「正信偈」の意味さえも知らないの
これまで、こうへい氏の質問に回答する形で、方便について親鸞聖人がどう仰っているか説明しきました。
善巧方便と権仮方便の意味を教えてあげてください
誡疑讃について教えてあげて下さい
極重の悪人は、他の方便なし
定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり
以上を読まれれば、親鸞会で教える方便の意味が根本的に狂っていることがお判り頂けると思います。
それが顕著に表れていることが、
「真偽検証」
25年間も論点スライドをしている、という事実は極めて重い
で紹介されていました。
学徒:阿弥陀仏が「救済の要門」として十九願を建てられたのですね。
講師:十九願から二十願へ導き、そして、真実の十八願へ転入させる。
阿弥陀仏が「十方衆生」と誓われたのは、この三願のみです。
この三願によって救う、という三願転入が、私たちを救うための阿弥陀如来の遠大なご計画なのです。すべては、阿弥陀さまのお計らいなのですよ。学徒:親鸞会を非難する人たちは、それを勝手に計らって、「18願だけでいいんだ」と言うらしいですね。
学徒:「19願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものだから、18願の救いを求める人には関係ない」と言っているそうですよ。
学徒:へー、19、20の方便願は、自分には不要とでも思っているのでしょうか?
学徒:方便は卒業したと思っているのかな?
学徒:とんでもないうぬぼれですねえ。
講師:18願だけで素直に聞ける自分だと思っているからでしょう。
学徒:ところがおかしなことに、念仏を称えることは勧めるそうですよ。
学徒:19願は不要だが、20願は必要ということ?
学徒:それじゃあ、二願転入だ。
学徒:阿弥陀仏の19願は、あきらかに「十方衆生」と誓われていますね。阿弥陀仏のお誓いですからね。
講師:その19願をお釈迦さまが開説されたのが、『観無量寿経』ですが、説かれた相手は、悪女の韋提希夫人(イダイケぶにん)です。聖道門の人ではありませんよ。
学徒:また、未来の衆生、つまり私たちのためにも説かれたのが『観無量寿経』の定散二善(善のすすめ)であると教えていただきました。
講師:そうです。また親鸞聖人は19願の御心を、
「至心発願欲生と 十方衆生を方便し、
衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける」とおっしゃっています。
学徒:「十方衆生を方便し」というのは重いお言葉ですね。
講師:十方衆生が、阿弥陀仏のお力によって導かれているのですから、無関係な人は一人もありません。
学徒:「19願は聖道門の人にだけ」というのは、明らかにおかしいですね。親鸞聖人のお言葉に反しています。
講師:本願寺の勧学(学者)に、そういうことを言う人がいますから、その受け売りで非難しているのでしょう。非難の論法も、全く同じですから。
高森先生は、すでに『本願寺なぜ答えぬ』の中で、「仏の正意がわからぬために『方便(仮)は捨てもの』と実行せず、合点だけで、相済みにする本願寺」(p159)と書かれています。
また、「自力とか、十九願というと、捨家棄欲、自力修行としか考えられぬ、半身不随的理解」(p163)とも、ズバリ見抜かれていますね。学徒:すごい破邪のお言葉ですね。
学徒:宿善論争は、もう25年前になりますが、いまだに本願寺から返答はありませんね。
講師:25年間も答えられない、という事実は極めて重いものです。
そのへんの有象無象が何を言おうと、本願寺トップの学者集団は、完全に沈黙しています。学徒:『本願寺なぜ答えぬ』には、「善のすすめ」が、文証で明らかにされているのですからね。
学徒:ところが本願寺は善のすすめを否定しているのですから、末寺の僧侶や浄土真宗の門徒の人が、積極的にやろうとしないのも当然ですね。
実に情けない、幼稚な理解です。高森会長がこのように徹底させているのでしょう。
要門釈で親鸞聖人は、「他の方便なし」というお言葉を削っておられるではないか、という愚かな揚げ足を取ってくる可能性もあるでしょうから、同じ内容になりますが、別の根拠を挙げておきます。
『教行信証』行巻には『往生要集』をそのまま引用されています。
『往生要集』にいはく、「『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな〈一向専念無量寿仏〉といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉」と。
また『高僧和讃』源信讃にも
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
と親鸞聖人は仰っています。
もちろん『正信偈』には、
極重悪人唯称仏
と書いておられます。
以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に
「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。
と仰っています。
源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、我々「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と19願・20願の方便は不要と、直接的な表現で仰っています。
学徒:方便は卒業したと思っているのかな?
学徒:とんでもないうぬぼれですねえ。
と善知識方を誹謗する親鸞会は、何宗でしょうか? 何教でしょうか?
「十方衆生」の意味さえ理解できず、いつまで恥さらしなことを教え続けるのでしょうか?
高森会長は朝夕のお勤めをしていないそうですから、「正信偈」の意味さえも知らないのでしょう。
学者集団の本願寺とは、月とスッポンですが、その本願寺を見下す神経が実にお目出たい。
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