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2010年5月

2010年5月30日 (日)

[mixi]三願転入議論の解説4

親鸞会教義の最後の牙城である「浄土の方便の善」についてもう少し解説しましょう。

『観無量寿経』で、三福の後に、

この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり

と説かれています。
(現代語訳)

この三種の行いは、過去・現在・未来のすべての仏がたがなさる清らかな行いであり、さとりを得る正しい因なのである

『観無量寿経』に説かれている三福は、もともと「三世の諸仏の浄業の正因」である聖道門の行ということを教えられているのです。聖道門と『観無量寿経』の定善・散善とは、此土入聖と彼土得証の違いはあっても、行は同じなのです。ですから、聖道の「八万四千の法門」で説かれている善は、『観無量寿経』に収まるのです。

それを、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。

と仰り、更には

これを要門といふ。これを仮門となづけたり。

と聖道門を要門に収められているのです。

このことを『教行信証』化土巻・隠顕釈には、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

とあります。
(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって 観無量寿経をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の三福は、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが観無量寿経の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。

です。これは、善導大師の『散善義』深信釈を指して仰ったものです。

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

『観無量寿経』に説かれている善は、「欣慕浄土の善根」、浄土往生を願わせるために示された善なのです。

以上のことがよく理解できれば、親鸞聖人の教えを信じて、18願での往生を願っている人にとって、必ず19願を通らなければならないという考えは、邪義とお判りになられるのではないでしょうか。

ついでに、こうへい氏のへんてこな質問に答えておきますと、「捨自帰他」したならば、

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

となります。つまり、善知識方の教えと明らかに異なるこうへい氏の考えが邪義であったと知らされるのです。それを親鸞聖人は『唯信鈔文意』で、

自力のこころをすつといふは、(中略)みづからが身をよしとおもふこころをすて

と仰っているのです。

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2010年5月29日 (土)

[mixi]三願転入議論の解説3

こうへい氏が一週間ぶりにmixiに登場しました。しかし、相変わらず虚勢を張っているだけで、何も答えません。親鸞会講師部員の特徴ですね。

さて、こうへい氏は『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

のお言葉を珍しい解釈をして、浄土門の人も19願を必ず通らなければならないと教えていますが、とんでもないことです。

浄土門の人にも19願が必要であるという根拠としてこうへい氏が出したのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。『顕真』3月号には、上記のお言葉を挙げて、

 これら仏教で教えられる諸善万行は、『観無量寿経』に説かれる定散二善に集約される。
『観経』は、「弥陀の浄土に往生したい」と弥陀の救いを求める韋提希夫人と未来の人々(私たち)のために、釈尊が説かれたものだ。言うまでもなくそれは、善を実行させるためである。

 要ず通らねばならぬ門

 弥陀の本願一つを説くことを出世の本懐とされた釈尊が、なぜ廃悪修善をかくも勧められるのか。
 この修善の勧めが、弥陀の救いと無関係であるはずがない。
 親鸞聖人はズバリ、
「みなこれ浄土の方便の善なり」
「これみな浄土方便の要門なり」
と断定されている。
 すべては弥陀の本願(十八願)に相応させ、浄土往生を果たさせるためのご方便であったのだ。
 それは、釈迦の独断ではない。阿弥陀如来が、十方衆生を真実の十八願の救済に導かんがために、方便の十九願で「修諸功徳」と勧められているからである。

と解釈していますが、ピントがずれています。
『一念多念証文』の現代語訳は

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

です。
権仮方便ということが少しでも判れば、何も難しい御文ではありません。釈尊がそれぞれの機に応じて説かれた教えを「八万四千の法門」といいます。その「八万四千の法門」で説かれた善は、浄土門へ導くための「方便の善」であるということです。聖道門の人を浄土門へ、そして18願へという流れを仰ったものであって、浄土門の人を要門に導くという意味になる筈がありません。読解力が少しでもあれば判ることです。
つまり、上記の要門釈と同じことを親鸞聖人は教えられているだけのことです。

浄土の方便の善」が、18願に入るために必ず要る善ではなく、その前の、聖道門の人が浄土門に入るための「方便の善」ということです。

親鸞会では、まず善をさせるという結論があって、そこに向けて無理やり解釈をしますので、判る文章が判らない文章になってしまうだけのことです。
こうへい氏は、「浄土の方便の善」=宿善と解釈しましたが、これまた珍説です。

浄土の方便の善」は、『教行信証』化土巻には、善導大師の釈を承けて、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」と仰っています。阿弥陀仏の18願とは異なる方便、浄土を欣い慕わせる善根ということです。

浄土の方便の善」とは、聖道門から浄土門へ導く善

親鸞聖人の教えは、一貫してこのことを仰っています。

親鸞会では、最初に善をしなければならない、と言う結論があって、そのように解釈できそうな根拠を探し出して主張しているだけですので、他の根拠と比較してみれば矛盾だらけです。

聖教を読んでから結論を出す、常識的な考え方のできない思考では、議論以前の問題でしょう。実際に、矛盾を突かれると、反論が何もできません。実に愚かです。

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2010年5月28日 (金)

[mixi]三願転入議論の解説2

親鸞聖人は、『平等覚経』『大阿弥陀経』のことを御存知なかったのではないか、と思われる方もあるかもしれません。しかし、それは大間違いです。

『教行信証』行巻に

『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(上)[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。

『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。

と『大無量寿経』18願に当る『平等覚経』17願と『大阿弥陀経』4願が引用されています。親鸞聖人は『大無量寿経』を中心として、その異訳本と比較されながら『大無量寿経』の御心を明らかにされているのです。

話は逸れますが、『大無量寿経』18願の「若不生者」は、『平等覚経』17願と『大阿弥陀経』4願ではそれぞれ「わが国に来生せしめ」とありまして、当益の意味しかありません。高森会長の邪説は、こんなところでも明らかになります。

ただし、『大無量寿経』19願に当る『平等覚経』18願と『大阿弥陀経』7願について直接言及されているところはありません。しかし、親鸞聖人はこれらを御存知の上で、『大無量寿経』の「十方衆生」の違いを「唯除五逆誹謗正法」の有無で分けられたのです。

ですから、『大無量寿経』19願については、菩薩行を行える善人が対機であることを踏まえられた上で、『教行信証』化土巻の要門釈の最初に、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰ったのです。
直訳をすれば、

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

です。
こうへい氏は、後半の部分を断章取義して、要門19願は一切衆生のための願と主張しましたが、前半を読まれれば判る通り、半満・権実の法門(聖道門)の修行に行き詰まった人を導くのが19願だと親鸞聖人ははっきり仰っています。
菩薩行を行える善人が対機の19願ですから、親鸞聖人の解釈は極めて自然なものです。

