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2010年6月

2010年6月30日 (水)

化土巻は誰のため、どんな目的で書かれたのか

『観無量寿経』には、定散二善念仏とが説かれています。五逆・十悪の「極重の悪人」に対して説かれた行は、念仏だけです。「他の方便なし」です。誰が読んでも明らかなことです。
しかし、「極重の悪人」が念仏だけで往生できるということが、聖道門の学僧達には到底受け入れられない教えであったので、聖道門では念仏が方便で、定散二善が真実と理解したのです。それを善導大師が『観無量寿経疏』で論破され、法然上人が更に、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く

とまで仰ったことに聖道門の学僧達が猛反発して、承元の法難が起きたという経緯があります。
それに対して親鸞聖人が反論されたのが『教行信証』です。
念仏が真実で、定散二善が方便であることを説明されているのが化土巻です。
何回も出していますが、要門釈の結論として仰った

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

が親鸞聖人の教えのすべてです。もともと『往生要集』では

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

となっていまして、浄土門の通常の解釈です。そこに親鸞聖人は「定散の諸機」を加えられているのです。定散二善が真実だと思って行じている人も、よくよく自己を見つめれば「極重の悪人」であるから、「ただ弥陀を称せよ」が真実であるぞ、と仰っているのです。

要門釈の最初に、外道から聖道門、聖道門から要門、定散二善へと誘引されることを

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。外道から聖道門に入っても、聖道門の修行を断念する人が多いので、「ここをもつて」、聖道門の人を浄土門に導くために釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたと仰っているのです。19願は、浄土門にさえ入っていない聖道門の人をも導かれますから、「あまねく諸有海を化したまふ」なのです。「極重の悪人」を19願に導くという意味になる訳がないです。

親鸞会で言っているように、我々凡夫が「定散の諸機」と自惚れているから「極重の悪人」と知らさせるために19願を建てられ、諸善を勧められている、などという解釈は、浄土仏教の歴史を考えれば、成立し得ません。全く逆です。親鸞聖人が自惚れていると仰ったのは、念仏を方便と見下している聖道門の人であり、19願に拘る「定散の諸機」のことです。化土巻の要門釈だけを最初から最後まで読めば判ることです。
親鸞会は完璧な断章取義で、本から末までお聖教を読むことがないから判らないだけです。

以上のことを踏まえれば、親鸞会が、親鸞聖人が善を勧めた根拠と勘違いしている『一念多念証文』の

しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

のお言葉も、要門釈と同じ内容であることが判るでしょう。「八万四千の法門」である聖道門の人を19願に誘い入れ、聖道門の人をも18願に入れる権仮方便の要門について、「浄土の方便の善」「浄土方便の要門」と仰っているのです。

それを親鸞聖人の体験として仰ったのが三願転入の文です。19願力によって、聖道門から浄土門に入り、18願に転入させて頂いたことを告白なされているのです。
そして三願転入の文の直後に仰ったのが、

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

です。聖道門は、釈尊在世中と正法の人のための教えであるから、像法・末法・法滅の人は聖道門に”迷うな”と仰っているのです。そして、聖道門の人が重視する19願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものであることを明らかにされているのです。19願も20願も方便だから、真実18願を願いなさい、が化土巻の大意です。

略典と呼ばれる『浄土文類聚鈔』では、化土巻が省略されています。化土巻が誰のために、どんな目的で書かれたものであるか、これでお判り頂けるでしょう。

『教行信証』全体どころか、化土巻の要門釈さえ読んだことのない親鸞会のトップから講師部員まで、矛盾点を突かれるとすぐに答えられなくなるのは、断章取義の典型だからです。

外部向けのmixiや某ブログでも、「十方衆生」「あまねく諸有海」「もろもろの衆生」とあるから、浄土門の人も19願から始めなければならないんだ、と虚しい主張をしてきましたが、今は外部に向けてデタラメ教義を発信することさえ断念して、内輪でのみこそこそ言い続けるだけです。

一方で、真宗史上では親鸞会は物笑いの種となって長く語り継がれていくことでしょう。
教団名から、「浄土真宗」「親鸞」を一刻も早く外した方が、高森会か高森教にとってもよいことと思いますよ。

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2010年6月28日 (月)

『観無量寿経』の隠顕

mixiでのこうへい氏も、某ブログも2週間も音沙汰なしですから、流石に逃亡したのでしょうか。尤も、某ブログの管理人は、また別人を装って、新たなブログを作って揚げ足取りに勤しむことが予想されます。懲りない人物ですからね。

さて前回の最後に、『観無量寿経』の隠顕釈について書きました。

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

高森会長は隠顕について説明をしていたこともありますが、ピントのずれたものでしたので、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註から隠顕の説明を紹介しておきます。

 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが『観経』であり、第二十願に応じて説かれた教えが『小経』である。『観経』に説かれた教えは、定善・散善といういろいろな善根によって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、『小経』に説かれた教えは、一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。第十九願・第二十願の教えが、第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、『観経』、『小経』を説かれた釈尊の本意は、他力念仏の教えを説くことにある。したがって表面に説かれた教えは、前に述べたようなものであるが、その底を流れる釈尊の真意が、部分的に表面にあらわれている。『観経』に、「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とあり、『小経』に「難信の法」とあるのがその例である。このように表面に説かれた自力の教えを「顕説」といい、底に流れる他力の教えを「隠彰」という。これによって『観経』、『小経』には、隠顕の両意があるといわれる。こうして浄土三部経は、顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。

韋提希の請いに応じて釈尊は定善を説かれ、定善のできない人のために釈尊は自ら散善を説かれました。『観無量寿経』の「顕説」は、定散二善です。定散による三心は自力であり、他力の信心ではないのです。その意は、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり」と、聖道門の人に浄土を願い慕わせるための善であると善導大師、親鸞聖人は仰っているのです。

一方『観無量寿経』の「隠彰」は、称名念仏です。それが『観無量寿経』最後の付属の文、

なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり

これが釈尊の本意です。それを善導大師は『散善義』に

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

と解釈なされています。
十方衆生に本願の名号を称えさせることが、釈尊の結論であり、本願の御心なのです。韋提希を通して逆悪の機をも漏らさない本願であることを説かれているのです。

それを『浄土和讃』観経讃に

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

と、王舎城の悲劇の登場人物すべてが「逆悪もらさぬ誓願」であることを教えられた善巧方便だと親鸞聖人は仰ったのです。

親鸞聖人は上記のように隠顕で解説してくだされましたが、法然上人は簡潔に廃立で解説なされていました。『選択本願念仏集』には

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く

とあるのがそれです。
釈尊、善導大師、源信僧都、法然上人、親鸞聖人は、言葉や解説の仕方は違っても、

極重の悪人は、他の方便なし、ただ弥陀を称せよ

と、逆悪の機には19願、定散二善の方便は必要ないことを繰り返し教えていかれたのです。
それが理解できないのか、理解したくないのが、親鸞会でしょう。

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2010年6月25日 (金)

定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し

『教行信証』信巻・別序のお言葉についての解説を続けます。

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。

このお言葉は、親鸞会でも時々使われてきましたので、親鸞会出身者ならば御存知でしょう。
自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」は、聖道門の人が浄土門の教えを謗っていることと一般的には解釈されますが、浄土門の人でもこのような考えに陥っている人があります。
定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し」は、定善散善の自力に執心して、他力信心を獲ていないことです。
覚如上人は『報恩講式』の中で

