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2010年8月16日 (月)

異安心の者による邪義、秘密の法門が親鸞会教義

O講師のブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」は、O講師の手を離れて、高森会長直々の”御指導”により教学課が書いているようです。mixiもそうでした。

しかし、自信満々に書いても、簡単に論破され、反論できずに論点をずらし、そこでも論破され、反論できず論点をずらすの繰り返しです。教学もやり方も、実に幼いです。

毎度毎度のことで、驚くことでもありませんが、教学も人格もこんな低レベルの人物を長年信じてきたのかと思うと、自分が恥ずかしいです。

高森会長が反論できずに逃げた主な内容は、

・釈尊が韋提希に善を勧められていないと善知識方が仰っている
・極重の悪人には、権仮方便(聖道門・19願・20願)は不要である
・高森会長の説く二種深信が善導大師・親鸞聖人とは大きく異なっている
・後生の一大事の意味が違っている
・化土往生の人が多いと源信僧都・親鸞聖人・蓮如上人が仰っている
・極重の悪人でも、易く行じられるのが称名念仏である

です。特に二種深信については、信心そのものですので、「Kさん」や私の言っていることに反論できなければ、高森会長は異安心決定ですよ、と念を押したにも関わらず、その後のブログでは無視です。

以下のようなことを上から目線で言っていましたが、

残念なことに善導大師、親鸞聖人の
「機の深信」のお言葉でさえ、
この程度の意味でしか
理解していないのだから、
後はおって知るべしであろう。

機の深信の真実の相が
間違っていて、
その世界に救われることが
できるのか。

徹底した二種深信がない為に、
称える念仏を己れの善根として、
これだけとなえているから
大丈夫という心が去らないから
他力真実の信心が
獲得出来ないのだ。

それならば、

「私は異安心です」

と高森会長が認めたということです。そして、善知識方の御言葉をそのまま解釈せずに、文底の意味を高森会長の”安心”に基づいて汲み取ったものは、完璧な邪義であるということです。

異安心の高森会長による文底秘沈の教えが、親鸞聖人の正しい教えであることは、あり得ません。

『唯信鈔文意』『一念多念証文』の最後には以下のことを仰っています。

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、仏教の言葉の意味もわからず、教えについてもまったく無知なのである。だから、そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、同じことを何度も繰り返し繰り返し書きつけたのである。ものの道理をわきまえている人は、おかしく思うだろうし、あざけり笑うこともあるだろう。しかし、そのように世間の人からそしられることも気にかけず、ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、書き記したのである。

無学の人でも理解できるようにと書かれた御著書を、書かれてある文面とは全く別の意味で教えている「あさましき愚痴きはまりなき」高森会長は、高森教を開いたのでしょう。
『なぜ生きる』『歎異抄をひらく』という秘密の法門を根本聖典として。

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