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2010年8月

2010年8月31日 (火)

井の中の懲りない面々

煽るとすぐに登場するのがM講師です。こうへい氏もそうでしたが、実に単純です。
過去の議論も無いことにして、相手の主張をねじ曲げ、過去と同じことを何事も無かったかのように繰り返し言い続ける。「嘘も百回言えば真実になる」を、そのまま実践しているのです。

コメント欄でも某ブログでも、同じような時間に書いていることから、2chに書き込んだ人物も含めて同一人物が書いていることは、誰でも判るでしょう。

それにしても、こちらも同じことを何度も何度も言わなければなりませんので、過去の議論を踏まえてsutybi氏がまとめてくださったものが、

「親鸞会の邪義を正す」

です。

十方衆生≠極重の悪人
化土往生について1
”三願転入の教え”の誤り1

を読んで御理解頂ければ、問題ないと思います。

必死になって”三願転入の教え”なるものを創出していますが、その根拠をいつまで経っても出すことができません。親鸞聖人が19願を勧められたお言葉1つ出せないのです。M講師に至っては、過去に当ブログで、誡疑讃が19願を勧められたとコメントをして、袋叩きにあい、論点をずらして逃亡しています。
20願自力念仏についてこれまで述べてきて、M講師の間違いを懇切丁寧に説明してきましたが、そのことは無視して、19願自力修善ばかりに論点をずらすのもいつものことです。

こうへい氏もそうでしたが、直接の根拠がないから、関係ない根拠を引っ張り出してきては、ヘンテコ珍解釈をしてそれを押しつけてくるのです。私は、直接的な根拠ばかりを挙げていますので、そのような方法でしか対抗できないことも判っています。負け犬の遠吠えが好きなのが。親鸞会です。

某ブログやコメントはすでに論破した内容ばかりですので、過去のエントリーや

「親鸞会の邪義を正す」

を読んでいただければ説明は不要でしょう。

M講師に言いたいことは、屁理屈を言う前にこちらの質問に答えましょう。

・浄土門の人に19願を勧められた親鸞聖人のお言葉
・誰も化土往生できないと仰った親鸞聖人のお言葉

を出して下さい。回りくどい説明は一切不要です。直接的な根拠だけで結構です。
こうへい氏の時と同じで、これらの根拠が出せなければ、議論は決着です。関係ないことをいった時点で、M講師の負けが読者に徹底されます。

なお、参考までに最初の質問については過去に、

典型的な断章取義教学
のコメント欄での議論に始まって、論破され「一切衆生必堕無間」に論点をずらして逃亡しています。

信罪福心は自力であり、19願の勧めではない
実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加
浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし
ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ

「一切衆生必堕無間」の根拠は?
正常な思考とカルト思考
カルト思考の愚かさ

ここを読まれれば、M講師のレベルと人間性がよく判ります。

某ブログの揚げ足とりを一つだけ補足説明すれば、

「嘘も百回言えば真実になる」と信じ切っている親鸞会

でも書きましたので普通の方は御理解頂けたと思いますが、龍樹菩薩も自分の力では仏になることができず、極重の悪人同様に18願に帰依されなければ報土往生は遂げられなかったのです。それを

『正像末和讃』

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と親鸞聖人は仰っているのです。これをもって、龍樹菩薩は定散諸機の方と言えても、龍樹菩薩は極重の悪人であると言うのは余程の知能の持ち主です。

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2010年8月30日 (月)

好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし

M講師が過去2chでボコボコにされたのに、断章取義、捏造、改竄して、如何にも勝ったように偽装して、自分のブログに書いて喜んでいます。読む価値がありませんので、読まれる必要は無いです。
かつて当ブログのコメント欄でも、また夢幻なんとかというブログでもボコボコニされた腹いせに2chに嘘を書き込んでいますが、十悪も謗法罪も平気で造り続けられる外道の会長と講師部員、これが親鸞会の実態です。
参考までに実際の議論は

【浄土真宗】同朋の里へ行こう【親鸞会】226~393

で読めます。論点ずらし、質問に答えないで、相手の主張をねじ曲げるいつもの卑怯な手ですので、全部を読むのも大変でしょうから、時間のない方は最後の方だけ読まれればM講師の愚かさ、卑怯さ、腰抜けが十分に理解できるでしょう。387以降がM講師の負けを決定付ける結論です。

ちなみに、M講師は少し前に2chで、「諸善より念仏は間違い」というトンデモ発言を繰り返していましたが、念仏諸善比挍対論を提示されて、黙ってしまいました。どこまでも御粗末です。

2chにまた書いてくるでしょうが、構って欲しいだけですから、暇な方は、適当に相手をしてさし上げれば喜ぶでしょう。

またO講師のブログでも

励めば善ができ、
念仏ぐらいは称え切れると
思っている人だから、
「自力作善」の善人と
聖人はおっしゃる。

〝諸善も念仏も、
いずれの行もおよばぬ悪人〟
と見極められて建てられた、
弥陀の本願を疑っている人だから、
「疑心の善人」とも言われている。

と未だに、諸善と念仏とを同列に扱って喜んでいます。何度も何度も、善知識方の根拠を挙げて、念仏について説明をしたのですが、理解しようとしないで、念仏を軽んじた念仏誹謗を続けています。救い難いです。

親鸞会では、会長の思いつきの考えを実現させるために、善の勧めを強調するのですが、信前の人に何を勧めるのが善知識かが判る法然上人を紹介しておきます。
『十二箇条問答』

問いていわく、往生を願わぬにはあらず、願うというともその心勇猛ならず。また念仏を卑しと思うにはあらず、行じながら疎かにして明かし暮らしそうらえば、かかる身なればいかにもこの三心具したりと申すべきもなく。さればこの度の往生をば思い絶えそうろうべきにや。

答えていわく、浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善知識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

と仰っています。

往生を願う心が弱く、信心決定していないことを嘆くのは、信心決定したいという志があるからこそであって、嘆くことはない。急がないときは、足の遅いことを嘆かないようなものである。十悪五逆の者でも臨終に初めて善知識に遇って往生することがあるのだから、日頃から往生を願って念仏に励むならば、必ず往生できるのだ、と仰っています。

信心決定していない人に、日頃から善をしていきなさい、など教えられていません。当たり前の事です。法然上人が信前の人に勧められていることは念仏1つです。

一方で信心決定のために、二千畳のダムを造って、財施を勧めるのが善知識かどうか、説明する必要はないでしょう。

会員は、本気で信心決定する気があるのでしょうか?
信心決定する気がなければ、ダム建設に全財産を投げ出したら宜しいかと思います。

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2010年8月29日 (日)

「嘘も百回言えば真実になる」と信じ切っている親鸞会

O講師のブログは、他の意見を理解しようという気も更々なく、高森邪義をひたすら書き続ける日々です。mixiでのこうへい氏と同じです。

善についても、念仏についても、言葉の定義、意味から間違っていますので、ボタンの掛け違いどころか、ボタンを別の服に掛けようとしているようなものです。話になりません。
親鸞会では

十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法
一切衆生必堕無間

という結論があって、それにあわせて聖教を解釈するから、論理が破綻しているのです。しかし思考停止状態では、破綻していないように思えるのでしょう。

親鸞会では、間違ったことも繰り返し言い続けていれば、「嘘も百回言えば真実になる」と信じ切っているのです。mixiでのこうへい氏もそうでした。私が過去に述べたことは、

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

にまとめてあります。

O講師は

浄土真宗の親鸞学徒で、また学者で

「善根薄少にして
 三界に流転して火宅を出でず」

を善ができる証拠だということ自体、
仏法のイロハも分かっていない証拠だ。

と書いていますが、どうしても「善根薄少」=「無善根」としたいようです。これは教学ではなく日本語の問題です。高森会長以外の書籍を読んだことがないのに、学者の説を知っているような嘘を付くのは悪です。

報土往生・化土往生・必堕無間と二種深信との関係

のところで、法然上人のお言葉も紹介しています。「念仏往生義」

善根無ければ、此の念仏を修して、無常の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

善根がないと自覚しているなら、念仏を勧めるべきなのに、善ができないと知らされるまで善をせよと勧めるデタラメが、いつのまにかダム建設を肯定する愚行になるのです。大体、

宿善とは宿世の善根

と定義しているなら、無善根の十方衆生は無宿善の人しかいないということでしょう。この矛盾も理解できないでしょうね。

二種深信についても、これまで何度も何度も述べてきました。真宗教学では、二種深信の解釈は、存覚上人の『六要鈔』によっているのですが、

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

も知らないでしょう。自力無功とは、無善根ではなく、出離できるような善ができない仏になれるような善ができないということです。O講師の挙げた根拠は、皆この意味です。だから、出離して仏になれる名号を阿弥陀仏が私たちのために用意して下されたと親鸞聖人が機と法をセットで仰っているのに、機の「善ができない」の部分だけを断章取義しているのです。

『教行信証』信巻の最初に

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

とありますが、これを『浄土文類聚鈔』では、

しかるに薄地の凡夫、底下の群生、浄信獲がたく極果証しがたし。なにをもつてのゆゑに、往相の回向によらざるがゆゑに、疑網に纏縛せらるるによるがゆゑに。いまし如来の加威力によるがゆゑに、博く大悲広慧の力によるがゆゑに、清浄真実の信心を獲るなり。この心顛倒せず、この心虚偽ならず。まことに知んぬ、無上妙果の成じがたきにはあらず、真実の浄信まことに得ること難し。真実の浄信を獲れば大慶喜心を得るなり。

と言い換えておられます。「薄地の凡夫」とは、本願寺出版の注釈では、

聖者の域に達しない下劣な者。凡夫を三種に分け、三賢(十住・十行・十回向)を内凡、十信を外凡、それ以下を薄地とする。

とありますように、凡夫といっても、「薄地の凡夫」でない凡夫もいるのです。無善根では内凡、外凡になれません。龍樹菩薩は諸善を積まれて初地まで到達せられましたが、龍樹菩薩が無善根であったなどという学者はありません。龍樹菩薩は、初地まで到達はできても仏になれるような善ができないと、浄土門に帰依されたのです。「善ができない」ではなく、「仏になれるような善ができない」です。

それを『正像末和讃』

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と仰っておられるのです。脅しと断章取義で貫かれた親鸞会には、困ったものです。
もちろん「薄地の凡夫」でも可能な限り善に努めるようにしなければなりませんが、それは往生と無関係と思ってです。

善ができないから、悪をしても仕方がないと考えている造悪無碍の親鸞会に言いたいことは、他人に善を勧める前に、まず謗法罪を止めなさい、です。

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2010年8月27日 (金)

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

善知識方の教えに隠顕があるという珍しき説を唱える人もありますが、そういうことを言うから、文底秘沈の教えと揶揄されるのです。

以前にも紹介しましたが、親鸞聖人は『唯信鈔文意』『一念多念証文』の最後に

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

と仰って、無学の人にでも理解できるようにと書かれた親鸞聖人の御著書を、高森会長以外の誰も理解できない解釈をしながら、それが正しいと考える愚かさを知るべきでしょう。

親鸞聖人の御著書のどこを読んでも、化土往生を誡められています。蓮如上人は、『御文章』では化土往生に言及さえされていません。常に報土往生だけを願うようにと教えられるのです。これは「一切衆生必堕無間」の邪義と関係が深いことです。「必堕無間」と畏れている人は、化土往生で十分満足してしまうでしょう。それでは報土往生して成仏という浄土仏教とは違う教えになってしまいます。ですから、もともと「一切衆生必堕無間」という教えなど存在しないのです。

親鸞聖人の教えは、真実の行信によって真実の利益(報土往生)が与えられるというものです。方便の行信では、方便の利益(化土往生)しか得られません。だから、真実の利益が与えられる真実の行信18願が勧められて、方便の行信19願・20願が厳しく誡められるのです。

しかし、19願・20願こそが真実の行信であると固く信じている人がいるから、そういう人には19願・20願は権仮方便となるのです。19願・20願が方便の行信と判っている人には権仮方便になりません。イロハですが、方便の意味が何も判っていない幼稚園教学の人には、残念ながら私が述べているイロハレベルの話も理解できないと思います。

幼稚園レベルにいつまでも話を合わせることは本意ではありませんので、少しレベルを上げます。

欣慕浄土」についてこれまで何度も何度も述べてきましたが、頓珍漢なことをいう人がありますので、再度まとめておきます。

『教行信証』化土巻

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

と仰っています。また『三経往生文類』には

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

(現代語訳)

「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。

とあります。

この元になったのが善導大師の『散善義』深心釈にある第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

(現代語訳)

また、釈尊は『観無量寿経』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

です。「欣慕浄土」とは、いずれも『観無量寿経』の定散二善について仰ったものです。『阿弥陀経』、20願のことについて仰ってはいません。なぜなら、浄土を願い慕わせる必要があるのは、浄土を願っていない人に対してです。つまり、浄土門外の聖道門の人に対して、聖道門と同じ行で浄土を願い慕わせることが『観無量寿経』を説かれた釈尊の御心であると善導大師、親鸞聖人が仰っているのです。

「深心」の欠けた異安心か無安心の人が、無理解で「欣慕浄土」という言葉を使うから馬鹿にされるのです。

できる限り地形をそのまま残して環境に優しい開発をすると明言していた同朋の里は、元の地形も森も大きく破壊するダムを建設中です。方針が変ることは日常茶飯事の事で驚くことではありませんが、ダム建設と報土往生とは全くの無関係です。それくらいのことも理解できないような超思考停止の会員とは、まともな会話が成立しません。そんな人は、会長からダム建設の人柱の話がもし出たら、真っ先に志願するのでしょうかね。

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2010年8月26日 (木)

報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。

高森会長は、誰も化土往生できないという邪説の証明を諦めたようですが、論破されても論破されても懲りずに断章取義とヘンテコ解釈を繰り返す人もいますので、もう少し化土往生について解説します。

源信僧都の師である良源は『極楽浄土九品往生義』の中で、阿弥陀仏の本願について述べています。19願と18願とを比較して、19願は菩提心を発して諸善を修した行者に対して臨終来迎が誓われているから、来迎のない凡夫往生を誓われた18願よりも勝れているとしているのです。この考え方は、概ね聖道門に共通したものです。

それに対して源信僧都が『往生要集』にて、良源の説に異義を唱えられたのです。それを親鸞聖人が『教行信証』化土巻の要門釈の最後に引かれています。

首楞厳院(源信)の『要集』に、感禅師(懐感)の釈(群疑論)を引きていはく、「問ふ。『菩薩処胎経』の第二に説かく、〈西方この閻浮提を去ること、十二億那由他に懈慢界あり。{乃至}意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生ぜんと欲ふもの、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生ずることあたはず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず〉と、云々。この『経』をもつて准難するに、生ずることを得べしやと。

答ふ。『群疑論』に善導和尚の前の文を引きて、この難を釈して、またみづから助成していはく、〈この『経』の下の文にいはく、《なにをもつてのゆゑに、みな懈慢によりて執心牢固ならず》と。ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。ゆゑに『経』の別説、実に相違せざるなり〉」と。{以上略抄}

