親鸞会では、救われたならば、
すべての人は無善造悪である
19願・20願は18願に入るために必ず通る道程
ということが、知らされると思い込んでいるようですが、それは親鸞聖人の教えを何も解っていない”無解の一道”に出た人の妄想です。
前回も書きましたが、『往生礼讃』の
自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
の善導大師のお言葉は、親鸞会の主張と矛盾しますので、親鸞会からすれば、善導大師は異安心になりますし、この善導大師のお言葉を引かれて信心を説明されている親鸞聖人も異安心になるのでしょう。
救われて知らされることについて、善導大師、親鸞聖人は、七深信で教えられています。
『愚禿鈔』に七深信についての簡単な説明があります。
七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。
最初の二つが二種深信です。三番目が、何度も紹介しています「欣慕浄土の善根」です。
少し長いですが、重要なところですので、『教行信証』信巻に、七深信で『散善義』から引かれている部分を挙げておきます。
深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。
また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。
また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。
また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}
釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。
なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。
次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}
すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。
(現代語訳)
深心というのは、これはすなわち深く信ずるの心である。これにまた二種ある。一つには、自身は現在罪深い迷いの凡夫であり、はかり知られぬ昔からいつも迷いにさまよって、これからのちも生死を出る手がかりがない、と決定して深く信ずる。二つには、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂めとってお救いくださる。疑いなくためらうことなく、かの願力にうちまかせて、まちがいなく往生する、と決定して深く信ずる。
また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。
また、《阿弥陀経》の中に、十方にまします恒河の砂の数ほどの諸仏が、すべての凡夫はまちがいなく往生できる、と証明して勧めてくださることを、決定して深く信ずる。
また、深く信ずる者、仰ぎ願わくは、すべての行者たちよ、一心にただ仏語を信じて身命をかえりみず、決定して、仏の説かれた行をよりどころとして、仏の捨てよと仰せられる自力の行を捨て、仏の行ぜよと仰せられる念仏を行じ、仏の近づいてはならぬと仰せられる雑縁に近づかない。これを、釈迦の教えにしたがい、諸仏の意にしたがうと名づける。これを弥陀の願にしたがうと名づける。これを真の仏弟子と名づけるのである。
また、すべての行者たちが、ただよくこの《観経》によって念仏を深く信ずれば、決して人々を誤らせない。なぜかといえば、仏はこれ大悲を円満せられたお方だからであり、その説かれたおことばがまことだからである。仏を除いて以下の者は、智慧も行もまだ十分でなく、なお、それを学ぶ地位にあり、煩悩およびその余習がいまだ除かれず、願う仏果がまだ円満しない。したがって、これらの人たちは、たとい仏の教意をおしはかっても、まだ決了することはできぬ。仏意を正しく解釈したとしても、かならず仏の証明を請うて定むべきである。もし、仏の思召しにかなえば、仏はこれを認められて「正しい」と仰せられる。もし、仏の思召しにかなわなければ、「そなたたちのいう義は正しくない」と仰せられるのである。仏の認められない説は、無意味な利益のないことばにひとしい。仏の認められた説は、仏の正しい教えにかなうものである。仏のすべてのおことばは、正しい教、正しい義理、正しい行、正しい解釈、正しい業、正しい智慧である。多くても少なくても、菩薩・人・天などを問わず、その説のよしあしを仏説によらずに定めることはできぬ。もし仏の説かれた教であれば、決了の教であり、菩薩などの説であれば、ことごとく義理の決了でない教と名づける。よく知るべきである。こういうわけであるから、いまのとき、往生を願うすべての有縁の人たちに仰いで勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、専心に行ずべきである。菩薩などの仏意にかなわない教を信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、みずから迷い、往生の大利益を失ってはならない。
釈迦仏が一切凡夫に教えて、この身のあるかぎり専ら念仏して命終われば、まちがいなくかの国に生まれると勧められるならば、十方の諸仏もみなこれと同じように讃嘆し、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜかというと、同じさとりから起こる大悲だからである。釈迦一仏の教化せられるところの法は、そのまま一切の仏が教化せられるところであり、一切の仏が教化せられるところの法は、そのまま釈迦仏の教化せられるところである。すなわち《阿弥陀経》の中には、釈迦仏が極楽の種々の荘厳を讃嘆せられ、また、すべての凡夫に、一日あるいは七日でも一心に弥陀の名号を称える者はまちがいなく往生させてくださる、と勧められ、その次の文には、十方におのおの恒河の砂の数ほどの諸仏がおられて同じように釈迦仏を讃嘆なされる。すなわち釈迦仏が、この五濁の悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなときに出られて、よく弥陀の名号を讃嘆せられ、衆生に、念仏すればかならず往生を得ると勧め励まされるのをたたえていられる。これがその証拠である。また、十方の諸仏は、等しく衆生が釈迦一仏の説かれたところを、信じないであろうことをおそれて、共に心を同じくし、同時におのおのが、あまねく三千世界をおおうような広長の舌相を示して、まことの言葉をもって、『そなたたち衆生はみな、釈迦仏が説かれ、讃嘆せられ、証明せられるところの法を信ずべきである。すべての凡夫は罪福の多少や時間の長短を問うことなく、ただよく上は一生涯から下は一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を称えれば、かならず往生を得ること決して疑いない』と仰せられている。こういうわけで、釈迦一仏の説かれるところはすなわち一切の仏たちが同じく証明せられるのである。」これを〈勧める人について信を立てる〉というのである。
つぎに、〈行について信を立てる〉というのは、ところで、行に二種ある。一つには正行、二つには雑行である。正行とは、専ら往生経に説かれてある弥陀行によって行ずることをいうのである。何がこれであるかというと、一心に専らこの《観経》《弥陀経》《無量寿経》などを読誦すること。一心に専らかの浄土や仏および聖衆たちを心にかけ、よく観察し、つねに念おもうこと。もし礼拝するならば、すなわち一心に専ら阿弥陀仏を礼拝する。もし口に称えるならば、すなわち一心に専ら弥陀の名号を称える。もし讃嘆供養するならば、すなわち一心に専ら讃嘆供養する。これを正行と名づけるのである。
また、この正行の中について、また二種ある。一つには、一心に弥陀の名号を称え、行住坐臥に時間の長短をいわず相続してすてないのを正定の業という。かの阿弥陀仏の本願に順したがうからである。もし礼拝や読誦などによれば、これを助業という。この正助の二行を除いてほかのいろいろな善根は、ことごとく雑行と名づける。すべて粗そ雑ぞうの行というのである。こういうわけで「深心」と名づける。
五番目は、
仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。
とありますように、教えられるとおりに、捨てよと言われたら捨てる、行じなさいと言われたら行ずる、近付くなといわれたら近付かない、なのです。
親鸞会の教えていることは、
仏の捨てしめたまふをばすなはち拾わせ、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ぜず。仏の去らしめたまふところをばすなはち近付く。
です。
六番目、七番目も含めて善についての扱いがまるっきり反対です。19願・20願は、18願への道程ということではありません。他力念仏以外は、「捨てしめたまふ」ものです。
難しいかもしれませんが、七深信について何度も何度も読み返してください。
救われて知らされることは、
自分の力では、出離して仏になるような善はできない。
諸善は聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、浄土門に入ったならば18願で救われるために捨てさるべきもの。
です。mixiでるぅでる様氏やsutybi氏が主張されてきた通りです。
これを知らされていない親鸞会の面々は、善導大師、親鸞聖人とは、異なる安心であることだけは間違いありません。
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