いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり
mixiでは、こうへい氏が一部の質問に答えました。が、ぼこぼこにされています。
1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉については、
『教行信証』全体
というふざけた回答は論外ですが、もう一つは解説が必要です。
4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠
これは、確かに申し上げました。
根拠は、
「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)
の一言で充分でありましょう。
親鸞会の現会員、元会員の人は、納得してしまうかもしれません。しかし、大変な間違いです。
ここは、
「親鸞会教義の誤り」
宿善とは4
を読まれるといいですが、mixiの中で、sutybi氏が簡単に解説されています。
蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)
それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の
十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
を受けて仰っています。
宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。
「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」と、「浄土の方便の善」とは、直接の繋がりがないのです。
でも、
『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。
とあるから、過去に行ってきた善ではないのか、と思われる方があるかも知れません。しかし、「善本」の意味を考えられれば判られると思います。親鸞会でも「善本」とは、名号と教えています。根拠は、『教行信証』化土巻に
善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。
とある通りです。また「若人無善本不得聞此経」のお言葉を、親鸞聖人は化土巻の真門釈のところで引いておられます。要門釈ではありません。
高森会長も『会報 第三集』に
係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。
と書いています。参考までに「係念の宿善」という言葉は、浄土宗の鎮西派で使われるものです。
ですから、蓮如上人がここで仰っている「宿善」には、諸善の意味は含まれていないのです。
こうへい氏もそのことに気が付いて、反論できないのでしょう。もちろん、自分の非を認めることもしません。
親鸞会教学とは、単語、一つの文でしか理解していない、断章取義で貫かれています。前後の文章を読むだけで、意味が変わってきます。
「宿善」については、真宗、浄土宗以外でも使われていまして、「宿世の善根」、というのが一般的な意味です。しかし真宗で使われている時は、ほとんどが「阿弥陀仏のお育て」という意味です。気を付けないと、親鸞会に騙されてしまいます。
『口伝鈔』も読んだことがない、と告白しているのですが、今や驚くことでもないですね。
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