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

源信和尚の『往生要集』に慧観禅師の『群疑論』を引いて、次のようにいわれている。
「問うていう。『菩薩処胎経』の第二巻に、<この世界から西方へ十二億那由他のところに懈慢界がある。(中略)さとりを求める心をおこして阿弥陀仏の浄土に生れようと願う衆生は、ほとんどみな懈慢界に深く執着してとどまり、そこから進んで阿弥陀仏の浄土に生れることができない。億千万もの人々の中で、阿弥陀仏の浄土に生れることができるのは一人いるかどうかである>と説かれている。この経によって考えるなら、はたして阿弥陀仏の浄土に往生できるのであろうか。

答えていう。『群疑論』には、さきの善導大師の『往生礼讃』の文を引いてこれを解釈し、また自らの解釈を加えて次のようにいっている。<この『菩薩処胎経』の次の文に、≪なぜなら、みな怠惰で慢心しており、信心が堅固でないからである≫と説かれている。これによって知ることができた。さまざまな行を修めるものは信心が堅固でない人である。だから懈慢界に生れるのである。他の行をまじえないでひとすじに念仏すれば、これは信心が堅固であって、間違いなく極楽世界に生れるであろう。(中略)また浄土に生れるといっても真実報土に生れるものはきわめて少なく、化土に生れるものはきわめて多い。だから『菩薩処胎経』と『観無量寿経』とはまったく矛盾しないのである>」

以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

と仰っています。
聖道門は、阿弥陀仏の本願は19願が最も重要と看做して、法然上人を激しく非難したのですが、18願こそが阿弥陀仏の本意であることを親鸞聖人は源信僧都の『往生要集』によって説明されたのです。諸行による自力信心では化土往生しかできず、専修念仏の他力信心によってのみ報土往生できるのです。そして自力信心の人が多いから化土往生の人は多く、他力信心の人が少ないから報土往生の人が少ないと仰った源信僧都のお言葉を引かれています。

だから要門釈の結論として、19願に心を掛けている定散の諸機も、極重の悪人も18願の念仏せよと親鸞聖人は勧められたのです。報土往生できるような能力がない自分をよくよく考えて、化土往生の諸行ではなく、報土往生の他力念仏をしなさい、ということです。

以上のことが御理解頂ければ、誰も化土往生ができないという意味で『往生要集』を引かれたのではなく、阿弥陀仏の本意が判らずに自力に執心して化土往生している人が多いことを嘆かれたお言葉であると御理解頂けると思います。

いろいろと屁理屈を考える人もありますが、筋の通らないことをいつまでも言い続けるのは、実に見苦しいです。

なお、先日の二千畳座談会で発表された同朋の里第3期工事の説明が以下で聞けます。

ダムでも何でも造ってチョーダイ1
ダムでも何でも造ってチョーダイ2
ダムでも何でも造ってチョーダイ3

その場凌ぎの解釈を繰り返している高森会長ですが、19願だの宿善だのといって善を勧める目的は、これではっきりしています。

会員のためにダムが必要ですか?
たとえお金が余っていたとしても会員の方にダムを造る理由は皆無です。

親鸞会は今、お金に困っているんだから、お金を集める名目を君達考えなさい。そうだダムにしよう。ダムなら多額の御報謝を集められるだろう。

高森会長の深い御心が想像できます。

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2010年8月25日 (水)

どうしても理解したくない人の為に、20願化土往生の根拠を再掲

O講師のブログの更新が滞り始めました。化土往生についても触れなくなって、仕方なく『会報』をそのまま載せても、その中身のデタラメが指摘されて、困っているのかもしれません。高森会長の教えなど、所詮はその程度の幼稚教学です。

さて、O講師も高森会長も化土往生については、誰も化土往生できないという根拠を出せず(正確には根拠を出したつもりが、実は化土往生をしている人がいる根拠であって自爆した)、化土往生の議論から逃亡したいのでしょうが、どうしても理解したくない人も未だにあります。揚げ足をとることで一矢報いたいのでしょう。

私は素直に解釈をしたのですが、珍しい解釈と思いたい人の為に、

過去の議論も根拠もまるで理解できない異安心集団

で挙げました根拠について、本願寺出版の現代語訳を付けておきます。『教行信証』化土巻の方は、全文と現代語訳を以前にもつけてあったのですが、断章取義だと訳の判らない屁理屈をいうのも感心しない論理です。今回は解説しませんので、隠顕の意味くらいは理解した上で、そのままよく読んで下さい。

『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願(第二十願)によって「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。ところが、自力で修める行にとらわれている人は、阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、如来の名号を自分の善根とし、その功徳を自ら回向して、必ず浄土往生を果たしとげると誓われた願に頼るのである。本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、たたえ尽すことも、説き尽すことも、思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。それは深く思い罪であり、浄土に生れて七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、五百年の間、自由に振舞うことができず、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、お仕えすることもできないと如来は説いておられる。それでも、如来の名号を称えるから、胎宮というわれる方便の浄土にはとどまるのである。あらゆる功徳をそなえた名号によるから「難思往生」というのである。不可思議の本願を疑う罪によって「難思議往生」とはいわないと知らなければならない。

『教行信証』化土巻

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。
これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。
釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
 その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは隠彰の義をあらわすものである。『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」と説かれている。「執」という言葉は、心がしっかりと定まって他に映らないことを顕している。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた教典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。

私は、他の根拠とも全く矛盾しない一般的な解釈をしたのですが、理解したくない一杯なのでしょう。

親鸞会流の独自の解釈をまだ続けたいのならば、20願では誰も化土往生できないと仰った根拠を出しましょう。

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2010年8月23日 (月)

本当は必ず無間地獄に堕ちるのに故意に化土に往生できるぞと我々を騙されたのであろうか

誰も化土往生できない根拠を出したつもりが、実は化土往生している人が多いことを証明する結果になってしまい、高森会長は、相当に血圧が上がって大変らしいです。その原因は私ではなく、自分の無知です。
釈尊が韋提希に善を勧められたのか、から始まって、それが「Kさん」に論破されて、すかさず化土往生に論点をずらしましたが、化土往生についても迂闊に出した根拠で自滅しています。途中では、二種深信の理解が間違っていると指摘され、高森会長の異安心も暴露されて、反論できませんでした。
そんなこともあってか、昨日はブログの更新がないという極めて珍しい日でした。新しい論点を検討中なのか、mixiでのこうへい氏同様、逃亡したのでしょうか。

ところで『会報』第5集には、化土往生を説く大沼法竜師に対抗して以下のように書いています。

 ここで特に注意しておかねばならぬことは真宗の道俗の中に、未だ大信海に入らずとも求めている者が死ねば、みんな間違いなく化土往生出来ると主張し同行の求道心をさまたげている人がいるということである。これは許すことの出来ない正法の怨敵である。三機のところでも述べたように十九願の邪定聚の機ならば化土へも行けるであろうが、真宗の道俗の中に、そのような者は見当らないから化土往生どころか必堕無間こそ間違いのない後生である。
 若し、信前の者も、求めてさえいれば化土往生が出来、やがて報土往生、弥陀同体成仏出来るのなら後生の一大事は立たない。後生の一大事生死の一大事の立たないところに仏法、また成立しないのである。
 若し、信前の者が、みんな化土往生出来るのなら、親鸞聖人は、なぜに「たとえ、大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきけ」と仰言ったか。又『教行信証』総序に「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、更りてまた昿劫を経歴せん」と悲嘆なされたか。化土往生してやがて必然的に法土往生が出来れば昿劫を経歴する心配がある筈がないではないか。
 蓮如上人も『御文章』の各処に「この信、決定されずんば極楽には往生せずして化土にまいるべきなり」とはいわれずに「無間地獄に堕在すべし」と教えられ、故に「一日も片時も急いで信心決定せよ」「命のうちに不審もとくとくはれられ候わでは、さだめて後悔のみにて候わんずれ、おん心得あるべく候」と手に汗握って御勧化になっていられる。本当は化土往生出来るのに故意に無間地獄に堕ちるぞと我々をおどろかされたのであろうか。そんなことがあり得る筈がない。
 これらの善知識の仰せの通り信前の者には必堕無間の後生の一大事があればこそではないか。信心決定という難関を突破させて貰わない限り誰人と雖も、化土どころか無間地獄に堕在するという後生の一大事は、まぬがれないことを深く牢記すべきである。

これまでの一連の流れが理解できれば、上記の理論が如何に幼稚であるかお判り頂けるでしょう。
まず、後生の一大事の意味が、間違っています。
紅楳英顕師の『派外からの異説について』に詳しく書かれています。

「一切衆生必堕無間」を正当化するために、善知識方のお言葉を否定するO講師

でも紹介していますので、読んでいない方は、一度御読み下さい。
親鸞会は向いている方向が違うのです。親鸞会は目が地獄に向いていますが、浄土仏教は文字通り、浄土に向かう教えなのです。浄土はもちろん報土であって、化土ではありません。報土往生と化土往生について経典や善知識方の御著書に詳しく説かれていますし、実際に化土に往く人が多いから、化土往生を誡められているのです。

化土往生に関する根拠は、

「親鸞会の邪義を正す」
化土往生について1

にまとめてありますので、そちらを御覧下さい。

化土往生の説明については、会長の言葉を捩ることで十分だと思います。

本当は必ず無間地獄に堕ちるのに故意に化土に往生できるぞと我々を騙されたのであろうか。そんなことがあり得る筈がない。
 これらの善知識の仰せの通り信前の者には化土往生があればこそではないか。自力念仏に留って、信心決定という難関を突破させて貰わない限り誰人と雖も、報土往生という後生の一大事は、遂げることのできないことを深く牢記すべきである。

高森会長の遠ぼえが聞こえるようです。

無宿善の奴等には、正しことをいくら教えても無駄だ。

高森会長、宿善の意味も間違っていますよ。

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2010年8月21日 (土)

高森会長が60数年間学んできたことは何か?

化土往生は誰もできない机上の空論と親鸞会は言い続けるより仕方がないでしょうが、、O講師(高森会長)が20願化土往生の条件として出した『阿弥陀経』の御言葉について、昨日、親鸞聖人が解釈された『教行信証』化土巻

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。
これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。
釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。

を紹介しました。無知な善知識の勉強のために、敢て解説をしませんでした。
これについて今のところ何も反論してきませんので、少しは勉強したのかも知れませんが、理解できていないと思いますので、少しだけ説明したいと思います。

基礎知識として『阿弥陀経』の隠顕は

  • 顕説(方便)20願意-自力念仏往生(化土往生)
  • 隠彰(真実)18願意-他力念仏往生(報土往生)

となります。
これを踏まえて、上記の御言葉を見ると、化土往生にあたる顕説の解説が

経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」といへり。

です。この中の「無過念仏往西方三念五念仏来迎」ですが、

念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。三念・五念まで仏来迎したまう

と読みます。これは『法事讃』

種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。上一形を尽し十念に至り、三念・五念まで仏来迎したまふ。

で、一部を省略されたものです。「上一形を尽し十念に至り」が従多向少、「三念・五念まで仏来迎したまふ」が従少向多の念仏です。それぞれが他力念仏と自力念仏を顕されたものと見られて、「上一形を尽し十念に至り」は省略されています。
ここを親鸞聖人は『一念多念証文』で、

「上尽一形」といふは、「上」はかみといふ、すすむといふ、のぼるといふ、いのちをはらんまでといふ。「尽」はつくるまでといふ、「形」はかたちといふ、あらはすといふ、念仏せんこといのちをはらんまでとなり。

「十念・三念・五念のものもむかへたまふ」といふは、念仏の遍数によらざることをあらはすなり。

と仰っています。親鸞聖人が顕説のところで敢て引かれている「三念・五念まで仏来迎したまう」の意味は、

念仏の遍数によらざることをあらはす

です。もうお判りでしょう。

ですから、『末灯鈔』12

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

は、普通に読めばいいのです。わざわざ、化土往生に難しい条件を付加して、親鸞聖人を嘘つきにする必要はないのです。
『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

も、何も矛盾はありません。

以前にもいいましたが、論点をずらしても論破され、また論点をずらしても論破され、の繰り返しです。なぜなら、真宗教義の基本中の基本が高森会長には理解できていないからです。

かつての弟子たちに、ここまで遊ばれている布教歴60数年の高森会長は、何なのでしょうか。60数年間、宗教ビジネスしか学んでこなかったようです。

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2010年8月20日 (金)

過去の議論も根拠もまるで理解できない異安心集団

『観無量寿経』の三心である「至誠心」「深心」「回向発願心」のすべてが欠けているから異安心だと言っても反論できない者が、経典や善知識方のお言葉をまともに読めないことは、これまでの流れでよく判っています。それが『阿弥陀経』を読んで、化土往生の定義をしていることが笑えます。

化土往生の定義を、親鸞会理論で勝手に作り出していますが、親鸞聖人がどのように仰っているか教えてさしあげたのに、やはり理解できないようです。
直接的な根拠を再度挙げておきます。

『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

親鸞会創作教義と理論をいくら押しつけてみても、真宗教義の議論からは大きく外れます。

過去の議論を無視するのが親鸞会です。同じことを何度も何度も何度も言わなければなりませんので、

「親鸞会の邪義を正す」
化土往生について1


を読んでもらえれば、それなりの思考力のある人なら判ります。

誰も化土往生ができないなどと善知識方が仰っている筈がないでしょう。都合のいいようにしか解釈しないから、いつまでたっても同じことをいわなければなりません。

『阿弥陀経』の解釈については、『教行信証』化土巻

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。
これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。
釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ、善導大師の『法事讃』には、「さまざまな自力の行を修めるものもみな念仏することによって不退転の位を得るがよい」といわれ、また「念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる」といわれている。以上は『阿弥陀経』の顕の義を示すものである。これが真門の中の方便である。
 その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。善導大師の『法事讃』には、「仏がたは次々世に出られて、その本意である阿弥陀仏の本願を重ねてお説きになり、凡夫はただ念仏して、ただちに往生させていただくのである」といわれている。これは隠彰の義をあらわすものである。『阿弥陀経』には「執持」と説かれ、また「一心」と説かれている。「執」という言葉は、心がしっかりと定まって他に映らないことを顕している。「持」という言葉は、散失しないことをいうのである。「一」という言葉は、無二すなわち疑いがないことをいうのである。「心」という言葉は、真実であることをいうのである。『阿弥陀経』は、大乗経典の中で、問うものがいないのに仏が自ら進んで説かれた教典である。だから、釈尊が世にお出ましになったのは、あらゆる世界の数限りない仏がたがこれこそ真実の経典であると明かしてお護りくださる本意、すなわちただ他力真実の法を明らかにすることにあるのである。このようなわけで、すべての衆生のよりどころとなる浄土の教えを広めてくださったインド・中国・日本の七人の祖師方は、他力念仏を説き示し、五濁の世のよこしまな心を持つ人々を導かれるのである。

とあります。
異安心の者がない智恵を絞ったところで、あの程度の理解しかできないのです。

真宗関係者も、それ以外の方も、この議論を見守っています。

親鸞会のお粗末さに、皆一様に呆れていますよ。

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2010年8月19日 (木)

「かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」が理解できない高森会長

異安心で邪義しか説けない高森会長は、断章取義でこれまでと同じことを言うしかない無能さが際立っています。こちらからの質問には全く答えられず、新たな詭弁を考え出す知能も持ち合わせていないようです。

前回、『観無量寿経』の「三心」について述べました。高森会長は、その中心である「深心」が間違っていますので、異安心決定ですが、「深心」が欠けていれば、「至誠心」も「回向発願心」も欠けています。
なんとかの1つ覚えで出している

外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

ですが、これは「至誠心」について善導大師が解説されたところの一文です。
『散善義』至誠心釈

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

深心釈で、善導大師は二種深信を仰っていますので、「罪悪生死の凡夫」は「雑毒の善」「雑毒の行」しかできず、法蔵菩薩と同じ真実心になれないことは誰でも理解できます。善導大師は至る所で、懺悔の告白をなされています。たとえば『往生礼讃』には、

あまねく師僧・父母および善知識、法界の衆生、三障を断除して、同じく阿弥陀仏国に往生することを得んがために、帰命し懺悔したてまつる。

との懺悔の御言葉が並んでいます。
善導大師御自身が「至誠心」を起こせないことを告白なされているのですから、法然上人はこの一文を以下のように解説しておられます。

『選択本願念仏集』三心章

「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐く」といふは、外は内に対する辞なり。いはく外相と内心と不調の意なり。すなはちこれ外は智、内は愚なり。賢といふは愚に対する言なり。いはく外はこれ賢、内はすなはち愚なり。善は悪に対する辞なり。
いはく外はこれ善、内はすなはち悪なり。精進は懈怠に対する言なり。いはく外には精進の相を示し、内にはすなはち懈怠の心を懐く。もしそれ外を翻じて内に蓄へば、まことに出要に備ふべし。「内に虚仮を懐く」と等とは、内は外に対する辞なり。いはく内心と外相と不調の意なり。すなはちこれ内は虚、外は実なり。虚は実に対する言なり。いはく内は虚、外は実なるものなり。仮は真に対する辞なり。いはく内は仮、外は真なり。もしそれ内を翻じて外に播さば、また出要に足りぬべし。

(現代語訳)

「外に賢善精進の相を現わし、内に虚仮を懐く」というのは、外とは内に対する言葉である。すなわち外の相と内の心とがそろわないという意味であって、外には賢者をよそおい内心は愚かなことをいう。善とは悪に対する言葉である。すなわち外には善根をつとめる相を示して内には懈怠の心を懐くことをいう。もし外にあらわす賢善精進の相を内に蓄えて心も賢善精進になるならば、まことに迷いを出る要道にかなうであろう。「内に虚仮を懐く」などというのは、内とは外に対する言葉である。すなわち内の心と外の相とが調わないという意味である。すなわちこれは、内心は虚であり外には実をよそおうことである。虚とは実に対する言葉である。すなわち内の心は虚であり外の相は実なる者をいう。仮とは真に対する言葉である。すなわち内の心は仮であり外の相は真なることをいう。もし内の心の虚仮を外にあらわして相も愚かになるならば、また迷いを出る要となるであろう。

内が賢で外が賢、もしくは内が愚で外が愚、という内外一致させれば「出要に足りぬべし」と仰っているのです。内外不一致を誡められたのが、善導大師の真意とされたのです。

この法然上人の解説を承けられて親鸞聖人は『唯信鈔文意』

「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことばなり。

(現代語訳)

「不得外現賢善精進之相(外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ)」といわれているのは、表だって、自分が立派ですぐれているような振舞いや、善人であるような素振りを見せてはならない、仏道に励んでいるような姿を示してはならないというのである。なぜなら、「内懐虚仮(内に虚仮を懐いて)」だからである。「内」は「うち」ということである。心のうちに煩悩をそなえているから、「虚」なのであり、「仮」なのである。「虚」は「むなしい」ということで、実ではないということである。「仮」は「かりの」ということで、真ではないということである。これらの文字の意味については、すでに示した通りである。この信心は真実の浄土に生れる種となり、実となるべきものであるというのである。それは、いつわりやへつらいを離れた、真実の浄土に生れる因となる信心なのである。わたしたちは善人でもなければ、賢者でもない。賢者というのは、立派ですぐれた人のことである。ところがわたしたちは仏道に励む心もなく、ただ怠けおこたる心ばかりであり、此のうちはいつも、むなしく、いつわり、飾り立て、へつらうばかりであって、真実の心がないわが身であると知らなければならないというのである。『唯信鈔』に「斟酌しなければならない」といっているのは、自分自身がどのようなものであるかということを知り、それにしたがってよく考えなければならないという言葉である。

と、仰っています。「かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」とまで、はっきりと仰っています。往生のためには、善をするな、です。善をせよ、との意味である訳がないでしょう。
また最後の「ことのありさまにしたがうて、はからふべし」は、『教行信証』化土巻・要門釈の結論である

濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と同じことです。出離できるような善ができる自分なのかをよく考えよ、と厳しく仰っているのです。
親鸞聖人の御著書のどこを読んでも、

往生のためには、往生と関連付けて善をするな

としか仰っていません。もちろん往生とは無関係と思って善をすることは当然なことです。親鸞会のように、往生と関係付けてする善を「雑行」と言われて、捨てよと善知識方が口を揃えて仰っています。
それにも関わらず善導大師の御言葉を断章取義して、

これが善を勧められた根拠である

と声高に叫んでいるのは、どこまで愚かなのでしょうか。

至誠心」「深心」「回向発願心」の「三心」すべて欠けている高森会長から、会員さんは何を得ようとして会に留っているのでしょうか。

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報土往生・化土往生・必堕無間と二種深信との関係

法然上人は「念仏往生義」で

善根無ければ、此の念仏を修して、無上の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

と教えておられます。

これまで善をしてこなかったならば、念仏して、この上ない功徳を得るべきです。それに対して、善を沢山してきた人々は、たとえ念仏しなくても極楽浄土へ往生できると、自力の善根をあてにしてしまうものなのです。
だから善導大師は『往生礼讚』にて、「自分はこれまで善根をわずかしか積んでこなかった者であると信じて、阿弥陀仏の本願を信じて念仏しなさい」と勧められています。
『大無量寿経』には、「一回阿弥陀仏の名号を称えたならば、無上の功徳を得る」と説かれています。まして、念仏を相続することは言うまでもないことです。
だから、これまで善根を積んでこなかったからといって、念仏した者が浄土往生できることを疑ってはなりません。

ということですが、親鸞会では逆です。これまで善をしてこなかった宿善の薄い者は、今生で宿善が厚くなるように善に努めなければならないと教えます。一方で、念仏を称えよと教えることはありません。

前回、法然上人の「極悪最下の人のために極善最上の法を説く」という御言葉を紹介しましたが、善根のない「極悪最下の人」に対して今さら善を勧められる訳がないです。勧められているのは「極善最上の法」である念仏だけです。経典・善知識方の御著書を全く読んだことがないから、超低レベルの間違いをするのです。

『玄義分』には

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

とありますが、善ができずに自分の力では決して出離のできない「極悪最下の人」に、「極善最上の法」たる念仏によって往生させて頂くのが浄土門の教えです。諸善と念仏との違いが判らない親鸞会では、念仏称えたくらいで化土往生できるものではない、ととんでもないことを言っていますが、聖道門と同じ非難をしていることに気が付いていない愚か者集団です。万善万徳の備わった名号ということさえも知らないのでしょうか。

ここで重要なことは、『観無量寿経』に説かれる「三心」を具した念仏かどうかで、報土往生か化土往生かに分れるのです。「三心」とは、「至誠心」・「深心」・「回向発願心」のことです。「深心」とは、「深信」のことであり、二種深信であり、これを開けば七深信になります。何度も述べてきた通りです。

存覚上人は『六要鈔』の中で二種深信を

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

と解説されています。
機の深信は、善の有無に関係なく、自分の力では出離できない(自力無功)
法の深信は、阿弥陀仏のお力によってのみ出離できる(他力全託)
なのです。
これに異議を唱えたO講師とそのバックにいる高森会長は、二種深信ではないから、異安心と申したのですが、いつまで経っても全く反論してこないのです。聖教に基づいての批判には、とことん弱いのが高森会長であり、親鸞会です。大沼法竜師の味わいが、正しい解釈と本気で思っていたので、絶句しているのでしょう。激しく動揺しているのか、あるいは詭弁を教学課と検討中なのかもしれません。

二種深信ではない、「深心」の欠けた自力の信心で念仏を称えている人は、報土往生はできませんが、阿弥陀仏の御慈悲によって化土往生になるのです。
それが『末灯鈔』

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。

の御言葉です。
しかし、異安心で、かつ念仏を誹謗している高森会長や講師部員は、化土往生はできません。残念ながら必堕無間と教えられています。

報土往生・化土往生・必堕無間と二種深信との関係についてまとめましたが、何処にも矛盾がありません。これでもなお矛盾と思えるならば、それは信仰の問題ではなく知能の問題です。

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2010年8月17日 (火)

極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり

以前の親鸞会であれば、高森会長を異安心呼ばわりすれば、血相を変えて、反論したものです。それが今や、「異安心決定でいいですね」、と何度も念を押しても、反論の素振りさえみせません。
ブログの更新を心待ちにしていても、書いてくるのは、相変わらずの断章取義をした根拠と捏造創作教義だけ。

最近は高森会長が陣頭指揮をとって、ブログを書くと、すぐに逃亡です。mixiの時もそうでした。自信満々で出した根拠が全く違う意味と指摘されて、驚くのでしょうね。

過去の法論も、形勢不利になると、決まって一念の信心について述べ始めて、信心の無いものには判らん世界だと言い放っていましたが、その手はもう通用しません。高森会長の言う一念の信心がおかしいと根拠を挙げて指摘すると、親鸞会の主張はあっけなく崩壊します。脆いものです。

さて、十方衆生は五逆謗法の者といういつもの珍しき教えを書いていますが、読解力に大いに問題があるのか、判っていて騙す意図があるのか、これ以外に言うことはできないのでしょう。

『御文章』を根拠にしていますが、「十悪五逆の罪人」とは『観無量寿経』にある下品下生の者のことを指していることが判ります。「十悪五逆の罪人」「五逆誹謗正法」の者でも救うと誓われたのが阿弥陀仏の本願であるということです。
何度も挙げていますが、『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とありますように、

十方衆生=五逆謗法

ではありません。このことについては、当ブログでも何度も述べてきました。

五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり
惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く
『浄土論註』を読んだことがある訳ない
未造業はいないというワシの解釈が正しいから理屈抜きで信じよ

三乗の五逆罪
謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。
味わいと教義は異なります

「親鸞会の邪義を正す」十方衆生≠極重の悪人でも書いてあります。

また「親鸞会教義の誤り」にも詳しく解説されています。「Kさん」は、「親鸞会教義の誤り」の該当部分をコメントとして書いたそうですが、やはり無視です。

以前にも書きましたが、下品下生の「十悪五逆の罪人」に対して釈尊が説かれていることは、念仏だけです。間違いではありますが、もし

十方衆生=五逆謗法

と教えるならば、

十方衆生に念仏1つを勧められていて、善は勧められていませんよ

といえば辻褄があいます。『観無量寿経』には、定散の機と上品上生から中品下生までしか善は勧められていませんが、親鸞会では五逆謗法である十方衆生に善を勧められていると主張し続けていて無茶苦茶な解釈です。異安心の善知識には矛盾ではないのかもしれません。なぜなら『観無量寿経』も『観無量寿経疏』も読んだことがないから無知なだけです。

法然上人は、下品下生に対して念仏が説かれて勧められている理由を『選択本願念仏集』

問ひていはく、すでに念仏をもつて上上と名づけば、なんがゆゑぞ、上上品のなかに説かずして下下品に至りて念仏を説くや。

答へていはく、あに前にいはずや。念仏の行は広く九品に亘ると。すなはち前に引くところの『往生要集』に、「その勝劣に随ひて九品を分つべし」といふこれなり。しかのみならず下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。
 

(中略)

このなか、五無間罪はこれ五逆罪なり。すなはち醍醐の妙薬にあらずは、五無間の病はなはだ療しがたしとなす。念仏もまたしかなり。往生の教のなかに念仏三昧はこれ総持のごとく、また醍醐のごとし。もし念仏三昧の醍醐の薬にあらずは、五逆深重の病ははなはだ治しがたしとなす、知るべし。

(現代語訳)

問うていう。すでに念仏をもって上上というならば、どういうわけで上上品の中に説かないで、下下品に至って念仏を説くのであるか。

答えていう。前に念仏の行はひろく九品にわたるといったではないか。すなわち前に引いた《往生要集》の中に「その勝劣に随って九品を分けるべきである」というのがこれである。それに加えて、下品下生は五逆の重罪を犯した悪人である。しかるによく逆罪を滅ぼすことは、諸行のできないところであって、ただ念仏の力のみが、よくその重罪を滅ぼすことができる。それ故、極悪最下の人のために極善最上の法を説かれるのである。例えば、かの迷いの源である無明の病は、仏法の肝要である中道を観ずる薬でなかったならば、治すことができないようなものである。いまこの五逆は重病の源であり、またこの念仏は霊薬の肝要である。この薬でなかったならば、どうしてこの病を治すことができきょうか。 

(中略)

この中で五無間罪というのは、五逆罪のことである。すなわち醍醐の妙薬でなかったならば、五無間の病は甚だ治しがたい。念仏もまたその通りである。往生教の中で念仏三昧は総持のごとく、また醍醐のようである。もし念仏三昧の醍醐の薬でなかったならば、五逆の深重の病は甚だ治しがたいのである。よく知るべきである。

と、重病と妙薬のたとえをもって、教えて下さっています。

よく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。
極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。

法然上人は、十方衆生が極悪最下とは仰っていません。以前にも述べた通りです。

高森会長と講師部員に、「十悪五逆の罪人」「五逆誹謗正法」の者という自覚がもしカケラでもあるのなら、今さら善をしようとは思わないし、他人にも勧めないでしょう。結局は、会員からお金を出させる口実を作っているだけです。
知りもしない他人の罪悪を自分と同じと論じている暇があれば、念仏誹謗の高森会長と講師部員は自分の後生を案じるべきでしょう。

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2010年8月16日 (月)

異安心の者による邪義、秘密の法門が親鸞会教義

O講師のブログ「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」は、O講師の手を離れて、高森会長直々の”御指導”により教学課が書いているようです。mixiもそうでした。

しかし、自信満々に書いても、簡単に論破され、反論できずに論点をずらし、そこでも論破され、反論できず論点をずらすの繰り返しです。教学もやり方も、実に幼いです。

毎度毎度のことで、驚くことでもありませんが、教学も人格もこんな低レベルの人物を長年信じてきたのかと思うと、自分が恥ずかしいです。

高森会長が反論できずに逃げた主な内容は、

・釈尊が韋提希に善を勧められていないと善知識方が仰っている
・極重の悪人には、権仮方便(聖道門・19願・20願)は不要である
・高森会長の説く二種深信が善導大師・親鸞聖人とは大きく異なっている
・後生の一大事の意味が違っている
・化土往生の人が多いと源信僧都・親鸞聖人・蓮如上人が仰っている
・極重の悪人でも、易く行じられるのが称名念仏である

