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2010年8月 2日 (月)

高森会長が雑行を勧める理由

mixiでこうへい氏が、何かの1つ覚えのように雑行について説明していました。親鸞会の最後の牙城であった「三願転入の教え」の根拠が粉砕されて、雑行に籠もっているのでしょう。しかし、その矛盾点を突かれて、また逃亡です。答えられないのならば、出てこなければいいものを…

さて、雑行について仰った親鸞聖人のお言葉を紹介しておきます。
『教行信証』化土巻

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

(現代語訳)

浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして序正と雑行、雑修と専修がある。
 正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、定散心雑するがゆゑに雑心といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。
 また、雑行について、専行があり専心がある、また雑行があり雑心がある。専行とは、一つの善をもっぱら修めるから専行という。専心とは、心をもっぱら浄土に向けるから専心という。雑行・雑心とは、さまざまな善をいくつも修めるから雑行といい、定善・散善を修める自力の心をまじえるから雑心というのである。

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。源信和尚は懐感師により、源空上人は善導大師によっておられる。釈尊の経説にもとづき、祖師方の解釈を見てみると、雑行の中には、雑行雑心、雑行専心、専行雑心があり、また正行の中には、専修専心、専修雑心、雑修雑心がある。これらはみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。だから、浄土に生れても仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

『高僧和讃』

釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ

(現代語訳)

お釈迦さまは (他力へ導く) 要となる門戸を開いて、 定善・散善の人々を誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

こころはひとつにあらねども 雑行・雑修これにたり
 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり

(現代語訳)

意味するところは同じではないが、 雑行と雑修はよく似ている。 真実浄土への行ではないものを、 ひとえに雑行と名づけたのである。

雑行について、親鸞聖人は言葉を変えられて、詳しく説明をなされていますが、判りやすく言えば、浄土に往生しようと思って行う善は雑行です。
従いまして、三願転入の教えを信じて、18願に救われるために19願の善をしなければならない、というのは雑行です。ですから、「雑行を捨てよ」は、「19願の善は捨てよ」です。「三願転入の教え」は、ここでも破綻しているのです。

根拠に基づいて言えば、「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」で、雑行である19願、定散二善、自力の教えを捨てよです。

ここまで明快に仰っているのに、なぜ高森会長は破綻した論理で獲信のための善(雑行)を勧めるのか。

その理由は、F館に顕著です。

「さよなら親鸞会」
投稿:F館の会長専用施設

現在計画中の同朋の里F館の見積り依頼が知り合いの業者のところにきました。不況とはいえ、私の会社では、親鸞会の仕事を請けるつもりは一切ありませんので、知り合いの業者から教えてもらった情報を皆さんにお伝えしたいと思います。

ただ、余り詳しいことを述べると、その業者の方にご迷惑がかかるかも知れませんので、会長室関係のことについてのみ、簡単に説明致します。

F館は6階建てで、6階部分がすべて会長室になっています。5階までは会員さんの利用される部分です。

6階の広さは、全部で160帖程です。家族室がない分、正本堂よりも小さいです。正本堂と比較すると、全体の建物が小さい分、会長室も全体的に小振りですね。

部屋は和室が3室、寝室、書斎、リビング、キッチン、更衣室、洗濯家事室です。トイレが2箇所、浴室1箇所で構成されています。

内装のグレードは、もちろんかなり高いです。

設備についてはわかりませんが、会長の自宅や、各会館の会長室のことを聞くと、今回もICU以上の空調設備になるのは間違いないでしょう。

5階の一部に、会長用の応接室と秘書室があります。もちろん会員さんの部分とは、隔離されています。

1階は会長専用の玄関と、会長用の2台分の駐車場です。

大都市ならば、2億程のマンションといったところでしょうか。

全体の工事費の割合は、正本堂の倍程と予想されます。

一般人には理解できませんが、会員さんにとっては、拍子抜けの規模でしたかね。

F館6階を必死に隠して、5階建ての模型まで偽造して、財施を募るのはなぜか?

ある支部長は、「縁の浅い人に誤解を与えないようにするため」と答えていましたが、その支部長もF館6階のことは、全く知りませんでした。支部長も縁の浅い人なのです。
縁の深い人は、高森会長の家族と側近、建設関係者のみです。そんな縁の深い上層幹部は皆、未信です。

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