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2010年8月27日 (金)

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

善知識方の教えに隠顕があるという珍しき説を唱える人もありますが、そういうことを言うから、文底秘沈の教えと揶揄されるのです。

以前にも紹介しましたが、親鸞聖人は『唯信鈔文意』『一念多念証文』の最後に

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

と仰って、無学の人にでも理解できるようにと書かれた親鸞聖人の御著書を、高森会長以外の誰も理解できない解釈をしながら、それが正しいと考える愚かさを知るべきでしょう。

親鸞聖人の御著書のどこを読んでも、化土往生を誡められています。蓮如上人は、『御文章』では化土往生に言及さえされていません。常に報土往生だけを願うようにと教えられるのです。これは「一切衆生必堕無間」の邪義と関係が深いことです。「必堕無間」と畏れている人は、化土往生で十分満足してしまうでしょう。それでは報土往生して成仏という浄土仏教とは違う教えになってしまいます。ですから、もともと「一切衆生必堕無間」という教えなど存在しないのです。

親鸞聖人の教えは、真実の行信によって真実の利益(報土往生)が与えられるというものです。方便の行信では、方便の利益(化土往生)しか得られません。だから、真実の利益が与えられる真実の行信18願が勧められて、方便の行信19願・20願が厳しく誡められるのです。

しかし、19願・20願こそが真実の行信であると固く信じている人がいるから、そういう人には19願・20願は権仮方便となるのです。19願・20願が方便の行信と判っている人には権仮方便になりません。イロハですが、方便の意味が何も判っていない幼稚園教学の人には、残念ながら私が述べているイロハレベルの話も理解できないと思います。

幼稚園レベルにいつまでも話を合わせることは本意ではありませんので、少しレベルを上げます。

欣慕浄土」についてこれまで何度も何度も述べてきましたが、頓珍漢なことをいう人がありますので、再度まとめておきます。

『教行信証』化土巻

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

と仰っています。また『三経往生文類』には

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

(現代語訳)

「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。

とあります。

この元になったのが善導大師の『散善義』深心釈にある第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

(現代語訳)

また、釈尊は『観無量寿経』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

です。「欣慕浄土」とは、いずれも『観無量寿経』の定散二善について仰ったものです。『阿弥陀経』、20願のことについて仰ってはいません。なぜなら、浄土を願い慕わせる必要があるのは、浄土を願っていない人に対してです。つまり、浄土門外の聖道門の人に対して、聖道門と同じ行で浄土を願い慕わせることが『観無量寿経』を説かれた釈尊の御心であると善導大師、親鸞聖人が仰っているのです。

「深心」の欠けた異安心か無安心の人が、無理解で「欣慕浄土」という言葉を使うから馬鹿にされるのです。

できる限り地形をそのまま残して環境に優しい開発をすると明言していた同朋の里は、元の地形も森も大きく破壊するダムを建設中です。方針が変ることは日常茶飯事の事で驚くことではありませんが、ダム建設と報土往生とは全くの無関係です。それくらいのことも理解できないような超思考停止の会員とは、まともな会話が成立しません。そんな人は、会長からダム建設の人柱の話がもし出たら、真っ先に志願するのでしょうかね。

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コメント

親鸞聖人が「化土に生まるる衆生をば少なからず」と教えられているのだから、そもそも議論の余地はないのでは。

単に必堕無間を親鸞聖人の言葉で論破されたので、困り果てているだけだろ。

投稿: パパ | 2010年8月27日 (金) 22時36分

パパ 様

その通りなのですが、屁理屈にもそれなりに回答しておきませんと、屁理屈が正しいと思い込んで、いつまでも正しい解釈ができないのもかわいそうです。

化土往生については、この程度にしておきたいと思います。

投稿: 飛雲 | 2010年8月28日 (土) 08時07分

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