です。特に二種深信については、信心そのものですので、「Kさん」や私の言っていることに反論できなければ、高森会長は異安心決定ですよ、と念を押したにも関わらず、その後のブログでは無視です。

以下のようなことを上から目線で言っていましたが、

残念なことに善導大師、親鸞聖人の
「機の深信」のお言葉でさえ、
この程度の意味でしか
理解していないのだから、
後はおって知るべしであろう。

機の深信の真実の相が
間違っていて、
その世界に救われることが
できるのか。

徹底した二種深信がない為に、
称える念仏を己れの善根として、
これだけとなえているから
大丈夫という心が去らないから
他力真実の信心が
獲得出来ないのだ。

それならば、

「私は異安心です」

と高森会長が認めたということです。そして、善知識方の御言葉をそのまま解釈せずに、文底の意味を高森会長の”安心”に基づいて汲み取ったものは、完璧な邪義であるということです。

異安心の高森会長による文底秘沈の教えが、親鸞聖人の正しい教えであることは、あり得ません。

『唯信鈔文意』『一念多念証文』の最後には以下のことを仰っています。

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、仏教の言葉の意味もわからず、教えについてもまったく無知なのである。だから、そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、同じことを何度も繰り返し繰り返し書きつけたのである。ものの道理をわきまえている人は、おかしく思うだろうし、あざけり笑うこともあるだろう。しかし、そのように世間の人からそしられることも気にかけず、ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、書き記したのである。

無学の人でも理解できるようにと書かれた御著書を、書かれてある文面とは全く別の意味で教えている「あさましき愚痴きはまりなき」高森会長は、高森教を開いたのでしょう。
『なぜ生きる』『歎異抄をひらく』という秘密の法門を根本聖典として。

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2010年8月15日 (日)

「念仏は修しやすし、諸行は修しがたし」も知らないお粗末親鸞会

極重の悪人は、自力念仏を称えることもできないと信じがたい邪義を親鸞会では唱えています。

諸善と念仏との関係について、法然上人は詳しく教えられました。その中で難易という観点で以下のように仰っています。

『選択本願念仏集』

次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。
このゆゑに『往生礼讃』にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、観をなさしめずしてただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるや。
答へていはく、すなはち衆生障重く、境は細く心は粗し。識颺り神飛びて、観成就しがたきによるなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちにもつ
ぱら名字を称せよと勧めたまふ。まさしく称名の易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」と。[以上]
また『往生要集』(下)に、「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを

修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。

(現代語訳)

次に難易の義とは、念仏は修め易く諸行は修め難い。
それゆえ《往生礼讃》にいわれてある。
問うていう。どうして観察の行を勧めないで、ただもっぱら名号を称えさせられるのか。これにはいかなる意味があるのか。
答えていう。それは、衆生が障りが重く、観ずるところがこまやかであるのに、心はあらく、想いが乱れ飛んで、観察の行が成就しがたいからである。そう
いうわけで、釈尊はこれを哀れみくださって、ただもっぱら名号を称えることを勧められたのである。これはまさしく称名の行がたやすいから、これを相続
して往生することができるのである。
また《往生要集》に、
問うていう。すべての善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答えていう。いま念仏を勧めることは、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも低いものでも、行住座臥
の区別なく、時・処やいろいろの場合を論ぜず、これを修めるのにむずかしくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏
に及ぶものはないからである。
といわれている。
故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。
そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

親鸞聖人も『教行信証』行巻に念仏諸善比挍対論をされて、最初に

難易対

とあります。

諸善は難行であり、念仏は易行である。

ということです。
念仏が凡夫にできない難行だなどと仰った方は、ある筈もありません。

また19願の諸善と20願の自力念仏については、親鸞聖人は『教行信証』化土巻でそれぞれ教えられました。
要門釈では最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

(現代語訳)

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。すなわち、すでに慈悲の心からおこしてくださった第十九願がある。

と、『観無量寿経』の定散二善、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であると仰り、

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

と、「濁世の道俗」は定散二善、19願が実践できるような能力はないから、易行である念仏一行を勧められた結論となっています。

一方、真門釈は、

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓[この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。

(現代語訳)

この五濁の世の出家のものも在家のものも、速やかにこの上ない功徳をまどかにそなえた真門に入って、難思往生を願うべきである。真門の方便には、行に善本と徳本の名がある。また定善の専心があり、散善の専心があり、そして定善・散善の雑心がある。雑心とは、大乗・小乗の聖者や凡夫、すべての善人や悪人がそれぞれに、正定業と助業の区別を知らず、本願を疑う自力の心で名号を称えることである。まことに、名号はこの上ない功徳をまどかにそなえ、ただちにさとりに到る他力真実の法であるが、これを修めるものが、自力を離れることができず、速やかにさとりに到ることのできない衆生なのである。行は専すなわち念仏一行であるが、これを修める心は雑すなわち本願を疑う自力の心である。だから雑心というのである。定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。善本とは阿弥陀仏の名号をいう。この名号は、あらゆる善をまどかにそなえているのであり、すべての善い行いの本であるから、善本というのである。徳本とは阿弥陀仏の名号をいう。この名号は、一声称えるときこの上ない徳がその身に満ちてあらゆる罪がみな功徳に転じるのであり、過去・現在・未来のすべての仏がたにそなわる徳の名の本であるから、徳本というのである。
そこで、釈尊は、念仏を称える功徳によって、すべての五濁の世のものを導かれ、阿弥陀仏は、そのもととなる果遂の誓いをおこして、あらゆる迷いの人々を他力念仏の法に引き入れてくださるのである。すなわち、慈悲の心からおこしてくださった第二十願がある。

ですが、最初に20願を勧めておられます。19願を勧められたお言葉は親鸞聖人の御著書のどこを探しても全くありません。できないことを勧められる筈がないからです。しかし、20願を勧められたお言葉が、ここにあります。そして、「大小・凡聖・一切善悪」が自力念仏をしていることを仰っています。
その結論として、

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
(中略)
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。もっぱら念仏しても、自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。
(中略)
 悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

と仰っています。最初は20願を勧められて、最後は20願では真実信心は獲られず、報土往生できないことを仰っています。要門19願と比較すれば、余程真実に近いので、一端は真門20願を勧められていますが、最後は誡められて弘願18願に帰することをこの後の三願転入の文で結論となされたのです。

このように19願の諸善と20願の自力念仏の扱いは、大きく異なっているのです。19願の諸善はできないからするな、20願の自力念仏は真実に近いから一端は勧められても最後は、化土往生しかできない行信であるから廃すべきものとされました。
20願自力念仏が誰もできないもの言っているのは、外道の教えです。

親鸞会は、教団名から「浄土真宗」と「親鸞」を早く外して下さい。

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2010年8月14日 (土)

五逆・十悪の罪人、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる

親鸞会で教えていることは、根拠のない独自の理論でしかありません。獲信のための善の勧めは、その典型です。『観無量寿経』で、極重の悪人に対して何を勧められているのかさえ判っていません。創作アニメの「王舎城の悲劇」が『観無量寿経』の内容と錯覚しているのでしょうが、実にレベルの低い話です。

『観無量寿経』の下品下生

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。

親鸞聖人は『唯信鈔文意』に解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

上品上生から中品下生までは釈尊は三福(行福・戒福・世福)を勧められています。『観無量寿経』を読めば明らかなことです。
一方で、下品上生から下品下生までは、諸善を勧められていません。悪人には善ができないからです。極重の悪人に対して釈尊は、念仏1つを勧められているのです。臨終の悪人でもできる易行が念仏です。どんな極重の悪人でも救うためには、易行でなければなりません。それが称名念仏なのです。

度々紹介していますが、これを『往生要集』には、

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と教えられています。当然なことを源信僧都が仰ったに過ぎません。念仏以外に、善という他の方便は勧められていません。

それなのに、悪人には念仏もできないとO講師(もしくは後ろにいる人物)が書いているのは、阿弥陀仏の本願を根底から覆すとんでもない邪義です。真宗でもなければ、浄土仏教でもなく、仏教でさえありません。いくら無知であるとしても、本気でこんなことを言っている人物は、真実信心を獲ていない異安心であることに疑いの余地はありません。

以上のことを解説されながら全人類が五逆罪を造っているということではないと仰った法然上人のお言葉を紹介しておきます。

『勅伝』「太胡太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事」

一々の願の、終わりに、もし爾らずば、正覚を土らじと、誓い給へり。然るに、阿弥陀仏、佛になり給いてより、この方、既に十劫を、へ給へり。当に知るべし、誓願虚しからず。然れば、衆生の稱念する者、一人も、虚しからず、往生することを得。もし、しからずば、たれか、佛になり給へることを信ずべき。三寶滅盡の、時なりと、雖も、一念すれば、尚往生す。五逆深重の、人なりと、雖も、十念すれば、往生す。いかに況や、三宝の世に生まれて、五逆を、作らざる我ら、弥陀の名号を、称へんに、往生疑うべからず。今、此の願に、遭える事は、実に、これ、朧気の縁に非ず。よくよく、悦び、思し召すべし。例え又、遭うといえども、もし信ぜざれば、遭わざるが如し。今深く、此の願を信ぜさせ給へり。往生疑い思し召すべからず。必ず必ず、ふた心なく、よくよくお念仏候て、この度生死を、離れ、極楽に、生まれさせ給うべし。

善知識方の仰せと真逆の主張に、耳を傾ける価値は全くありません。

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2010年8月13日 (金)

高森会長は異安心決定でいいですか、O講師。

O講師は相変わらず愚かなことを書き続けています。親鸞聖人の御著書を読んだことが無いことは以下の発言で明らかです。

「この善ができれば
 化土往生できるからやりなさい」

「この念仏を称えたなら
 化土往生できるから称えなさい」

と、勧めるのだ。

親鸞聖人が化土往生を勧めたと本気で思っているのでしょうか。
『教行信証』を読む能力はないでしょうから、『正像末和讃』誡疑讃を読むといいでしょう。しかし、誡疑讃を読んでこれが三願転入を勧めた御和讃という素晴らしい会長もいますので、理解できないのでしょう。

誡疑讃について教えてあげて下さい

に詳しく書きましたので、そちらを御覧下さい。

さて、偽僧侶のブログは、2ヶ月前に私との議論に破れて逃走していましたが、O講師と歩調をあわせるように、化土往生について突然述べてきました。もちろん、過去に議論で破れたことなどなかったことにして、今回も既に論破した内容を理解できず、あるいは理解したくなくて、恥の上塗りをするために現われました。

偽僧侶との過去の議論については

「定讃諸機」とは
自惚れているのは誰か?

親鸞聖人の19願観
無解の一道? 無下の一道?
異安心は誰か?

これらを読んで頂ければ、結構です。

ブログを書き続けると、過去のエントリーが埋もれてしまいます。それを狙っているのでしょう。mixiでのこうへい氏と全く同じで、過去を無視しますので何度も何度も同じことを書かなければなりません。

それで、mixiでこうへい氏の相手であったsutybi氏に依頼して、当ブログで書いてきた内容を焦点を絞ってまとめてもらうことにしました。

親鸞会の邪義を正す

です。こちらを読んで頂ければ、再度説明する必要がなくなります。現在は以下のことについてです。

なお、「親鸞会教義の誤り」「清森問答」でも、化土往生について書いて頂きました。
聖教上の根拠は誤魔化しようがありませんが、高森会長の体験に則った珍解釈を根基として親鸞会のブログが書かれています。
高森会長の説く「機の深信」についての誤りを前回指摘しましたが、これについて反論がありません。

高森会長が異安心であったならば、珍釈は完璧な邪義にしかなりません。講師部員に言っておきます。

前回自信満々に書いてきた「機の深信」についての誤りを書きましたが、その反論を求めます。反論がなければ、高森会長は異安心決定です。

なお、O講師の挙げた『教行信証』化土巻の根拠

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

は、「本願の嘉号をもつておのれが善根」としている「大小聖人、一切善人」は、流転するとは書かれていません。「報土に入ることなきなり」ですから、化土往生ということを仰っているのです。これが化土往生は誰もできない根拠だと解釈するのですから、救いようがありません。

また「垢障の凡愚」も「出離その期なし」であって、必堕無間ではありません。

異安心者の邪義を宣伝している親鸞会講師部員は『御消息』

ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

と親鸞聖人が教えられた通り、必堕無間でしょう。邪義を聞いている会員が必堕無間の罪になるのではありません。

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2010年8月12日 (木)

高森会長による体験至上の異安心の「機の深信」とは、この程度のもの

高森会長による体験至上の異安心のO講師に、善知識方の化土往生のお言葉を根拠にあげても、通じないことがよく分った。 化土往生について仰った善知識方の根拠については、まともにコメントさえできない。そして同じ屁理屈を繰り返すだけ。なにより、善導大師、親鸞聖人が教えられた二種深信とは、まるで違う親鸞会の安心。

O講師は、相手の主張をねじ曲げ、何か適当なことをいえば誤魔化せると思っているところが、こうへい氏やM野氏ではないyo氏と同じですね。

少しは向上したらどうかとアドバイスをしたくなります。

O講師の以下の言葉

「『自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、
  昿劫より已来常に没し常に流転して、
  出離の縁有る事無し』
 と、深信す。」
   (機の深信)

のお言葉で、化土往生できるものが
いる筈がないことは歴然としている。

これは、親鸞会のレベルの低さを物語っています。念仏の話を諸善とすり替えることでしか対処ができないのです。

化土往生については、善知識方のお言葉を否定できませんでしたので、

誰一人化土往生できないというO講師の主張は邪義である

と結論がでました。最初から判っている当たり前の結論です。

さて、O講師は機の深信に話を逸らしてきましたが、その意味も違います。「Kさん」がコメントしておられます。

二種深信について無知のOさんのために解説しておきましょう。

善導大師の機の深信は、『散善義』

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

が有名ですが、もう一つ『往生礼讃』にもあります。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。

親鸞会では、救われたならば、

すべての人は無善造悪である
19願・20願は18願に入るために必ず通る道程

ということが、知らされると思い込んでいるようですが、それは親鸞聖人の教えを何も解っていない異安心の人の妄想です。

『往生礼讃』

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

の善導大師のお言葉は、親鸞会の主張と矛盾しますので、親鸞会からすれば、善導大師は異安心になりますし、この善導大師のお言葉を引かれて信心を説明されている親鸞聖人も異安心になるのでしょう。

救われて知らされることについて、善導大師、親鸞聖人は、七深信で教えられています。

『愚禿鈔』に七深信についての簡単な説明があります。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

最初の二つが二種深信です。二番目の法の深信を開いたものが、三番目から七番目までです。

三番目が、何度も紹介しています「欣慕浄土の善根」です。『観経』に説かれている定散二善は、聖道門の人に浄土を願い慕わせる善ということです。

少し長いですが、重要なところですので、『教行信証』信巻に、七深信で『散善義』から引かれている部分を挙げておきます。

深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。

また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。

また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}

釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。

なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。

次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}
すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。