これは親鸞聖人独自の解釈ではなく、法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)には

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあります。聖道門の人を18願に帰せしめるための願と仰っています。
また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。隆寛律師のこの告白に影響を受けられて、親鸞聖人は三願転入の文を書かれたといわれています。

聖道門の人を浄土門に誘引する願と法然上人、隆寛律師は解釈されたのですが、親鸞聖人も同様のことを仰ったのが要門釈の最初のお言葉です。

ところが親鸞会及びこうへい氏は、浄土門の人も19願を必ず通らなければならないという解釈をしていますが、どこをどう読んだらそんな珍説になるのでしょうか。まともな思考でないことだけは確かです。

この時点で、こうへい氏が逃亡しておれば、傷は浅かったのでしょうが、しつこく詭弁を駆使して珍説を述べてくれたお陰で、19願についてより詳しい説明を引き出すことができました。
その意味では、こうへい氏に感謝です。

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2010年5月27日 (木)

[mixi]三願転入議論の解説1

あれだけ騒いでいたこうへい氏は、mixiに現われなくなりました。誤りを認めての逃亡であるなら、良いこととは思いますが、忘れた頃に、突如現われるかも知れませんので、注意が必要です。

これまでのmixiでの議論を、当ブログでも取り上げてきましたが、親鸞会関係の人にとりましては馴染みのない根拠ばかりでしたので、内容がよく理解できないという御意見も頂きました。

そこで、少しずつ詳しく解説をしていきたいと思います。

まず、こうへい氏との議論の発端となった19願の「十方衆生」についてです。以下のエントリーでも説明してあります。

このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり
18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」
先哲にどんな解釈をされた方があったかは問題外です

『大無量寿経』には異訳本がいくつかありますが、阿弥陀仏の本願についての表現がそれぞれ違っています。『大無量寿経』での18願と19願の対機は、共に「十方衆生」と表現されていますが、『平等覚経』『大阿弥陀経』では、救いの対象、対機が明らかに異なっています。

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

つまり、『大無量寿経』18願は、すべての生物です。漏れているものはいません。一方、『大無量寿経』19願は、菩薩の行を行える人と限定されています。虫も入っていませんし、人間でも菩薩の行を行えない悪人は入りません。ですから同じ「十方衆生」でも『大無量寿経』の18願と19願とでは対機が大きく異なるのです。

では、『大無量寿経』上では18願と19願とで対機の違いがないのかと言えば、違いが表現されています。それが「唯除五逆誹謗正法」です。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

とありますように、「唯除五逆誹謗正法」のある18願は、漏れるものがないが、「唯除五逆誹謗正法」のない19願では、漏れているものがあると親鸞聖人は仰っています。また「唯除五逆誹謗正法」に相当するお言葉は、『平等覚経』『大阿弥陀経』にはありません。つまり18願の「十方衆生」と「唯除五逆誹謗正法」はセットになっているのです。ただし、親鸞会で言っているような「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」ということではありません。「十方衆生」の中に「唯除五逆誹謗正法」のものも含まれるということです。

経典は、訳者や原本によっても表現は変わっていますが、意味は同じです。『大無量寿経』の18願と19願の中で、「十方衆生」のところだけを取り出して同じと考えるのは、断章取義です。「十方衆生」に込められた御心を他のお言葉から読み取れなければ、正しく理解できません。

親鸞会では、19願に「十方衆生」とあるから、自分達こそが19願の対機だと思っていますが、とんでもない自惚れです。「唯除五逆誹謗正法」のものと言いながら、19願の対機だと公言することは、論理的な矛盾を感じないか、ただの無知か、いずれにしても非常に恥ずかしいことです。

阿弥陀仏の御心の基礎の基礎さえ判らないのに、間違った理解を他人に押しつける人物のことを、悪知識というのです。

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2010年5月25日 (火)

「正信偈」の意味さえも知らないの

これまで、こうへい氏の質問に回答する形で、方便について親鸞聖人がどう仰っているか説明しきました。

善巧方便と権仮方便の意味を教えてあげてください

誡疑讃について教えてあげて下さい

極重の悪人は、他の方便なし


定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり

以上を読まれれば、親鸞会で教える方便の意味が根本的に狂っていることがお判り頂けると思います。

それが顕著に表れていることが、

「真偽検証」
25年間も論点スライドをしている、という事実は極めて重い


で紹介されていました。

学徒:阿弥陀仏が「救済の要門」として十九願を建てられたのですね。

講師:十九願から二十願へ導き、そして、真実の十八願へ転入させる。
阿弥陀仏が「十方衆生」と誓われたのは、この三願のみです。
この三願によって救う、という三願転入が、私たちを救うための阿弥陀如来の遠大なご計画なのです。すべては、阿弥陀さまのお計らいなのですよ。

学徒:親鸞会を非難する人たちは、それを勝手に計らって、「18願だけでいいんだ」と言うらしいですね。

学徒:「19願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものだから、18願の救いを求める人には関係ない」と言っているそうですよ。

学徒:へー、19、20の方便願は、自分には不要とでも思っているのでしょうか?

学徒:方便は卒業したと思っているのかな?

学徒:とんでもないうぬぼれですねえ。

講師:18願だけで素直に聞ける自分だと思っているからでしょう。

学徒:ところがおかしなことに、念仏を称えることは勧めるそうですよ。

学徒:19願は不要だが、20願は必要ということ?

学徒:それじゃあ、二願転入だ。

学徒:阿弥陀仏の19願は、あきらかに「十方衆生」と誓われていますね。阿弥陀仏のお誓いですからね。

講師:その19願をお釈迦さまが開説されたのが、『観無量寿経』ですが、説かれた相手は、悪女の韋提希夫人(イダイケぶにん)です。聖道門の人ではありませんよ。

学徒:また、未来の衆生、つまり私たちのためにも説かれたのが『観無量寿経』の定散二善(善のすすめ)であると教えていただきました。

講師:そうです。また親鸞聖人は19願の御心を、

「至心発願欲生と 十方衆生を方便し、
  衆善の仮門ひらきてぞ 現其人前と願じける」

とおっしゃっています。

学徒:「十方衆生を方便し」というのは重いお言葉ですね。

講師:十方衆生が、阿弥陀仏のお力によって導かれているのですから、無関係な人は一人もありません。

学徒:「19願は聖道門の人にだけ」というのは、明らかにおかしいですね。親鸞聖人のお言葉に反しています。

講師:本願寺の勧学(学者)に、そういうことを言う人がいますから、その受け売りで非難しているのでしょう。非難の論法も、全く同じですから。
  高森先生は、すでに『本願寺なぜ答えぬ』の中で、「仏の正意がわからぬために『方便(仮)は捨てもの』と実行せず、合点だけで、相済みにする本願寺」(p159)と書かれています。
  また、「自力とか、十九願というと、捨家棄欲、自力修行としか考えられぬ、半身不随的理解」(p163)とも、ズバリ見抜かれていますね。

