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2010年6月15日 (火)

異安心は誰か?

親鸞会では、救われたならば、

すべての人は無善造悪である
19願・20願は18願に入るために必ず通る道程

ということが、知らされると思い込んでいるようですが、それは親鸞聖人の教えを何も解っていない”無解の一道”に出た人の妄想です。

前回も書きましたが、『往生礼讃』の

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

の善導大師のお言葉は、親鸞会の主張と矛盾しますので、親鸞会からすれば、善導大師は異安心になりますし、この善導大師のお言葉を引かれて信心を説明されている親鸞聖人も異安心になるのでしょう。

救われて知らされることについて、善導大師、親鸞聖人は、七深信で教えられています。

『愚禿鈔』に七深信についての簡単な説明があります。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

最初の二つが二種深信です。三番目が、何度も紹介しています「欣慕浄土の善根」です。
少し長いですが、重要なところですので、『教行信証』信巻に、七深信で『散善義』から引かれている部分を挙げておきます。

深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。

また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。

また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}

釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。

なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。

次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}
すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。

(現代語訳)

深心というのは、これはすなわち深く信ずるの心である。これにまた二種ある。一つには、自身は現在罪深い迷いの凡夫であり、はかり知られぬ昔からいつも迷いにさまよって、これからのちも生死を出る手がかりがない、と決定して深く信ずる。二つには、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂めとってお救いくださる。疑いなくためらうことなく、かの願力にうちまかせて、まちがいなく往生する、と決定して深く信ずる。

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

また、《阿弥陀経》の中に、十方にまします恒河の砂の数ほどの諸仏が、すべての凡夫はまちがいなく往生できる、と証明して勧めてくださることを、決定して深く信ずる。

また、深く信ずる者、仰ぎ願わくは、すべての行者たちよ、一心にただ仏語を信じて身命をかえりみず、決定して、仏の説かれた行をよりどころとして、仏の捨てよと仰せられる自力の行を捨て、仏の行ぜよと仰せられる念仏を行じ、仏の近づいてはならぬと仰せられる雑縁に近づかない。これを、釈迦の教えにしたがい、諸仏の意にしたがうと名づける。これを弥陀の願にしたがうと名づける。これを真の仏弟子と名づけるのである。

また、すべての行者たちが、ただよくこの《観経》によって念仏を深く信ずれば、決して人々を誤らせない。なぜかといえば、仏はこれ大悲を円満せられたお方だからであり、その説かれたおことばがまことだからである。仏を除いて以下の者は、智慧も行もまだ十分でなく、なお、それを学ぶ地位にあり、煩悩およびその余習がいまだ除かれず、願う仏果がまだ円満しない。したがって、これらの人たちは、たとい仏の教意をおしはかっても、まだ決了することはできぬ。仏意を正しく解釈したとしても、かならず仏の証明を請うて定むべきである。もし、仏の思召しにかなえば、仏はこれを認められて「正しい」と仰せられる。もし、仏の思召しにかなわなければ、「そなたたちのいう義は正しくない」と仰せられるのである。仏の認められない説は、無意味な利益のないことばにひとしい。仏の認められた説は、仏の正しい教えにかなうものである。仏のすべてのおことばは、正しい教、正しい義理、正しい行、正しい解釈、正しい業、正しい智慧である。多くても少なくても、菩薩・人・天などを問わず、その説のよしあしを仏説によらずに定めることはできぬ。もし仏の説かれた教であれば、決了の教であり、菩薩などの説であれば、ことごとく義理の決了でない教と名づける。よく知るべきである。こういうわけであるから、いまのとき、往生を願うすべての有縁の人たちに仰いで勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、専心に行ずべきである。菩薩などの仏意にかなわない教を信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、みずから迷い、往生の大利益を失ってはならない。