古文が読めないでしょうが、現代語訳は自分で調べておいてください。それくらいの勉強を自分でしなければ、高校生に笑われますよ。

さて五番目は、

仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。

とありますように、教えられるとおりに、捨てよと言われたら捨てる、行じなさいと言われたら行ずる、近付くなといわれたら近付かない、なのです。

諸仏の勧められていることは、念仏です。念仏が称えられないなどとアホなことを公言しているから、皆から見下されているのです。往生の為には諸善を捨てよ、が諸仏の仰せです。

一方親鸞会の教えていることは、

仏の捨てしめたまふをばすなはち拾わせ、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ぜず。仏の去らしめたまふところをばすなはち近付く。

です。
六番目、七番目も含めて善についての扱いがまるっきり反対です。19願・20願は、18願への道程ということではありません。「捨てしめたまふ」ものが何かも知らないでは、御粗末です。

救われて知らされることは、

自分の力では、出離して仏になるような善はできない。(悪しかできないということではない)
諸善は聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、浄土門に入ったならば18願で救われるために捨てさるべきもの。

です。

異安心の高森会長に教えてあげて下さいね、念仏誹謗のOさん。

高森会長による体験至上主義で作られた教義と安心での二種深信とは、この程度のもの。

O講師の

残念なことに善導大師、親鸞聖人の
「機の深信」のお言葉でさえ、
この程度の意味でしか
理解していないのだから、
後はおって知るべしであろう。

そのままお返しします。

親鸞会は、真宗教義の基礎の基礎さえ知らないのですね、と元会員の方がしみじみといわれていました。全くその通りです。それでいて自分よりも親鸞聖人の教えに詳しいものはいないと思っている”無二の善知識”と、その弟子たちは、喜劇役者ですか。

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2010年8月11日 (水)

肝心な根拠が一切出せず、親鸞会理論の押しつけだけ

O講師は相変わらずです。親鸞会の法論の汚い手口はいつも同じです。コメントを公開せずに、相手の主張をねじ曲げて、関係ない根拠を出してきては、珍しき理論を長々と書いています。

こうへい氏と同じで肝心な根拠1つ示せないのです。なぜなら、そんな根拠はないからです。ないから、珍しき理論しか書けないのです。ですから、親鸞会は真宗でもなければ浄土仏教でもないのです。

「Kさん」が、昨夜コメントした内容です。

善知識方が化土往生は誰もできない、と教えられた根拠は示せないから、いつもの屁理屈を並べています。

親鸞会で教えられてきた邪義が邪義と理解できないから、自己矛盾も分からないのです。
Oさんが出してきた根拠にだけ答えておきましょう。

>「『自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、
>  昿劫より已来常に没し常に流転して、
>  出離の縁有る事無し』
> と、深信す。」
>   (機の深信)

自分の力では出離することができない、ということです。

>「一切凡小一切時の中に、
> 貪愛の心常に能く善心を汚し、
> 瞋憎の心常に能く法財を焼く。
> 急作・急修して頭燃を灸うが
> 如くすれども、
> 衆て「雑毒・雑修の善」と名け、
> また「虚仮・諂偽の行」と名く。
> 「真実の業」と名けざるなり。
> この虚仮・雑毒の善を以て、
> 無量光明土に生ぜんと欲す、
> これ必ず不可なり」
> (教行信証信巻)

虚仮・雑毒の善しかできないから、報土には往生できない、ということです。

どこに矛盾があるのでしょうか?
諸善と念仏とをあえて混同させているところが、親鸞会らしい汚い論法です。

親鸞会理論に付きあっても仕方がありませんので、根拠で話をさせて頂きます。

先日挙げた『往生要集』信毀因縁を前の問答も併せて再度出しておきます。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。

『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。

まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。しかも諸師の所釈、繁く出すことあたはず。

『往生要集』報化得失

雑修のものは執心不牢の人となすなり。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらにしてこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生るるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生るるもの少なからず。ゆゑに経に別に説けり。実には相違せず。

これを『教行信証』化土巻に親鸞聖人は引いておられます。

また『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

『末灯鈔』2

「行者のおのおのの自力の信にては、懈慢・辺地の往生、胎生・疑城の浄土までぞ往生せらるることにてあるべき」とぞ、うけたまはりたりし。
(中略)
仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。

『末灯鈔』12

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

『正信偈大意』

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。

これらがすべて机上の空論であると否定される訳です。だから念仏誹謗と言っているのがどうしても理解できないようですね。

一方で、三願転入に関する根拠は、1箇所しかないのにこれこそが親鸞聖人の教えの根基と大沼法竜氏の言葉を盗用しています。参考までに大沼氏は親鸞会で主張している意味で、三願転入の説明をしたのではありません。

三願転入の意味については、何度も書いたのに理解できないのでしょうか?
分かりやすく言えば、絶対他力の18願での往生を願っている人(これを宿善の機と蓮如上人は仰った)に対しては、19願から始めなければならないという親鸞会の主張は、邪義だといっているのです。しかし、18願での往生をとても信じられず、善をしなければならないと自力に執心している人(これを無宿善の機と蓮如上人は仰った)に対しては、18願を信じようとしないのですから、権仮方便をもって、19願、20願を説かれるのです。

この違いが理解できないのが、Oさんのお目出たい思考なのです。

親鸞会理論は結構ですので質問に答えて下さい。

早く、善知識方は
誰一人化土往生できないと
仰っておられるのか。
おられないのか、
お答えください

親鸞会理論はどこまでいっても、根拠のない、あるいは根拠を歪曲捏造した親鸞会独自の理論です。まともな根拠を挙げることすらできません。

それにしても極重の悪人には念仏を称えることもできないとは、謗法罪も甚だしいことです。善のできない極重の悪人に対して念仏を用意された阿弥陀仏を蔑ろにする許し難い発言です。そんなことがどこに書いてあるのか、と質問することさえも憚られる程の冒涜発言でしょう。聖教を読んだことがないことだけは確かです。

『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

これはO講師のことでしょう。念仏の功徳を信じないで謗っているO講師は、まさに地獄に堕ちて苦しみを受け続けるのです。哀れですね。

五逆罪・謗法罪を全人類は犯していると未だに言いたいようですが、それも根拠を出さずに、ただ呟くのでは、単に負け犬の遠ぼえです。

自分が五逆・謗法を平気で造っているから、お前らも同じだという親鸞会の傲慢さに、皆呆れ果てています。

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2010年8月10日 (火)

「一切衆生必堕無間」を正当化するために、善知識方のお言葉を否定するO講師

O講師は、読解力に問題があるのか、思考に問題があるのか、これまで「Kさん」のコメントがまるで理解できていません。

七高僧、三聖人など善知識方は
方便である十九願、二十願の教えは
一切、説いていないと
非難攻撃してきたではないか。

一切説いていないと誰が主張したのでしょうか?
善知識方は、18願しか勧められていないといったのが理解できないのか、相手の主張をすり替えたいだけなのか。権仮方便として説かれていると親鸞聖人は仰っていると何度も書いているのに、どういう理解をしているのでしょうか?

いずれにしても、お粗末です。善のできる方々もある中で、善のできない我々凡夫もいるのです。
もう一度

『観経』も『観経疏』も読んだことが無いのに、知ったか振り

を読んで下さい。

19願の定散二善は聖人(善人)のためのものであって、末法の我々極重の悪人にはできないことです。しかし、たとえ定散二善を実践できたとしても、化土往生しかできず、他力信心は獲られないと仰っているのです。だからといって、定散二善は誰もできないということではないことくらい理解してほしいものです。理解したくないのかもしれません。

一方、20願の自力念仏については、浄土門の人の大半がこれです。親鸞聖人が化土往生について仰っているのは、自力念仏についてばかりです。O講師のようなことを言っているのは、誡疑讃を読んだことがない証拠です。
誡疑讃23首の中で、19願自力修善について明らかに仰ったのは1首だけです。

大体自力念仏ができないとは誰かいったのでしょうか?
逆に自力念仏の人ばかりであることは、親鸞会でも教えている通りではないですか?

「一切衆生必堕無間」という珍しき教えが染みついているので、善知識方が化土往生について教えられたお言葉は、机上の空論としか思えないのでしょうが、机上の空論のために、親鸞聖人がここまで力を入れられて化土往生を願うことを誡められたと本気で考えているのでしょうか?
だとすれば、お目出たいことです。

ちなみに「Kさん」が今朝コメントされた内容は以下です。

Oさん、これまでコメントしたことが理解できないのか、読んでいないのか。

>十九願、二十願が十八願の救いに
>関係がないから、勧めてもいないのだろう。
>勧めてもいないのに
>なぜ、十九願・二十願を行ずる人が
>一杯出てくるのか。

19願・20願は、機に応じて説かれた権仮方便ということが、お分かり頂けませんか?
18願1つと善知識方はお示しになれられましたが、すべて他力で自力が全く要らないというのが信じられない人がいるから、そんな人に権仮方便として説かれているのです。

ところが権仮方便をいつまでも真実と考えて、実践する人が一杯出てくるのです。浄土宗は、法然上人のお亡くなりになられた後、聖道門からの執拗な非難によって、諸行往生を肯定する考え方も出てきているのです。それで、「自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす」と蓮如上人は仰っている通りです。

今まで散々書いてきたのですが、聖道門を信じてきた人を、浄土門に導き入れるのに、真実18願は信じ難いのです。それで、聖道門の人にも信じやすい方便19願を建てられ、19願を信じている人を20願に導き、最後18願に転入させる、これが三願転入の意味です。

しかし親鸞会のように教えを間違えている人がたくさんいたし、今もいるということです。

>「善などできない韋提希に
> 善を勧める筈がない」
>
>「善のできない我々に
> 三願転入の教えを説かれる筈がない」
>
>と断言しながら、十九願を行ずる人、
>二十願を行ずる人は一杯いて、
>みな化土往生できるとは
>どういうことか。

善ができる聖人(善人)があったし、善ができると思っている聖道門出身の人はたくさんいます。
方便と分からず、19願・20願に心を留めている人がいるのです。方便の行信のままであれば、受ける利益も方便になり、それを化土というのです。

先のコメントでも書きましたが、方便が方便と分からずに真実と思っているから、方便になるのです。親鸞会は、19願・20願は方便だからせよ、というのは方便の意味が根本的に間違っています。そんな考え方でみれば、矛盾に思うのでしょうが、矛盾でもなんでもありません。

ただし、真宗を信じているといいながら、外道を信じている者達がいる、と親鸞聖人が嘆かれたのがOさんの出された根拠です。
それらの人は、真実の救いを自他共に妨げているのですから、厳しく戒めなければなりません。当然なことです。邪義の行信は、そういう利益、つまり地獄なのです。

親鸞聖人、蓮如上人が地獄に堕ちると仰ったところは、邪義、異安心の者に対してばかりです。

『阿弥陀経』の「一心不乱」について、親鸞聖人は『浄土文類聚鈔』

『経』(小経)にのたまはく、「名号を執持す」と。「執」といふは心堅牢にして移らず、「持」といふは不散不失に名づく。ゆゑに「不乱」といへり。執持はすなはち一心なり、一心はすなはち信心なり。しかればすなはち、「執持名号」の真説、「一心不乱」の誠言、かならずこれに帰すべし。ことにこれを仰ぐべし。

と仰っています。真実信心のことです。

ちなみに、後生の一大事の意味が親鸞会は間違っています。
紅楳英顕氏の『派外からの異説について』をOさんは読まれたことがないでしょう。
高森会長が不都合な論文として、『本願寺なぜ答えぬ』には、全文を掲載しなかったのですから。
そこには後生の一大事について書かれています。

 次に、後生の一大事の問題についてであるが、これについて、高森親鸞会は
  後生の一大事とは何か。人間は必ず一度は死なねばならない。では人間は
  死んだらどうなるか。釈尊は必堕無間と、四十五年間叫びつづけられた。
  「一切の人は死んだら必ず無間地獄におち八万劫年の間大苦悩をうけねば
  ならない」これを後生の一大事という。(『顕正新聞』第205号)
  仏法を聞く目的は後生の一大事の解決に極まる……一大事というは取り返
  しのつかないことを言うが、それは無間地獄に堕在するということである。
  曽無一善・一生造悪が我々の実相であるから、因果の道理に順じて、必ず
  無間地獄へ堕ちる、これを経典には必堕無間と説かれている。(『白道もゆ』
  137頁)
  親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示された生死の一大事とは、ど
  んなことかといいますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、
  総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕
  ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。(『こんな
  ことが知りたい』①6頁)

等と主張している。後生の一大事を「必ず無間地獄に堕ちる」という意に取り
切り、しかも、これによって恐怖心をあおり「悲泣悶絶」の苦しみを経ねばな
らぬという、いわゆる機責めの傾向がうかがえるのである。これに対して、私
は疑義を呈し、論文で「後生の一大事ということは、往生浄土(極楽)の一大事、
あるいは往生浄土(極楽)出来るかどうかの一大事、という程度の意味」である
との見解を示したわけである。
 『本願寺の体質を問う』では、こうした私の見解に対する反論非難が行われ
ているのであるが、これについても、前の宿善論と同様、宗祖聖人や蓮如上人
の上ではっきりした文証を挙げての反論ではないから、私は反論とは認められ
ないと考えている。
 「後生」とは、文字通りの意味は「今生」に対する「後生」であろうから、
必ずしも往生の意味だけではない。しかし、論文や、高森親鸞会に対する返信
(八月三日)で述べたように『大経』に、
  後生無量寿仏国
とあって、後生の一大事の「後生」という語は、この「後に無量寿仏国に生れ
」が出拠と考えられる。蓮如上人も、
  されば、死出の山路のすえ三塗の大河を唯一人こそ行きなんずれ、これに
  よりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。
  (『御文章』1の11)
  しかれば阿弥陀如来を何とようにたのみ、後生をばねがふべきぞというに
  ……(『御文章』5の10)

等と教示されているように「後生」を往生浄土の意味で語られているのである。
 また「一大事」についてであるが、「一大事」とか「大事」とかは、本来「
迷開悟
」「出離生死」についていわれるものである。したがって『法華経』出
世本懐の文には、
  一大事因縁(『大正大蔵経』第9・7a)
とあり『称讃浄土経』には、
  利益安楽の大事因縁
とある。また、法然上人は、
  往生程の大事をはげみて念仏申さん身をば、いかにもいかにもはぐくみた
  すくべし。(『和語灯録』)

といわれ、宗祖聖人は、
  往生極楽の大事(『拾遺真蹟御消息』)
と仰せられており、さらに覚如上人も、
  往生ほどの一大事をば如来にまかせたてまつり……(『口伝抄』)
  往生ほどの一大事凡夫のはからうべきことにはあらず……(『執持抄』)

等と述べられている。いずれも「一大事(大事)」を往生にかけて語られている。
 さらに蓮如上人も、
  もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(『御文章』1の
  11)
  この他力の信心ということをくはしくしらずば、今度の一大事の往生極楽
  はまことにもてかなふべからず。(『御文章』2の10)
  いそぎてもいそぎてもねがうべきものは後生善所の一大事にすぎたるはな
  し。(『帖外御文章』50)

