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2010年8月10日 (火)

「一切衆生必堕無間」を正当化するために、善知識方のお言葉を否定するO講師

O講師は、読解力に問題があるのか、思考に問題があるのか、これまで「Kさん」のコメントがまるで理解できていません。

七高僧、三聖人など善知識方は
方便である十九願、二十願の教えは
一切、説いていないと
非難攻撃してきたではないか。

一切説いていないと誰が主張したのでしょうか?
善知識方は、18願しか勧められていないといったのが理解できないのか、相手の主張をすり替えたいだけなのか。権仮方便として説かれていると親鸞聖人は仰っていると何度も書いているのに、どういう理解をしているのでしょうか?

いずれにしても、お粗末です。善のできる方々もある中で、善のできない我々凡夫もいるのです。
もう一度

『観経』も『観経疏』も読んだことが無いのに、知ったか振り

を読んで下さい。

19願の定散二善は聖人(善人)のためのものであって、末法の我々極重の悪人にはできないことです。しかし、たとえ定散二善を実践できたとしても、化土往生しかできず、他力信心は獲られないと仰っているのです。だからといって、定散二善は誰もできないということではないことくらい理解してほしいものです。理解したくないのかもしれません。

一方、20願の自力念仏については、浄土門の人の大半がこれです。親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、自力念仏についてばかりです。O講師のようなことを言っているのは、誡疑讃を読んだことがない証拠です。
誡疑讃23首の中で、19願自力修善について明らかに仰ったのは1首だけです。

大体自力念仏ができないとは誰かいったのでしょうか?
逆に自力念仏の人ばかりであることは、親鸞会でも教えている通りではないですか?

「一切衆生必堕無間」という珍しき教えが染みついているので、善知識方が化土往生について教えられたお言葉は、机上の空論としか思えないのでしょうが、机上の空論のために、親鸞聖人がここまで力を入れられて化土往生を願うことを誡められたと本気で考えているのでしょうか?
だとすれば、お目出たいことです。

ちなみに「Kさん」が今朝コメントされた内容は以下です。

Oさん、これまでコメントしたことが理解できないのか、読んでいないのか。

>十九願、二十願が十八願の救いに
>関係がないから、勧めてもいないのだろう。
>勧めてもいないのに
>なぜ、十九願・二十願を行ずる人が
>一杯出てくるのか。

19願・20願は、機に応じて説かれた権仮方便ということが、お分かり頂けませんか?
18願1つと善知識方はお示しになれられましたが、すべて他力で自力が全く要らないというのが信じられない人がいるから、そんな人に権仮方便として説かれているのです。

ところが権仮方便をいつまでも真実と考えて、実践する人が一杯出てくるのです。浄土宗は、法然上人のお亡くなりになられた後、聖道門からの執拗な非難によって、諸行往生を肯定する考え方も出てきているのです。それで、「自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす」と蓮如上人は仰っている通りです。

今まで散々書いてきたのですが、聖道門を信じてきた人を、浄土門に導き入れるのに、真実18願は信じ難いのです。それで、聖道門の人にも信じやすい方便19願を建てられ、19願を信じている人を20願に導き、最後18願に転入させる、これが三願転入の意味です。

しかし親鸞会のように教えを間違えている人がたくさんいたし、今もいるということです。

>「善などできない韋提希に
> 善を勧める筈がない」
>
>「善のできない我々に
> 三願転入の教えを説かれる筈がない」
>
>と断言しながら、十九願を行ずる人、
>二十願を行ずる人は一杯いて、
>みな化土往生できるとは
>どういうことか。

善ができる聖人(善人)があったし、善ができると思っている聖道門出身の人はたくさんいます。
方便と分からず、19願・20願に心を留めている人がいるのです。方便の行信のままであれば、受ける利益も方便になり、それを化土というのです。

先のコメントでも書きましたが、方便が方便と分からずに真実と思っているから、方便になるのです。親鸞会は、19願・20願は方便だからせよ、というのは方便の意味が根本的に間違っています。そんな考え方でみれば、矛盾に思うのでしょうが、矛盾でもなんでもありません。