学徒:すごい破邪のお言葉ですね。

学徒:宿善論争は、もう25年前になりますが、いまだに本願寺から返答はありませんね。

講師:25年間も答えられない、という事実は極めて重いものです。
そのへんの有象無象が何を言おうと、本願寺トップの学者集団は、完全に沈黙しています。

学徒:『本願寺なぜ答えぬ』には、「善のすすめ」が、文証で明らかにされているのですからね。

学徒:ところが本願寺は善のすすめを否定しているのですから、末寺の僧侶や浄土真宗の門徒の人が、積極的にやろうとしないのも当然ですね。

実に情けない、幼稚な理解です。高森会長がこのように徹底させているのでしょう。
要門釈で親鸞聖人は、「他の方便なし」というお言葉を削っておられるではないか、という愚かな揚げ足を取ってくる可能性もあるでしょうから、同じ内容になりますが、別の根拠を挙げておきます。

『教行信証』行巻には『往生要集』をそのまま引用されています。

『往生要集』にいはく、「『双巻経』の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな〈一向専念無量寿仏〉といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉」と。

また『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、我々「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と19願・20願の方便は不要と、直接的な表現で仰っています。

学徒:方便は卒業したと思っているのかな?

学徒:とんでもないうぬぼれですねえ。

と善知識方を誹謗する親鸞会は、何宗でしょうか? 何教でしょうか?

「十方衆生」の意味さえ理解できず、いつまで恥さらしなことを教え続けるのでしょうか?

高森会長は朝夕のお勤めをしていないそうですから、「正信偈」の意味さえも知らないのでしょう。

学者集団の本願寺とは、月とスッポンですが、その本願寺を見下す神経が実にお目出たい。

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2010年5月23日 (日)

定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり

昨日要門釈の結論として親鸞聖人が仰った

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

について、源信僧都の『往生要集』との比較をして少し述べました。
山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』での解説も紹介しましたが、断章取義の大好きな人のために補足説明をしておきます。

源信僧都は、

極重の悪人は、他の方便なし。

と仰っています。

三願転入の議論のまとめ

のところでも書きましたが、19願の「十方衆生」には、悪人は含まれていません。ここで言われている「極重の悪人」とは、下々品の機のことです。ですから源信僧都のお言葉は、「極重の悪人」には19願の定善散善はできるものではないから、19願の方便は不要であることを教えられたのです。逆の言い方をすれば、善人には19願の方便が必要と仰っていることになるでしょう。

ところが親鸞聖人は源信僧都のお言葉を変えて仰っています。

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

19願の対機である「定散の諸機」も「極重悪人」と親鸞聖人は見られたのです。
要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と、親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引するための願と仰っていますが、聖道門から19願に入った「定散の諸機」に対してさえも、19願の方便を勧められず、「極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。
定散の諸機」も「極重悪人」であるから、18願他力念仏だけを勧められているのです。
更にこの後に「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と結んでおられます。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、このところを、

「極重悪人無他方便」の文は念仏証拠門十文の中、第四文である。この文は、『要集』では『観経』下々品の意を述べたるものとなつてゐて定散の諸機に冠らすべきものではないのであるが、我が聖人がこの文を引用して『観経』定散の諸機は極重の悪人、他の方便なければ唯弥陀を称名せねばならぬと見給ふたので、茲にも聖人の醇乎たる宗教的態度を見ることが出来る。即ち聖人から見れば、下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、定散の機類は一応善機と云はれるけれども、徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、真を徹見し給ふのである。定散の機といふは表相である、仮相である。真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。

と解説されています。
親鸞会でも、すべての人は「極重悪人」であるということを教えていますので、方便のところ以外は納得できると思います。

ましてや、「定散の諸機」に入らない「極重悪人」に対して、親鸞聖人が19願を勧められることなどあり得ないことです。

ところが、19願の対機に関してのみ、親鸞会では下々品の機である「極重悪人」でも「定散の諸機」に突如昇格させるのです。下々品の機が「定散の諸機」と自惚れているからという屁理屈を捏ねるでしょうが、まるっきり逆です。親鸞聖人は自惚れている「定散の諸機」を「極重悪人」に降格されているのです。

「極重悪人」に19願の方便は必要ですか、不要ですか?

こうへい氏は、これでもまだ「解釈が異なる」としか言わないのでしょうね。今後は、どんな断章取義と屁理屈と言い訳が飛び出すことか。

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2010年5月22日 (土)

極重の悪人は、他の方便なし

mixiでは、新しいトピックに移って、三願転入の議論が再開されるのかと期待しましたが、こうへい氏は”親鸞会コミュニィ”という親鸞会がルールという条件下でなければ、議論をしないと宣言してしまいました。
予想したこととはいいながらも、親鸞会の弱腰には哀愁が漂っています。

さて、親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈の一番最後に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。

現代語訳は

以上のようなことから、 源信和尚の解釈をうかがうと、 往生要集の念仏証拠門の中に、 第十八願について、 四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。 また 観無量寿経に説かれる定善・散善を修めるものについて、 きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。 五濁の世のものは、 出家のものも在家のものも、 よく自分の能力を考えよということである。 よく知るがよい。

です。
浄土往生を願っている人に対して、「ただ弥陀を称せよ」なのです。「まず諸善を修せよ」ではありません。親鸞会に長年いましたが、この御文については一度も聞いたことがありませんでした。
これこそ、「三願転入の教え」を否定する結論です。

もとの『往生要集』念仏証拠を見れば、それがよりはっきりします。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

源信僧都は、三が18願の説明、四が『観無量寿経』下下品についての説明です。

極重の悪人は、他の方便なし。

こうへい氏が、

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

という自信満々の質問をしていますが、その回答です。
ただし、ここの源信僧都のお言葉に、親鸞聖人は「定散の諸機は」と付け加えられています。その御心について、山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、

我が聖人の御思召を伺ふに、上来説き明し来れるが如く、弥陀如来に方便の第十九願あり、釈迦如来は『観経』に定散両門を開いて、諸機を化益し給うたが、これ畢竟、方便誘引の教門である。横川の源信僧都も第十八願は別願中の別願であると宣うてある。又、極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽と勧め給うて在ます。されば方便要門の法に滞らず、弥陀如来の別願中の別願たる真実弘願の方に帰命して、真実報土に往生せねばならぬ。又、『観経』には表に定散の諸機について定散両善を勧めてあるけれども、実を剋すれば、すべてこれ極重の悪人である。されば弥陀の名号を称念して浄土往生を得るほかはないという意である。これで「化巻」初めの「是を以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本と誓願を発して普く諸有海を化し給ふ」にかつきりと当るのである。釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説し給ふも、実は極重悪人無他方便唯称弥陀の弘願法を説かんがためであり、阿弥陀如来の誓願を発し給ふも別願中の別願第十八願を以て衆生を救はんためであるといふことになるのである。

とあります。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』で、こうへい氏は要門釈について断章取義して喜んでいましたが、意味はお判りでしょうか?