等と示されている。往生にかけて「一大事」を語っておられるのである。
 高森親鸞会は、後に至って、後生の一大事に二つがあるといいだし、信後の
後生の一大事は「往生浄土(極楽)の一大事」のことであるが、信前の後生の一
大事は「必ず無間地獄に堕ちる」ということであると、あくまでも自説に固執
するのである。
 だが後生の一大事に二義ありとは、恐らく高森親鸞会だけでいうことであろ
う。同会のいうように、後生の一大事を往生の一大事と釈すことが、信後の人
だけについてのことならば、先に挙げた「往生の一大事」を述べた文、特に
『御文章』は、当然、信前の人に信を勧め、往生を勧めたものと思われるが、
これらは信前の人に対して出されたとでもいうつもりなのであろうか。
 同会は、信前の後生の一大事の文証として『本願寺の体質を問う』(178頁)に、
宗祖聖人の
  若しまた、此のたび疑網に多覆蔽せられなば、かえりてまた曠劫を逕歴せん。
                            (『教行信証』総序)

の文や、蓮如上人の
  この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきも
  のなり。(『御文章』2の2)
  命のうちに不審もよく晴れられ候はでは定めて後悔のみにて候はんずるぞ、
  御心得あるべく候。(『御文章』1の6)

等の文を挙げている。
 私は、無論これらの文の意味を否定するのではない。だから、後生の一大事
を「往生浄土の一大事」という意味だけに限定せず「往生浄土できるかどうか
の一大事
」まで含めて定義としたのである。本願を信受すれば往生浄土できる
し、信受しなければ地獄に堕ちることは自明である。
 しかしながら「必ず無間地獄に堕ちる」ことが後生の一大事であるとする、
以前の高森親鸞会の主張は、片寄った見解といわねばならない。同会の引用し
た文には「大事」とも「一大事」ともいう語はないのであるから、それらの文は、
後生の一大事ということが「必ず無間地獄に堕ちる」ということであるという
文証にはならないし、また、後生の一大事に二義ありという文証にもならない。

親鸞会は都合のよいところだけを切り取って後生の一大事とは、一切衆生必堕無間のことだなどといっているから、根本的におかしいのです。

私がこれまでに送ったコメントを、よく読み返して下さい。

親鸞会お得意の屁理屈ばかりを捏ねていないで、真面目に答えて下さい。

O講師の真似をして書いてみましょう。

早く、観無量寿経には
釈迦如来が韋提希夫人に
善を勧めておられるのか。
おられないのか、
お答えください。

早く、善知識方は
誰一人化土往生できないと
仰っておられるのか。
おられないのか、
お答えください。

「Kさん」も私もはっきりと答えています。O講師答えて下さい。

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2010年8月 9日 (月)

化土往生は誰もできないと教えられた善知識が一人でもあれば教えて頂きたいものだ

O講師は、釈尊が韋提希に諸善を勧められていないことを認めざるをえず、今度は後生の一大事に論点をずらして、以下のことを自信満々に書いてきました。

では化土往生ができる人が
一人でもあれば教えて
頂きたいものだ。

親鸞会の講師部員は、皆同じで、議論に負けると、関係のないことに論点をずらす。こうもレベルが低いのです。当ブログでは過去に、M野講師を誉め讃える1会員を名乗る人物が、同じことをして、恥の上塗りをしました。

信罪福心は自力であり、19願の勧めではない
実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加
正常な思考とカルト思考

カルト思考の愚かさ

この辺りを読まれれば、同じパターンであることがお判り頂けると思います。口調も論調までも同じです。

さて、化土についてはこれまで何度も述べてきましたが、O講師のためにまとめておきたいと思います。

化土の根拠は、『大無量寿経』胎化段です。

もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

(現代語訳)

さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

これを承けられて龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』

もし人善根を種うるも、疑へばすなはち華開けず。
信心清浄なれば、華開けてすなはち仏を見たてまつる。

(現代語訳)

もし善根を積んで生れようとする 疑心の行者であれば華は開けず
本願を信ずる心の清浄な者は 華が開けて仏を見たてまつる。

と仰り、善導大師は『定善義』

因を修すること正念にして、疑を雑ふることを得ざれといふことを明かす。往生を得といへども、華に含まれていまだ出でず。あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。

(現代語訳)

因を治めるについて正念に修行して、疑いを雑まじえてはいけないことを明かす。もし疑いを雑じえるならば、たとい浄土に往生できても、華にふくまれて出られない。あるいは辺地に生まれ、あるいは胎生となる。

と解釈をされています。
化土について、明確に教えられた方が、源信僧都です。
親鸞聖人が『正信偈』

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり

と褒め讃えておられることくらいは、O講師でも知っているでしょう。
『往生要集』には、

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、
「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。『清浄覚経』(平等覚経・三)に、この胎生をもつて中輩・下輩の人となせり。

(現代語訳)

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。
もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。
『無量寿経』に説かれているとおりである。
もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。
仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。『平等覚経』には、この胎生を中輩や下輩の人としている。

さて、この意味が判りますか?

もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。

親鸞聖人は『高僧和讃』源信讃

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

とあることも知らないのでしょうか?

『浄土和讃』冠頭讃

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

とありますが、意味が判らなければ現代語訳も付けましょうか?

また『正像末和讃』誡疑讃23首に何が書かれてあるかも知らないのでしょうか?
23首の御和讃と現代語訳は

誡疑讃について教えてあげて下さい

にも書いておきましたので、そちらを御参照下さい。

『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

『御消息』

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

必要ならば、もっと根拠を出しますがどうしますか?

O講師に逆に質問です。

では化土往生は誰もできないと教えられた善知識が
一人でもあれば教えて
頂きたいものだ。

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2010年8月 7日 (土)

「諸善には諸仏の勧めはない」との親鸞聖人のお言葉も知らないとは

親鸞会が、教義批判にここまで弱い理由は何でしょうか。

結局のところ、”無二の善知識”と自分のことを呼ばせていた人物が、単なる無学であっただけのことです。かつて本願寺の勧学を黙らせた大沼師の真似をして、大沼教学を振り回して有頂天になっていましたが、大沼師の真意も理解できず、自己の欲望を満足させるために教えを曲げて、無茶苦茶な教義となっています。それを詭弁で誤魔化してきただけのことです。

真宗の超常識さえ間違っていても気が付かない”無二の善知識”では、正しい真宗教義の議論はできません。

O講師の主張は、”無二の善知識”の教えそのままですから、善知識方の根拠には極めて疎いです。

早く、観無量寿経には
釈迦如来が韋提希夫人に
善を勧めておられるのか。
おられないのか、
お答えください。

これについては、これまで「Kさん」が何度もコメントをされていましたが、O講師は理解できませんでした。それで解説が必要だった訳ですが、今まで紹介しなかった次のコメントは、駄目押しでした。

『選択本願念仏集』に

わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。

問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

(中略)

一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

意味がお判りになられませんかね。現代語訳も付けておきます。

わたくしに問うていう。上輩の門の中に、念仏のほかにまた家を捨て欲を離れるなどの余行があり、中輩の文の中にもまた塔をたて仏像をつくるなどの余行があり、下輩の文の中にもまた菩提心などの余行がある。それにどういうわけでただ念仏往生というのか。
答えていう。善導和尚の《観念法門》に、
また、この経 (大経) の下巻の初めにいわれている。「釈迦仏が説かれる。『一切衆生の機根はまちまちで、上・中・下の三種がある。その機根に随って、わたしはみな無量寿仏のみ名をもっぱら称えることを勧める。その人が命終わろうとするときに、阿弥陀仏は聖衆と共にみずから来て迎えとり、ことごとく往生させてくださる。』」
といわれてある。この解釈の意によって三輩共に念仏往生というのである。

問うていう。この解釈ではまだ前の疑難をしりぞけていない。どうして余行を棄ててただ念仏というのか。
答えていう。これに三つの意がある。一つには諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説く。

(中略)

一つに、諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

また以下のことも仰っています。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と教えられていますが、御存知ないのですかね。

行巻に「念仏諸善比校対論」に

勧無勧対(念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない)

とありますが、意味はお判りですか。諸仏も釈尊も諸善を勧められていないと親鸞聖人が仰ったことは間違いと仰るのでしょう。あなたは何宗を信奉されているのですか?

定散二善を韋提希に勧められるために説かれたなど、浄土仏教を破壊する邪説であることくらい勉強されるべきでしょう。

浄土仏教に疎い”無二の善知識”の弟子はかわいそうです。立場上ブログを閉鎖もできず、過去のエントリーも削除できず、このことに触れないようにおとなしくブログを書き続けなくてはならないのです。

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2010年8月 6日 (金)

O講師が「勧学の説」と見做して理解できなかったコメント

O講師は議論から完全に逃げました。反親鸞会の元講師に対する悪口がなくなり、話題を変えてブログを更新し続けています。

「釈尊が韋提希に善を勧められていない根拠を出せ」との強気の発言も消えました。

教義批判に反論しない(正確には、反論できない)親鸞会が、ここでも浮き彫りになっています。

ところでO講師が、「勧学の説」と何度も書いていたのは、以下のコメントです。
当ブログで、過去に

[mixi]三願転入議論の解説1
[mixi]三願転入議論の解説2
[mixi]三願転入議論の解説3
[mixi]三願転入議論の解説4
[mixi]三願転入議論の解説5
[mixi]三願転入議論の解説7
「定散諸機」とは

で書いたことを「Kさん」がまとめられたものです。
O講師は、理解できなかったので、昨日、一昨日に紹介したように「Kさん」が重ねて解説のコメントをしなければならなかったという経緯です。
「K」さん」が解説をしてようやく理解できたら、強気から一転して議論からの逃亡です。

『大無量寿経』には異訳本がいくつかありますが、阿弥陀仏の本願についての表現がそれぞれ違っています。『大無量寿経』での18願と19願の対機は、共に「十方衆生」と表現されていますが、『平等覚経』『大阿弥陀経』では、救いの対象、対機が明らかに異なっています。

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

つまり、『大無量寿経』18願は、すべての生物です。漏れているものはいません。一方、『大無量寿経』19願は、菩薩の行を行える人と限定されています。虫も入っていませんし、人間でも菩薩の行を行えない悪人は入りません。ですから同じ「十方衆生」でも『大無量寿経』の18願と19願とでは対機が大きく異なるのです。

では、『大無量寿経』上では18願と19願とで対機の違いがないのかと言えば、違いが表現されています。それが「唯除五逆誹謗正法」です。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とありますように、「唯除五逆誹謗正法」のある18願は、漏れるものがないが、「唯除五逆誹謗正法」のない19願では、漏れているものがあると親鸞聖人は仰っています。また「唯除五逆誹謗正法」に相当するお言葉は、『平等覚経』『大阿弥陀経』にはありません。つまり18願の「十方衆生」と「唯除五逆誹謗正法」はセットになっているのです。ただし、親鸞会で言っているような「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」ということではありません。「十方衆生」の中に「唯除五逆誹謗正法」のものも含まれるということです。

経典は、訳者や原本によっても表現は変わっていますが、意味は同じです。『大無量寿経』の18願と19願の中で、「十方衆生」のところだけを取り出して同じと考えるのは、断章取義です。「十方衆生」に込められた御心を他のお言葉から読み取れなければ、正しく理解できません。

『大無量寿経』19願については、菩薩行を行える善人が対機であることを踏まえられた上で、『教行信証』化土巻の要門釈の最初に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰ったのです。
直訳をすれば、

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

です。
親鸞会では、後半の部分を断章取義して、要門19願は一切衆生のための願と主張しましたが、前半を読まれれば判る通り、半満・権実の法門(聖道門)の修行に行き詰まった人を導くのが19願だと親鸞聖人ははっきり仰っています。
菩薩行を行える善人が対機の19願ですから、親鸞聖人の解釈は極めて自然なものです。

これは親鸞聖人独自の解釈ではなく、法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)には

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあります。聖道門の人を18願に帰せしめるための願と仰っています。
また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。隆寛律師のこの告白に影響を受けられて、親鸞聖人は三願転入の文を書かれたといわれています。

聖道門の人を浄土門に誘引する願と法然上人、隆寛律師は解釈されたのですが、親鸞聖人も同様のことを仰ったのが要門釈の最初のお言葉です。

また『高僧和讃』には、

釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらえて
 正雑二行方便し
 ひとえに専修をすすめしむ

と仰っていますが、訳せば、

釈尊は要門を開いて、 定善・散善の人々を浄土門に誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

19願意から「定散諸機」に対して釈尊が要門を開かれたのです。ただし、ここでの「要門」とは、『観無量寿経疏 玄義分』の

その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。

で、19願のことではありません。

こしらえて」は誘うということです。

ですから、

定散諸機」≠すべての人

です。『正信偈』には、

矜哀定散与逆悪

と「定散」と「逆悪」と分けられています。
蓮如上人の『正信偈大意』では、

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

と解説があります。

同様に、某会で善の勧めの根拠とする『浄土和讃』大経讃で、「十九の願のこころ、諸行往生なり」と頭註のある三首を見てみましょう。

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

(現代語訳)

第十九願には、 自力をたよりに自分の心を真実にして、 往生を願い、 浄土に生まれたいと思えと、 十方衆生を方便誘引し、
どのような善を修めてでも浄土往生を願えと、 諸善万行によって往生を願う方便仮門を開き、 この人々の臨終にはその人の前に来迎すると誓われた。

 
臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

(現代語訳)

阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、 釈尊は聖道自力の人を誘引するため、 諸善万行はみな浄土往生に導く善根であるとして、
『観経』一部に定善の行、 散善の行を説き、 定善に縁のある人、 散善に縁のある人に、 それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。

 
諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり

(現代語訳)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。 けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の善とならないものはなかったのである。

第1首目は19願の直訳に近い解説、第2首目は19願から釈尊が『観無量寿経』を説かれて「定散諸機」を浄土門へ誘引されたことの解説、第3首目は欣慕浄土の善の解説です。

逆悪の機」に対して、定散二善を勧められたとは、どこにもありません。

先の高僧和讃1首とこの3首を通して読まれれば、

(19願の)「十方衆生」=「定散諸機

と釈尊が19願意を明らかにされ、それを親鸞聖人が教えておられることが判ります。

浄土門の人にも19願が必要であるという根拠として親鸞会が出しているのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。現代語訳は

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

です。
権仮方便ということが少しでも判れば、何も難しい御文ではありません。釈尊がそれぞれの機に応じて説かれた教えを「八万四千の法門」といいます。その「八万四千の法門」で説かれた善は、浄土門へ導くための「方便の善」であるということです。聖道門の人を浄土門へ、そして18願へという流れを仰ったものであって、浄土門の人を要門に導くという意味になる筈がありません。読解力が少しでもあれば判ることです。
つまり、上記の要門釈と同じことを親鸞聖人は教えられているだけのことです。