念仏修行の人これ多しといへども、専修専念の輩はなはだ稀なり、あるいは自性唯心に沈みて徒に浄土の真証を貶め、あるいは定散の自心に迷ひてあたかも金剛の真信に闇し。

と仰り、蓮如上人は『御文章』2帖目第15通に

そもそも、日本において浄土宗の家々をたてて西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。これすなはち法然聖人のすすめたまふところの義は一途なりといへども、あるいは聖道門にてありし人々の、聖人(源空)へまゐりて浄土の法門を聴聞したまふに、うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かへりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、その不同これあり。

と仰っています。
善知識方が浄土門内の邪義として仰ったのは、親鸞会の”三願転入の教え”そのものです。聖道門の論理で善を勧めて、「定散の自心に迷」わせて、「金剛の真信に昏し」となっていることに気が付かないのです。

前回述べたように、善巧方便と権仮方便の意味も全く判らないから、自分達が邪義と思えないのでしょう。
韋提希に対して、釈尊は定散二善を勧められているではないか、と親鸞会では幼稚な反論をしてきますが、そもそもそれが勘違いであり、高森会長に騙されているのです。

『観無量寿経』を見てみましょう。

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

(現代語訳)
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか」

韋提希は、釈尊入滅後の人のために、極楽を見る方法について尋ねたので、その請いに釈尊が応じられただけです。
そのことを『玄義分』には、

問ひていはく、定散二善はたれの致請による。
答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。


(現代語訳)
問うていう。定・散の二善は誰の請いに因るのか。
答えていう。定善の一門は韋提が請うたのであり、散善の一門は仏がみずからの思召しでとかれたのである。

とあります。また

たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」
といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。

(現代語訳)
たまたま韋提が釈迦仏に願って「わたしは今、安楽浄土に往生したいと望みます。ただ願わくは如来、わたしに定善の観法を教えてください」といったことにより、そこで、娑婆の教化の主である釈迦仏は、その韋提の請いをもととして広く浄土の要門を開かれ、安楽の能化の人である阿弥陀仏は、ならびのない弘願を顕された。

とも善導大師は教えられています。釈尊が定散二善を説かれ、阿弥陀仏は弘願18願を顕されたのです。

釈尊は韋提希に定散二善を説かれましたが、実践するように仰っていませんし、韋提希は定散二善をしていません。

この『観無量寿経』に説かれていることを解説されたのが『教行信証』化土巻・隠顕釈の

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

(現代語訳)
善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。
その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。提婆達多や阿闍世のおこした悪事を縁として、浄土の教えを説くという、釈尊がこの世にお出ましになった本意を彰し、韋提希がとくに阿弥陀仏の浄土を選んだ真意を因として、阿弥陀仏の大いなる慈悲の本願を説き明かされたのである。これが『観無量寿経』の底に流れる隠彰の義である。

『観無量寿経』の隠顕釈についても知らないのでしょう。それで善知識方の嘆きである「定散の自心に迷ひて」を他人事としか考えられないから、親鸞会の会員は「金剛の真信に昏し」となっているのです。

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2010年6月23日 (水)

真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり

mixiでこうへい氏が、

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

と自信一杯にコメントしたり、また某ブログでは

方便がなくても、
18願を素直に聞ける自分だと、
スゴイ自惚れのド天井にあるのだ。

未信の者が、18願だけで救われるなら、
18願力に、真仮があるとでもいうのか。

珍説だ。

などという珍説を、どうだといわんばかりに上から目線で書いていますが、恥ずかしいことを書いたという自覚のないことが驚きです。

極重の悪人は、他の方便なし(往生要集)

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ
       (高僧和讃)

極重悪人唯称仏(正信偈)

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。(正信偈大意)

上記のお言葉は、「極重の悪人」は18願1つでよい、19願・20願の権仮方便は不要であるということを明白に仰った根拠です。つまり”三願転入の教え”なるものを否定されているのです。

また

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。(教行信証)

このお言葉は、要門釈の結論として仰ったものですから、「定散の諸機」に対しても18願1つということを教えられているのです。

上記の根拠を出したら、何か言い訳か屁理屈を言ってくるのかと期待していましたが、2人とも黙ってしまい、未だに反応がありません。

これまで方便について何度も解説してきましたし、方便の意味が判っていないと何度も忠告しているのに、進歩が全く無いです。

教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註にあるものを今回は紹介しておきます。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

この程度の知識を最低限持っていなければ、親鸞聖人の御著書を読んでもチンプンカンプンでしょう。

前回の続きで、『教行信証』信巻・別序の

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

のお言葉は、まさに親鸞会の基本的な誤りを正されたものです。釈尊は善巧方便をもって真実信心を明らかにされたのであって、権仮方便をもってではありません。

『高僧和讃』善導讃

釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり

も、同様のことを仰っています。
『蓮如上人御一代記聞書』にも、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

とあります。揚げ足とりをしたがる人のために少し解説しておきますと、「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の「方便」は「廃立の義」ですから、捨てるべき権仮方便のことです。最後の文は文字通り、「善巧方便」のことです。「真実の信」は、「善巧方便によりて」うるのであって、「権仮方便によりて」ではありません。

以上のことをまとめて判りやすく言えば、親鸞聖人は18願1つで救われるのだと、繰り返し繰り返し教えられているのですが、絶対他力18願での往生をとても信じられない無宿善の機(未熟の機)がいますので、そんな機に対しては、権仮方便をもって18願での往生を願わせるところまで導かれるのです。親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願う宿善の機に対しては、善巧方便をもって済度されるのです。

親鸞会では、自惚れ自惚れとうるさいのですが、18願だけでは不足だから19願・20願を加えなければならないと思うことを自惚れというのです。

この善巧方便を具体的に描かれたのが、『教行信証』信巻末にある阿闍世の物語です。一見すれば、略されてもよいように思われる部分までも、事細かに引文されています。実に『教行信証』全体の1割も費やされて、親鸞聖人は何を教えられたかったのでしょうか。それは衆生が善巧方便によって導かれることを示されると共に、五逆罪を犯した極悪人をも洩らさず、普く救いたもう本願であることを親鸞聖人が明らかにされるためであったのです。

その概要は
「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか4

にありますので、読まれるとよいでしょう。

釈尊は阿闍世に対して、権仮方便をもって導かれたのではありません。高森会長は『教行信証』を読んだことがないから、内容を知らないのでしょうが、そんな無知な人物の妄想に付き合う必要はありません。

方便の内容さえ全く理解できない人を、善知識だとか、真実信心の人だとか、言っていることが恥ずかしくないのでしょうか。

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2010年6月21日 (月)

機無・円成・回施

親鸞聖人は『教行信証』信巻に、真実信心について明らかにされています。信巻にのみ、別序がおかれてあり、信巻で説かれる真実信心についての概要が書かれています。

それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。

です。ここに親鸞会の誤りが端的に示されているのですが、高森フィルターを通して読むと、それが判らないのでしょう。
一文ずつ解説していきたいと思います。

最初の一文は、信心は自ら起こすものではなく、阿弥陀仏の本願力によって、すべて発起せしめられるものであることを仰ったものです。そんなことは親鸞会でも教えている、と親鸞会は反論するでしょうが、自力の一切混じらないのが真実信心であり、それを絶対他力というのが判っていないのです。我々の方から加えるものは何一つないのです。それなのに、善をすることを加えたり、善をすることで善のできない者と知らされることを加えようとしているのが、根本的な間違いです。