釈迦仏が一切凡夫に教えて、この身のあるかぎり専ら念仏して命終われば、まちがいなくかの国に生まれると勧められるならば、十方の諸仏もみなこれと同じように讃嘆し、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜかというと、同じさとりから起こる大悲だからである。釈迦一仏の教化せられるところの法は、そのまま一切の仏が教化せられるところであり、一切の仏が教化せられるところの法は、そのまま釈迦仏の教化せられるところである。すなわち《阿弥陀経》の中には、釈迦仏が極楽の種々の荘厳を讃嘆せられ、また、すべての凡夫に、一日あるいは七日でも一心に弥陀の名号を称える者はまちがいなく往生させてくださる、と勧められ、その次の文には、十方におのおの恒河の砂の数ほどの諸仏がおられて同じように釈迦仏を讃嘆なされる。すなわち釈迦仏が、この五濁の悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなときに出られて、よく弥陀の名号を讃嘆せられ、衆生に、念仏すればかならず往生を得ると勧め励まされるのをたたえていられる。これがその証拠である。また、十方の諸仏は、等しく衆生が釈迦一仏の説かれたところを、信じないであろうことをおそれて、共に心を同じくし、同時におのおのが、あまねく三千世界をおおうような広長の舌相を示して、まことの言葉をもって、『そなたたち衆生はみな、釈迦仏が説かれ、讃嘆せられ、証明せられるところの法を信ずべきである。すべての凡夫は罪福の多少や時間の長短を問うことなく、ただよく上は一生涯から下は一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を称えれば、かならず往生を得ること決して疑いない』と仰せられている。こういうわけで、釈迦一仏の説かれるところはすなわち一切の仏たちが同じく証明せられるのである。」これを〈勧める人について信を立てる〉というのである。

つぎに、〈行について信を立てる〉というのは、ところで、行に二種ある。一つには正行、二つには雑行である。正行とは、専ら往生経に説かれてある弥陀行によって行ずることをいうのである。何がこれであるかというと、一心に専らこの《観経》《弥陀経》《無量寿経》などを読誦すること。一心に専らかの浄土や仏および聖衆たちを心にかけ、よく観察し、つねに念おもうこと。もし礼拝するならば、すなわち一心に専ら阿弥陀仏を礼拝する。もし口に称えるならば、すなわち一心に専ら弥陀の名号を称える。もし讃嘆供養するならば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを正行と名づけるのである。

また、この正行の中について、また二種ある。一つには、一心に弥陀の名号を称え、行住坐臥に時間の長短をいわず相続してすてないのを正定の業という。かの阿弥陀仏の本願に順したがうからである。もし礼拝や読誦などによれば、これを助業という。この正助の二行を除いてほかのいろいろな善根は、ことごとく雑行と名づける。すべて粗そ雑ぞうの行というのである。こういうわけで「深心」と名づける。

五番目は、

仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。

とありますように、教えられるとおりに、捨てよと言われたら捨てる、行じなさいと言われたら行ずる、近付くなといわれたら近付かない、なのです。

親鸞会の教えていることは、

仏の捨てしめたまふをばすなはち拾わせ、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ぜず。仏の去らしめたまふところをばすなはち近付く。

です。
六番目、七番目も含めて善についての扱いがまるっきり反対です。19願・20願は、18願への道程ということではありません。他力念仏以外は、「捨てしめたまふ」ものです。

難しいかもしれませんが、七深信について何度も何度も読み返してください。
救われて知らされることは、

自分の力では、出離して仏になるような善はできない。
諸善は聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、浄土門に入ったならば18願で救われるために捨てさるべきもの。

です。mixiでるぅでる様氏やsutybi氏が主張されてきた通りです。

これを知らされていない親鸞会の面々は、善導大師、親鸞聖人とは、異なる安心であることだけは間違いありません。

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コメント

唯信仏語はいいですねえ。

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、

仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、
(雑行雑修を捨てて)

仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、
(正行(念仏)を行じ)

仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。
(異学異解雑縁乱動のところを去れ)

これを仏教に随順し、
(釈尊の教え[仏教]に随順し)

仏意に随順すと名づけ、
(諸仏の意[仏意]に随順と名づけ)

これを仏願に随順すと名づく。
(阿弥陀仏の願[本願]に随順すると名づける。)

これを真の仏弟子と名づく。
(このような者を真の仏弟子と名づけるのである)

投稿: 林遊@なんまんだぶつ | 2010年6月16日 (水) 10時24分

親鸞の言葉を出したところで我田引水にしかならないだろ

唯心鈔文意にしても唯心鈔という前提の上に成立しているわけだから

浄土思想のない今の時代に
お念仏唱えましょうは
なんの説得力も危機感もないわけ
即応性さえないわけよ

そこにあって親鸞会はうまく浄土思想への導入を作っている
なんせ仮を尊重しているからね

投稿: | 2010年6月19日 (土) 19時51分

名無し 様

ですから、以前から言っていますように、教団名から「浄土真宗」「親鸞」を外せばいいのです。

新興宗教ですからね。

投稿: 飛雲 | 2010年6月19日 (土) 20時09分

名無し さん

よくコメントされる同じ方ですよね。
いわれることがよく変わりますが、荒らしたいだけでしょうか?