ただし、真宗を信じているといいながら、外道を信じている者達がいる、と親鸞聖人が嘆かれたのがOさんの出された根拠です。
それらの人は、真実の救いを自他共に妨げているのですから、厳しく戒めなければなりません。当然なことです。邪義の行信は、そういう利益、つまり地獄なのです。

親鸞聖人、蓮如上人が地獄に堕ちると仰ったところは、邪義、異安心の者に対してばかりです。

『阿弥陀経』の「一心不乱」について、親鸞聖人は『浄土文類聚鈔』

『経』(小経)にのたまはく、「名号を執持す」と。「執」といふは心堅牢にして移らず、「持」といふは不散不失に名づく。ゆゑに「不乱」といへり。執持はすなはち一心なり、一心はすなはち信心なり。しかればすなはち、「執持名号」の真説、「一心不乱」の誠言、かならずこれに帰すべし。ことにこれを仰ぐべし。

と仰っています。真実信心のことです。

ちなみに、後生の一大事の意味が親鸞会は間違っています。
紅楳英顕氏の『派外からの異説について』をOさんは読まれたことがないでしょう。
高森会長が不都合な論文として、『本願寺なぜ答えぬ』には、全文を掲載しなかったのですから。
そこには後生の一大事について書かれています。

 次に、後生の一大事の問題についてであるが、これについて、高森親鸞会は
  後生の一大事とは何か。人間は必ず一度は死なねばならない。では人間は
  死んだらどうなるか。釈尊は必堕無間と、四十五年間叫びつづけられた。
  「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち八万劫年の間大苦悩をうけねば
  ならない」これを後生の一大事という。(『顕正新聞』第205号)
  仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる……一大事というは取り返
  しのつかないことを言うが、それは無間地獄に堕在するということである。
  曽無一善・一生造悪が我々の実相であるから、因果の道理に順じて、必ず
  無間地獄へ堕ちる、これを経典には必堕無間と説かれている。(『白道もゆ』
  137頁)
  親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示された生死の一大事とは、ど
  んなことかといいますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、
  総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕
  ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。(『こんな
  ことが知りたい』①6頁)

等と主張している。後生の一大事を「必ず無間地獄に堕ちる」という意に取り
切り、しかも、これによって恐怖心をあおり「悲泣悶絶」の苦しみを経ねばな
らぬという、いわゆる機責めの傾向がうかがえるのである。これに対して、私
は疑義を呈し、論文で「後生の一大事ということは、往生浄土(極楽)の一大事、
あるいは往生浄土(極楽)出来るかどうかの一大事、という程度の意味」である
との見解を示したわけである。
 『本願寺の体質を問う』では、こうした私の見解に対する反論非難が行われ
ているのであるが、これについても、前の宿善論と同様、宗祖聖人や蓮如上人
の上ではっきりした文証を挙げての反論ではないから、私は反論とは認められ
ないと考えている。
 「後生」とは、文字通りの意味は「今生」に対する「後生」であろうから、
必ずしも往生の意味だけではない。しかし、論文や、高森親鸞会に対する返信
(八月三日)で述べたように『大経』に、
  後生無量寿仏国
とあって、後生の一大事の「後生」という語は、この「後に無量寿仏国に生れ
」が出拠と考えられる。蓮如上人も、
  されば、死出の山路のすえ三塗の大河を唯一人こそ行きなんずれ、これに
  よりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。
  (『御文章』1の11)
  しかれば阿弥陀如来を何とようにたのみ、後生をばねがふべきぞというに
  ……(『御文章』5の10)

等と教示されているように「後生」を往生浄土の意味で語られているのである。
 また「一大事」についてであるが、「一大事」とか「大事」とかは、本来「
迷開悟
」「出離生死」についていわれるものである。したがって『法華経』出
世本懐の文には、
  一大事因縁(『大正大蔵経』第9・7a)
とあり『称讃浄土経』には、
  利益安楽の大事因縁
とある。また、法然上人は、
  往生程の大事をはげみて念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみた
  すくべし。(『和語灯録』)

