻を常識のある人が読めば、本願寺と管理人さんの解釈が正しいと思うでしょう。

投稿: どんちゃん | 2010年10月10日 (日) 20時44分

M野さんではないと否定される名無しさんへ

常識的な本願寺の解釈を否定するならば、それ相応の根拠と理論が必要です。
しかし、あなたの場合は断章取義に陥っています。それを言っているのですが、理解できないようです。

投稿: M野さんへ | 2010年10月11日 (月) 12時24分

>M野は以前に2ちゃんで同じことをよく言ってたね。
>原稿を事前に書いておいて、誰かにコメントさせるとか方法はいくつもある。

 未だに、上記のようなことを言われる疑り深い方がおられますが、私はそういう
ことは全く知りませんでした。だからこそ、
>>私が前回に投稿した日時を(今回も)見て頂けば分かると思いますが、現役学徒
でそういう時間に投稿する人は、まずいないでしょう。
と言ったのです。

 もし同一人物なら、このようにネットを常に注視している人がいて、ばれてしま
うので、同じことを何回も言わないでしょう。ここまで言っても、信じられないの
かも知れませんが。

投稿: 名無し | 2010年10月17日 (日) 15時26分

M野さんではない名無しさんへ

くだらないことにいつまでもこだわりますが、肝心なことには答えないのですね。
荒らしが目的ですか?

投稿: M野さんへ | 2010年10月17日 (日) 17時28分

皆様へ

当ブログは、教義について論じているものであります。従いまして、教義と関係のないことをコメントされた場合は、削除いたします。

なお、質問されてもそれを無視し続けて、論点をずらしたり、関係のないことを書込むのは親鸞会のやり方です。そのような人は疑われても仕方がないと思います。

もし、同様のことをされる方があれば、ニフティにスパムコメントとして報告の上、削除しますので、あらかじめ御了承下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年10月17日 (日) 19時13分

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