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2010年7月19日 (月)

まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり

親鸞会では、30年や40年聞いたくらいで判るものではないのが親鸞聖人の教えであり、それを「難信の法」というのだと考えているようですが、とんでもない謗法罪です。
これまで数回にわたって「難信の法」について述べてきましたが、存覚上人の『持名鈔』にも、判りやすく解説されています。

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

 しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなかに難し」といへるは、『経』(大経)の文なれば、まことにことわりなるべし。そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。

現代語訳なしでも、理解できる内容だと思います。

まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

これがすべてですが、そんな簡単に「一向専修の念仏を行ず」ることができないと考える親鸞会に対しては、

しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなかに難し」といへるは、『経』(大経)の文なれば、まことにことわりなるべし。

なのです。その理由がその後にあります。「いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ」、諸善を捨て難く思う、つまり「一向専修の念仏を行ず」るには諸善が必要と考えるからです。
そんな親鸞会を

念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず
如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。

と厳しく糾弾されているのです。阿弥陀仏の18願力だけでは不十分で、念仏の力を軽んじていることで、念仏誹謗にあたるようなことを親鸞会会員は考えています。もちろん、諸悪の根源は高森会長です。

親鸞会の会員がなぜ救われないか、その答えがここにはっきり書かれてあるのです。諸善に心がかかり、念仏を疑っているからです。それを「難きがなかに難し」と経典、善知識方が仰っているのです。
だから、獲信のためには善を捨てよ、雑行を捨てよ、としか教えられていないのです。ところが親鸞会では善をせよ、雑行をせよと勧めているから、30年、40年どころか、昿劫多生を経ても他力の信は獲られません。

まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

親鸞聖人の教えは、これ以外にはありません。この他の方便も不要です。
親鸞聖人の教えを正しく理解し、「一向専修の念仏」を信じて求めている人には、「難きがなかに難し」ではありません。
『御一代記聞書』には、

凡夫の身にて後生たすかることは、ただ易きとばかり思へり。「難中之難」(大経)とあれば、堅くおこしがたき信なれども、仏智より得やすく成就したまふことなり。

とあります。獲信のために善を勧めるものは、他にどんな立派なことを説こうが悪知識です。
「このたび往生をとげんと」思う人は善知識をもとめて「ただ易き」易信となり、昿劫多生の間に往生ができればいいやと思う人はいつまでも悪知識に従って難信といい続けて満足しているのです。

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