さて、こうへい氏は、これでも信前の人は19願を必ず通らなければならない必要な方便と主張するのでしょうかね。

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2010年5月19日 (水)

三願転入の議論のまとめ

mixiでの議論が、「親鸞会コミュニティ」から移動して行われるかもしれません。

親鸞会にとって都合の悪いコメントを削除し、議論に都合の悪い人物を排除するコミュニィでは、議論ができませんので、別のコミュニティに移動しての議論には賛成です。もし今後議論が再開されるのであれば、

  • 相手の質問には答える。
  • 自分の意見をハッキリ述べる。

この程度のルールは定めておくべきでしょう。親鸞会は、勝他のための議論しかしたことがありませんから、ルールを守らせることは無理だとは思いますが。

  • 自分の主張を明らかにするために相手に質問して答えてもらわなければならない

などというふざけた発言こそ削除すべきです。

さて、これまでのるぅでる氏、sutybi氏の主張を真氏がまとめて下さいましたので、少し補足修正して書いておきます。議論に参加されたい方は、参考にして下さい。

1.19願の対機について

『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)

我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。
來生我國。不爾者我不作佛

『平等覚経』18願(『大経』19願)

我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者】。
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。
不爾者我不作佛

『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)

使某作佛時。令我名字。皆聞八方
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大
坐中。説我功徳國土之善。
【諸天人民。蜎飛蠕動之類】聞我名字。
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)

使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

このように、18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」とは、本来意味が異なっていることが、『大経』異訳本から判ります。18願の「十方衆生」は、あらゆる生き物で、漏れているものはありませんが、19願の「十方衆生」は、菩薩道を作す者となっており、対機が限定されています。
このことを踏まえられてと思われますが、法然聖人は『選択本願念仏集』の中で、

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。 いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

と仰り、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と解説しておられます。それで、『真宗大辞典』(永田文昌堂)の「十方衆生」の項には。

 四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。十方世界に棲息する無数の生類を総称して十方衆生という。即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、立願の精神を究れば、第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、漏らす所多々あれども、第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、皆ひとしく全く仏力にて救わんとする誓願なるが故に、一の衆生として漏るることがない。そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも漏らすことなくその意が至極広いが、第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、その意は狭いとする。

とあります。
また梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』には

 親鸞聖人が第十八願・第十九願・第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であ って、古今に例を見ないところである。
(中略)
 ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』巻一に、

 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、
 況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。
 又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、
 二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、
 五つには唯除有無の異これなり。

といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、ただ名号の流布のみを強調されているということは、第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠であるというのである。そして、さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。
(中略)
 五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「若不生者」の釈につづいて、

 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、
 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ
 して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

といわれている。これによって第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり、正法を誹謗するような、極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。これに対して第十九願・第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、いずれも善人のみを所被の機とされていて、逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との違いが明らかになるというのである。このようにして生因三願を対照すると、第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており、第十九願・第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるのである。どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。

(中略)

 第十九願・第二十願は、自力の執着がふかく、罪(悪)福(善)の因果に則った廃悪修善の教えは信じても、善悪を超えた他力不思議の救いを受け容れることが出来ない未熟のものを育てるために施設された権仮方便の教えであるというのが親鸞聖人の領解であった。特に第十九願は、聖道門の機を浄土門に誘引するために諸行往生を誓われた方便の誓願であり、第二十願は、諸行往生の機を自力念仏の機に育て、さらに第十八願の他力念仏に入れしめるための方便願であるといわれている。

とあります。このように19願の対機は、菩薩道を行じられるいわゆる善人であることが明白です。

2.19願についての親鸞聖人の見解

上記の19願対機を踏まえられて、親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈で

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。この解釈について梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、 なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。
(中略)
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。

とあり、また山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』では

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

として、聖道門の人を浄土門に誘引し、すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれるとありまして、極めて素直な解釈です。

この要門釈は親鸞聖人独自の見解ではなく、法然聖人の教えを受け継がれています。

『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師が言われていたと弟子が記した『広疑瑞決集』に

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

とあります。経典、法然聖人、隆寛律師のお言葉から親鸞聖人は19願を、聖道門の人を浄土門に誘引する願と見做されていたのです。

19願の役割を先程の要門釈の後に、

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

とも仰っています。これを言い換えて仰ったのが、『一念多念証文』です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

なお、「浄土の方便の善」につきましては、『教行信証』化土巻・三経隠顕問答で

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

と仰っていますので、「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根です。
聖道門の人を「欣慕浄土の善根により浄土門に誘引するのが要門19願であり、すでに浄土門に入っている人と共に、「本願一乗海である18願に導き入れると仰っているのです。
ですからすでに浄土門に入っている人を「欣慕浄土の善根により要門19願に導くという意味ではありません。

浄土門の人に対して親鸞聖人は、三願を真仮廃立で教えておられます。『教行信証』『三経往生文類』等にも教えられていますが、最も顕著なのが『正像末和讃』の誡疑讃です。誡疑讃は23首ありますが、19願について明確に仰ったは以下の1首のみです。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがえば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

あとは20願の誡めです。

19願を願うことを厳しく誡められているだけで、19願を勧められているところは1箇所もありません。

3.覚如上人、蓮如上人の教え

覚如上人『口伝鈔』

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

蓮如上人『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、「無宿善の機」ということになります。
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、 18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

4.結論

親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引する願と仰り、浄土門の人には19願を勧められていませんので、すでに浄土門に入っている人が、19願を必ず通らなければ18願に入れないという「親鸞聖人の三願転入の教え」というものはありません。
浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです。19願に心を掛けていることは、親鸞聖人が『唯信鈔文意』で

みづからが身をよしとおもふこころをすて

と仰っていることですから、すぐに捨て去るべき心です。

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2010年5月18日 (火)

