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2010年8月 3日 (火)

一心かけぬれば生れずといふなり

善導大師は『散善義』深信釈の中で、

次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。

何者かこれなるや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。またこの正のなかにつきてまた二種あり。

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。

(現代語訳)

つぎに、〈行について信を立てる〉というのは、ところで、行に二種ある。一つには正行、二つには雑行である。正行とは、専ら往生経に説かれてある弥陀行によって行ずることをいうのである。

何がこれであるかというと、一心に専らこの《観経》《弥陀経》《無量寿経》などを読誦すること。一心に専らかの浄土や仏および聖衆たちを心にかけ、よく観察し、つねに念うこと。もし礼拝するならば、すなわち一心に専ら阿弥陀仏を礼拝する。もし口に称えるならば、すなわち一心に専ら弥陀の名号を称える。もし讃嘆供養するならば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを正行と名づけるのである。

また、この正行の中について、また二種ある。一つには、一心に弥陀の名号を称え、行住坐臥に時間の長短をいわず相続してすてないのを正定の業という。かの阿弥陀仏の本願に順うからである。

もし礼拝や読誦などによれば、これを助業という。この正助の二行を除いてほかのいろいろな善根は、ことごとく雑行と名づける。もし前の正助二行を修めるのは、心がいつも阿弥陀仏に親近し、憶念して断えないから、名づけて無間とする。もし後の雑行を行ずるのは、心がつねに間断するから、これを浄土の因たねに回向して往生を得るといっても、すべて粗雑の行というのである。

これは以前に
異安心は誰か?
で書いた七深信の最後です。

ここで言われていることは、『観無量寿経』に説かれてある往生行は、正行と雑行の二つに分類されるということです。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。

正行(正定業と助業)以外の諸善は、悉く雑行なのです。『観無量寿経』に説かれている定散二善は、もちろん雑行です。

『観無量寿経』の定散二善を勧める親鸞会は、間違いなく雑行を勧めているのです。親鸞会は、善は勧めているが、雑行は勧めていない、と寝恍けたことを言っていますが、雑行の意味を知らないだけです。詭弁とか言う前の単なる無知です。

さて、

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

この一文を法然上人が読まれて、本願に帰されたことは衆知のことですが、それほど重要であり、有名な七深信の最後を否定している高森会長は、深信の一心が欠けているのです。善導大師、法然上人、親鸞聖人とは明らかに異なる安心です。

では、深信の一心が欠けているとどうなるかについては、度々紹介しています『唯信鈔文意』の

一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。
(中略)
三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。

(現代語訳)

一心が欠けたなら浄土に生れることはできないというのである。一心が欠けるというのは、『無量寿経』の本願に誓われている真実の信心が欠けるということである。
(中略)
信心が欠けているので、そのままでは真実の浄土に生れることはできないというのである。さまざまな行を修めて浄土に往生しようとする自力のものは、他力の信心が欠けている。そのため、生れ変り死に変りしてはかり知れない時を経て、他力の一心を得た後に真実の浄土に生れることができる。だから、そのままでは生れることはできないというのである。たとえ胎宮や辺地などといわれる方便の浄土に生れたとしても、五百年もの時を経なければならず、また億千万の人々の中で、真実の浄土に進むのはまれに一人いるかどうかであると示されている。

この通りです。
だから、曠劫多生の目的であり、30年40年聞いたくらいでわかるものではない、という高森会長の話は珍しく辻褄が合います。
ただし、高森会長の話は、親鸞聖人の教え勧められたことではありません。

正行を勧める=平生業成=諸仏、善知識方の教え
雑行を勧める=多生業成=高森会長の教え

何か異議がありますか?

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コメント

>正行を勧める=平生業成=諸仏、善知識方の教え
>雑行を勧める=多生業成=高森会長の教え
>何か異議がありますか?
全く賛成です。

投稿: Rudel | 2010年8月 4日 (水) 10時11分

Rudel様

同意、有難うございます。

投稿: 飛雲 | 2010年8月 4日 (水) 20時24分

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