といわれ、宗祖聖人は、
  往生極楽の大事(『拾遺真蹟御消息』)
と仰せられており、さらに覚如上人も、
  往生ほどの一大事をば如来にまかせたてまつり……(『口伝抄』)
  往生ほどの一大事凡夫のはからうべきことにはあらず……(『執持抄』)

等と述べられている。いずれも「一大事(大事)」を往生にかけて語られている。
 さらに蓮如上人も、
  もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(『御文章』1の
  11)
  この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽
  はまことにもてかなふべからず。(『御文章』2の10)
  いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはな
  し。(『帖外御文章』50)

等と示されている。往生にかけて「一大事」を語っておられるのである。
 高森親鸞会は、後に至って、後生の一大事に二つがあるといいだし、信後の
後生の一大事は「往生浄土(極楽)の一大事」のことであるが、信前の後生の一
大事は「必ず無間地獄に堕ちる」ということであると、あくまでも自説に固執
するのである。
 だが後生の一大事に二義ありとは、恐らく高森親鸞会だけでいうことであろ
う。同会のいうように、後生の一大事を往生の一大事と釈すことが、信後の人
だけについてのことならば、先に挙げた「往生の一大事」を述べた文、特に
『御文章』は、当然、信前の人に信を勧め、往生を勧めたものと思われるが、
これらは信前の人に対して出されたとでもいうつもりなのであろうか。
 同会は、信前の後生の一大事の文証として『本願寺の体質を問う』(178頁)に、
宗祖聖人の
  若しまた、此のたび疑網に多覆蔽せられなば、かえりてまた曠劫を逕歴せん。
                            (『教行信証』総序)

の文や、蓮如上人の
  この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきも
  のなり。(『御文章』2の2)
  命のうちに不審もよく晴れられ候はでは定めて後悔のみにて候はんずるぞ、
  御心得あるべく候。(『御文章』1の6)

等の文を挙げている。
 私は、無論これらの文の意味を否定するのではない。だから、後生の一大事
を「往生浄土の一大事」という意味だけに限定せず「往生浄土できるかどうか
の一大事
」まで含めて定義としたのである。本願を信受すれば往生浄土できる
し、信受しなければ地獄に堕ちることは自明である。
 しかしながら「必ず無間地獄に堕ちる」ことが後生の一大事であるとする、
以前の高森親鸞会の主張は、片寄った見解といわねばならない。同会の引用し
た文には「大事」とも「一大事」ともいう語はないのであるから、それらの文は、
後生の一大事ということが「必ず無間地獄に堕ちる」ということであるという
文証にはならないし、また、後生の一大事に二義ありという文証にもならない。

親鸞会は都合のよいところだけを切り取って後生の一大事とは、一切衆生必堕無間のことだなどといっているから、根本的におかしいのです。

私がこれまでに送ったコメントを、よく読み返して下さい。

親鸞会お得意の屁理屈ばかりを捏ねていないで、真面目に答えて下さい。

O講師の真似をして書いてみましょう。

早く、観無量寿経には
釈迦如来が韋提希夫人に
善を勧めておられるのか。
おられないのか、
お答えください。

早く、善知識方は
誰一人化土往生できないと
仰っておられるのか。
おられないのか、
お答えください。

「Kさん」も私もはっきりと答えています。O講師答えて下さい。

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コメント

小倉さんはみっともないです。
情熱家で教学に熱心であった小倉さんが、こんな情けないことをいつまでも書き続けているとは、幻滅です。

小倉さんはいつか目覚めて、親鸞会打倒に立ち上がってくれるものと思っていましたが、頭の中は保身しかないのでしょう。

失態は即処分ですから仕方がないかも知れません。またブラジルにでも飛ばされてください。

投稿: 大倉 | 2010年8月11日 (水) 05時58分

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