一番最近のことでいえば、飛雲さんを新興宗教とかわらないといってみたり、親鸞聖人の教えられた通りに書いているから駄目だといってみたり、大丈夫でしょうか?

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年6月20日 (日) 08時36分

時代の流れを無視して
言葉だけを拝借しているのを
親鸞の言葉通りと言えるのか?
と言っているのですがね

もう一つ
ただ何も考えず念仏唱えることが親鸞の真意、
念仏には我々が理解できない神秘的な力があるのだから
救いとは何かを考える前にとにかく唱えろ、
ブログ主の解釈がこれなわけだが
これが思考停止を誘う新興宗教と変わらないと言っている
なぜなら源信から続く末法思想の広がりと
自力的な浄土教という前提を全く無視した発言だから

俺は別に親鸞会のように必ず要門を通らなければならないとは一言も言っていない
ただ実学としての真宗を問うたときに学術的な問題をさておき、
個人に合わせて要門を開くことも必要だと言っているだけ

そもそもサンスクリットの経を出して浄土教の変遷を親鸞の思想を別にして客観的に考察しながら、
なぜか非科学的な末法思想は現代的な再解釈もないまま、教条主義的に受け入れるブログ主の感覚が今いち理解できない。
それを唯々諾々と受け入れる取り巻きの感覚も。
一方で「当時はこういう理解だった」で通しながら
もう一方で「もともとこれはこういう意味で使われており、(当時の解釈云々とは無関係に)そういった解釈そのものがありえない」と言う
そんなことを言えば、大乗非仏説さえ引用できるだろ。
竜樹の著作からして竜樹本人が書いたか疑わしいのに
それらの資料批判はやらずに漢訳経典の資料批判はおkなんだからな

投稿: | 2010年6月20日 (日) 20時05分

名無し 様

管理人さんが何度も仰っているように、真宗学を基礎から勉強して下さい。それと、ここで書かれている内容にも、相当の誤解があります。

度々の御指摘も、的が外れておりましては、無意味なコメントにしかなりません。

今後、空気の読めない的外れなコメントがあれば、管理人さんは削除をして頂くようにお願いいたします。

投稿: | 2010年6月20日 (日) 21時01分

皆様

貴重な御意見、有難うございます。
私は、親鸞聖人のお言葉を中心として、経典、歴代の善知識方のお言葉に基づいて述べてきました。その解釈も、西本願寺の主流学派に添っているつもりです。
それが新興宗教と同じと言われてしまっては、真宗を基礎から否定するものと考えております。
親鸞会と同じで、根拠もなく理論を並べられましても、机上の空論にしかなりません。
従いまして、真宗教義から外れる御意見は、御遠慮頂きたく思います。

当ブログの主旨に反する関係のないコメントと判断した場合は、コメントを削除させて頂きますので、御了承下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年6月20日 (日) 21時37分

>名無し様
度々コメントで質問をされて、また管理人さんと議論を望まれてるご様子がうかがえます。
私自身が真宗に全く疎いので質問や議論の内容については置いておきます。
ですが、私のようにものを知らない第三者から見て、名無し様の態度には少し疑問を覚えました。
まずは「名無し」ではなく名前を書かれた方がお互いやりとりしやすいですし、あなたが質問・議論を真剣に望んでいらっしゃることが伝わったのではないかと…。
またネットは匿名性ですし、こちらのブログの主旨も主旨です。
管理人様の立場を考慮すれば、「名無し」での度々の議論は警戒心や不信感を抱かれやすいので、得策ではないように思いました。

そして質問や議論ですので、基本はお互いに応答し合うもの。
真宗学を学ばれた管理人様や他の皆様からの「真宗学の基礎から学んでください」といった返事に対して、名無し様は実際に応えられた(基礎を学ばれた)のでしょうか?
もし既に基礎を学んでいらっしゃってるのであれば、そうコメントされる。
もし学んでいらっしゃらなければ、学んだ上で改めてコメントされる。
といった自然な応答があれば、名無し様の望まれる質問や議論はスムーズに進んだように思いまし

投稿: G | 2010年6月21日 (月) 02時10分

申し訳ありません。途中で切れてしまいましたので追加します。

もし学んでいらっしゃらなければ、学んだ上で改めてコメントされる。
といった自然な応答があれば、名無し様の望まれる質問や議論はスムーズに進んだように思いました。

言いにくいことですが、最後にされたコメントで「上から目線」云々とありましたが、名無し様のコメントからは「上から目線」を感じられる部分が多々あります。
名無しご自身が「上から目線」で見ていらっしゃることが、自然な応答の妨げになっているのではないでしょうか?