正しい三願転入

mixiでの三願転入のやりとりを通して、聖道門、19願、20願、18願の関係を説明してきました。親鸞会の邪義に染まった人でも、権仮方便ということがお判りになれば、正しい三願転入の意味が理解でき、親鸞会が言っているような「三願転入の教え」というものが如何に馬鹿げたものであるか気が付かれるのではないかと思います。

「用管窺天記」願海真仮で、私がこれまでに述べてきたことが巧く図示されていますので、そのまま引用させて頂きます。

  1. 18願での往生を願う人
  2. 20願での往生を願う人
  3. 19願での往生を願う人
  4. 聖道門で此土入聖を願う人
  5. 外道を信じている人

すべての人を大きく分けるとこの5種類になります。ところが親鸞会では18願で往生を願う人とは、信心獲得した人と考えて、信心獲得していない人は20願、19願の人とし、それどころか聖道門、外道を信じているとまでいい出していますから、18願で救われるためには、まず19願に入って、20願を通ってからしか18願に入ることができないという訳の判らない理論を押しつけます。

そんな無茶苦茶なことを親鸞聖人は教えられたのではありません。親鸞聖人の教えを聞いていた人に対して、18願での往生を願いなさい、これ1つを説かれているのです。

しかし、親鸞聖人の教えである18願での往生をとても信じられない人が多いのです。そんな人に対して、権仮方便により、18願での往生を願うよう調機誘引されるのです。

釈尊の説かれたことの99%が善の勧めであるのは何のためか、と親鸞会ではよくいいますが、それは外道を信じている人を聖道門に引き入れるためです。

阿弥陀仏が19願を建てられたのは何のためか? 聖道門の人を浄土門に誘引するためです。

阿弥陀仏が20願を建てられたのは何のためか? 19願での往生を願っている人を18願に転入させるためです。

18願での往生を願っている人のために、聖道門、19願、20願があるのではありません。

会員の皆さんは、平生業生の教えを昿劫多生の教えと変えた高森会長の詭弁に、いつまで騙され続けるつもりですか?

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2010年5月17日 (月)

まことに宿善まかせ

権仮方便ということを踏まえた上で、蓮如上人が宿善と仰っておられるところを見てみましょう。
これまで、『御文章』3帖目第12通について説明してきました。

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり
いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり(補足)

『御文章』4帖目には、宿善という言葉が何回も出てきていますので、すべて紹介します。

第1通

 それ、真宗念仏行者のなかにおいて、法義についてそのこころえなき次第これおほし。しかるあひだ、大概そのおもむきをあらはしをはりぬ。所詮自今以後は、同心の行者はこのことばをもつて本とすべし。これについてふたつのこころあり。

一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。この道理を心中に決定してたもつべし。しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。

ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。

そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。

しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。

このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあひだ、真宗の正意、このいはれによりてあひすたれたりときこえたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、当流の一義をば讃嘆すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

第3通

 それ、中古以来当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。所詮自今以後においては、このいはれを存知せしめて、たとひ聖教をもよみ、また暫時に法門をいはんときも、このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、この覚悟はなく、ただいづれの機なりともよく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。これあやまりとしるべし。

第7通

 そもそも、今月報恩講のこと、例年の旧儀として七日の勤行をいたすところ、いまにその退転なし。しかるあひだ、この時節にあひあたりて、諸国門葉のたぐひ、報恩謝徳の懇志をはこび、称名念仏の本行を尽す。まことにこれ専修専念決定往生の徳なり。このゆゑに諸国参詣の輩において、一味の安心に住する人まれなるべしとみえたり。そのゆゑは真実に仏法にこころざしはなくして、ただ人まねばかり、あるいは仁義までの風情ならば、まことにもつてなげかしき次第なり。そのいはれいかんといふに、未安心の輩は不審の次第をも沙汰せざるときは、不信のいたりともおぼえはんべれ。さればはるばると万里の遠路をしのぎ、また莫大の苦労をいたして上洛せしむるところ、さらにもつてその所詮なし。かなしむべし、かなしむべし。ただし不宿善の機ならば無用といひつべきものか。

第8通

 これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。しからざらん輩においては、報恩謝徳のこころざしなきに似たるものか。これによりて、このごろ真宗の念仏者と号するなかに、まことに心底より当流の安心決定なきあひだ、あるいは名聞、あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もつてのほかしかるべからざる次第なり。そのゆゑは、すでに万里の遠路をしのぎ莫大の辛労をいたして上洛の輩、いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜しき次第にあらずや。すこぶる不足の所存といひつべし。ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。しかりといへども、無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば、いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。

第15通

 しかれば愚老当年の夏ごろより違例せしめて、いまにおいて本復のすがたこれなし。つひには当年寒中にはかならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。

よくよく読んでみられれば、宿善・無宿善の機とは、『御文章』3帖目第12通と同じで、18願1つを願うように説かれた親鸞聖人の教えを信じる人、信じられない人ということです。
宿善の機には、18願1つを説かれた親鸞聖人の教えをそのまま話をすればよいのですが、無宿善の機には、誹謗のもとになるので、親鸞聖人の教えを説いてはいけないと蓮如上人は仰っています。つまり無宿善の機には権仮方便が必要ということを蓮如上人は間接的に仰っていることになります。一方で宿善の機に対して、権仮方便を説く必要があることなど、『御文章』のどこを読んでも見当たりません。

以上を踏まえれば親鸞会では超有名な「無宿善の機にいたりてはちからおよばず」も「まことに宿善まかせ」も、親鸞聖人の教えを信じられるかどうかという意味です。このお言葉から親鸞聖人の教えを信じて聞いている人に対して宿善を厚くせよ、という意味にはなりえません。

『御文章』を素直に拝読すれば、簡単に理解できることが、高森フィルターを通してしまうと、到底理解できない文底秘沈の解釈になってしまいます。
読解力までも衰えさせる思考停止思想が、親鸞会です。

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2010年5月15日 (土)

誡疑讃について教えてあげて下さい

「苦笑の独り言」にmixiでの全やり取りと、こうへい氏の相手であったsutybi氏が強制退会になった経緯が載っていますので、mixiを見れない人は、是非見ておいて下さい。親鸞会の汚さがよく判ります。

【保存】某コミュニティ「三願転入」トピック【ロック】
【投稿】卑怯なコメント無断削除&強制退会してんじゃね~よ!!

