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2010年7月 5日 (月)

自力による一念の信心

親鸞会では、議論で負けそうになると、一念の信心について必ず言及してきます。一念の信心は、親鸞会だけ、もっと正確にいえば高森会長だけの専有物であるかのように振る舞うことで、相手を見下し、議論の負けを誤魔化そうとするものです。
しかし、この一念の信心についての親鸞会、高森会長の説明は、法華系仏教と同じです。

『法華経』分別功徳品に

其れ衆生有って、佛の壽命の、長遠是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量有ること無けん。

とあり、これを天台大師は『法華文句』に、

疑無きを信と曰ひ、明了なるを解と曰ふ、是れを一念信解の心と為すなり

と解釈しています。これを承けて創価学会で珍重される『御義口伝』には

一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり

一念信解の信の一字は一切智慧を受得する処の因種なり。信の一字は名字即の位なり。仍って信の一字は最後品の無明を切る利剣なり

信の処に解あり、解の処に信あり。然りと雖も信を以て成仏を決定するなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者是なり

とあります。
細かい解説は、関連のサイトなどを読まれればよいと思いますが、この一念の信は自力です。自分の心で起こすところの信心ですから、信心を起こした神秘的な一念の自覚があります。

一方、親鸞聖人が仰る一念の信心は、本願力回向の信心です。
『教行信証』信巻には

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

とあります。『一念多念証文』ではここを

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふ は、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

と仰っていまして、親鸞聖人は、疑いのないことが信心と教えられています。一時的な感情の高ぶりとは、全く異なる信心ですから、神秘的な体験をした一念の自覚があるかどうかというレベルの話ではありません。

高森会長の”一念の信心”の体験はネット上で公開されています。
「親鸞会辞書」の獲信の項目から、一部引用します。

そこで私は、もとより寺院に生まれたのであるから仏法を信仰しようと考え、無理やりに仏を拝み、そして念仏を称えた。ところが少しも有難くないどころか、それをあざけり笑っている或る者を私は心中に感じ、馬鹿馬鹿しくなりました。いまだに如来が信じられなかったのです。即ち如来の存在を疑っていたのであります。
なんとかこの疑を晴らして安心決定したい一念は、あらゆる方向から工夫をこらしてみたが、やはり駄目だ、永久性がない。まず今日から口の仕事に南無阿弥陀仏を忘れる暇なく称えてみようとも思い、実際やってみると、嬉しいこと、悲しい時、困った折には忘れてしまう。しかしそのまま止めてみるが自分の気がすまない。されば今度は仏法の伝道によって私自身信じたいものだと考えた。
学校の伝道部に入り、一意誠らしく話してみたが、真の安心はできない。或る人は信心を戴かない伝道は奇弁だと非難する。それについても私は非常に恥ずかしかった。穴があれば入りたい気もしたが、どうにも私を迷わせただけでありました。
名誉獲得に常に走る我が心を哀れと思いながら、なおそれを覆い隠そうとする迷雲は、なかなか私を仏道に近づけなかった。そこでまた私は、聞くということが我が真宗では大切であると言われるから、大いに聞こうと毎晩毎晩総会所にお参りさせていただきました。ところがいかに説教を聞いても「うまく言うない」「フフン」とあざける内心に何だかいやになり、或る晩もあまりに自分の立場に苦しみ、ひとつ徹底的に私の理解を促したいと、布教使さんのもとに行き、自分の疑っていたことを問いただしてみたが、これも明解を得ず、満足せずに悲しく淋しい闇夜を帰ったこともありました。
何とかして私達に、地獄の存在、極楽の有無を確実に指してくれる人はないか。
求めつつ、ややもすればこの解答をなし得ざるを自身の偉きが如く考え、人をも迷わし、自分も迷いながら、実に毎日仮夢をやっていたのであります。はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。

現在高森会長が殊更に強調している”一念の信心”とは違います。高森会長自身も体験していない親鸞会の”一念の信心”は、創価学会等でいう自力の信心を参考にしただけでしょう。

また大沼法竜師は本願寺の無帰命安心を非難するために、信前信後の一念の体験を繰り返し言い続けて、結果的に当時の本願寺が黙ってしまったことがあります。

こうなった、ああなった、という高森会長の言葉を聞いて、それが正しいかどうかなど、親鸞会会員以外の人には興味のない話ですから、それを強調して議論すれば相手は黙るでしょう。相手が黙ったならば会内部では、そんな体験をしているのは高森会長だけだということがはっきりした、と宣伝されます。そして親鸞聖人の仰る一念の信心を誰も獲られない神秘的な体験にすり替えて、そんな希有の体験をした高森会長を、益々、無二の善知識と崇め奉らせる。

親鸞会教義は、創価学会からのパクリが多いのですが、信心までもパクッて、真宗とは全く異なった宗教団体となっているのです。

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コメント

それでは、会長の体験談最後段の、

「次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。」

とあるのは、真宗の正しい信心に照らして、正しいのでしょうか、誤りなのでしょうか。

投稿: BS | 2010年7月 5日 (月) 17時14分

BS 様

この文章だけで正しい、誤りと断言はできません。しかし、一念がはっきりと自覚できるというのは、智恵のない凡夫にとっては明らかな誤りであり、その反対である会長の体験談は、誤りとはいえないと思います。
それ以上は、他人が判断できないことです。

投稿: 飛雲 | 2010年7月 5日 (月) 17時42分

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