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2010年6月17日 (木)

真の仏弟子

mixiでのこうへい氏も、親鸞会関係のブログも、未だに根拠に基づかない珍理論を展開しているだけですので、マインドコントロールの解けた人が読めば、笑止千万の内容でしょう。

さて前回、七深信について述べましたが、第五深信の唯信仏語(真仏弟子)についてコメントを頂きましたので紹介しておきます。

唯信仏語はいいですねえ。

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、

仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、
(雑行雑修を捨てて)

仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、
(正行(念仏)を行じ)

仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。
(異学異解雑縁乱動のところを去れ)

これを仏教に随順し、
(釈尊の教え[仏教]に随順し)

仏意に随順すと名づけ、
(諸仏の意[仏意]に随順と名づけ)

これを仏願に随順すと名づく。
(阿弥陀仏の願[本願]に随順すると名づける。)

これを真の仏弟子と名づく。
(このような者を真の仏弟子と名づけるのである)

判りやすく解説されています。親鸞会で教え勧めていること仮もしくは偽の仏弟子になることです。

『教行信証』信巻・真仏弟子釈には、

真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。
(中略)
仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
ゆゑに光明師(善導)のいはく、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
またいはく、「方便の仮門、等しくして殊なることなし」と。
またいはく、「門々不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す」と。

偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。
『涅槃経』(大衆所聞品)にのたまはく、「世尊つねに説きたまはく、〈一切の外は九十五種を学ひて、みな悪道に趣く〉」と。
光明師(善導)のいはく、「九十五種みな世を汚す。ただ仏の一道のみ独り清閑なり」と。

と仰っています。「聖道の諸機」、「浄土の定散の機」を同列に扱われています。親鸞会は贔屓目に見れば「漸教」でしょうし、聖道・定散を勧めている訳でもないので、「悪道に趣く」教えと言えるでしょう。

方便を通らなければ真実には入れないのだ、と連呼するしか能のない親鸞会の間違いを、かつて親鸞会で教学的にはほぼ完璧と絶賛されていた山邊習學・赤沼智善著『教行信証講義』で、以下のように解説されています。

 聖道門自力の行者、及び浄土定散の機類は、仮の仏弟子であることを引証せられたのが、善導の三文である。之は一連にして一文章として、解すべきである。衆生の機類に応じて、仏教が八万四千といふ多きに分れた。併し之は如来の方便である。仏心に八万四千あるのではない。大悲の一仏心に帰せしめんがために機に応じて説かれたのである。そしてかように門々相分れた教えによれば、長い間苦行を重ねなければ証が得られぬ。これ方便の漸教である。この方便を執じて、無有出離之縁の真実の自分といふものを自覚せぬものが、仮の仏弟子である。『和讃』に
 聖道権仮の方便に    衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ。
 念仏成仏これ真宗    万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして  自然の浄土をえぞしらぬ
とはこの意である。良に方便の手を垂れざれば、衆生に真実を知らせることは出来ず、方便を施せば、直に方便に固執する。月を知らせんがために指さす、然るに人は指を執して月を見ない。聖道浄土定散は指である。この指を見て弘願真実の月を忘れる。始末にをへぬ凡夫である。

また、指に固執する親鸞会に、高名な人物が半世紀前に著した『顕正』が警鐘を鳴らしています。

 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

親鸞聖人の教えを聞く我等は、最初から最後まで「真の仏弟子」を目指すのです。

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