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2010年7月21日 (水)

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ

昨日の続きです。
親鸞会は聖道門と浄土門についての理解さえも無茶苦茶です。
前々回紹介した『持名鈔』に、

おほよそ持戒・坐禅のつとめも転経・誦呪の善も、その門に入りて行ぜんに、いづれも利益むなしかるまじけれども、それはみな聖人の修行なるがゆゑに、凡夫の身には成じがたし。われらも過去には三恒河沙の諸仏のみもとにして、大菩提心を発して仏道を修せしかども、自力かなはずしていままで流転の凡夫となれり。いまこの身にてその行を修せば、行業成ぜずしてさだめて生死を出でがたし。されば善導和尚の釈(散善義)に、「わが身無際 よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位にすすみて、因まどかに果熟す。聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、乃至今日まで、 虚然として流浪す」といへるはこのこころなり。しかれば、仏道修行は、よくよく機と教との分限をはかりてこれを行ずべきなり。すべからく末法相応の易行に帰して、決定往生ののぞみをとぐべしとなり。

とあり、聖道門は聖人のためのものであって、凡夫には行が成じがたく、いままで流転してきたことが説明されています。ここで善導大師の『散善義』の御言葉を引用されています。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)
わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

無始より一緒に菩薩の道を行じてきた数限りもない方々が、すでに聖者の位を証してきました。しかし、我等凡夫は、修行に堪えられず、流転を繰り返すのみであったと善導大師は述懐されています。流転を重ねて来た凡夫は、善をしようとしても出離ができなかったのです。判りやすく言えば、我々凡夫は仏道修行の落ちこぼれなのです。聖道門はエリート方のための教えということです。親鸞会の言うように、誰もできない教えが聖道門ではありません。

出離の縁のなかった落ちこぼれの凡夫のための教えが、浄土門であり、阿弥陀仏の本願です。出離の縁のない極重の悪人をも救い摂る18願を阿弥陀仏が建てて下され、釈尊、善知識方が、18願1つを勧めて下されているのです。それなのに、

お前たちはまだ善ができると自惚れているから善ができないと知らされるまで善をせよ

と阿弥陀仏、釈尊、善知識方が仰る筈がありません。その逆で、

これまで自力では出離できなかっただろう。だから、偏に他力に帰しなさい

と教えられているのです。それを存覚上人は、

すべからく末法相応の易行に帰して、決定往生ののぞみをとぐべしとなり。

と言われています。
同様のことを親鸞聖人は『正像末和讃』

正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は
 清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん

(現代語訳)
自力で悟りを獲られるという正法の時代の人間であっても、 煩悩だけしか持っていない凡夫では、 仏になる清浄心・真実心など持っていません。 だから、 仏になろうなどという心をどうして発おこすことができましょうか。


自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき

(現代語訳)
自力聖道の菩提心は深淵で、 心で思いはかることもできないし、 言葉でもあらわすこともできません。 そのような清らかな心になることはできません。 いつも迷いの世界をさまよっている愚かな凡夫は、 どうして自力の菩提心を発おこすことができましょうか。


三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり

(現代語訳)
過去世において、 ガンジス河の砂のように無数の諸仏の出世されたみもとで大菩提心を発おこしたけれども、 自力ではさとりがえられず、 ただ迷いの世界を流転しているだけなのです。

と仰っています。
親鸞会では、親鸞聖人が聖道門を否定されたように教えていますが、親鸞聖人はエリートのための聖道門を認められた上で、末法の落ちこぼれの凡夫は、時と機の両面で、自力諸行の教えは不相応だから他力18願1つを願い求めよと教えられているのです。
以前にも紹介しました『教行信証』化土巻

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

と仰っている通りです。
親鸞聖人は過去世まで振り返られて、不相応の自力諸行に励んでも流転しかしてこなかった、しかも18願他力念仏を疑って、自力を信じてきたことを懺悔されて、三願転入の文を書かれ、『教行信証』総序では

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。

と表現なされたのです。親鸞聖人が仰っていることは、18願を信じられず、自力の教え漸教に迷っていた多生、億劫のことを述懐されて、「値ひがたく」「獲がたし」であって、18願を願って求めようと思う人、宿善の機に対しては、「聞思して遅慮することなかれ」と頓教、平生業成、今の救いを強調なされているのです。「摂取不捨の真言、超世希有の正法」は頓教だから、ためらうな、遠い先の救いなどと考えるな、です。

ところが親鸞聖人が、自分と同じように迷うなよ、と仰ったお言葉を、救われるのには大変な時間が掛かって当然なことを仰ったのだ、と訳の判らない曲解を親鸞会ではするから、誰も救われないのです。

高森会長に仏教のイロハを教えてあげてください。このままでは

親鸞会は何教なの?

と笑い物にされたまま、やがて消滅していくでしょう。

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