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2010年8月19日 (木)

「かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」が理解できない高森会長

異安心で邪義しか説けない高森会長は、断章取義でこれまでと同じことを言うしかない無能さが際立っています。こちらからの質問には全く答えられず、新たな詭弁を考え出す知能も持ち合わせていないようです。

前回、『観無量寿経』の「三心」について述べました。高森会長は、その中心である「深心」が間違っていますので、異安心決定ですが、「深心」が欠けていれば、「至誠心」も「回向発願心」も欠けています。
なんとかの1つ覚えで出している

外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

ですが、これは「至誠心」について善導大師が解説されたところの一文です。
『散善義』至誠心釈

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

深心釈で、善導大師は二種深信を仰っていますので、「罪悪生死の凡夫」は「雑毒の善」「雑毒の行」しかできず、法蔵菩薩と同じ真実心になれないことは誰でも理解できます。善導大師は至る所で、懺悔の告白をなされています。たとえば『往生礼讃』には、

あまねく師僧・父母および善知識、法界の衆生、三障を断除して、同じく阿弥陀仏国に往生することを得んがために、帰命し懺悔したてまつる。

との懺悔の御言葉が並んでいます。
善導大師御自身が「至誠心」を起こせないことを告白なされているのですから、法然上人はこの一文を以下のように解説しておられます。

『選択本願念仏集』三心章

「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐く」といふは、外は内に対する辞なり。いはく外相と内心と不調の意なり。すなはちこれ外は智、内は愚なり。賢といふは愚に対する言なり。いはく外はこれ賢、内はすなはち愚なり。善は悪に対する辞なり。
いはく外はこれ善、内はすなはち悪なり。精進は懈怠に対する言なり。いはく外には精進の相を示し、内にはすなはち懈怠の心を懐く。もしそれ外を翻じて内に蓄へば、まことに出要に備ふべし。「内に虚仮を懐く」と等とは、内は外に対する辞なり。いはく内心と外相と不調の意なり。すなはちこれ内は虚、外は実なり。虚は実に対する言なり。いはく内は虚、外は実なるものなり。仮は真に対する辞なり。いはく内は仮、外は真なり。もしそれ内を翻じて外に播さば、また出要に足りぬべし。

(現代語訳)

「外に賢善精進の相を現わし、内に虚仮を懐く」というのは、外とは内に対する言葉である。すなわち外の相と内の心とがそろわないという意味であって、外には賢者をよそおい内心は愚かなことをいう。善とは悪に対する言葉である。すなわち外には善根をつとめる相を示して内には懈怠の心を懐くことをいう。もし外にあらわす賢善精進の相を内に蓄えて心も賢善精進になるならば、まことに迷いを出る要道にかなうであろう。「内に虚仮を懐く」などというのは、内とは外に対する言葉である。すなわち内の心と外の相とが調わないという意味である。すなわちこれは、内心は虚であり外には実をよそおうことである。虚とは実に対する言葉である。すなわち内の心は虚であり外の相は実なる者をいう。仮とは真に対する言葉である。すなわち内の心は仮であり外の相は真なることをいう。もし内の心の虚仮を外にあらわして相も愚かになるならば、また迷いを出る要となるであろう。

内が賢で外が賢、もしくは内が愚で外が愚、という内外一致させれば「出要に足りぬべし」と仰っているのです。内外不一致を誡められたのが、善導大師の真意とされたのです。

この法然上人の解説を承けられて親鸞聖人は『唯信鈔文意』

「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことばなり。

(現代語訳)

「不得外現賢善精進之相(外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ)」といわれているのは、表だって、自分が立派ですぐれているような振舞いや、善人であるような素振りを見せてはならない、仏道に励んでいるような姿を示してはならないというのである。なぜなら、「内懐虚仮(内に虚仮を懐いて)」だからである。「内」は「うち」ということである。心のうちに煩悩をそなえているから、「虚」なのであり、「仮」なのである。「虚」は「むなしい」ということで、実ではないということである。「仮」は「かりの」ということで、真ではないということである。これらの文字の意味については、すでに示した通りである。この信心は真実の浄土に生れる種となり、実となるべきものであるというのである。それは、いつわりやへつらいを離れた、真実の浄土に生れる因となる信心なのである。わたしたちは善人でもなければ、賢者でもない。賢者というのは、立派ですぐれた人のことである。ところがわたしたちは仏道に励む心もなく、ただ怠けおこたる心ばかりであり、此のうちはいつも、むなしく、いつわり、飾り立て、へつらうばかりであって、真実の心がないわが身であると知らなければならないというのである。『唯信鈔』に「斟酌しなければならない」といっているのは、自分自身がどのようなものであるかということを知り、それにしたがってよく考えなければならないという言葉である。

と、仰っています。「かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」とまで、はっきりと仰っています。往生のためには、善をするな、です。善をせよ、との意味である訳がないでしょう。
また最後の「ことのありさまにしたがうて、はからふべし」は、『教行信証』化土巻・要門釈の結論である

濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と同じことです。出離できるような善ができる自分なのかをよく考えよ、と厳しく仰っているのです。
親鸞聖人の御著書のどこを読んでも、

往生のためには、往生と関連付けて善をするな

としか仰っていません。もちろん往生とは無関係と思って善をすることは当然なことです。親鸞会のように、往生と関係付けてする善を「雑行」と言われて、捨てよと善知識方が口を揃えて仰っています。
それにも関わらず善導大師の御言葉を断章取義して、

これが善を勧められた根拠である

と声高に叫んでいるのは、どこまで愚かなのでしょうか。

至誠心」「深心」「回向発願心」の「三心」すべて欠けている高森会長から、会員さんは何を得ようとして会に留っているのでしょうか。

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コメント

あと「われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも言いなどすることは、あるべくも候わず」を、「聖人も善導と同じく善を勧められていること」の文証として出していることには、哀れささえ感じました。
たぶん真宗学科の一年生でもやらない初歩的な読み間違い。
考えてみると、紅楳師から催促されながら会長はちゃんとした「論文」を一本も書いてないんですよね。
学問のための学問など最初から見切りをつけてるためだと思っていましたが、実は文献を正確に読む知能が欠落していたがために、論文を書く能力がなかっただけ、だったんですね。

投稿: | 2010年8月19日 (木) 23時18分

お聖教は自分のことを言われていると思って読んで頂きたい。高森会長。

《高森会長は》外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。

投稿: | 2010年8月20日 (金) 08時57分


「親鸞聖人の御著書のどこを読んでも、往生のためには、善をするな、としか仰っていません。」と強調して書かれてあります。しかし、親鸞聖人が「往生のために、善はするな。」と仰っているという言い方は誤解を生じさせかねないので、注意された方が良いと思います。ただ、それに続く貴殿の文章を読めば、貴殿の真意は「修善と真実報土往生とはまったく無関係であり、修善と真実報土往生を関連づけているかのような親鸞会の教説は誤りである。」ということを言いたかったのであると分かりますが、強調部分だけを読むと誤りを含む表現になってしまうと思います。

投稿: | 2010年8月20日 (金) 13時23分

皆様

御意見、御指摘ありがとうございます。
「善をするな」のところは、修正しておきました。

投稿: 飛雲 | 2010年8月20日 (金) 15時24分

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