『高僧和讃』善導讃にも、

信は願より生ずれば
 念仏成仏自然なり
 自然はすなはち報土なり
 証大涅槃うたがはず

とありますが、本願より信心は生ずるのですから、私の方からは何も差し出すものはないのです。

それについて説明されたのが、親鸞会でもよく引用する

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善導大師の機の深信と同じ意味で、善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

この機無・円成・回施については、20数年前に、一度だけ、高森会長から話を聞いたことがありますが、その正しい意味は、会長も会員も理解できていません。
宿善を求めよというのも、19願の諸善をせよというのも、これが判っていないからです。善をして善のできない者と知らされてきなさい、というのでもありません。条件は何1つないのです。条件をクリアできるなら「機無」ではありません。そのことを最後に「疑蓋雑はることなし」と仰っているのです。

ここの部分を、某ブログでは

果てしない過去から金輪際、
例外なく、
「名号」の相手(十方衆生)は「善のカケラもない者」。

と書いています。

こんな曲がった解釈しかできないから、親鸞会で何十年聞いても何も判らない筈です。だから昿劫多生の目的とかいって騙しているのです。

仏願の生起本末を聞く」とは、この機無・円成・回施を聞くことです。この意味が判っていない人からいくら話を聞いても、「疑心有ること無し」とならないのも当然です。

聞き方が悪いのではありません。話をしている者が悪いのです。

会員さんは隠れてでもいいですから、直にお聖教を読んで確認してみて下さい。

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2010年6月19日 (土)

みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれ

親鸞会の会員と話をすると、最後に言われることは皆同じです。

解釈が間違っているところがあったとして、では誰から話を聞けばいいのか?

高森会長の教えていることが親鸞聖人の教義と違うことを認めざるを得なくなると、高森会長の信心だけは間違いないし、他に真実信心の人はいないと固く信じ切っているのです。

しかし、そのことにも根拠がないことに気が付くべきでしょう。救われている方はたくさんおられますし、布教されている方も何人もあります。

信心については、他人が判断できるものではありませんが、救われて知らされることの内容を聞けば、高森会長の説明には疑問符が幾つも付きます。

異安心は誰か?
でも述べてきた通りです。

少なくとも高森会長の教えていることは、親鸞聖人の教義とは正反対のところが多く、逆に正しいところはどこだろうかと探さなければならない程です。

高森会長の教義も信心も親鸞聖人と異なっていたならば、親鸞会はただの”新興宗教”です。

七深信の六番目

また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。

(現代語訳)

また、すべての行者たちが、ただよくこの《観経》によって念仏を深く信ずれば、決して人々を誤らせない。なぜかといえば、仏はこれ大悲を円満せられたお方だからであり、その説かれたお言葉がまことだからである。仏を除いて以下の者は、智慧も行もまだ十分でなく、なお、それを学ぶ地位にあり、煩悩およびその余習がいまだ除かれず、願う仏果がまだ円満しない。したがって、これらの人たちは、たとい仏の教意をおしはかっても、まだ決了することはできぬ。仏意を正しく解釈したとしても、かならず仏の証明を請うて定むべきである。もし、仏の思召しにかなえば、仏はこれを認められて「正しい」と仰せられる。もし、仏の思召しにかなわなければ、「そなたたちのいう義は正しくない」と仰せられるのである。仏の認められない説は、無意味な利益のないことばにひとしい。仏の認められた説は、仏の正しい教えにかなうものである。仏のすべてのお言葉は、正しい教、正しい義理、正しい行、正しい解釈、正しい業、正しい智慧である。多くても少なくても、菩薩・人・天などを問わず、その説のよしあしを仏説によらずに定めることはできぬ。もし仏の説かれた教であれば、決了の教であり、菩薩などの説であれば、ことごとく義理の決了でない教と名づける。よく知るべきである。こういうわけであるから、いまのとき、往生を願うすべての有縁の人たちに仰いで勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、専心に行ずべきである。菩薩などの仏意にかなわない教を信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、みずから迷い、往生の大利益を失ってはならない。

高森会長はもちろん仏でありませんし、菩薩でもありません。高森会長の教えは釈尊の教えとも、七高僧の教え、親鸞聖人、蓮如上人の教えとも明らかに違いますから、完全に「ことごとく不了教」です。

善導大師、親鸞聖人は「高森会長の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれ」と仰っています。

親鸞会の会員の皆さんは、報土往生を目指しているつもりならば、誰の教えに従うべきかよくよく考えるべきでしょう。

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2010年6月17日 (木)

真の仏弟子

mixiでのこうへい氏も、親鸞会関係のブログも、未だに根拠に基づかない珍理論を展開しているだけですので、マインドコントロールの解けた人が読めば、笑止千万の内容でしょう。

さて前回、七深信について述べましたが、第五深信の唯信仏語(真仏弟子)についてコメントを頂きましたので紹介しておきます。

唯信仏語はいいですねえ。

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、

仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、
(雑行雑修を捨てて)

仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、
(正行(念仏)を行じ)

仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。
(異学異解雑縁乱動のところを去れ)

これを仏教に随順し、
(釈尊の教え[仏教]に随順し)

仏意に随順すと名づけ、
(諸仏の意[仏意]に随順と名づけ)

これを仏願に随順すと名づく。
(阿弥陀仏の願[本願]に随順すると名づける。)

これを真の仏弟子と名づく。
(このような者を真の仏弟子と名づけるのである)

判りやすく解説されています。親鸞会で教え勧めていること仮もしくは偽の仏弟子になることです。

『教行信証』信巻・真仏弟子釈には、

真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。
(中略)
仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
ゆゑに光明師(善導)のいはく、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
またいはく、「方便の仮門、等しくして殊なることなし」と。
またいはく、「門々不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す」と。

偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。
『涅槃経』(大衆所聞品)にのたまはく、「世尊つねに説きたまはく、〈一切の外は九十五種を学ひて、みな悪道に趣く〉」と。
光明師(善導)のいはく、「九十五種みな世を汚す。ただ仏の一道のみ独り清閑なり」と。

と仰っています。「聖道の諸機」、「浄土の定散の機」を同列に扱われています。親鸞会は贔屓目に見れば「漸教」でしょうし、聖道・定散を勧めている訳でもないので、「悪道に趣く」教えと言えるでしょう。

方便を通らなければ真実には入れないのだ、と連呼するしか能のない親鸞会の間違いを、かつて親鸞会で教学的にはほぼ完璧と絶賛されていた山邊習學・赤沼智善著『教行信証講義』で、以下のように解説されています。

 聖道門自力の行者、及び浄土定散の機類は、仮の仏弟子であることを引証せられたのが、善導の三文である。之は一連にして一文章として、解すべきである。衆生の機類に応じて、仏教が八万四千といふ多きに分れた。併し之は如来の方便である。仏心に八万四千あるのではない。大悲の一仏心に帰せしめんがために機に応じて説かれたのである。そしてかように門々相分れた教えによれば、長い間苦行を重ねなければ証が得られぬ。これ方便の漸教である。この方便を執じて、無有出離之縁の真実の自分といふものを自覚せぬものが、仮の仏弟子である。『和讃』に
 聖道権仮の方便に    衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ。
 念仏成仏これ真宗    万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして  自然の浄土をえぞしらぬ
とはこの意である。良に方便の手を垂れざれば、衆生に真実を知らせることは出来ず、方便を施せば、直に方便に固執する。月を知らせんがために指さす、然るに人は指を執して月を見ない。聖道浄土定散は指である。この指を見て弘願真実の月を忘れる。始末にをへぬ凡夫である。

また、指に固執する親鸞会に、高名な人物が半世紀前に著した『顕正』が警鐘を鳴らしています。

 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

親鸞聖人の教えを聞く我等は、最初から最後まで「真の仏弟子」を目指すのです。

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2010年6月15日 (火)

異安心は誰か?