さて、昨日の続きですが、方便についてこうへい氏が根拠を出せと求めています。自分は根拠を出さない(出せない)のに、他人に対しては高圧的な態度を平気でとれるところが、親鸞会講師部員らしいところです。

権仮方便について親鸞聖人が仰ったところは、

『教行信証』化土巻

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

『浄土和讃』大経讃

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ

です。聖道門と要門について、権仮方便と仰っています。
さて、親鸞聖人の教えを信じている人(18願での救いを願っている人)に対して、権仮方便である聖道門が必要と仰っているのでしょうか、不要と仰っているのでしょうか。
聖道門と同列の要門については、どうでしょうか。

まさか、聖道門は不要だけども、要門は必要という矛盾したことは答えないでしょうね。
と言いたいところですが、親鸞会は、その矛盾した答えを平然と言ってくるでしょう。

親鸞聖人が、18願での救いを願っている人に対して、19願が必要であると仰った箇所があるとでも思っているのでしょうか。親鸞聖人は、19願は化土往生しかできないから、19願を願うことを厳しく誡めておられます。

根拠は?

と尋ねられれば、こうへい氏の真似をして、

『教行信証』全体

と答えておいてもよいですが、もう少し絞って化土巻としておきましょう。

化土巻だけでなく他の御著書も皆、19願の誡めですが、読解力の乏しいこうへい氏のために、『正像末和讃』誡疑讃を挙げておきます。これまでに何回も誡疑讃を紹介してきましたが、M野氏じゃないyo氏のように理解できない方もまだあるようですので、本願寺の現代語訳も付けて、すべての御和讃を挙げておきます。

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり

(訳)
仏の智慧を明らかにさとらない証拠として、 如来のいろいろな智慧を疑い、
善悪の因果のみを信じ、 自力念仏の功徳を頼みにするので、 浄土の片隅の方便化土に止まるのです。

仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし

(訳)
仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願を疑って、 自力の念仏を好む者は、
浄土の片隅や慢心の世界に止まって、 仏のご恩を報謝する心がおこらないのです。

罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる

(訳)
善悪の因果を信じる行者は、 仏の智慧の言葉に尽くせないほど不思議の本願を疑って
疑城胎宮に止まるので、 真実報土の仏・法・僧から離れてしまうのです。

仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく

(訳)
仏の智慧や本願を疑う罪により、 懈慢界や浄土の辺地に止まるのです。
疑う罪の深さにより、 この場所で長い長い間むなしく過ごすのだと、 釈尊はお説きなさったのです。

転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり

(訳)
自力の念仏の行者が化土に止まるのは、 まるで転輪聖王の王子が聖王に背そむいた罪により、
金の鎖でつながれて牢獄に閉じこめられるようなものなのです。

自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

(訳)
自分をたのんで称名する人は、 如来の本願を信じないので、
その疑いの罪が深いから、 七宝で飾られた疑城胎宮に閉じこめられるのです。

信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

(訳)
仏智を疑う自力の念仏の行者でも、 他力信心の人に劣らないように救おうとしてくださる
如来の大悲のご恩を思い知って、 他力の称名念仏に励みましょう。

自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける

(訳)
自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、 言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、 七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。

仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

(訳)
仏智不思議の本願を疑って、 念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、 阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。

本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる

(訳)
本願を疑う行者には、 化土の蓮華の花に包まれて出られない人もいます。
あるいは浄土の片隅に生まれる者と嫌われ、 あるいは疑城胎宮に堕ちる者として捨てられるのです。

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり

(訳)
如来のいろいろな智慧を疑って、 他力の念仏を信じることができないまま、
やはり善悪因果の道理のみを信じ、 自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです。

仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり

(訳)
仏の智慧の本願を疑うので、 母の体内のような方便化土に生まれる者は、 智慧をいただくこともありません。 疑城胎宮に生まれることを牢獄に閉じこめられていると譬えたのです。

七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし

(訳)
七宝で飾られた疑城胎宮に生まれると、 五百年もの間閉じこめられて
真実報土の三宝を見聞きすることがないので、 この世に還相して人びとを救うことは全くできないのです。

辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり

(訳)
浄土の片隅の七宝で飾られた疑城胎宮にいて、 五百年もの間そこから出られないで、
自分がおこした疑いなどのとがや罪によっていろいろな厄を受け、 不安で危険な状態にいるのです。

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

(訳)
善悪因果の道理を深く信じて、 自力念仏に励んでいる人は、
本願を疑う善人なので、 真実の浄土ではなく、 方便化土に止まるのです。

弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ
 はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり

(訳)
阿弥陀如来の本願を信じないので、 心に疑いを持ち続けたまま往生はしますが、
往生した所の蓮華の花のつぼみはすぐには開かないので、 母の体内にまだいるのと同じだと譬えたのです。

ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり
 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる

(訳)
ある時弥勒菩薩は釈尊に
「どのような因縁によって、 往生を胎生・化生と区別して名付けられたのですか」 と申し上げました。

如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり

(訳)
釈尊は弥勒菩薩に、 「本願を疑う心を持ったまま
自力の念仏を励んで、 その功徳で往生しようとするために胎生するのであり、 方便化土の辺地に止まっているのだ」 とお答えになった。

仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ

(訳)
釈尊は、 「仏の智慧の本願を疑う罪により、 五百年もの間、 牢獄に
厳しく捕らえられている。 これを胎生というのだ」 とお説きなさったのです。

仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ

(訳)
仏智不思議の本願を疑って、 念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、 阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。

自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり

(訳)
自力往生の心を最高のよりどころとして、 想いや言葉に尽くせない仏の智慧の本願のはたらきを信じないので、
方便化土の疑城胎宮に生まれて五百年もの間、 阿弥陀如来の三宝の慈悲から離れ、 閉ざされているのです。

仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ

(訳)
釈尊は、 「仏智不思議の本願を疑って、 善悪因果の道理を信じて、 自力の称名によって
浄土に生まれたいと願う者を、 胎生の者というのだ」 とお説きなさったのです。

仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし

(訳)
仏の智慧の本願を疑う罪はたいへん深い。 疑う心の罪の深さを思い知るならば、
それを悔いる心でもって、 仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願におまかせしましょう。

すべて通して読まれると親鸞聖人が何を教えられているかがよく判る筈です。
すべて権仮方便である19願と20願を厳しく誡められたお言葉です。

親鸞聖人の教えを信じている人に対しては、20願でさえ、厳しく誡められているのです。況んや19願をやです。

mixiでの議論は、このまま終了となる可能性が高いので、これもこうへい氏と、そのバックにいる人に誡疑讃について教えてあげて下さい。

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2010年5月14日 (金)

善巧方便と権仮方便の意味を教えてあげてください

mixiでの議論は、中断しておりますが、中断する前にこうへい氏がいくつか質問していました。ほとんどは、これまでに何人かの方が述べられたことを理解できない頓珍漢な質問です。
方便についての質問は、これまで詳しい議論がなされていませんでしたので、念の為解説しておきます。

