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2010年8月11日 (水)

肝心な根拠が一切出せず、親鸞会理論の押しつけだけ

O講師は相変わらずです。親鸞会の法論の汚い手口はいつも同じです。コメントを公開せずに、相手の主張をねじ曲げて、関係ない根拠を出してきては、珍しき理論を長々と書いています。

こうへい氏と同じで肝心な根拠1つ示せないのです。なぜなら、そんな根拠はないからです。ないから、珍しき理論しか書けないのです。ですから、親鸞会は真宗でもなければ浄土仏教でもないのです。

「Kさん」が、昨夜コメントした内容です。

善知識方が化土往生は誰もできない、と教えられた根拠は示せないから、いつもの屁理屈を並べています。

親鸞会で教えられてきた邪義が邪義と理解できないから、自己矛盾も分からないのです。
Oさんが出してきた根拠にだけ答えておきましょう。

>「『自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、
>  昿劫より已来常に没し常に流転して、
>  出離の縁有る事無し』
> と、深信す。」
>   (機の深信)

自分の力では出離することができない、ということです。

>「一切凡小一切時の中に、
> 貪愛の心常に能く善心を汚し、
> 瞋憎の心常に能く法財を焼く。
> 急作・急修して頭燃を灸うが
> 如くすれども、
> 衆て「雑毒・雑修の善」と名け、
> また「虚仮・諂偽の行」と名く。
> 「真実の業」と名けざるなり。
> この虚仮・雑毒の善を以て、
> 無量光明土に生ぜんと欲す、
> これ必ず不可なり」
> (教行信証信巻)

虚仮・雑毒の善しかできないから、報土には往生できない、ということです。

どこに矛盾があるのでしょうか?
諸善と念仏とをあえて混同させているところが、親鸞会らしい汚い論法です。

親鸞会理論に付きあっても仕方がありませんので、根拠で話をさせて頂きます。

先日挙げた『往生要集』信毀因縁を前の問答も併せて再度出しておきます。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。

『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。

まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。しかも諸師の所釈、繁く出すことあたはず。

『往生要集』報化得失

雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。ゆゑに経に別に説けり。実には相違せず。

これを『教行信証』化土巻に親鸞聖人は引いておられます。

また『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

『末灯鈔』2

「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。
(中略)
仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。

『末灯鈔』12

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

『正信偈大意』

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。

これらがすべて机上の空論であると否定される訳です。だから念仏誹謗と言っているのがどうしても理解できないようですね。

一方で、三願転入に関する根拠は、1箇所しかないのにこれこそが親鸞聖人の教えの根基と大沼法竜氏の言葉を盗用しています。参考までに大沼氏は親鸞会で主張している意味で、三願転入の説明をしたのではありません。

三願転入の意味については、何度も書いたのに理解できないのでしょうか?
分かりやすく言えば、絶対他力の18願での往生を願っている人(これを宿善の機と蓮如上人は仰った)に対しては、19願から始めなければならないという親鸞会の主張は、邪義だといっているのです。しかし、18願での往生をとても信じられず、善をしなければならないと自力に執心している人(これを無宿善の機と蓮如上人は仰った)に対しては、18願を信じようとしないのですから、権仮方便をもって、19願、20願を説かれるのです。

この違いが理解できないのが、Oさんのお目出たい思考なのです。

親鸞会理論は結構ですので質問に答えて下さい。

早く、善知識方は
誰一人化土往生できないと
仰っておられるのか。
おられないのか、
お答えください

親鸞会理論はどこまでいっても、根拠のない、あるいは根拠を歪曲捏造した親鸞会独自の理論です。まともな根拠を挙げることすらできません。

それにしても極重の悪人には念仏を称えることもできないとは、謗法罪も甚だしいことです。善のできない極重の悪人に対して念仏を用意された阿弥陀仏を蔑ろにする許し難い発言です。そんなことがどこに書いてあるのか、と質問することさえも憚られる程の冒涜発言でしょう。聖教を読んだことがないことだけは確かです。

『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

これはO講師のことでしょう。念仏の功徳を信じないで謗っているO講師は、まさに地獄に堕ちて苦しみを受け続けるのです。哀れですね。

五逆罪・謗法罪を全人類は犯していると未だに言いたいようですが、それも根拠を出さずに、ただ呟くのでは、単に負け犬の遠ぼえです。

自分が五逆・謗法を平気で造っているから、お前らも同じだという親鸞会の傲慢さに、皆呆れ果てています。

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コメント

「本願毀滅のともがらは 生盲闡提となづけたり 大地微塵劫をへて ながく三塗にしづむなり」(高僧和讃)
「菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きはもなし」(正像末和讃)
宗祖聖人の嘆きが聞こえてくるようです。

法然聖人は「聖道門の修行は智慧をきはめて生死をはなれ、浄土門の修行は愚痴にかへりて極楽に生まる」と仰せられたそうですが、
O講師の姿はさしずめ「聖道門の修行は智慧をきはめて生死をはなれ、S会の修行は狂人と化して無間の火城に沈む」とでも言うべき姿です。

投稿: がすしつがかり | 2010年8月11日 (水) 12時11分

親鸞会の講師はどう考えても無宿善の機のようですから、19願から始めてもらったらどうですかね?
ウソつき勧誘、布施の強要、御殿の建設……。悪の限りを尽くすのやめて、人並みに善でも励んだらどうですか。
そうすれば今ほどは批判されませんよ。

投稿: てつ | 2010年8月12日 (木) 08時44分

がすしつがかり 様
てつ 様

仰る通りですね。聖道門もどきですから、せめて人並みの善をしてもらいたいものです。

投稿: 飛雲 | 2010年8月16日 (月) 19時35分

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