親鸞会では、救われたならば、

すべての人は無善造悪である
19願・20願は18願に入るために必ず通る道程

ということが、知らされると思い込んでいるようですが、それは親鸞聖人の教えを何も解っていない”無解の一道”に出た人の妄想です。

前回も書きましたが、『往生礼讃』の

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

の善導大師のお言葉は、親鸞会の主張と矛盾しますので、親鸞会からすれば、善導大師は異安心になりますし、この善導大師のお言葉を引かれて信心を説明されている親鸞聖人も異安心になるのでしょう。

救われて知らされることについて、善導大師、親鸞聖人は、七深信で教えられています。

『愚禿鈔』に七深信についての簡単な説明があります。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

最初の二つが二種深信です。三番目が、何度も紹介しています「欣慕浄土の善根」です。
少し長いですが、重要なところですので、『教行信証』信巻に、七深信で『散善義』から引かれている部分を挙げておきます。

深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。

また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。

また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}

釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。

なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。

次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}
すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。

(現代語訳)

深心というのは、これはすなわち深く信ずるの心である。これにまた二種ある。一つには、自身は現在罪深い迷いの凡夫であり、はかり知られぬ昔からいつも迷いにさまよって、これからのちも生死を出る手がかりがない、と決定して深く信ずる。二つには、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂めとってお救いくださる。疑いなくためらうことなく、かの願力にうちまかせて、まちがいなく往生する、と決定して深く信ずる。

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

また、《阿弥陀経》の中に、十方にまします恒河の砂の数ほどの諸仏が、すべての凡夫はまちがいなく往生できる、と証明して勧めてくださることを、決定して深く信ずる。

また、深く信ずる者、仰ぎ願わくは、すべての行者たちよ、一心にただ仏語を信じて身命をかえりみず、決定して、仏の説かれた行をよりどころとして、仏の捨てよと仰せられる自力の行を捨て、仏の行ぜよと仰せられる念仏を行じ、仏の近づいてはならぬと仰せられる雑縁に近づかない。これを、釈迦の教えにしたがい、諸仏の意にしたがうと名づける。これを弥陀の願にしたがうと名づける。これを真の仏弟子と名づけるのである。

また、すべての行者たちが、ただよくこの《観経》によって念仏を深く信ずれば、決して人々を誤らせない。なぜかといえば、仏はこれ大悲を円満せられたお方だからであり、その説かれたおことばがまことだからである。仏を除いて以下の者は、智慧も行もまだ十分でなく、なお、それを学ぶ地位にあり、煩悩およびその余習がいまだ除かれず、願う仏果がまだ円満しない。したがって、これらの人たちは、たとい仏の教意をおしはかっても、まだ決了することはできぬ。仏意を正しく解釈したとしても、かならず仏の証明を請うて定むべきである。もし、仏の思召しにかなえば、仏はこれを認められて「正しい」と仰せられる。もし、仏の思召しにかなわなければ、「そなたたちのいう義は正しくない」と仰せられるのである。仏の認められない説は、無意味な利益のないことばにひとしい。仏の認められた説は、仏の正しい教えにかなうものである。仏のすべてのおことばは、正しい教、正しい義理、正しい行、正しい解釈、正しい業、正しい智慧である。多くても少なくても、菩薩・人・天などを問わず、その説のよしあしを仏説によらずに定めることはできぬ。もし仏の説かれた教であれば、決了の教であり、菩薩などの説であれば、ことごとく義理の決了でない教と名づける。よく知るべきである。こういうわけであるから、いまのとき、往生を願うすべての有縁の人たちに仰いで勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、専心に行ずべきである。菩薩などの仏意にかなわない教を信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、みずから迷い、往生の大利益を失ってはならない。

釈迦仏が一切凡夫に教えて、この身のあるかぎり専ら念仏して命終われば、まちがいなくかの国に生まれると勧められるならば、十方の諸仏もみなこれと同じように讃嘆し、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜかというと、同じさとりから起こる大悲だからである。釈迦一仏の教化せられるところの法は、そのまま一切の仏が教化せられるところであり、一切の仏が教化せられるところの法は、そのまま釈迦仏の教化せられるところである。すなわち《阿弥陀経》の中には、釈迦仏が極楽の種々の荘厳を讃嘆せられ、また、すべての凡夫に、一日あるいは七日でも一心に弥陀の名号を称える者はまちがいなく往生させてくださる、と勧められ、その次の文には、十方におのおの恒河の砂の数ほどの諸仏がおられて同じように釈迦仏を讃嘆なされる。すなわち釈迦仏が、この五濁の悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなときに出られて、よく弥陀の名号を讃嘆せられ、衆生に、念仏すればかならず往生を得ると勧め励まされるのをたたえていられる。これがその証拠である。また、十方の諸仏は、等しく衆生が釈迦一仏の説かれたところを、信じないであろうことをおそれて、共に心を同じくし、同時におのおのが、あまねく三千世界をおおうような広長の舌相を示して、まことの言葉をもって、『そなたたち衆生はみな、釈迦仏が説かれ、讃嘆せられ、証明せられるところの法を信ずべきである。すべての凡夫は罪福の多少や時間の長短を問うことなく、ただよく上は一生涯から下は一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を称えれば、かならず往生を得ること決して疑いない』と仰せられている。こういうわけで、釈迦一仏の説かれるところはすなわち一切の仏たちが同じく証明せられるのである。」これを〈勧める人について信を立てる〉というのである。

つぎに、〈行について信を立てる〉というのは、ところで、行に二種ある。一つには正行、二つには雑行である。正行とは、専ら往生経に説かれてある弥陀行によって行ずることをいうのである。何がこれであるかというと、一心に専らこの《観経》《弥陀経》《無量寿経》などを読誦すること。一心に専らかの浄土や仏および聖衆たちを心にかけ、よく観察し、つねに念おもうこと。もし礼拝するならば、すなわち一心に専ら阿弥陀仏を礼拝する。もし口に称えるならば、すなわち一心に専ら弥陀の名号を称える。もし讃嘆供養するならば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを正行と名づけるのである。

また、この正行の中について、また二種ある。一つには、一心に弥陀の名号を称え、行住坐臥に時間の長短をいわず相続してすてないのを正定の業という。かの阿弥陀仏の本願に順したがうからである。もし礼拝や読誦などによれば、これを助業という。この正助の二行を除いてほかのいろいろな善根は、ことごとく雑行と名づける。すべて粗そ雑ぞうの行というのである。こういうわけで「深心」と名づける。

五番目は、

仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。

とありますように、教えられるとおりに、捨てよと言われたら捨てる、行じなさいと言われたら行ずる、近付くなといわれたら近付かない、なのです。

親鸞会の教えていることは、

仏の捨てしめたまふをばすなはち拾わせ、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ぜず。仏の去らしめたまふところをばすなはち近付く。

です。
六番目、七番目も含めて善についての扱いがまるっきり反対です。19願・20願は、18願への道程ということではありません。他力念仏以外は、「捨てしめたまふ」ものです。

難しいかもしれませんが、七深信について何度も何度も読み返してください。
救われて知らされることは、

自分の力では、出離して仏になるような善はできない。
諸善は聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、浄土門に入ったならば18願で救われるために捨てさるべきもの。

です。mixiでるぅでる様氏やsutybi氏が主張されてきた通りです。

これを知らされていない親鸞会の面々は、善導大師、親鸞聖人とは、異なる安心であることだけは間違いありません。

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2010年6月13日 (日)

無解の一道? 無下の一道?