> 浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、
> 覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、
> 蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
> ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、
> 【18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです】。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

方便ということが全く理解されていないことから起きてきた疑問です。
方便については、少しでも調べる気になれば、解説は一杯ありますので、それを読めば理解できるのですが、高森会長の珍説を頭から信じ込んでいますので、こんな御粗末な質問が出てくるのです。

21世紀の浄土真宗を考える会」では、何回も解説がありますが、善巧方便と権仮方便のところで引用されていたものを紹介しておきます。

木村世雄氏著「『歎異抄』における真実と方便の関係」

・・・つまり方便には《善巧方便》と《権仮方便》の二種類があるというのである。
《善巧方便》
 仏・菩薩が衆生をさとりに導くために、衆生の素質や能力に応じて巧みに化する大悲の具現としての手段、方法、巧妙の智用。
《権仮方便》
 真実の法に入らしめるために仮に設けた法門のこと。方便願、方便の行信、方便化身土というようなものがこれに相当する。この方便は、一度真実に入ったならば不要となり廃されるため暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法といわれる。

と説明される。

 前者の意味での方便とは娑婆世界の衆生を証果へといざなう方法という意味であり<方便智>あるいは<権智>とも称する。要するに如来の智慧の働きを土台にして巧みな教化方法のことである。善巧方便はまた真実を知ったからといって捨て去ってよいというものではない。
 対する権仮方便は親鸞の「化身土文類」の土台でもある。権仮方便は真実を知りえないものを真実に入らしめるために一時的に用いる方便であり、真実に触れたならばそれを廃し去る方便を意味する。

 伝統的な宗学の解釈では「随自意の法門」と「随他意の法門」とに分けて善巧方便と権仮方便の立場を区別化される。

 「随自意の法門」とは善巧方便のことである。仏の自らの意にかなって用いられる教化の方法であるからそのように称される。それは大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるという意味で、阿弥陀仏を「方便法身」というときの方便がそれである。『唯信鈔文意』において二種法身が語られる方便はこの善巧方便に該当する。
 法性法身自身が法性法身とはいかなる法身であるのかを巧みに表現するために、方便法身として「形をあらはして」説明されるのが善巧方便である。法性法身と方便法身は決して別物ではなく、ただ法性と対した時に便宜的に方便と称されているだけで、方便法身は法性法身の世界に達するまでの階梯といった意味ではない。法性法身は全性修起して方便法身を全うじるものである。

 対して「随他意の法門」とは権仮方便のことであり、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受け取れないから、その機(すなわち阿弥陀仏自身から見た「他」のことで、すなわち衆生のこと)に応じて仮にしばらく誘引のために用いられる教えをいう。機が真実の法門に入ったならば、権化の法門は不要となり還りて廃せられる。このように暫く用いるが後には還って廃するような方便を権仮方便もしくは「随他意の法門」という。それは具体的には第十九願(要門)・第二十願(真門)の世界のことを指している。
『浄土和讃』「大経讃」には、

 聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

とある。
また『愚禿鈔』巻下には

 上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。

とし、ここでは定散二善の聖道行を「回心の行」と名づけることによって、遂には第十八願の信心の世界へと導かれていく雑行であるとされている。

権仮方便とは、18願を信じられず、18願の救いを願わない未熟な機のためになされるものです。18願の救いを願っている人に対しては、19願、20願の権仮方便は廃すべきものです。こうへい氏は、善巧方便と権仮方便の区別が全くないのです。
もちろん高森会長が判っていないことが元です。

真宗学のイロハも知らないようでは、議論が成立する筈も無く、都合の悪い人物を排除するのが最善の方法と判断したのでしょう。

恥ずかしい質問をしているこうへい氏に、善巧方便と権仮方便の意味を誰か教えて挙げてくださいよ。

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2010年5月12日 (水)

お知らせ

以前に

典型的な断章取義教学

のコメント欄で1会員を名乗る方が、親鸞聖人の19願を勧められた根拠として、『正像末和讃』誡疑讃の

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり

を出してきたことから、暫く議論が続きました。

信罪福心は自力であり、19願の勧めではない

実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加

のエントリーとコメント欄でのやりとりで、1会員を名乗る方は、論点を必堕無間にすり替えてきまして、この誡疑讃は、19願を勧められたものではないことで議論は終結しました。

しかし、勝他のための議論に拘る1会員を名乗る方は、必堕無間で必死の論点ずらしをしてきましたので、その後のエントリーでその反論を書き、

カルト思考の愚かさ

でその議論に終止符を打った上で、最後に

従ってまた、論点ずらしの下らないコメントを書くのでしょうから、質問に対する回答以外は荒らしとして報告し、削除します。

と書いて警告しました。

ところが本日、M野氏ではないyoを名乗る方から上記の誡疑讃についてコメントがありました。しかし、内容はすでに議論し尽くされたものであり、こちらの質問に対する回答とは程遠いもので、自分のブログへの誘導を狙ったコメントでしたので、警告通り、削除しました。

親鸞会の手口は、いつも同じです。親鸞聖人の教えを明らかにしようという気持ちなど微塵も無く、勝他のためだけに議論をしているのです。

今回のコメントは、mixiでのこうへい氏批判を逸らせたいだけでしょうから、誡疑讃の解釈について新たな展開がないコメントにいちいち対応するつもりは全くありません。

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2010年5月11日 (火)

(会長の独り言)儂は『安心決定鈔』など見たこともない

親鸞会が宿善を厚くするように教えている最大の根拠が、『蓮如上人御一代記聞書』です。
「親鸞会教義の誤り」宿善とは3に、『安心決定鈔』と『御一代記聞書』との関連について書かれています。

以下に引用します。

『御一代記聞書』の中に、宿善について記された以下の箇所があります。

一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。(234)

ここでは、「宿善」を「信心をうる」という意味で使われています。

宿善」は、親鸞聖人が御著書の中で使われたことのない言葉ですから、その時々の文章によって宿善の意味が異なることがあるようです。一般的には、宿世の善根という意味で使われますが、浄土真宗ではほとんどが、阿弥陀仏のお育てと理解され、自力的意味を排除されます。

(中略)

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(307)

このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分を、説明の都合上前後も含めて紹介します。

『安心決定鈔』本

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

『安心決定鈔』のこれらの部分は、阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについて書かれたものです。『御一代記聞書』のこの部分は『安心決定鈔』を受けられて記されたのは間違いないでしょう。内容は同じです。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり

已・今・当の三世の往生は不同なれども

ですので、
『御一代記聞書』の「宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり

に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。冒頭の『御一代記聞書』の「宿善」と共通するものです。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。


