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2010年7月18日 (日)

明師にあはざるがいたすところなり

難信の法」について述べてきましたが、親鸞会はここがずれてしまっているのです。親鸞会の発想は、聖道門にかなり近いといえます。阿弥陀仏の救いは悪人正機でありますが、悪人正機の解釈も、聖道門を捻ったようなものです。

悪人正機といえば、『歎異鈔』第3章ですが、覚如上人は、『口伝鈔』に悪人正機について詳しく教えられています。

 おほよそ凡夫の報土に入ることをば、諸宗ゆるさざるところなり。しかるに、浄土真宗において善導家の御こころ、安養浄土をば報仏報土と定め、入るところの機をばさかりに凡夫と談ず。

 このこと性相の耳を驚かすことなり。さればかの性相に封ぜられて、ひとのこころおほく迷ひて、この義勢におきて疑をいだく。その疑のきざすところは、かならずしも弥陀超世の悲願を、さることあらじと疑ひたてまつるまではなけれども、わが身の分を卑下して、そのことわりをわきまへしりて、聖道門よりは凡夫報土に入るべからざる道理をうかべて、その比量をもつていまの真宗を疑ふまでの人はまれなれども、聖道の性相世に流布するを、なにとなく耳にふれならひたるゆゑか、おほくこれにふせがれて真宗別途の他力を疑ふこと、かつは無明に痴惑せられたるゆゑなり、かつは明師にあはざるがいたすところなり。そのゆゑは、「浄土宗のこころ、もと凡夫のためにして聖人のためにあらず」(遊心安楽道)と[云々]。しかれば貪欲もふかく、瞋恚もたけく、愚痴もさかりならんにつけても、今度の順次の往生は、仏語に虚妄なければいよいよ必定とおもふべし

(石田瑞磨著著『親鸞全集』による現代語訳)
 おおよそ、愚かなひとが真実の浄土にはいるということは、諸宗では許されないところである。ところが、浄土真宗では、善導大師を奉ずるひとたちのお考えとしては、安養浄土をば、かつて立てた誓いをなしとげてその報いとしてあらわれた真実の仏が報いとしてえられた真実の浄土であると定め、そこにはいることのできるひとはまさに愚かなひとなのである、と説いている。

このことは聖道門の教えを奉ずるひとの耳を驚かすことである。だから、聖道門の考えに閉じこめられて、多くのひとは心に迷いを生じ、その勢いの赴くところ、疑いを抱くようになる。その疑いがきざすところは、阿弥陀仏の、世に超えすぐれた大慈悲の誓いについて、かならずしもそんなことがあるわけがない、と疑うようになっているほどのものではないし、またわが身のほどを卑下して分相応のものしかえられないという理屈を弁え知ったうえで、聖道門によるかぎりは愚かなひとは真実の浄土にはいることはできない、という道理を思い浮べて、こうした対比によって、いまの真宗の教えを疑うようになっているほどのひともごく稀である。しかしそうではあるけれども、聖道門の教えが世に行われているのを、どういうこともなく、耳に触れて聞きなれたためか、多くのひとは、これに妨げられて、真宗独特の他力の教えを疑っている。これは一つには智慧の勝れた師に逢わないことがもたらした結果である。このように考えられるわけは、浄土の教えのこころは、本来、愚かなひとを目当てとし、行い澄ました聖人のためにあるのではない、といわれることである。こうしたわけであるから、貪りの心深く、怒りの心はげしく、心の暗い愚かさがさかんになるにつけても、このたび来世でかならず浄土に生れるということは、仏の言葉にうそいつわりはないから、いよいよ決定的である、と思わなければならない。

覚如上人が仰っていることは、まさに親鸞会のことです。聖道門の考えとは、因果の道理から、その人の行いに応じた結果しか現われないというものです。その聖道門の考えを元として真宗の教えを判断するから、18願に救われる条件として、

  • 善をしなければ信仰が進まない
  • 諸善は獲信の因縁になる

などということを平気でいうようになるのです。悪人正機を否定する考えになるのは、

明師にあはざるがいたすところなり

の一言がすべてです。阿弥陀仏の本願を理解した知識に逢っていないからです。「難信の法」の意味が判っていない高森会長の話は、聖道門と同じで因果の道理を強調して、18願の救いと諸善とを関連付けています。しかしそれは「難信の法」ではありません。「易信の法」です。

浄土宗のこころ、もと凡夫のためにして聖人のためにあらず

悪人とは、救いのために善を勧められても善に励もうという気持ちさえもなかなか起こせない人です。そんな悪人のための教えであって、善に励もうとする善人のための教えではないのです。
ならば、悪に誇ったり、善をしない方がいいと言うのか、と極端なことを親鸞会では言ってきますが、そんな理解しかできない程愚かなのです。

親鸞聖人の教えを正しく理解した人は善に対して以下のように考えます。

獲信とは無関係ではあるが、できる限り悪をやめて善に励もう

自然体です。ところが親鸞会のように、

献金、勧誘をしなければ、後生の一大事が解決できない

と心身共にすり減らした求道は、好意的にみて聖道門、普通にみればカルトの教えです。体を壊し、精神的に障害をきたし、仕事と家族を犠牲にする、そんな人のための救いを悪人正機とは絶対にいいません。
明師はたくさんおられますので、教えに昏い暗師を早く見限って下さい。

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