信心正因称名報恩を批判する信楽氏の論文を載せて平気な人物が、”無碍の一道”に出ているのだそうです。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉1つ示すことができなくて、下らない屁理屈を並べています。偏った知識しか持ち合わせていませんので、相手にするほどの内容でもなく、同じことの繰り返しが、親鸞会の特徴です。

さて、『選択本願念仏集』のお言葉について、少し前に書きましたが、再度紹介しておきます。

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

(現代語訳)

このゆえに知られる、諸行は根機に適せず末法の今の時にあわないのである。念仏往生は根機に適し今の時にかなって、その承ける利益は決してむなしくない。そこでよく知るべきである、他に随って説く場合には、しばらく定散諸行の門を開かれるけれども、仏自らの本意を説かれた上は、かえって定散諸行の門は閉じられるのである。一たび開かれて後、とこしえに閉じられないのは、ただ念仏の一門のみである。弥陀の本願や釈尊の付属の思し召しはここにある。行者はまさに知るべきである。

諸行は「時を失す」なのです。末法にはあわない、ということは正法・像法の時期には、あう人もあるということです。
親鸞会でも教えていますが、聖道門は、正法では教行証が揃っていますが、像法では教行はあっても証はない、末法では教だけしか残らないのです。行体が同じの「定散の門」も同様です。

また『勅伝 第六』には、

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、気根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

ともあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。聖道門にしても、「定散の門」にしても、如実に修行できる人が正法・像法の時期にはあったから説かれた教えであって、誰も修行のできない教えではないのです。当たり前のことです。

判りやすい例で言えば、像法の時期の龍樹菩薩は、大変な修行をされて、初歓喜地まで覚られましたが、仏の覚まで至ることは無理であると18願に帰依されたのです。龍樹菩薩は、行体が聖道門と同じ定散二善を行じることのできる「定散の機」です。正法・像法の時期には、「定散諸機」と呼べる方は他にも多くおられたでしょう。

善導大師の機の深信は、『散善義』の

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

が有名ですが、もう一つ『往生礼讃』にもあります。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。

親鸞会は極論ばかりで、善知識方の仰ったことを拡大解釈をして、誤解を与えるような説き方しかしません。

ただし、末法では定散を行じるといっても、真似事のようなものばかりですから、親鸞聖人は『往生要集』の

極重の悪人は、他の方便なし

に「定散の諸機」を加えられて、要門釈の結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

と仰ったのです。

蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。
定散二善ができると自惚れていない極重の悪人に対しては、19願の方便はもともと必要ありませんが、定散二善ができると自惚れている親鸞会幹部のような人にも、19願の方便なし、ただ18願他力念仏だけを願いなさいと仰っているのです。

方便がなくても、
18願を素直に聞ける自分だと、
スゴイ自惚れのド天井にあるのだ。

未信の者が、18願だけで救われるなら、
18願力に、真仮があるとでもいうのか。

珍説だ。

源信僧都、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人の教えは珍説だそうです。大変な自惚れようです。

真実が知らされれば、方便も解るそうですが、解っていませんよね。”無解の一道”ですか?

一方で、極悪人という自覚があるそうです。本気で、これより下の無い悪人という自覚があるのなら、”無下の一道”に出ているのかも知れません。

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2010年6月11日 (金)

親鸞聖人の19願観

親鸞聖人は、19願について2通りの見方をされています。それを端的に仰ったのが、これまで何回か紹介してきました『教行信証』化土巻のお言葉です。

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

これらはみな自力の行であって、 辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。 だから、 浄土に生れても仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や声聞たちを見ることもできない。 阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

前半は、19願は諸行往生を誓われ、定散諸機を方便化土に往生せしめることを示されています。後半は、19願が聖道門の人に対して浄土を欣慕せしめる方便の願であると明らかにされているのです。

19願が方便化土の往生になることを『正像末和讃』誡疑讃には、

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

(現代語訳)

自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、 言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、 七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。

と仰っています。

19願が真実と信じ願っている人であってでも、阿弥陀仏のお慈悲によって方便化土往生の利益は与えて下されるのです。

それを『末灯鈔』に

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。

(現代語訳)

仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。

と仰っています。

しかし、19願では方便化土の利益であって真実報土の利益は与えられませんので、19願は行信も利益も方便になるのです。

それを『唯信鈔文意』には

雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

(現代語訳)

さまざまな行を修めて浄土に往生しようとする自力のものは、他力の信心が欠けている。そのため、生れ変り死に変りしてはかり知れない時を経て、他力の一心を得た後に真実の浄土に生れることができる。だから、そのままでは生れることはできないというのである。たとえ胎宮や辺地などといわれる方便の浄土に生れたとしても、五百年もの時を経なければならず、また億千万の人々の中で、真実の浄土に進むのはまれに一人いるかどうかであると示されている。真実の信心を得ることを十分に心得て、真実の浄土に生れることを願わなければならない。

と、19願を願うことを厳しく誡めておられます。

それで19願の役割として善導大師が仰ったことを承けられて、「仮門の教、欣慕の釈」と親鸞聖人は断言なされているのです。聖道門の人を浄土門に導くことです。
このことは、『教行信証』化土巻に

如来の異の方便、欣慕浄土の善根

と仰り、『三経往生文類』では

至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむなり

とも教えられています。

更に方便19願に誘引された人を真実18願まで導かれる様子を仰ったのが『一念多念証文』の以下のお言葉です。

しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

浄土の方便の善」も「欣慕浄土の善根」の意味も知らず、方便を曲解して、断章取義と妄想で創作された親鸞会教義では、方便化土に往生することも難しいでしょう。

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2010年6月10日 (木)

自惚れているのは誰か?

19願を勧められた根拠として誡疑讃を出して、完膚無きまでに論破された人物が、その悔しさから断章取義と詭弁で組立てた新たなブログを作って、喜んでいるようです。敢て当ブログを狙っていることや、文体及びこれまでの主張を見れば同一人物であることは明らかです。(当然否定するでしょうが)
相手の主張をねじ曲げて攻撃するところは、高森会長と同じですし、過去にも同様のことが多々ありました。相手の主張をねじ曲げるのは、自分の論理に自信がない証拠です。

これまで、当ブログで述べてきたことを御理解頂ければ、詭弁と論理のすり替えが見破れると思います。反論に値する内容ではありませんが、ポイントだけ書いておきます。

弥陀の第19、20、18の三願が”孤立したもの”
としか思えないのも当然。
 
19願の相手が”聖道門に限る”という誤解も必然。
 
『一念多念証文』で祖師聖人が、
  この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、
  本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに
と、「もろもろの衆生」をすすめこしらへて、とおっしゃっても、
それは「逆悪の機」とは別人の「定散諸機だけ」を導いている
と思っているのもうなづける。
 