浄土の方便の善」が、18願に入るために必ず要る善ではなく、その前の、聖道門の人が浄土門に入るための「方便の善」ということです。

浄土の方便の善」は、『教行信証』化土巻には、善導大師の釈を承けて、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」と仰っています。阿弥陀仏の18願とは異なる方便、浄土を欣い慕わせる善根ということです。

浄土の方便の善」とは、聖道門から浄土門へ導く善

親鸞聖人の教えは、一貫してこのことを仰っています。

『観無量寿経』で、三福の後に、

この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり

と説かれています。

(現代語訳)

この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである

『観無量寿経』に説かれている三福は、もともと「三世の諸仏の浄業の正因」である聖道門の行ということを教えられているのです。聖道門と『観無量寿経』の定善・散善とは、此土入聖と彼土得証の違いはあっても、行は同じなのです。ですから、聖道の「八万四千の法門」で説かれている善は、『観無量寿経』に収まるのです。

それを、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。

と仰り、更には

これを要門といふ。これを仮門となづけたり。

と聖道門を要門に収められているのです。

このことを『教行信証』化土巻・隠顕釈には、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって 観無量寿経をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の三福は、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが観無量寿経の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。

です。これは、善導大師の『散善義』深信釈を指して仰ったものです。

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

『観無量寿経』に説かれている善は、「欣慕浄土の善根」、浄土往生を願わせるために示された善なのです。

以上のことがよく理解できれば、親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願っている人にとって、必ず19願を通らなければならないという考えは、邪義とお判りになられるのではないでしょうか。

ついでに、「捨自帰他」したならば、

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

となります。つまり、善知識方の教えと明らかに異なる親鸞会の考えが邪義であったと知らされるのです。それを親鸞聖人は『唯信鈔文意』で、

自力のこころをすつといふは、(中略)みづからが身をよしとおもふこころをすて

と仰っているのです。

『教行信証』化土巻には、

仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

ともあります。
19願についての総括をされたお言葉です。
19願では化土往生になると繰り返し仰ってきて、最後に、自力の行をまじえているものは、報土往生はできないと断言なされているのです。それで19願は方便の願と結論付けられるのです。
19願について親鸞聖人は、要門釈の最初に、「修諸功徳の願」「臨終現前の願」「現前導生の願」「来迎引接の願」「至心発願の願」と仰っています。
しかしここでは「仮令の誓願」と、19願文の「仮令」のお言葉を使われて、19願のことを仰っています。「仮令」の意味は、もともとは「たとえ」「もしも」ですが、親鸞聖人はここでは「かりに」「方便」という意味に変えられて仰っています。つまり、19願は権仮方便として、それが必要な機に対して「かりに」建てられたものであるということを19願文のお言葉を使って、説明をされているのです。それ故に、

仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり

なのです。
『観無量寿経』及び19願は、聖道門の人に、浄土を願い慕わせ、誘引するためのものと明らかであると親鸞聖人は明言なされました。
従って、浄土門に入っている人は、すでに浄土を願い慕っているのですから、19願の役割は、浄土門に入っていない聖道門の人を浄土門に導くためなのです。

同様のことは『三経往生文類』でも仰っています。

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

19願は、「浄土を欣慕せしむる」のであって、善のできないことを知らせるために善をさせる願ではありません。

救われたか否かは、二種深信で判定されると親鸞会では教えています。

二種深信とは、『散善義』にある七深信の最初の2つです。
親鸞聖人は『愚禿鈔』に七深信について簡単に説明されています。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

この第三が先の

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

です。
第三深信を否定するような人があれば、救われたか否か、判定されてしまいます。

方便だからしなければならない

などと考えているならば、方便の意味を知らなさ過ぎます。

親鸞聖人の御著書を読めば判りますが

方便だから捨てよ

なのです。

聖道門は方便だから捨てよ
化土は方便だから願うな

です。同じように、

19願(諸善)、20願(自力念仏)は方便だから捨てよ

です。

19願、諸善だけは方便だからせよ

になる訳がないです。誰でも理解できることです。

もっといえば、方便が方便と信じられず、方便を真実と信じているから方便になるのです。
親鸞聖人は真実と方便を教えられました。しかし、親鸞聖人の真実18願の仰せを信じられず、方便と仰った聖道門、19願、20願をそれぞれ真実だと信じている人がたくさんあるのです。信じている人にとってはそれが真実ですが、そういう人にそれが真実ではないと説いても信じられないから、暫く機に応じて用いられる随他意の法門を説かれたのです。それが真実でなかったと理解できたならば、真実に誘引する権仮方便となるのです。

浄土門の人でも18願が真実と思えず、19願での往生、20願での往生を信じ願っている人が親鸞聖人の時代も、今もたくさんいるのです。18願での往生を信じられる人は少ないのです。
だからこそ、親鸞聖人は、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であり、19願を実践しても化土往生しかできない方便の願だから、真実18願を信じなさい、と仰っているのです。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈の一番最後に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。

現代語訳は

以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 往生要集の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。 また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

です。
浄土往生を願っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。「まず諸善を修せよ」ではありません。

これこそ、「三願転入の教え」を否定する結論です。

もとの『往生要集』念仏証拠を見れば、それがよりはっきりします。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

源信僧都は、三が18願の説明、四が『観無量寿経』下下品についての説明です。

極重の悪人は、他の方便なし。

ところが親鸞聖人は源信僧都のお言葉を変えて仰っています。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

19願の対機である「定散の諸機」も「極重悪人」と親鸞聖人は見られたのです。
要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と、親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引するための願と仰っていますが、聖道門から19願に入った「定散の諸機」に対してさえも、19願の方便を勧められず、「極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。
「定散の諸機」も「極重悪人」であるから、18願他力念仏だけを勧められているのです。
更にこの後に「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と結んでおられます。

法然上人は『選択本願念仏集』に、

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

と仰っていますし、『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解釈をなされています。
善知識方が揃って、末法の極重の悪人である我々には、19願は不要と仰っています。

そこまで善知識方が仰っても、やはり信じられない人がありますので、蓮如上人は『御文章』3帖目第12通で

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

と、親鸞聖人の教えを信じられる「宿善の機」と、信じられない「無宿善の機」を区別なされているのです。善をせよという意味でないことは、通常の読解力があれば分かると思います。

「宿善の機」には、

他の方便なし

です。
真実と方便について親鸞聖人が教えられている通りと信じられる人は、「宿善の機」です。

極重の悪人にも、19願の方便が必要だと考える人は、親鸞聖人の教えを疑って、親鸞聖人の教えとは別の考え方をもつ「無宿善の機」です。

こうへい氏、M野氏ではないyo氏が主張した「三願転入の教え」、O講師がうるさかった「韋提希に諸善を勧められた」という邪義は、これを理解してもらえれば、ぐうの音もでなくなることが、証明されています。「雑行」の間違いについても、こうへい氏が明らかにしてくれています。

教学の無い高森会長が今後反論することは考えられないですし、あれ以上の詭弁も思いつかないでしょう。今は、情報に疎い会員を騙すことしか頭に無いと思います。

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2010年8月 5日 (木)

O講師、「聖道権仮の方便」はしなくてもいいのですか?

O講師のブログで、何か反論があるのかと期待していましたら、親鸞会邪説を一方的に書き出しました。親鸞会は、最近このパターンばかりです。O講師が、”破邪の闘士たれ”と会員を鼓舞していた時代は、過去のこととなりました。

「Kさん」と繰り返しO講師は書いていますが、「Kさん」とは除名講師のことを指していると思われます。しかし、以前にコメントをした「Kさん」は、一般会員だった方で、その「Kさん」のコメントに対してあることないことを延々と書いていたのですが、最近になって、また別の「Kさん」がコメントをしているというのが、事実です。数人の除名講師を徹底的に扱き下ろしたいために、内容も設定も支離滅裂となっています。

さて、O講師のブログに最近コメントをした「Kさん」が一昨日の記事に対してコメントした内容は次の通りだそうです。

方便についても、権仮方便と善巧方便の違いも知らないとは、不勉強も甚だしいです。
勧学の説とか、間の抜けたことを言う前に、本願寺の解説でも読んでみられては如何でしょう。
親鸞会は小学生並みの教学しかないことが少しは自覚できますか?

教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

この程度の知識を最低限持っていなければ、親鸞聖人の御著書を読んでもチンプンカンプンでしょう。

『教行信証』信巻・別序の

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

のお言葉は、まさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。釈尊は善巧方便をもって真実信心を明らかにされたのであって、権仮方便をもってではありません。

『高僧和讃』善導讃

釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり

も、同様のことを仰っています。
『蓮如上人御一代記聞書』にも、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

とあります。揚げ足とりをしたがる人のために少し解説しておきますと、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない無宿善の機(未熟の機)がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う宿善の機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

親鸞会では、自惚れ自惚れとうるさいのですが、18願だけでは不足だから19願・20願を加えなければならないと思うことを自惚れというのです。

この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

釈尊は阿闍世に対して、権仮方便をもって導かれたのではありません。高森会長は『教行信証』を読んだことがないから、内容を知らないのでしょうが、そんな無知な人物の妄想に付き合う必要はありません。

権仮方便については

『浄土和讃』「大経讃」には、

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

とあります。Oさんの説によれば、方便である聖道仏教もしなければなりませんね。

これと、昨日書きました

『観経』も『観経疏』も読んだことが無いのに、知ったか振り

と同じ内容のコメントの2つによって、O講師は「Kさん」に対する反論を止めてしまったようです。

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2010年8月 4日 (水)

O講師ブログへのもともとのコメント掲載

「Kさん」より、先程の内容のもともとのコメントを預かりましたので、掲載しておきます。

この前にもコメントはいくつもありますが、全く無視されているそうです。過去のコメントも含めて少しずつ紹介していきます。

日本語が理解できないようですので、根拠だけを挙げておきましょう。

要門釈の最初に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

(現代語訳)

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

親鸞聖人は、観経の定散二善は、聖道門の修行を断念したもののために釈尊が説かれたと仰っているのが判らないのですかね。

『高僧和讃』

釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらえて
 正雑二行方便し ひとえに専修をすすめしむ

(現代語訳)

釈尊は要門を開いて、 定善・散善の人々を浄土門に誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

「定散諸機」に対して釈尊が要門を開かれたのです。

『浄土和讃』

臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

(現代語訳)

阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、 釈尊は聖道自力の人を誘引するため、 諸善万行はみな浄土往生に導く善根であるとして、
『観経』一部に定善の行、 散善の行を説き、 定善に縁のある人、 散善に縁のある人に、 それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。

親鸞聖人は、韋提希のために定散二善を説かれたなどとどこにも仰っていないのが理解できないほど、思考力が低下しているのですか。定散諸機のために定散二善は説かれたんですよ。

それで、隠顕釈には、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって 観無量寿経をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の三福は、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが観無量寿経の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。

と仰っているのがまるっきり理解できないのでしょうね。
欣慕浄土の善根」とは、定散二善とは、浄土を願い慕わせる善、つまり聖道門の人に浄土を願わせるための善が、定散二善ということです。

これは善導大師の『散善義』深信釈を指して仰ったものです。

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

観経は、韋提希だけに説かれたのではありません。法華経を中断して説かれたことは御存知でしょうが、法華経を聞いている人(聖道門の人)のために説かれたと善導大師が仰り、それを親鸞聖人もそのまま仰っているのです。

『教行信証』化土巻くらい読んだらどうですか。『観経疏』は読めないでしょうけど。
韋提希に定善をさせたと思っているのは、聖道門の解釈ですよ。

親鸞聖人が、獲信のために善を勧められた根拠も全くない、19願を勧められた根拠も全くない、親鸞聖人が19願についてはっきり仰ったのが、要門釈の結論

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 往生要集の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。 また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

です。
浄土往生を願っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。「まず諸善を修せよ」ではありません。獲信のために定散二善をするなです。

もとの『往生要集』念仏証拠を見れば、それがよりはっきりします。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

源信僧都は、三が18願の説明、四が『観無量寿経』下下品についての説明です。

極重の悪人は、他の方便なし。

ところが親鸞聖人は源信僧都のお言葉を変えて仰っています。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

極重の悪人には、定散二善は不要、19願は不要と善知識方が口を揃えて仰っています。

歴代の善知識方の仰せを無視できるほどに、あなたは偉くなったものですね。

真面目に根拠を読みなさい。保身のために念仏誹謗を続けて、因果の道理を信じたらどうですか。

善の勧めの話をしているのに、論点をすり替えてしか語れないところが、情けないと言っているのですよ。

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『観経』も『観経疏』も読んだことが無いのに、知ったか振り

当ブログの読者の方から教えて頂きましたが、親鸞会ポータル・ナビに、「浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」というブログが新たに掲載されていました。古参のO講師が書いているのですが、内容は、mixiでのこうへい氏や、僧侶を装ったブログと同じレベルで、進歩向上とは無縁の団体であることにがっかりします。親鸞会以外の人を見下す傲慢な姿勢も全く同じです。

「Kさん」のコメントとのやりとりが中心になっていますが、基本的なことである方便、時機不相応、三願転入の意味が何も理解できていないというのが、正直な感想です。コメントされた「Kさん」は、多くの根拠を出して説明しているのに、ほんの一部を都合よく解釈しているのが許せない、と怒っています。もし自分の説明に自信があるなら、承認制にせずに、コメントをすべて公開すればいいでしょう。それもできない姑息なブログです。

コメントが承認制ですので、当ブログで「Kさん」のコメントの内容全体を書いて説明しておきます。当ブログ読者の皆さんなら、簡単に論破できる内容ですので、どんどん質問やコメントをされたら宜しいかと思います。

これまで何度も何度も述べてきたことですので、当ブログを熟読して下されている方には申し訳ありませんが、これまで述べてきたことを再度まとめておきたいと思います。

三願転入の説明する上で便宜上仏教を、聖道門、19願、20願、18願の4つに分類しておきます。仏教は対機説法ですから、機に応じた教えが説かれます。判りやすく言えば、
超エリートには聖道門、聖道門についていけないエリートには19願、19願も無理な人には20願、どうしようもない落ちこぼれである十悪五逆の極重の悪人には最初から18願が説かれたのです。

正しい三願転入

には図入りで説明してありますので、そちらも御覧下さい。

このことを踏まえておかなければ、経典や善知識方の御著書を読んでも理解できません。
親鸞会のように、十方衆生は「唯除五逆誹謗正法」の者と考えていたら、聖道門など全く無意味な教えになってしまいます。

しかし、善知識方は聖道門を否定されたことはありません。

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

超エリートの方々は、聖者の位を証してゆかれました。しかし、我々凡夫は落ちこぼれですので、これまで出離の縁のない者であったのです。
それが同じく『散善義』で機の深信に

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

と仰ったのですが、『往生礼讃』では言葉を変えられて

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

と仰っています。親鸞聖人も『教行信証』信巻に引かれています。「善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。

法然上人は『選択本願念仏集』に

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

このゆえに知られる、諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

と仰っています。
諸行は「時を失す」なのです。末法にはあわない、ということは正法・像法の時期には、あう人もあるということです。
親鸞会でも教えていますが、聖道門は、正法では教行証が揃っていますが、像法では教行はあっても証はない、末法では教だけしか残らないのです。行体が同じ19願も同様です。

