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2010年7月 8日 (木)

浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

親鸞会の会員は、信心決定したならば、阿弥陀仏から智恵を賜って相当のことが判ると考えています。信心決定を神秘的なものとして聞かされていますので、そのようにしか考えられないでしょうが、凡夫の浅智は信前信後変わりません。

『歎異抄』第2章にある親鸞聖人のお言葉として

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。

と記されています。関東の同行に対して、親鸞聖人は念仏の功徳について御存知であるにも関わらず、「総じてもつて存知せざるなり」と突き放されたお言葉と高森会長は教えていますが、これを覚如上人は『執持鈔』で言い換えられています。

「是非しらず邪正もわかぬ この身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」。往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

ここでは、『歎異抄』第2章の状況とは違う形でのお言葉となっています。
阿弥陀仏に救われたならば、死後のことが判るのかということについて、

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 故聖人の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」
  • 故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなり

等々、死後のことをはからうべきではない、つまり凡夫にははっきり判らないということです。

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

自力を捨てて他力に帰すとは、すべて阿弥陀仏におまかせであり、阿弥陀仏の御心を正しく伝えて下された師と同じところへ往く、いうことです。極楽往き間違いなしと、はっきりするのではなく、阿弥陀仏にすべておまかせしたことがはっきりするのです。だから、阿弥陀仏の本願、そして本願を説かれた師の教えられている通り、極楽往き間違いなし、となるです。

阿弥陀仏、地獄、極楽、死んだらどこへ往くのかが、判るということではありません。
これは、こうへい氏が自分への質問を逸らすために質問し続けていた「捨自帰他」の答えでもあります。

善知識方がお聖教の中で、明らかに知らされた、と仰ることのは上記のことなのです。
以前に
金剛心と暁

でも書きましたように、信心決定しても判ることは僅かです。

死後のことがはっきり判らない「凡夫の浅智」である信後の人を異安心と蔑む会員さんは、高森会長の説明する神秘体験、神秘信心にのみ根拠をもつ一念覚知の邪義です。

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コメント

では、領解文の
「往生一定、おんたすけ治定と存じ」
等のお言葉はどうなるのですか?

投稿: あらら | 2010年7月 8日 (木) 17時54分

あらら 様

そのような質問が出てくると思っていました。

エントリーで書いた通り、阿弥陀仏にすべておまかせしたということがはっきりしている。だから、阿弥陀仏の本願の通りに往生一定、おんたすけ治定となる。
同じではないか、と思われるかも知れませんが、同じではありません。

金剛心と暁

で紹介した問答も、よく読まれると少しはお判り頂けるかも知れません。

投稿: 飛雲 | 2010年7月 8日 (木) 18時38分

かつてmixiで、こうへい氏が「信後は死後がハッキリする」と主張し、高松和上のお言葉を引き合いに出していた本派の女性と法論していましたが、こうへい氏の間違いが鮮明に理解できました。

投稿: Rudel | 2010年7月 8日 (木) 20時41分

Rudel 様

親鸞会は邪義団体ですから、親鸞会から見ると本願寺が邪義に思えるのでしょう。

投稿: 飛雲 | 2010年7月 9日 (金) 20時58分

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