 
これでは親鸞聖人の「三願転入」の理解は、無理というもの。
 
 
ところが、三願が孤立しているとは言いながら、
 
「『定散諸機』も最後は18願に導かれなければ報土往生できない」
 
と19願と18願の関連性は認めざるを得ないのは、
論理が破たんしているようである。

さて、三願の関係について親鸞聖人がどのように教えられているかをこれまで散々述べてきましたが、このようなことを言っていること自体、お目出たいことです。権仮方便の意味が何も判っていないことだけは確かです。

直接的には
真仮廃立と従仮入真
で述べました。
また
「親鸞会教義の誤り」
親鸞会は諸行往生13

でも説明されています。

少し難しい内容になりますが、
「21世紀の浄土真宗を考える会」
浄土三部経と三願

にあります、「三経一致門」と「三経差別門」についても読んでおかれれば、より理解できるでしょう。

井の中の蛙である親鸞会講師部員には、理解できないのも仕方がないでしょう。

大阿弥陀経、平等覚経、大無量寿経の対比によって、
大無量寿経の第19願・第20願にあたる願文の対機が
もともと異なるものであった、というのは、当たり前。
それが、まるで浄土門の人に19願は無関係である根拠であるかのように
おっしゃるが、頭だけで実地のない、実に稚拙なこじつけである。
 
対機が異なるとは、
19願・20願の願文に示されている行が異なっているということである。

稚拙なこじつけというよりも、他人には理解不能の思考回路といったところでしょうか。もう少し上手な誤魔化し方を考えつかないものでしょうか。

ならば浄土門であっても、信前の人には、19願は必要である
ということにならないか。

当たり前ですが、なりませんこうへい氏と同じで、根拠のない理屈ばかりです。

親鸞聖人が19願を勧められた根拠がどうしても出せなかったので、カルト思考に基づいた強引な理論でしか説明できない悲しさです。

通った人なら、ちゃんとわかっていることだ。

19願に留まったままの人物に言われても説得力は全くありません。

親鸞会は自惚れという言葉が大好きで、やたらと強調しています。反論はこの自惚れしかないだとうと想像していましたが、その通りでした。

親鸞聖人の教えを信じて、18願での救いを願いながら、19願を勧められて、それについていけずに親鸞会を去った人はこれまで数万人、もっと多いかも知れません。また、親鸞会に籍は置きながら、親鸞会で勧めるところの”善”をしようとしない会員が大半です。
親鸞会から”善”を勧められてその”善”をしようと自惚れているのは、親鸞会の幹部のことでしょう。

親鸞会の”落ちこぼれ”や”堕落者”は、親鸞会で勧める”善”ができるなどと自惚れていません。親鸞会理論では、”落ちこぼれ”や”堕落者”は助かりませんが、これは悪人正機の意味が全く判っていないところからくる主張です。18願での救いを願っている極重の悪人が、”定散二善で助かろうとする心の道程”などある訳がないです。だから

極重の悪人は、他の方便なし

なのです。更に自惚れている親鸞会幹部に対しても、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

で、18願他力念仏1つなのです。

再度『尊号真像銘文』のお言葉を挙げておきます。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

五逆・謗法の者でも救うのが、18願です。19願には、五逆・謗法の者は漏れているのです。それでも18願だけでは不足だとどうしようもなく自惚れている親鸞会の幹部は「無宿善の機」ですから、方便が必要でしょうが、そんな「無宿善の機」から「宿善の機」にも対して、お前も俺と同じだと主張されても、それは的外れです。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
                          (『御文章』3帖目第12通)

『教行信証』の解説書を何十冊も読んだと言いながら、信心正因称名報恩批判論者の信楽峻麿氏の論文をわざわざ出してくるところがなんとも滑稽です。信楽氏の論文の内容と、親鸞会の教えていることが違っていますが、それも判らないのでしょうか?

親鸞聖人の仰った根拠が出せないから、関係ありそうな論文は誰のものでも出しておけ、という発想なのでしょう。そのうちに他宗の論文も出てくるでしょうね。

それにしても御粗末なブログを書いて2chで宣伝しているのは、どんな感覚なのでしょうか? あれで筋が通っていると本気で思っているのでしょうか?

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2010年6月 9日 (水)

予ごときは、さきの要門にたゑず

親鸞会では、金集めと人集めを正当化するため、建前上、獲信のために定散二善を勧めていますが、それが根本的な間違いであることを法然上人は指摘されています。

『選択本願念仏集』には、

おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。
いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

『観無量寿経』には、定散諸行を廃して、念仏を立てることが説かれていると法然上人は仰っています。更には、

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

『観無量寿経』で定散二善が説かれている理由は、念仏が定散二善よりも優れていることを顕すためと法然上人は仰っています。
それに加えて、

諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。
まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

と、定散二善は時期不相応の教えであるのに対して、念仏は時期相応の教えであると仰った後、定散諸行は随他意の法門として暫く仮に説かれた権仮方便であり、念仏は随自意の法門として、仏の本意に叶った真実として永久に閉じられることはないことを教えられています。

法然上人は御自身のことを、『西方指南抄』で以下のように仰っています。

又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は、定散二善なり。定者息慮凝心なり、散者廃悪修善なりと。弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生」といへり。予ごときは、さきの要門にたゑず、よてひとへに弘願を憑也と云り。

法然上人でさえ、定散二善に堪えれないものであるから、ひとえに弘願を憑むのだと仰っているのです。

また「一期物語」には

或人問云く、常に廃悪修善の旨を存して念仏すると、常に本願の旨を思ふて念仏すると何れか勝れたるや。
答う、廃悪修善はこれ諸仏通戒なりと雖も当世の我等は、悉く違背せり。若別意弘願に乗ぜずは、生死を出で難きものか云々。

とあり、廃悪修善は今の世の我等には、とてもできるものではないから、弘願によらればならないことを教えられています。

法然上人にここまではっきり言われているのに、獲信のために廃悪修善に努めようとするのは、自惚れも甚だしいことです。法然上人よりも自分が偉いとでも思っているのでしょうか。
正本堂のお仏壇の上で、踏ん反り返っている高森会長は、阿弥陀仏よりも偉いと錯覚しているのでしょうが、会員までが会長の真似をすることはありません。

法然上人の教えに「悉く違背」する親鸞会が、浄土門でないことは言うまでもないことです。

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2010年6月 7日 (月)

二十の願のこころ

親鸞会では、三願転入の教えとは言いながらも、18願と19願について話をするだけで20願についての説明は殆どありません。親鸞会の会員は、19願の入口にも立っていないのですから、20願は遥かかなたの”夢物語”なのでしょう。
当ブログでも、親鸞会が強調する19願について述べてきましたが、”夢物語”の20願については説明してきませんでした。しかし、20願についても誤解している人がありますので、簡潔に説明しておきます。

これまで『大無量寿経』の異訳本である『平等覚経』『大阿弥陀経』との比較により、『大無量寿経』における18願、19願の「十方衆生」の違いについて見てきましたが、20願も加えて列記しておきます。

『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)

我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。
來生我國。不爾者我不作佛

『平等覚経』18願(『大経』19願)

我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者。】
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。
不爾者我不作佛

『平等覚経』19願(『大経』20願)

我作佛時。【他方佛國人民。前世爲惡。】
聞我名字及正爲道。欲來生我國。壽終皆令
不復更三惡道。則生我國在心所願不爾者
我不作佛

『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)

使某作佛時。令我名字。皆聞八方
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大
坐中。説我功徳國土之善。
【諸天人民。蜎飛蠕動之類】聞我名字。
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)

使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』5願(『大経』20願)

