三願転入の議論のまとめ
mixiでの議論が、「親鸞会コミュニティ」から移動して行われるかもしれません。
親鸞会にとって都合の悪いコメントを削除し、議論に都合の悪い人物を排除するコミュニィでは、議論ができませんので、別のコミュニティに移動しての議論には賛成です。もし今後議論が再開されるのであれば、
- 相手の質問には答える。
- 自分の意見をハッキリ述べる。
この程度のルールは定めておくべきでしょう。親鸞会は、勝他のための議論しかしたことがありませんから、ルールを守らせることは無理だとは思いますが。
- 自分の主張を明らかにするために相手に質問して答えてもらわなければならない
などというふざけた発言こそ削除すべきです。
さて、これまでのるぅでる氏、sutybi氏の主張を真氏がまとめて下さいましたので、少し補足修正して書いておきます。議論に参加されたい方は、参考にして下さい。
1.19願の対機について
『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)
我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。
來生我國。不爾者我不作佛『平等覚経』18願(『大経』19願)
我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者】。
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。
不爾者我不作佛『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)
使某作佛時。令我名字。皆聞八方
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大
坐中。説我功徳國土之善。
【諸天人民。蜎飛蠕動之類】聞我名字。
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)
使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛このように、18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」とは、
本来意味が異なっていることが、『大経』異訳本から判ります。 18願の「十方衆生」は、あらゆる生き物で、 漏れているものはありませんが、19願の「十方衆生」は、 菩薩道を作す者となっており、対機が限定されています。
このことを踏まえられてと思われますが、法然聖人は『選択本願念仏集』の中で、 釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、
すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。 また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。 いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、 すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。 ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、 時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、 随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、 随自の後には還りて定散の門を閉づ。 一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。 弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。 と仰り、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で
「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」
といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。 このふたつの罪のおもきことをしめして、 十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。 と解説しておられます。それで、『真宗大辞典』(永田文昌堂)
の「十方衆生」の項には。 四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。
十方世界に棲息する無数の生類を総称して十方衆生という。 即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。 第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、 広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、 立願の精神を究れば、 第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り 、 第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、 漏らす所多々あれども、 第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、 皆ひとしく全く仏力にて救わんとする誓願なるが故に、 一の衆生として漏るることがない。 そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも漏らすことなくその意 が至極広いが、第十九・ 第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、 その意は狭いとする。 とあります。
また梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』には親鸞聖人が第十八願・第十九願・
第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、 このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であ って、古今に例を見ないところである。
(中略)
ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』 巻一に、 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、
名号流布を誓て諸行を誓はず、
況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。
又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、
二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、
五つには唯除有無の異これなり。といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、
諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」 にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、 ただ名号の流布のみを強調されているということは、 第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠である というのである。そして、 さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。
(中略)
五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「 若不生者」の釈につづいて、 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、
五逆のつみびとをきらひ、
誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ
して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。といわれている。
これによって第十八願の救済の対象となっている機は、 五逆をつくり、正法を誹謗するような、 極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・ 賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。 これに対して第十九願・ 第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、 いずれも善人のみを所被の機とされていて、 逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、 善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、 特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との 違いが明らかになるというのである。 このようにして生因三願を対照すると、 第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており 、第十九願・ 第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるの である。 どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。 (中略)