>管理人様
管理人様がコメントされてる以上、名無し様へのコメントは避けるべきかと迷いましたが…。
ずっと気になっており、書いてしまいました。
当コメントが不要の場合は削除をお願い致します。

投稿: G | 2010年6月21日 (月) 02時28分

このブログは元親鸞会会員だった人が、主に西本願寺の伝統宗学に基づいて、
親鸞会の教義に断章取義や解釈のおかしい点があるところを指摘して批判をしてるところです。
そう明記はされてませんが、ブログ設立から一貫してこの姿勢が貫かれており、他の話題にほぼ触れてないくらいです。
そこに「親鸞会サイド」でもない、「親鸞会教義批判サイド」でもない、
言わば第3者が持説を持ちこんできて管理人の批判を行っても、このブログの趣旨から外れてるんです。


まして↑の

>ただ何も考えず念仏唱えることが親鸞の真意、
>念仏には我々が理解できない神秘的な力があるのだから
>救いとは何かを考える前にとにかく唱えろ、
>ブログ主の解釈がこれなわけだが

のように、管理人の主張してないことを主張してるかのように言いだして批判されても、
議論にもならなければ相手にしようがないのは明白です。
まずは、管理人の飛雲氏が「誰の」「どのような主張に対して」批判を出してるかしっかり読んでください。

その上で、親鸞会サイドでもない、親鸞会教義批判サイドでもないんですから、
自分のブログを設立して、そこで自身の主張を述べられてはいかがでしょうか?

投稿: | 2010年6月22日 (火) 10時29分

長くなったので分割。

-------1.
今回は少し詳しく述べたところもあるので応答もできるんだけど、
とにかく、言いたいことが掴めないんだよな
自分の頭の中で出来上がってる結論だけ述べて批判してくるもんだから。

 >時代の流れを無視して
 >言葉だけを拝借しているのを
 >親鸞の言葉通りと言えるのか?
 >と言っているのですがね

これにしてもそう。
「時代の流れを無視して」っていうのがどの時代を指してるのかが分からない。
「親鸞当時の時代の流れ」(奈良~平安~鎌倉)のことなのか、
「現代までの時代の流れ」(明治~大正・昭和~平成~)を言おうとしてるのか。
前者ならば「親鸞の言葉を読むときは、その前の時代背景も考慮に入れて考えろ」みたいな意味だが
後者は「親鸞の言葉は時代とともに意味解釈を変えて読め。現代は(昔の解釈じゃない、)現代風の解釈をしろ」と言ってるように聞こえる。


 >俺は別に親鸞会のように必ず要門を通らなければならないとは一言も言っていない
 >ただ実学としての真宗を問うたときに学術的な問題をさておき、
 >個人に合わせて要門を開くことも必要だと言っているだけ

そもそもその「実学」という言葉の意味するところも不明ならば、ここはその
実学を云々議論するところでもないんだっていうツッコミがあるわけだが、今回はそれは置いといて

名無し氏の主張
1)必ず要門を通らなければならないわけではない
2)実学としては「個人に合わせて要門を開くことも必要」

1)に関して
飛雲氏が言ってる事と別に相違はない。飛雲氏は要門を「存在しなくてもいい不要なもの」とは言ってない。
親鸞会が善巧方便と権仮方便をごっちゃにして「要門は善巧方便」と主張している(だから必ず通らなければ救われない)ことに対して、
「要門は権仮方便である」という批判をしてる。

