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2010年6月13日 (日)

無解の一道? 無下の一道?

信心正因称名報恩を批判する信楽氏の論文を載せて平気な人物が、”無碍の一道”に出ているのだそうです。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉1つ示すことができなくて、下らない屁理屈を並べています。偏った知識しか持ち合わせていませんので、相手にするほどの内容でもなく、同じことの繰り返しが、親鸞会の特徴です。

さて、『選択本願念仏集』のお言葉について、少し前に書きましたが、再度紹介しておきます。

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

このゆえに知られる、諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

諸行は「時を失す」なのです。末法にはあわない、ということは正法・像法の時期には、あう人もあるということです。
親鸞会でも教えていますが、聖道門は、正法では教行証が揃っていますが、像法では教行はあっても証はない、末法では教だけしか残らないのです。行体が同じの「定散の門」も同様です。

また『勅伝 第六』には、

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、気根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

ともあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。聖道門にしても、「定散の門」にしても、如実に修行できる人が正法・像法の時期にはあったから説かれた教えであって、誰も修行のできない教えではないのです。当たり前のことです。

判りやすい例で言えば、像法の時期の龍樹菩薩は、大変な修行をされて、初歓喜地まで覚られましたが、仏の覚まで至ることは無理であると18願に帰依されたのです。龍樹菩薩は、行体が聖道門と同じ定散二善を行じることのできる「定散の機」です。正法・像法の時期には、「定散諸機」と呼べる方は他にも多くおられたでしょう。

善導大師の機の深信は、『散善義』の

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

が有名ですが、もう一つ『往生礼讃』にもあります。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。

親鸞会は極論ばかりで、善知識方の仰ったことを拡大解釈をして、誤解を与えるような説き方しかしません。

ただし、末法では定散を行じるといっても、真似事のようなものばかりですから、親鸞聖人は『往生要集』の

極重の悪人は、他の方便なし

に「定散の諸機」を加えられて、要門釈の結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

と仰ったのです。

蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。
定散二善ができると自惚れていない極重の悪人に対しては、19願の方便はもともと必要ありませんが、定散二善ができると自惚れている親鸞会幹部のような人にも、19願の方便なし、ただ18願他力念仏だけを願いなさいと仰っているのです。

方便がなくても、
18願を素直に聞ける自分だと、
スゴイ自惚れのド天井にあるのだ。

未信の者が、18願だけで救われるなら、
18願力に、真仮があるとでもいうのか。

珍説だ。

源信僧都、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人の教えは珍説だそうです。大変な自惚れようです。

真実が知らされれば、方便も解るそうですが、解っていませんよね。”無解の一道”ですか?

一方で、極悪人という自覚があるそうです。本気で、これより下の無い悪人という自覚があるのなら、”無下の一道”に出ているのかも知れません。

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コメント

> 一方で、極悪人という自覚があるそうです。本気で、これより下の無い悪人という自覚があるのなら、”無下の一道”に出ているのかも知れません。

少なくとも、親鸞会の会員には、その自覚を持っている人はいませんね。
彼らの親鸞会会員以外の人への態度を見れば、いつだって「お前は馬鹿だ、俺は偉い」
という態度だし、脱会者に対しては「求道がつらくて逃げ出した人」という態度です。
つまり、自分よりも「親鸞会以外の人」「脱会者」の方が、ずっと下というのが
彼らの認識です。自分よりも下の人が、少なくとも「地球の人口 ー 親鸞会会員数」
はいるのですから「無下の一道」とはなり得ません。

投稿: | 2010年6月14日 (月) 20時21分

仰る通りです。
もちろん皮肉でしたが、「卑下の一道」でもよかったかも知れません。

投稿: 飛雲 | 2010年6月15日 (火) 21時33分

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