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2010年6月10日 (木)

自惚れているのは誰か?

19願を勧められた根拠として誡疑讃を出して、完膚無きまでに論破された人物が、その悔しさから断章取義と詭弁で組立てた新たなブログを作って、喜んでいるようです。敢て当ブログを狙っていることや、文体及びこれまでの主張を見れば同一人物であることは明らかです。(当然否定するでしょうが)
相手の主張をねじ曲げて攻撃するところは、高森会長と同じですし、過去にも同様のことが多々ありました。相手の主張をねじ曲げるのは、自分の論理に自信がない証拠です。

これまで、当ブログで述べてきたことを御理解頂ければ、詭弁と論理のすり替えが見破れると思います。反論に値する内容ではありませんが、ポイントだけ書いておきます。

弥陀の第19、20、18の三願が”孤立したもの”
としか思えないのも当然。
 
19願の相手が”聖道門に限る”という誤解も必然。
 
『一念多念証文』で祖師聖人が、
  この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、
  本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに
と、「もろもろの衆生」をすすめこしらへて、とおっしゃっても、
それは「逆悪の機」とは別人の「定散諸機だけ」を導いている
と思っているのもうなづける。
 
 
これでは親鸞聖人の「三願転入」の理解は、無理というもの。
 
 
ところが、三願が孤立しているとは言いながら、
 
「『定散諸機』も最後は18願に導かれなければ報土往生できない」
 
と19願と18願の関連性は認めざるを得ないのは、
論理が破たんしているようである。

さて、三願の関係について親鸞聖人がどのように教えられているかをこれまで散々述べてきましたが、このようなことを言っていること自体、お目出たいことです。権仮方便の意味が何も判っていないことだけは確かです。

直接的には
真仮廃立と従仮入真
で述べました。
また
「親鸞会教義の誤り」
親鸞会は諸行往生13

でも説明されています。

少し難しい内容になりますが、
「21世紀の浄土真宗を考える会」
浄土三部経と三願

にあります、「三経一致門」と「三経差別門」についても読んでおかれれば、より理解できるでしょう。

井の中の蛙である親鸞会講師部員には、理解できないのも仕方がないでしょう。

大阿弥陀経、平等覚経、大無量寿経の対比によって、
大無量寿経の第19願・第20願にあたる願文の対機が
もともと異なるものであった、というのは、当たり前。
それが、まるで浄土門の人に19願は無関係である根拠であるかのように
おっしゃるが、頭だけで実地のない、実に稚拙なこじつけである。
 
対機が異なるとは、
19願・20願の願文に示されている行が異なっているということである。

稚拙なこじつけというよりも、他人には理解不能の思考回路といったところでしょうか。もう少し上手な誤魔化し方を考えつかないものでしょうか。

ならば浄土門であっても、信前の人には、19願は必要である
ということにならないか。

当たり前ですが、なりませんこうへい氏と同じで、根拠のない理屈ばかりです。

親鸞聖人が19願を勧められた根拠がどうしても出せなかったので、カルト思考に基づいた強引な理論でしか説明できない悲しさです。

通った人なら、ちゃんとわかっていることだ。

19願に留まったままの人物に言われても説得力は全くありません。

親鸞会は自惚れという言葉が大好きで、やたらと強調しています。反論はこの自惚れしかないだとうと想像していましたが、その通りでした。

親鸞聖人の教えを信じて、18願での救いを願いながら、19願を勧められて、それについていけずに親鸞会を去った人はこれまで数万人、もっと多いかも知れません。また、親鸞会に籍は置きながら、親鸞会で勧めるところの”善”をしようとしない会員が大半です。
親鸞会から”善”を勧められてその”善”をしようと自惚れているのは、親鸞会の幹部のことでしょう。

親鸞会の”落ちこぼれ”や”堕落者”は、親鸞会で勧める”善”ができるなどと自惚れていません。親鸞会理論では、”落ちこぼれ”や”堕落者”は助かりませんが、これは悪人正機の意味が全く判っていないところからくる主張です。18願での救いを願っている極重の悪人が、”定散二善で助かろうとする心の道程”などある訳がないです。だから

極重の悪人は、他の方便なし

なのです。更に自惚れている親鸞会幹部に対しても、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

で、18願他力念仏1つなのです。

再度『尊号真像銘文』のお言葉を挙げておきます。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

五逆・謗法の者でも救うのが、18願です。19願には、五逆・謗法の者は漏れているのです。それでも18願だけでは不足だとどうしようもなく自惚れている親鸞会の幹部は「無宿善の機」ですから、方便が必要でしょうが、そんな「無宿善の機」から「宿善の機」にも対して、お前も俺と同じだと主張されても、それは的外れです。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
                          (『御文章』3帖目第12通)

『教行信証』の解説書を何十冊も読んだと言いながら、信心正因称名報恩批判論者の信楽峻麿氏の論文をわざわざ出してくるところがなんとも滑稽です。信楽氏の論文の内容と、親鸞会の教えていることが違っていますが、それも判らないのでしょうか?

親鸞聖人の仰った根拠が出せないから、関係ありそうな論文は誰のものでも出しておけ、という発想なのでしょう。そのうちに他宗の論文も出てくるでしょうね。

それにしても御粗末なブログを書いて2chで宣伝しているのは、どんな感覚なのでしょうか? あれで筋が通っていると本気で思っているのでしょうか?

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コメント

三願の行信そのものというより、求道者の意識の道程を(半ば強引な感じですが)現代風に三願に配当した感じですね。
きちんと読めば、S会のいわゆる「19願の善のススメ」とは全く違いますよね。<信楽論文

「真宗相伝叢書」の時は、「よくもまぁこんなの見付けてきたな」と、その努力だけは褒めてやりたくなりましたが、今回はM野クンも、適当にネットでそれらしいのを拾って来たのがバレバレです*笑*

http://www.terakoya.com/ronbun/shigaragi/index.html

投稿: Rudel | 2010年6月10日 (木) 14時04分

毎回毎回、同一人物が別の人物として批判をするのは、どういう精神構造でしょうね。
議論に負けても、別人を装えば、今までの議論は白紙に戻ると考えているのでしょうね。
おめでたい限りです。

投稿: | 2010年6月10日 (木) 21時53分

Rudel 様

他人をネット教学と罵りながら、それが自分のことだと判らないのでしょう。ちなみに、以前に灯ブログのコメント欄に信楽氏の論文を紹介した人がありましたので、それを見て知ったのでしょう。
思考も、発想も御粗末です。

名無し 様

彼は10年間何度も何度も負け続け、その度に別の人物に成り済ましてきました。懲りないというよりも、そういう人格なのでしょう。

投稿: 飛雲 | 2010年6月12日 (土) 06時00分

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O講師は相変わらず愚かなことを書き続けています。親鸞聖人の御著書を読んだことが無いことは以下の発言で明らかです。「この善ができれば 化土往生できるからやりなさい」 [続きを読む]

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