2)に関して
方便・要門は大事だよ。化身土巻にも19・20願は「悲願」とあるし。
ただ要門は自分で開くものじゃない。
自分が「実学として」、他人に法を伝えるときに「まず方便要門から説く」という主張なら、その主張には
誰に対してどの方便の教えが必要なのか判る、そして自分がその教えで確実に真実へ導くことができる、という前提が必要だ
その前提の無い、不完全なものをもって「方便」とは言わないし、まして要門を開いたつもりで真宗とは別の道に案内してしまうかもしれない
だから仏陀でもない自分たちが"率先して"「雑行・自力・要門・方便の教えを"すすめる"」ことはしないの。
まさか「実学だったら何を説いても、何を勧めてもいいのが浄土真宗」なんてことを言うつもりは無いと思う。
だから「学術的な問題をさておいて語れる実学」ってのも怪しい点は留意してもらいたいもんだ

 >そこにあって親鸞会はうまく浄土思想への導入を作っている
 >なんせ仮を尊重しているからね

親鸞会は「仮を尊重」してるんじゃないよ、「真と仮が同じ」になってしまってるの。
「仮と真の価値が、実質的に同列になってしまってる」のが親鸞会。
親鸞会教義の方も理解不十分のようなので、ちゃんと理解してください。

投稿: | 2010年6月22日 (火) 11時59分

-------2.
 >そもそもサンスクリットの経を出して浄土教の変遷を親鸞の思想を別にして客観的に考察しながら、
 >なぜか非科学的な末法思想は現代的な再解釈もないまま、教条主義的に受け入れるブログ主の感覚が今いち理解できない。

意味不明。サンスクリット経典を引用した記事とかあったっけ?
異訳大経の「本願の数」の比較はしてるけど、そこから「浄土教の変遷」なんて論じてない。
(訳経に関して、大経には大きく初期と後期にわけられることや、本願の数が翻訳によって違うことを引用してるところはあるが、
 あくまで補足的な説明であって、その引用で一番言おうとしていることは、「十方衆生」の対機の違い)


「末法思想の現代的な再解釈」ってのも意味不明。どういう意味?
確かに末法思想ってのは非科学的というか、仏典にすら根拠に乏しい思想だが、
仏教界の常識として定着してきたものだし、親鸞も末法思想に基づいて話をしてる。
非科学的と批判して現代的な再解釈を加えるということは科学的な見地に立てということだろうか。
一体どう解釈すべきものか、自論でもいいから一度論じてほしい。
結果親鸞の思想とは違う「現代的末法思想観」を打ち立てろという結論なら「浄土真宗」は語らないでほしいと思うけど。


 >一方で「当時はこういう理解だった」で通しながら
 >もう一方で「もともとこれはこういう意味で使われており、(当時の解釈云々とは無関係に)そういった解釈そのものがありえない」と言う

前からずっとそういってるけど、どこのことなのか、その箇所をピックアップして論じてほしい。
「飛雲氏はこの記事のこの部分でこう説明したが、一方で別の記事のここではこのように説明してる」という風に。
自分の頭の中で出来上がった結論だけ持ってきて批判してもネット上では伝わらない(批判にならない)よ


 >ブログ主の感覚が今いち理解できない。
 >それを唯々諾々と受け入れる取り巻きの感覚も。

とは言うけど、飛雲氏からも他の人からも
(何だろうこの人、親鸞会員でも退会者でもなさそうだけど、結局何を言いたいの…?)
みたいに思われてるくらい説明不足だって自覚してください
毎度毎度「結局あんたはこう言いたいんだ」みたいに持ってきた結論が軒並み的外れで、
飛雲氏の主張をどう読んだらそうなるんだ?ってくらい文章読解力とか疑問視されてる。
面倒くさいと思うかもしれんけど、批判でも賛成でも、それを論じる人間の最低限のポイントなんで、
引用して説明する、言葉の定義をもう少し明確にする(自分では判ってる言葉とかを当たり前に使わない)などを
丁寧に書きこんでほしい。

投稿: | 2010年6月22日 (火) 12時01分

皆様

コメント有難うございます。

根拠の無いことの議論をすることは無意味ですので、そのようなコメントは削除しています。

なお、私の意見に賛同して下される皆さんのお気持ちは嬉しいのですが、根拠が無く、親鸞聖人の教えに基づいていないコメントは今後も削除しますので、某氏に対するコメントは御遠慮頂きますよう、よろしくお願いいたします。

投稿: 飛雲 | 2010年6月22日 (火) 19時33分

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O講師は相変わらず愚かなことを書き続けています。親鸞聖人の御著書を読んだことが無いことは以下の発言で明らかです。「この善ができれば 化土往生できるからやりなさい」 [続きを読む]

受信: 2013年5月13日 (月) 20時06分

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