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2010年7月 2日 (金)

高森会長から話を聞くことは、今生も後生も、百害あって一利なし

親鸞会の会員は、”500年に一度の善知識”である高森会長から離れたら救われない、と信じているようですが、それは何か根拠があるのでしょうか?
単に、上司、先輩からそのように聞かされ続けてきた結果、それが真理のように錯覚しているだけです。

蓮如上人は『御文章』2帖目第11通に、

善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。

と教えられています。高森会長は、蓮如上人の仰る善知識とは全く違います。
2帖目第9通には

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらえるそのこころはいかんぞなれば、それ、弥陀仏のちかいましますようは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなるつみふかき機なりとも、すくいたまわんといえる大願なり。しかれば、一心一向というは、阿弥陀仏において二仏をならべざるこころなり。

とありますように、獲信のために「自余の万善万行」を勧めたら、それは「一心一向」を否定することなのです。
法然上人は『選択本願念仏集』の中で、「一向」についてたとえを出されて判りやすく解説なされています。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず」「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか」とまではっきり仰っています。

高森会長の話を聞けば聞くほど、阿弥陀仏から遠ざかります。救われる教えを、救われない教えにしている元凶が高森会長なのです。なぜ会員は、「長年一生懸命求めているのに救われないのか」、答えは簡単です、「高森会長の間違った話を聞いているからです」。
お金と時間と体力を費やして、わざわざ獲信できないことを長年しているのです。
二河白道のたとえでいえば、「西へ行け」、とだけ勧めるのが善知識ですが、高森会長は「西へ行くために、まず東に全速力で走れ」と言っているのです。

一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり」の人から話を聞いてください。そういう人を探す手間を惜しむならば、必ず往生するぞと思って念仏を称えて下さい。

親鸞会に所属すること、高森会長から話を聞くことは、今生も後生も、百害あって一利なしです。

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