第十九願・第二十願は、自力の執着がふかく、罪(悪)福(善)
の因果に則った廃悪修善の教えは信じても、 善悪を超えた他力不思議の救いを受け容れることが出来ない未熟の ものを育てるために施設された権仮方便の教えであるというのが親 鸞聖人の領解であった。特に第十九願は、 聖道門の機を浄土門に誘引するために諸行往生を誓われた方便の誓 願であり、第二十願は、諸行往生の機を自力念仏の機に育て、 さらに第十八願の他力念仏に入れしめるための方便願であるといわ れている。 とあります。このように19願の対機は、
菩薩道を行じられるいわゆる善人であることが明白です。 2.19願についての親鸞聖人の見解
上記の19願対機を踏まえられて、親鸞聖人は『教行信証』
化土巻・要門釈で しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・ 権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、 実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、 虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。 と仰っています。この解釈について梯實圓著『
顕浄土方便化身土文類講讃』 浄土門内の方便教を明かすについて、
まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。 最後に第二十願の意を釈されるが、 その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。 すなわち、釈尊の導きによって、 真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、 なおその自力修行の厳しさゆえに、 真実をさとり得た者は極めて少なく、 せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、 内心は外道から離れることができず、 再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。 そのような状況を憐れんで、 釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねば ならなかったというのである。
(中略)
そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、 散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『 無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、 行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」 といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、 真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、 すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。 無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、 諸仏は現前に授記す」といわれているように、 諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。 したがって定散諸善の行体は、 聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。 そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心 がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』 でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。 こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、 浄土に生まれさせることによって、 聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれる のである。 とあり、また山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』では
然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、 漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、 満字教、又は権教、 実教等の法門を信受し修道するようになっても、 真に其の教へに入る者は甚だ得難く、 如実の修道者は甚だ稀である。 之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、 内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し 下され、 そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。 然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。 如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下さ れた。 として、聖道門の人を浄土門に誘引し、
すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれるとあり まして、極めて素直な解釈です。 この要門釈は親鸞聖人独自の見解ではなく、
法然聖人の教えを受け継がれています。 『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)
第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。
また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師が言われて
いたと弟子が記した『広疑瑞決集』に 先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、
本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、 末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、 聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。 とあります。経典、法然聖人、
隆寛律師のお言葉から親鸞聖人は19願を、 聖道門の人を浄土門に誘引する願と見做されていたのです。 19願の役割を先程の要門釈の後に、
宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。
門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。 縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。 ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「 たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義) といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「 如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、 相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。 いかにいはんや、相を離れて事を求めば、 術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。 とも仰っています。これを言い換えて仰ったのが、『
一念多念証文』です。 おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。
これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、 散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、 これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、 もろもろの衆生をすすめこしらへて、 本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑ に、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。 なお、「浄土の方便の善」につきましては、『教行信証』化土巻・
三経隠顕問答で 釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、
顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・ 三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。 諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。 如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。 と仰っていますので、「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」
です。
聖道門の人を「欣慕浄土の善根」により浄土門に誘引するのが要門19願であり、 すでに浄土門に入っている人と共に、「本願一乗海」 である18願に導き入れると仰っているのです。
ですからすでに浄土門に入っている人を「欣慕浄土の善根」により要門19願に導くという意味ではありません。 浄土門の人に対して親鸞聖人は、
三願を真仮廃立で教えておられます。『教行信証』『 三経往生文類』等にも教えられていますが、最も顕著なのが『 正像末和讃』の誡疑讃です。誡疑讃は23首ありますが、 19願について明確に仰ったは以下の1首のみです。 自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがえば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにけるあとは20願の誡めです。
19願を願うことを厳しく誡められているだけで、
19願を勧められているところは1箇所もありません。 3.覚如上人、蓮如上人の教え
覚如上人『口伝鈔』
十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。
いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、 過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。 宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざる がごとし。「欲知過去因」の文のごとく、 今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。 蓮如上人『御文章』3帖目第12通
それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、
まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。 さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、 無宿善の機は信心をとりがたし。 まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。 されば無宿善の機のまへにおいては、 正雑二行の沙汰をするときは、 かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・ 無宿善の道理を分別せずして、 手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、 もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、 すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、 当流の法をばあたふべしときこえたり。 覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、「
浄土教を信受する機」のことです。つまり、 18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、 蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、 宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、 また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、 覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、「 無宿善の機」ということになります。
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、 蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。 4.結論
親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引する願と仰り、
浄土門の人には19願を勧められていませんので、 すでに浄土門に入っている人が、 19願を必ず通らなければ18願に入れないという「 親鸞聖人の三願転入の教え」というものはありません。
浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、 蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです。 19願に心を掛けていることは、親鸞聖人が『唯信鈔文意』で みづからが身をよしとおもふこころをすて
と仰っていることですから、すぐに捨て去るべき心です。
| 固定リンク
コメント
もと龍谷大学学長の、信楽 峻麿さんの三願転入についての論述を読みましたが、親鸞会の主張とよく似ていますね。
第十九願仮令の誓とは、十方の衆生をひとしく救済せんがために発願されたものである。
浄土の救済が成立するためには、先ずその基本的条件としては、世俗的価値の相対化、自己
の存在と現実の世界に対する厳しい内省に基づいて、浄土を願生し、善行を修習することが
必要である。
世俗を相対化しえず、浄土を願わず、善行を修めずして浄土の行道の成立するはずはない。
阿弥陀仏は、先ずこの「至心に発願して我が国に生まれんと欲はん」という誓願によって、
自身を恃み、自執の心の深い凡夫に相応して、まず世俗的価値を相対化し、さまざまな善行
を明かし、もって浄土を願生せしめ、その行道に趣入せしめんと願われたのである。
われわれは深い決断をもって、このような浄土願生の思念を抱いてこそ、よく浄土の行道を
歩みはじめることができるのである。
また第二十願果遂の誓とは、いっさいの衆生をして、ひとしく称名念仏一行を選びとらしめ、
まことの本願念仏往生の道に帰入せしめるためにたてられたものである。
浄土に救われてゆくためには、ひとえにこの専称仏名の道を進むほかはない。
そしてこの行道に入るかぎり、いかに自執、自力の心が深かろうとも、やがてついには願力の
必然によって、浄土往生の志願を果遂することができるのである。
親鸞は、第十九願、第二十願を、このように、何れも本願真実の念仏の道に誘引するための方
便施設なる誓願にほかならないと領解したのである。
〔龍谷大学論集-「親鸞における三願転入の論理」より〕
投稿: BS | 2010年5月22日 (土) 18時12分
名号が呪で言葉そのものに力が宿っている
凡夫は何も考えなくていいから
ただ唱えとけって教理もありっちゃありだけど
もちろん、縁となるという意味において欠かせないのだけど
そんな密教めいた神秘主義を主眼とすることに単純に堕したくないね俺りゃ
別にただ念仏することは否定してない。
最高の報謝だし
それ以外の何も念仏より功徳があるとも思わんからな
あと業事成弁したから世間事にかまけて念仏しないという道理は
往生についての問題設定からして誤ってるだろう
とにかく念仏となえろ、でないと往生できまへんでゆうと
絶対誰かが何回以上が目安ですか?って聞くし
できるだけって後付けると仕事は休んだほうがいいですかって聞くやついるし
そもそもそこまで往生が不安な奴って自分の念仏頼んでるだろっつー話ですわ
でいずれ、「これほどとはどれほどか」とか言う善知識さまが現れるんだろね
心を凝らすための三昧だった念仏を
ただの凡夫が称えただけで往生するってんだから
他力でなきゃ教理的に納得できんな
もし他力でないなら
至誠心を起こしてくださりゃ
投稿: | 2010年5月23日 (日) 00時14分
BS 様
名無し 様
情報、御意見、ありがとうございました。
言葉は親鸞会と似ていますが、内容が異なっていると思います。
18願に入るためにまず19願を実践して、という意味ではないと理解しています。
他の方も同じですが、親鸞会的な三願転入論は、誰もしていないのではないでしょうか。
投稿: 飛雲 | 2010年5月23日 (日) 04時35分
信楽峻麿さんの説は伝統的に西本願寺系列で言われてきてた安心というのとは違うけど、
それは仏法に出遇ったものとしての自覚、自律的な生き方というもの(自分自身にむけて、あるいは社会に向けて)を
強く求める主張だからだろう
だから必然的に「自分自身がどうなることを仏法に生きる、信心に生きるというのか」という部分に力点があり、
その表現が親鸞会の主張と似通ってるようにうけとられがちだけど、飛雲さんの言うとおり、
「救われるまでの必修プロセスとして、判るまで・知らされるまで~~せよ」という言い方ではなく
あくまで、救いに出会う自分自身とその自分が生きてる社会の中を(仏法に基づいて)どう見ていくか、というのを問題にしてるんだと思う。
だから、他力の解釈にしても、阿弥陀如来という"人格的な存在"が十方衆生救おうとはたらいている、みたいな形での捉え方に対して
厳しく批判をする、という形になってしまうけど、少なくとも親鸞会の言い方とは問題にしてるところが全然違うと思う。
投稿: | 2010年5月23日 (日) 15時42分
いつも鋭い分析、有難うございます。
信楽師の論文は、断片的にしか読んだことがありませんので、参考になりました。
また、よろしくお願いいたします。
投稿: 飛雲 | 2010年5月24日 (月) 05時41分