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2010年7月14日 (水)

このゆゑにわが法かくのごとくなしき、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし

こうへい氏も、例のブログの管理人も、1ヶ月経っても沈黙したままです。正しい親鸞聖人の教えを明らかにする、など掛け声だけ。もちろん、高森会長も教義批判に対してさえも、逃げの一手です。組織は存続しても、親鸞会の中身は完全に空になりました。

さて前回、『阿弥陀経』にある「難信の法」について述べましたが、もう少し詳しく書いてみます。

『教行信証』化土巻には、

彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。

(現代語訳)
その彰とは、自力の心では信じることができない他力真実の法を彰すものである。これは不可思議の本願を明らかに説き示して、何ものにもさまたげられることのない他力信心の大海に入らせようという思召しである。まことにこのお勧めは、あらゆる世界の数限りない仏がたのお勧めであるから、信心もまた数限りない仏がたにたたえられる信心である。だから自力の心では、この信心を得ることなどとうていできないというのである。

とあります。『観無量寿経』の隠顕と同様に、『阿弥陀経』にも隠顕があります。隠顕については、
『観無量寿経』の隠顕

で書きましたので、そちらも参照下さい。

『阿弥陀経』の顕説は、自力念仏です。他力念仏と自力念仏との違いを、隠顕で上記のように教えられているのです。自分の称えた念仏で、往生しようとするのは、「難信」ではありません。本願力回向の信心、他力念仏によって往生させて頂ける、これは「難信」です。世間の常識を超えた信じがたい尊い教えです。そうであるから、信じがたい尊い教えを、仏がたがお説き下され、他力信心を勧められていると親鸞聖人は仰っています。

また真門釈では、

『大本』(大経・下)にのたまはく、「如来の興世、値ひがたく見たてまつりがたし。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞きよく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん。このゆゑにわが法かくのごとくなしき、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし」と。

(現代語訳)
『無量寿経』に説かれている。
「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に出会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くこともむつかしい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くことも難しく、善知識に出会って教えを聞き、修行することもまた難しい。まして、この阿弥陀仏の教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。そうであるから、わたしはこのように仏となり、さとりへの道を示し、阿弥陀仏の教えを説くのである。そなたたちは、ただこれを信じて、教えのままに修行するがよい」

と『大無量寿経』を引いておられます。『阿弥陀経』の「難信」に続いて、『大無量寿経』の「難信」を挙げられています。仏に値うことの難、諸仏・菩薩の自力の教え聞いて行ずることの難、そして、阿弥陀仏の18願を聞信することの難を説かれています。ここで終わるのが親鸞会ですが、この後があるのです。

このゆゑにわが法かくのごとくなしき、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし

だから釈尊は、18願を『大無量寿経』に説かれて、はからいを入れずに、自力を捨てて信順しなさいと勧めておられるのです。
世間の常識を超えた信じがたい尊い教え聞いて、しかも信じている人は、釈尊、七高僧、親鸞聖人の教えに従って、他力信心を平生に必ず頂けるのです。
これを蓮如上人が宿善と絡めて教えられたのが『御文章』3帖目第12通です。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

過去世において、信じがたい念仏の教えを聞いて、他力念仏往生を願う人は、「宿善の機」です。善をして救われるという教えは簡単に信じられますが、善が不要の救いが信じられる人は、十方衆生の中でも極僅かですから、「難中の難」ですが、善が不要の信じがたい救いを信じて求めている「宿善開発の機はおのづから信を決定すべし」なのです。

一方で、退会者を

善をしたくないから、楽なところに行ったのだろう

などと罵る高森会長は、親鸞聖人の教えを何1つ知らないことを公言しているようなものです。高森会長は、『御文章』をまともに読めない文盲かと疑いたくなります。庄松同行の方が余程賢いでしょう。
善の不要な救いを信じていると言いながら、善をしなければ信仰は進まない、などという高森会長のみを信じて、釈尊、七高僧、親鸞聖人、蓮如上人の仰せを無視する会員さんは、「無善本」の人、つまり本当に宿善の無い、無宿善の機なのでしょうか。もし宿善の機であるなら、悪知識を捨てる筈です。

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コメント

如是作、如是説、如是教の三如是ですね。
久しぶりに無量寿経を拓いてみたな。

現代語訳は意味は判るのですが、漢文のお聖教を読んでみると、また違った角度で親鸞聖人の思し召しを味わえますよ。

投稿: 林遊@なんまんだぶつ | 2010年7月15日 (木) 22時40分

林遊@なんまんだぶつ 様

ここの解釈は、なかなか難しいですね。現代語訳で理解するだけでも大変で、読みくだしまでが精一杯ですから、漢文で読むところまで、私の能力が追い付いていきません。
親鸞聖人の深い思し召しを味わえるよう、勉強していきたいと思います。

投稿: 飛雲 | 2010年7月16日 (金) 08時02分

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