使某作佛時。令【八方上下。諸無央數天人民。
及蜎飛蠕動之類。若前世作惡。】聞我名字。
欲來生我國者。即便反政自悔過。爲道作善。
便持經戒。願欲生我國不斷絶。
壽終皆令不復泥犁禽獸薜荔。即生我國。
在心所願。得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『平等覚経』『大阿弥陀経』共に、『大無量寿経』の「十方衆生」は、19願だけが大きく異なり、18願と20願は近い意味になっています。

また前回『浄土和讃』大経讃の「十九の願のこころ、諸行往生なり」と頭註のある三首を紹介しましたが、「二十の願のこころなり、自力の念仏を願じたまへり」の三首も紹介しておきます。

至心・回向・欲生と 十方衆生を方便し
 名号の真門ひらきてぞ 不果遂者と願じける

果遂の願によりてこそ 釈迦は善本・徳本を
 『弥陀経』にあらはして 一乗の機をすすめける

定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に 真如の門に転入する

19願のように「定散諸機」という言葉はありません。

18願と20願との違いは他力念仏と自力念仏の違いであり、阿弥陀仏の方から衆生へ回向して下されるか、衆生の方から阿弥陀仏に回向するかの違いです。

歴代の善知識方は、18願1つを勧められたのであって、20願を勧められた七高僧方はありません。

法然上人は、『西方指南抄』の中で20願について「繋念定生の願」と仰っているくらいです。

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2010年6月 5日 (土)

「定散諸機」とは

未だに親鸞会では、19願に「十方衆生」と誓われているから、親鸞聖人の教えを聞いて信じている人でも19願を必ず通らなければならないと言っています。それしか主張の根拠がないのでしょう。
某ブログでは、少し趣向を懲らしていますが、根拠を出すことで自分の首を締めています。

「十方衆生」が相手の弥陀の第19願(要門)を、
お釈迦様が開かれて「善の勧め」の教えを説かれた。
 
そのお釈迦様の「善の勧め」の教えを受けて、
それを実行しようとする「聖道門の人」が現れたのである。
 
 
 釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらえて
 正雑二行方便し
 ひとえに専修をすすめしむ
         (高僧和讃)

ここで大事なことが抜けています。
釈尊が要門を開かれて「善の勧め」の教えを誰に説かれたのか。

その答えが、この御和讃で教えられています。

訳せば、

釈尊は要門を開いて、 定善・散善の人々を浄土門に誘い、 正行と雑行とを手立てとして、 ひとえにもっぱら念仏を修することを勧められた。

19願意から「定散諸機」に対して釈尊が要門を開かれたのです。ただし、ここでの「要門」とは、『観無量寿経疏 玄義分』の

その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。

で、19願のことではありません。

こしらえて」は誘うということです。

『一念多念証文』

この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

『口伝鈔』

しかじ、「唯聞愁歎声」(定善義)の六道にわかれて、「入彼涅槃城」(同)の弥陀の浄土にまうでんにはと、こしらへおもむけば、闇冥の悲歎やうやくに晴れて、摂取の光益になどか帰せざらん。

も同じです。ですから、

定散諸機」≠すべての人

です。『正信偈』には、

矜哀定散与逆悪

と「定散」と「逆悪」と分けられています。
蓮如上人の『正信偈大意』では、

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

と解説があります。

言葉の意味も知らないのに、下手に根拠を出すから、無知が晒されるのです。

同様に、親鸞会が善の勧めの根拠とする『浄土和讃』大経讃で、「十九の願のこころ、諸行往生なり」と頭註のある三首を見てみましょう。

至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける

(現代語訳)

第十九願には、 自力をたよりに自分の心を真実にして、 往生を願い、 浄土に生まれたいと思えと、 十方衆生を方便誘引し、
どのような善を修めてでも浄土往生を願えと、 諸善万行によって往生を願う方便仮門を開き、 この人々の臨終にはその人の前に来迎すると誓われた。

 
臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり

(現代語訳)

阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、 釈尊は聖道自力の人を誘引するため、 諸善万行はみな浄土往生に導く善根であるとして、
『観経』一部に定善の行、 散善の行を説き、 定善に縁のある人、 散善に縁のある人に、 それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。

諸善万行ことごとく 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり

(現代語訳)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。 けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の善とならないものはなかったのである。

第1首目は19願の直訳に近い解説、第2首目は19願から釈尊が『観無量寿経』を説かれて「定散諸機」を浄土門へ誘引されたことの解説、第3首目は欣慕浄土の善の解説です。

逆悪の機」に対して、定散二善を勧められたとは、どこにもありません。

先の高僧和讃1首とこの3首を通して読まれれば、

(19願の)「十方衆生」=「定散諸機

と釈尊が19願意を明らかにされ、それを親鸞聖人が教えておられることが判ります。

親鸞会では「定散諸機をすすめけり」と「定散二善をすすめけり」とを勘違いしているのでしょう。

定散諸機」とは定善・散善のできる善人のことです。それに対して「逆悪の機」とは定善・散善のできない悪人のことです。
『観無量寿経』には、「定散諸機」に対して定散二善を説かれ、「逆悪の機」には念仏を勧められているのです。韋提希に対しては、定散二善を勧められていません。『観無量寿経』を直に読んでみて下さい。

これまでmixiでの議論を通して述べてきましたことが、すべて辻褄が合います。

・『平等覚経』『大阿弥陀経』『尊号真像銘文』より18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」の違い
・要門釈で、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であると仰ったこと
・『往生要集』に「極重の悪人は他の方便なし」とあること
・そして、「定散諸機」も最後は18願に導かれなければ報土往生できないので、要門釈結勧の文で、
 「観経の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」と仰ったこと

どこにも矛盾はなく、釈尊、善導大師、源信僧都、親鸞聖人が一貫して同じことを教えられていることがはっきりします。
一方、親鸞会の理論では、矛盾しかありません。悪人正機が理解できないから、幼稚な理屈をいつまでも捏ねているのです。

19願に「十方衆生」とあるのだから、と今後も、何とかの1つ覚えしかいえないでしょうね。レベルが低過ぎます。

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2010年6月 3日 (木)

[mixi]三願転入議論の解説7

親鸞会では方便の意味が、何も判っていません。善巧方便と権仮方便の違いも判らなければ、権仮方便の理解などまさに幼稚園以下です。

mixiでのこうへい氏の質問

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

については、

善巧方便と権仮方便の意味を教えてあげてください
誡疑讃について教えてあげて下さい
正しい三願転入
極重の悪人は、他の方便なし
定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり

で、方便について詳しく説明をして答えてきましたので、読まれていない方は、是非読んで頂きたいと思います。

親鸞会では

方便だからしなければならない

などと自信満々に主張していますが、無知をさらけ出していることに気が付いていないのです。

親鸞聖人の御著書を読めば判りますが

方便だから捨てよ

なのです。

聖道門は方便だから捨てよ
化土は方便だから願うな

です。同じように、

19願(諸善)、20願(自力念仏)は方便だから捨てよ

です。

19願、諸善だけは方便だからせよ

になる訳がないです。小学生でも理解できることです。

もっといえば、方便が方便と信じられず、方便を真実と信じているから方便になるのです。
親鸞聖人は真実と方便を教えられました。しかし、親鸞聖人の真実18願の仰せを信じられず、方便と仰った聖道門、19願、20願をそれぞれ真実だと信じている人がたくさんあるのです。信じている人にとってはそれが真実ですが、そういう人にそれが真実ではないと説いても信じられないから、暫く機に応じて用いられる随他意の法門を説かれたのです。それが真実でなかったと理解できたならば、真実に誘引する権仮方便となるのです。

