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2010年6月21日 (月)

機無・円成・回施

親鸞聖人は『教行信証』信巻に、真実信心について明らかにされています。信巻にのみ、別序がおかれてあり、信巻で説かれる真実信心についての概要が書かれています。

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。

です。ここに親鸞会の誤りが端的に示されているのですが、高森フィルターを通して読むと、それが判らないのでしょう。
一文ずつ解説していきたいと思います。

最初の一文は、信心は自ら起こすものではなく、阿弥陀仏の本願力によって、すべて発起せしめられるものであることを仰ったものです。そんなことは親鸞会でも教えている、と親鸞会は反論するでしょうが、自力の一切混じらないのが真実信心であり、それを絶対他力というのが判っていないのです。我々の方から加えるものは何一つないのです。それなのに、善をすることを加えたり、善をすることで善のできない者と知らされることを加えようとしているのが、根本的な間違いです。

『高僧和讃』善導讃にも、

信は願より生ずれば
 念仏成仏自然なり
 自然はすなはち報土なり
 証大涅槃うたがはず

とありますが、本願より信心は生ずるのですから、私の方からは何も差し出すものはないのです。

それについて説明されたのが、親鸞会でもよく引用する

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善導大師の機の深信と同じ意味で、善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

この機無・円成・回施については、20数年前に、一度だけ、高森会長から話を聞いたことがありますが、その正しい意味は、会長も会員も理解できていません。
宿善を求めよというのも、19願の諸善をせよというのも、これが判っていないからです。善をして善のできない者と知らされてきなさい、というのでもありません。条件は何1つないのです。条件をクリアできるなら「機無」ではありません。そのことを最後に「疑蓋雑はることなし」と仰っているのです。

ここの部分を、某ブログでは

果てしない過去から金輪際、
例外なく、
「名号」の相手(十方衆生)は「善のカケラもない者」。

と書いています。

こんな曲がった解釈しかできないから、親鸞会で何十年聞いても何も判らない筈です。だから昿劫多生の目的とかいって騙しているのです。

仏願の生起本末を聞く」とは、この機無・円成・回施を聞くことです。この意味が判っていない人からいくら話を聞いても、「疑心有ること無し」とならないのも当然です。

聞き方が悪いのではありません。話をしている者が悪いのです。

会員さんは隠れてでもいいですから、直にお聖教を読んで確認してみて下さい。

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