また『勅伝 第六』には、

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、機根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

ともあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。聖道門にしても、19願にしても、如実に修行できる人が正法・像法の時期にはあったから説かれた教えであって、誰も修行のできない教えではないのです。当たり前のことです。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻に

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊財施の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた非飛び地を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

とあります。像法の時期は、証がありませんので、親鸞聖人は、釈尊在世自体と正法の時期に限定され、像法は除いておられます。

例を挙げれば、像法の時期の龍樹菩薩は、大変な修行をされて、初歓喜地まで覚られましたが、仏の覚まで至ることは無理であると18願に帰依されたのです。龍樹菩薩は、行体が聖道門と同じ定散二善を行じることのできる方です。行はあっても証はない、その代表です。正法・像法の時期には、19願の対機である「定散諸機」と呼べる方は他にも多くおられたでしょう。

しかし、末法の極重の悪人である我々は、時も機も聖道門、19願の教えは不相応なのです。『観無量寿経』を説かれた時でも、韋提希や下々品の者に対して、善を勧めておられません。念仏1つです。『観無量寿経』を読めば明らかです。

だから、

『往生要集』には、

『観経』に、極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得

と仰り、
『高僧和讃』では

 極悪深重の衆生は
  他の方便さらになし
  ひとへに弥陀を称してぞ
  浄土にうまるとのべたまふ

と教えられ、『正信偈大意』には

 「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と同じことを善知識方が仰っているのです。
善人に対しては、聖道門、19願、20願が説かれたのです。

『観無量寿経』『観無量寿経疏』も読まずして、「極重の悪人は、他の方便なし」の意味など理解できる筈もありません。知ったか振りでは恥ずかしいですよ。

なお、

『観無量寿経を読みましょう』

というブログが新たにできました。講師部員、一般会員関係なく、親鸞会が正しいと思う方は、是非ともコメントを書いて、教義批判に反論をして下さい。

新人太郎氏、もしくはその取り巻きの方も御参加頂けることを願っています。

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2010年8月 3日 (火)

一心かけぬれば生れずといふなり

善導大師は『散善義』深信釈の中で、

次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。

何者かこれなるや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。またこの正のなかにつきてまた二種あり。

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。

(現代語訳)

つぎに、〈行について信を立てる〉というのは、ところで、行に二種ある。一つには正行、二つには雑行である。正行とは、専ら往生経に説かれてある弥陀行によって行ずることをいうのである。

何がこれであるかというと、一心に専らこの《観経》《弥陀経》《無量寿経》などを読誦すること。一心に専らかの浄土や仏および聖衆たちを心にかけ、よく観察し、つねに念うこと。もし礼拝するならば、すなわち一心に専ら阿弥陀仏を礼拝する。もし口に称えるならば、すなわち一心に専ら弥陀の名号を称える。もし讃嘆供養するならば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを正行と名づけるのである。

また、この正行の中について、また二種ある。一つには、一心に弥陀の名号を称え、行住坐臥に時間の長短をいわず相続してすてないのを正定の業という。かの阿弥陀仏の本願に順うからである。

もし礼拝や読誦などによれば、これを助業という。この正助の二行を除いてほかのいろいろな善根は、ことごとく雑行と名づける。もし前の正助二行を修めるのは、心がいつも阿弥陀仏に親近し、憶念して断えないから、名づけて無間とする。もし後の雑行を行ずるのは、心がつねに間断するから、これを浄土の因たねに回向して往生を得るといっても、すべて粗雑の行というのである。

これは以前に
異安心は誰か?
で書いた七深信の最後です。

ここで言われていることは、『観無量寿経』に説かれてある往生行は、正行と雑行の二つに分類されるということです。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。

正行(正定業と助業)以外の諸善は、悉く雑行なのです。『観無量寿経』に説かれている定散二善は、もちろん雑行です。

『観無量寿経』の定散二善を勧める親鸞会は、間違いなく雑行を勧めているのです。親鸞会は、善は勧めているが、雑行は勧めていない、と寝恍けたことを言っていますが、雑行の意味を知らないだけです。詭弁とか言う前の単なる無知です。

さて、

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

この一文を法然上人が読まれて、本願に帰されたことは衆知のことですが、それほど重要であり、有名な七深信の最後を否定している高森会長は、深信の一心が欠けているのです。善導大師、法然上人、親鸞聖人とは明らかに異なる安心です。

では、深信の一心が欠けているとどうなるかについては、度々紹介しています『唯信鈔文意』の

一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。
(中略)
三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。

(現代語訳)

一心が欠けたなら浄土に生れることはできないというのである。一心が欠けるというのは、『無量寿経』の本願に誓われている真実の信心が欠けるということである。
(中略)
信心が欠けているので、そのままでは真実の浄土に生れることはできないというのである。さまざまな行を修めて浄土に往生しようとする自力のものは、他力の信心が欠けている。そのため、生れ変り死に変りしてはかり知れない時を経て、他力の一心を得た後に真実の浄土に生れることができる。だから、そのままでは生れることはできないというのである。たとえ胎宮や辺地などといわれる方便の浄土に生れたとしても、五百年もの時を経なければならず、また億千万の人々の中で、真実の浄土に進むのはまれに一人いるかどうかであると示されている。

この通りです。
だから、曠劫多生の目的であり、30年40年聞いたくらいでわかるものではない、という高森会長の話は珍しく辻褄が合います。
ただし、高森会長の話は、親鸞聖人の教え勧められたことではありません。

正行を勧める=平生業成=諸仏、善知識方の教え
雑行を勧める=多生業成=高森会長の教え

何か異議がありますか?

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2010年8月 2日 (月)

高森会長が雑行を勧める理由

mixiでこうへい氏が、何かの1つ覚えのように雑行について説明していました。親鸞会の最後の牙城であった「三願転入の教え」の根拠が粉砕されて、雑行に籠もっているのでしょう。しかし、その矛盾点を突かれて、また逃亡です。答えられないのならば、出てこなければいいものを…

さて、雑行について仰った親鸞聖人のお言葉を紹介しておきます。
『教行信証』化土巻

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

(現代語訳)

浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして序正と雑行、雑修と専修がある。
 正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、定散心雑するがゆゑに雑心といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。
 また、雑行について、専行があり専心がある、また雑行があり雑心がある。専行とは、一つの善をもっぱら修めるから専行という。専心とは、心をもっぱら浄土に向けるから専心という。雑行・雑心とは、さまざまな善をいくつも修めるから雑行といい、定善・散善を修める自力の心をまじえるから雑心というのである。

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。源信和尚は懐感師により、源空上人は善導大師によっておられる。釈尊の経説にもとづき、祖師方の解釈を見てみると、雑行の中には、雑行雑心、雑行専心、専行雑心があり、また正行の中には、専修専心、専修雑心、雑修雑心がある。これらはみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。だから、浄土に生れても仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

『高僧和讃』

釈迦は要門ひらきつつ 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し ひとへに専修をすすめしむ

(現代語訳)

お釈迦さまは (他力へ導く) 要となる門戸を開いて、 定善・散善の人々を誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

こころはひとつにあらねども 雑行・雑修これにたり
 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり

(現代語訳)

意味するところは同じではないが、 雑行と雑修はよく似ている。 真実浄土への行ではないものを、 ひとえに雑行と名づけたのである。

雑行について、親鸞聖人は言葉を変えられて、詳しく説明をなされていますが、判りやすく言えば、浄土に往生しようと思って行う善は雑行です。
従いまして、三願転入の教えを信じて、18願に救われるために19願の善をしなければならない、というのは雑行です。ですから、「雑行を捨てよ」は、「19願の善は捨てよ」です。「三願転入の教え」は、ここでも破綻しているのです。

根拠に基づいて言えば、「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」で、雑行である19願、定散二善、自力の教えを捨てよです。

ここまで明快に仰っているのに、なぜ高森会長は破綻した論理で獲信のための善(雑行)を勧めるのか。

その理由は、F館に顕著です。

「さよなら親鸞会」
投稿:F館の会長専用施設

現在計画中の同朋の里F館の見積り依頼が知り合いの業者のところにきました。不況とはいえ、私の会社では、親鸞会の仕事を請けるつもりは一切ありませんので、知り合いの業者から教えてもらった情報を皆さんにお伝えしたいと思います。

ただ、余り詳しいことを述べると、その業者の方にご迷惑がかかるかも知れませんので、会長室関係のことについてのみ、簡単に説明致します。

F館は6階建てで、6階部分がすべて会長室になっています。5階までは会員さんの利用される部分です。

6階の広さは、全部で160帖程です。家族室がない分、正本堂よりも小さいです。正本堂と比較すると、全体の建物が小さい分、会長室も全体的に小振りですね。

部屋は和室が3室、寝室、書斎、リビング、キッチン、更衣室、洗濯家事室です。トイレが2箇所、浴室1箇所で構成されています。

内装のグレードは、もちろんかなり高いです。

設備についてはわかりませんが、会長の自宅や、各会館の会長室のことを聞くと、今回もICU以上の空調設備になるのは間違いないでしょう。

5階の一部に、会長用の応接室と秘書室があります。もちろん会員さんの部分とは、隔離されています。

1階は会長専用の玄関と、会長用の2台分の駐車場です。

大都市ならば、2億程のマンションといったところでしょうか。

全体の工事費の割合は、正本堂の倍程と予想されます。

一般人には理解できませんが、会員さんにとっては、拍子抜けの規模でしたかね。

F館6階を必死に隠して、5階建ての模型まで偽造して、財施を募るのはなぜか?

ある支部長は、「縁の浅い人に誤解を与えないようにするため」と答えていましたが、その支部長もF館6階のことは、全く知りませんでした。支部長も縁の浅い人なのです。
縁の深い人は、高森会長の家族と側近、建設関係者のみです。そんな縁の深い上層幹部は皆、未信です。

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2010年8月 1日 (日)

財施は獲信のためではなかったと、高森会長は身をもって教えてくれています

当ブログで、高森会長の人格について書くことは、親鸞会にとっては極めて不都合のようですので、もう少し書いてみます。

『選択本願念仏集』には、

念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。

と法然上人は仰っています。
もし財施と往生とが関係があるならば、お金を持っていない人は往生できないことになる。しかも、お金持ちの人は少なく、お金に困っている人は甚だ多いので、一切衆生を平等に救うと誓われた本願であるから、財施と往生とは無関係と教えておられます。

『御文章』1帖目第11通には、

門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。

とあります。
支部長は、高森会長のいわれるがままに、多額のお金を会員から出させて、高森会長と親鸞会に納めれば、獲信に近付くように思う、これは誤りである、と蓮如上人は仰っています。それどころか、蓮如上人は、財施と往生とが関係あると説いている高森会長、支部長ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄に堕ちることは疑いがない、とまで言い切っておられます。

又、『歎異抄』には、

一 仏法の方に、施入物の多少にしたがつて大小仏になるべしといふこと。この条、不可説なり、不可説なり。比興のことなり。

(中略)

かつはまた、檀波羅蜜の行ともいひつべし、いかに宝物を仏前にもなげ、師匠にも施すとも、信心かけなば、その詮なし。一紙・半銭も仏法の方に入れずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にて候はめ。すべて仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひおどさるるにや。

とあります。
高森会長や親鸞会に財施と称して、金額の多寡によって、宿善が厚くなるとかならないとか、信仰が進んだとか進まないとかいうこと、言語道断のとんでもない邪説です。どれだけ財施をしようとも、信心がなければ、無意味です。たとえ、10円も、1円も高森会長と親鸞会に財施をしなくとも、阿弥陀仏にすべてをおまかせして、他力の信心を賜わったならば、それこそが阿弥陀仏の御心に叶ったことです。
こう書かれてあります。

それにも関わらず、親鸞会では財施と往生・獲信とは、よい関係にあるなどと大声を張り上げて、会員に説明しています。こうへい氏の言葉を借りれば、

どんな小さな善もすべて獲信の因縁であった”

だから、精一杯の財施をさせて頂きましょう、と支部長は連呼しています。

正本堂建立時の財施は、常軌を逸していました。当時幹部であった人ならば、皆覚えているでしょう。
目標金額までとても到達しそうにないのに、連日連夜幹部を集めて会合が開かれ、その際に高森会長が「御報謝の額が足りなければ私の部屋を削りなさい」と言ったと発表されて、幹部会員は、それでは申し訳ないと財施額を上積みしました。その結果が、これです。

「さよなら親鸞会」
投稿:正本堂の会長施設について

正本堂の会長関係室について聞きたいとの御要望がありましたので、工事関係者からの聞き取り調査も含めて簡単に説明させて頂きます。

皆さんが一番関心が高いのが正本堂7階だと思います。7階は、高森会長とその家族専用のエレベーターを出ますと、廊下がL字型になっていまして、エレベーターの正面が会長の応接室兼執務室で、その廊下を折れ曲がって奥に進んでいく配置になっています。

各部屋の広さは以下の通りです。

会長用応接室兼執務室 40帖
会長用洋室(寝室) 30帖
会長用和室 12.5帖(縁側、床の間等あわせて30帖)
家族用和室 12.5帖(縁側、床の間等あわせて25帖)
会長専用洗面所トイレ2箇所、浴室1箇所
家族用洗面所トイレ1箇所、浴室1箇所

会長、家族の部屋、洗面所トイレ浴室あわせて200帖で、廊下と会長エリアの空調機械室は面積にいれていません。

会長の部屋の特長は、空調で、病院のICU以上の温湿度完全管理です。これだけの広さの部屋が短期間で設定の温湿度になり、空調としては完璧です、というよりも誰が見ても異常な設備です。

なお、設計では7階に秘書室がありましたが、会長室を少しでも広くするために、秘書室は6階に集約させたそうです。

6階は、秘書室と会長用の配膳室、会長の会議室と応接室があります。その他の会議室もあります。

4階には、会長用の厨房が2室あり、40帖と16帖の広さで、スタッフルームは別に設けられています。100人分くらいの食事が十分に提供できる設備です。本館への渡り廊下は4階にあります。

3階は、会長用の控え室があります。

1階には、260帖もある巨大な車寄せ、玄関とホールで70帖、もちろんトイレもあります。

これらの会長関係で、総額4~5億位になると思われます。正本堂工事費の消費税分程の金額になります。単純に1万人収容として、会長関係で500人分ということですか。

これらの会長関係の部屋と設備は我々の常識を遥かに超えており、最初に図面を見て関係者一同驚愕し、工事中の変更と要求の高さでは皆愕然として、あまりの不可解さに多くの職人が自暴自棄になったそうです。

会員の皆さんは、会長のために、無理な寄付を募ってでもこれだけのものを本当に用意しなければならないのでしょうか。甚だ疑問です。他の宗教団体の工事もしたことがありますが、会員数の桁が違う創価学会の会長でさえも、信者さんの直接の寄付で建てる会館でここまではしませんよ。親鸞会は、超格差社会ですね。

財施は獲信のためではなかったと、高森会長は身をもって教えてくれています。

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