親鸞会の人は、仏教界のことを知らなさ過ぎますが、浄土門の人でも18願が真実と思えず、19願での往生、20願での往生を信じ願っている人が親鸞聖人の時代も、今もたくさんいるのです。18願での往生を信じられる人は少ないのです。
だからこそ、親鸞聖人は、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であり、19願を実践しても化土往生しかできない方便の願だから、真実18願を信じなさい、と仰っているのです。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

はその駄目押しのお言葉です。
20願についても同じです。誡疑讃を読まれれば、自明のことです。

そこまで親鸞聖人が仰っても、やはり信じられない人がありますので、蓮如上人は『御文章』3帖目第12通で

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

と、親鸞聖人の教えを信じられる「宿善の機」と、信じられない「無宿善の機」を区別なされているのです。
宿善の機」には、

他の方便なし

です。逆にいえば、「無宿善の機」には

他の方便あり

なのです。
真実と方便について親鸞聖人が教えられている通りと信じられる人は、「宿善の機」です。

方便と知りながら方便をせよと説く、間の抜けた高森会長をこれでも信じる人は、「無宿善の機」です。

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2010年6月 2日 (水)

[mixi]三願転入議論の解説6

最近、親鸞会がひたすら強調している『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

のお言葉は、もともと『教行信証』化土巻をまとめられたものです。「八万四千の法門」と「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」について『教行信証』化土巻では以下の部分が関係深いところです。

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義文)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

機に応じて釈尊は「八万四千の法門」を説かれました。その教え通りに如実に修行できれば解脱することができるのですが、そんな者は甚だ少ないのです。それで、『観無量寿経』で、定散二善を説かれたのですが、「常没の凡愚」には、定善も散善もできないのです。
そんな「常没の凡愚」のために、「八万四千の仮門」の他に「本願一乗海」である真実の法門、弘願があることを教えられているのです。

聖道門を要門に誘引し、要門から弘願一乗へと導かれることを仰ったものです。
『一念多念証文』も同じことを仰っています。

これが、定散二善のできない「常没の凡愚」に定散二善を勧められた根拠だ、と考えることが、根本的に間違っています。
常没の凡愚」が、定散二善ができると自惚れているといいますが、自惚れている人なら善人か、定散二善の内容を知らないだけです。五逆罪、謗法罪を造っているような悪人が、定散二善ができると自惚れている筈がないでしょう。

親鸞会の理論は矛盾ばかりです。

なお、以前に当ブログに現われて、親鸞聖人が19願を勧められた根拠として誡疑讃を出して、完膚なきまでに論破された「1会員」「M野氏ではないyo」を名乗る人物が、悔し紛れに「本願寺の僧侶」を名乗って下らないブログを新たに書いているようです。
読む価値のないブログを紹介しても仕方が無いので、ブログ名とリンク先は敢て書きません。

ただ、少しだけおもしろいことが書かれてありましたので、真似て書いてみます。

『真宗授要編 釈教名集』を紹介しましょう。著者は光照寺の教名という人ですが、その説明が以下のサイトにありましたので、一部抜粋します。

「親鸞と時朝」

光照寺は笠間御草庵といい、親鸞の弟子である教名房実念の開基である。
『親鸞聖人門侶交名牒』に実念は存在する。実念は親鸞の面授の弟子である。

光照寺のご本尊は建長7年(1255年)造立の阿弥陀如来立像(県指定文化財)である。建長5年には時朝は薬師如来立像と脇立千手観音立像を造立しそれぞれ、岩谷寺と京都三十三間堂に寄進している。光照寺の阿弥陀如来立像も同時期に作られたものであるが、光照寺のご住職のお話では、「阿弥陀如来立像は親鸞聖人自らが造られたご本尊と言われており、時朝が発願・造立したとの史料はない。」との事である。

光照寺略縁起によると「本尊である阿弥陀如来立像は親鸞が自ら日夜精魂のすえ、旬日にして二尺八寸の尊像を御成就あそばされた。ご帰洛の砌、この御本尊を教名房実念に付与さたものといわれ、『浄土真宗開闢の本尊』或いは『立教開宗の阿弥陀如来』として750年来、当山に伝わるところ。」とある。

親鸞会会員には、驚くべきことが書かれてあります。
さて、この書物の中に次のようにあります。

さては信心と申ことは、聖人の御膝ちかく御聴聞まふしてさへ発起すること甚だ以かたし、いはんや滅後末の世にはさぞと思ひ侍るなりことに、聖教には権実真仮ありてたやすく正意にいたること甚以かたかるべしと存たてまつるなり。哀願は某、末世の尼入道になりかはり信心決定の要を委く御尋まふし上たく存したてまつるなり。恐ながら御返答なし下され候はば、末世往生の亀鑑とて奉らんと申上るところに聖人正しく仰られて曰く、「汝この尋の旨肝要のことなり。すべて聖教は教なければみな定散の二門におつるなり。故に大師聖人は文はまつげのごとく見損て往生の得分を失ふと歎たまへり。」

これは親鸞会のことを親鸞聖人が仰ったものです。

親鸞会の聖教(会長の著書)には教えがないから、定散の二門におちいって、親鸞聖人の御著書を読み損なって往生ができないのです。

親鸞会の主張するところは、すべてが怪しいのです。

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2010年6月 1日 (火)

[mixi]三願転入議論の解説5

前回の続きで「欣慕浄土の善根」についてもう少し述べたいと思います。

『教行信証』化土巻には、

仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

ともあります。
19願についての総括をされたお言葉です。
19願では化土往生になると繰り返し仰ってきて、最後に、自力の行をまじえているものは、報土往生はできないと断言なされているのです。それで19願は方便の願と結論付けられるのです。
19願について親鸞聖人は、要門釈の最初に、「修諸功徳の願」「臨終現前の願」「現前導生の願」「来迎引接の願」「至心発願の願」と仰っています。
しかしここでは「仮令の誓願」と、19願文の「仮令」のお言葉を使われて、19願のことを仰っています。「仮令」の意味は、もともとは「たとえ」「もしも」ですが、親鸞聖人はここでは「かりに」「方便」という意味に変えられて仰っています。つまり、19願は権仮方便として、それが必要な機に対して「かりに」建てられたものであるということを19願文のお言葉を使って、説明をされているのです。それ故に、

仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり

なのです。
『観無量寿経』及び19願は、聖道門の人に、浄土を願い慕わせ、誘引するためのものと明らかであると親鸞聖人は明言なされました。
従って、浄土門に入っている人は、すでに浄土を願い慕っているのですから、19願の役割は、浄土門に入っていない聖道門の人を浄土門に導くためなのです。

同様のことは『三経往生文類』でも仰っています。

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

19願は、「浄土を欣慕せしむる」のであって、善のできないことを知らせるために善をさせる願ではありません。

こうへい氏は、別のトピックで

救われたか否かは、「信疑決判」以外にありませんので、
弥陀の本願に疑い晴れたか否か、
言いかえれば、
二種深信か否か、で判定されるものです。

と述べていますが、二種深信とは、『散善義』にある七深信の最初の2つです。
親鸞聖人は『愚禿鈔』に七深信について簡単に説明されています。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

この第三が前回紹介した

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

です。
第三深信を否定するような人があれば、救われたか否か、判定されてしまいます。

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