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2010年6月 9日 (水)

予ごときは、さきの要門にたゑず

親鸞会では、金集めと人集めを正当化するため、建前上、獲信のために定散二善を勧めていますが、それが根本的な間違いであることを法然上人は指摘されています。

『選択本願念仏集』には、

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。
いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

『観無量寿経』には、定散諸行を廃して、念仏を立てることが説かれていると法然上人は仰っています。更には、

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

『観無量寿経』で定散二善が説かれている理由は、念仏が定散二善よりも優れていることを顕すためと法然上人は仰っています。
それに加えて、

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

と、定散二善は時期不相応の教えであるのに対して、念仏は時期相応の教えであると仰った後、定散諸行は随他意の法門として暫く仮に説かれた権仮方便であり、念仏は随自意の法門として、仏の本意に叶った真実として永久に閉じられることはないことを教えられています。

法然上人は御自身のことを、『西方指南抄』で以下のように仰っています。

又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は、定散二善なり。定者息慮凝心なり、散者廃悪修善なりと。弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生」といへり。予ごときは、さきの要門にたゑず、よてひとへに弘願を憑也と云り。

法然上人でさえ、定散二善に堪えれないものであるから、ひとえに弘願を憑むのだと仰っているのです。

また「一期物語」には

或人問云く、常に廃悪修善の旨を存して念仏すると、常に本願の旨を思ふて念仏すると何れか勝れたるや。
答う、廃悪修善はこれ諸仏通戒なりと雖も当世の我等は、悉く違背せり。若別意弘願に乗ぜずは、生死を出で難きものか云々。

とあり、廃悪修善は今の世の我等には、とてもできるものではないから、弘願によらればならないことを教えられています。

法然上人にここまではっきり言われているのに、獲信のために廃悪修善に努めようとするのは、自惚れも甚だしいことです。法然上人よりも自分が偉いとでも思っているのでしょうか。
正本堂のお仏壇の上で、踏ん反り返っている高森会長は、阿弥陀仏よりも偉いと錯覚しているのでしょうが、会員までが会長の真似をすることはありません。

法然上人の教えに「悉く違背」する親鸞会が、浄土門でないことは言うまでもないことです。

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