かやうのひとは仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり
阿弥陀仏に救われるとは、捨自帰他です。捨自とは自力無功であり、帰他とは他力全託ということです。二種深信でも同じことです。このことについては、
「21世紀の浄土真宗を考える会」
歎異抄第1章を読む 二種深信について
で解説されています。
さて、信前と信後で、表面上は何も変わりませんし、煩悩も変わりません。
『一念多念証文』に
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
とある通りです。しかし、善悪に対する心が変わると親鸞聖人は仰っています。『御消息』には
仏の御名をもきき念仏を申して、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、後世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべしとこそおぼえ候へ。
(中略)
ふかくちかひをも信じ、阿弥陀仏をも好みまうしなんどするひとは、もとこそ、こころのままにてあしきことをもおもひ、あしきことをもふるまひなんどせしかども、いまはさやうのこころをすてんとおぼしめしあはせたまはばこそ、世をいとふしるしにても候はめ。また往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候ふべき。
とありますように、信前は悪を平気で犯していても、信後は悪を慎むようになると仰っています。
更に煩悩は信後も無くならないとはいいながらも、謗法罪、五逆罪を平気で犯し続けることは、信心がおかしいとまで親鸞聖人はこの後に仰っています。
この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。
『浄土論』と申すふみには、「かやうのひとは仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」と候ふめり。また至誠心のなかには、「かやうに悪をこのまんにはつつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」(散善義)とこそ説かれて候へ。善知識・同行にはしたしみちかづけとこそ説きおかれて候へ。
(中略)
往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。
親鸞会では、信後も謗法罪を造る根拠として教えていますが、これは、獲信した人は、自分を獲信まで導いた師を謗ったり、兄弟子を軽蔑することは、決してないと思うと仰った御言葉です。
さて、師匠である伊藤康善師を謗り、兄弟子である増井悟朗師を軽蔑している高森会長の信心は如何なものでしょうか。親鸞聖人の教えを平気でねじ曲げ、多くの同行を除名・退会にして、罵り続ける高森会長は、「すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり」ですが、悪を慎むどころか、悪に誇っています。果たして信後の人といえるのでしょうか。もちろんここで言われている、「すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり」は高森会長のような特定の人物のことを指しているのであって、全人類のことでないことは、少しでも古文の読める人ならば判るでしょう。
信心について断定はできなくとも、高森会長は、「仏法信ずるこころのなきより、このこころはおこるなり」であり、「なれむつぶべからず」「つつしんでとほざかれ、ちかづくべからず」の人物であることは、断言できます。
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