『安心決定鈔』は、親鸞会の間違いを的確に指摘しています。『安心決定鈔』は、平易な葉で書かれていますので読みやすく、読み間違いも少ないと思います。

親鸞会の教義が、悉くおかしいのは、聖教を断片的にしか読んだことがない無知からくるものと、故意に教えをねじ曲げたことからくるものがあります。しかし、そのおかしさを指摘すれば、名聞・利養・勝他のために、手段を選ばないのも親鸞会です。

mixiでのこうへい氏は、議論で徹底的に負かされたために、管理人が議論の相手を強制退会させました。実に親鸞会らしい行為で、特別驚くことでもありませんが、議論を読んでいて判るのは、親鸞会は教義だけでなく、人間性も曲がっていることです。

教義の曲がり様についてはこれまで散々述べてきましたので、読者の皆さんはある程度は御理解頂いていると思います。『安心決定鈔』は、真宗では重要視される聖教ですので、是非皆さんも読んで、更に理解を深めて下さい。

何回も読まれたならば高森会長の独り言が聞こえてくる筈です。

儂は『安心決定鈔』など見たこともない

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2010年5月 9日 (日)

かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず

蓮如上人が、「金を掘り出すような聖教」と絶賛された『安心決定鈔』に

一、自力・他力、日輪の事。

 自力にて往生せんとおもふは、闇夜にわがまなこのちからにてものをみんとおもはんがごとし、さらにかなふべからず。日輪のひかりをまなこにうけとりて所縁の境を照らしみる、これしかしながら日輪のちからなり。ただし、日の照らす因ありとも生盲のものはみるべからず、またまなこひらきたる縁ありとも闇夜にはみるべからず、日とまなこと因縁和合してものをみるがごとし。帰命の念に本願の功徳をうけとりて往生の大事をとぐべきものなり。帰命の心はまなこのごとし、摂取のひかりは日のごとし。南無はすなはち帰命、これまなこなり。阿弥陀仏はすなはち他力弘願の法体、これ日輪なり。よつて本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず。

とあります。
自力と他力を「闇夜」と「日輪」にとたえられています。難しい文章ではありませんが、簡単に説明しておきます。

自力については、

自力にて往生せんとおもふは、闇夜にわがまなこのちからにてものをみんとおもはんがごとし、さらにかなふべからず。

とあり、一方他力での救いを

日輪のひかりをまなこにうけとりて所縁の境を照らしみる、これしかしながら日輪のちからなり。ただし、日の照らす因ありとも生盲のものはみるべからず、またまなこひらきたる縁ありとも闇夜にはみるべからず、日とまなこと因縁和合してものをみるがごとし。

とたとえで教えられています。そのたとえの内容をこの後に説明されています。

帰命の念に本願の功徳をうけとりて往生の大事をとぐべきものなり。

日輪」は、「摂取のひかり」「他力弘願の法体
まなこ」は「南無」「帰命

のことです。
このことより、他力の救いとは

よつて本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。

と述べられています。
ここに「宿善の機」と書かれていますが、これは覚如上人のお言葉でいえば、「浄土教を信受する機」のことです。宿善を求めて宿善を厚くしていくというような意味ではありません。
その証拠が、最後の文です。

かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず。

念仏の他に功徳善根を求めてはいけないと結んでいます。
功徳善根を求めることは、

闇夜にわがまなこのちからにてものをみんとおもはんがごとし。

の自力の往生です。
自力は、功徳善根を求めるのです。
他力の救いには、「功徳善根を求むべからず」です。宿善になるとか、そんな話とは反対です。

『安心決定鈔』の

よつて本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。功徳善根を求むべからず。

と教えられていることを、蓮如上人は『御文章』2帖目第9通で以下のように言い換えられています。

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。
しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。
さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と書いておられます。

諸行諸善にこころをとどむべきや」と教えられたならば、素直に従えば良いのです。それをあれこれと屁理屈を捏ねる人に対して、「みづからが身をよしとおもふこころ」と親鸞聖人が仰っているのです。

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2010年5月 8日 (土)

わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり

『口伝鈔』十四章には、親鸞会では有名な、「体失不体失往生の諍論」について書かれています。全文を見てみましょう。

一 体失・不体失の往生の事。

 上人[親鸞]のたまはく、先師聖人[源空]の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信(親鸞)は、「念仏往生の機は体失せずして往生をとぐ」といふ。小坂の善恵房[証空]は、「体失してこそ往生はとぐれ」と[云々]。この相論なり。

 ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人[源空]の御前に参じて申されていはく、「善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべり」とて、かみくだんのおもむきを一々にのべまうさるるところに、大師聖人[源空]の仰せにのたまはく、善信房の体失せずして往生すとたてらるる条は、やがて「さぞ」と御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれとたてらるるも、またやがて「さぞ」と仰せあり。

 これによりて両方の是非わきまへがたきあひだ、そのむねを衆中よりかさねてたづねまうすところに、仰せにのたまはく、「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり」。

ここで法然上人が仰っているお言葉として、「宿善の厚薄」と書かれています。この意味は、前の部分を読まれればわかります。同じ教えを聞きながら、「わが根機にまかせて領解」することで、念仏往生と諸行往生と考え方が違ってくるということです。つまり、

宿善の厚い人」=「念仏往生の機
宿善の薄い人」=「諸行往生の機

ということです。これは、以前から紹介している『口伝鈔』の二章にある

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

と同じ意味で、覚如上人は「宿善」という言葉を使われています。

宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機
宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機

です。

以上をまとめますと、

宿善の厚い人」とは、18願の平生業成、不体失往生、念仏往生を信じて願う人のことであり、言い換えれば親鸞聖人の教えを信じる人のこと。
宿善の薄い人」とは、19願の臨終来迎、体失往生、諸行往生を願う人のこと。
宿善の無い人」とは、浄土仏教を信じられない、聖道仏教や外道を信じている人のこと。

といえると思います。「宿善の薄い人」と「宿善の無い人」とは、一括りにしても良いかも知れません。
親鸞聖人の教えを信じている人は「宿善の厚い人」、親鸞聖人の教えを信じられない人は「宿善の薄い人」もしくは「宿善の無い人」です。

親鸞聖人は18願1つを教えられました。それにも関わらず、善知識方の説かれたことのない「三願転入の教え」という邪説を信じて、浄土門の人も19願から出発しなければならないと考えている人は、「宿善の薄い人」でしょう。
善をすれば、宿善が厚くなるなどという教えを信じている人も、親鸞聖人の教えと根本的に相違していますので、「宿善の薄い人」です。

お聖教を信じるか、高森会長の邪説を信じるかで、「宿善の厚薄」は決まります。根機にまかせて領解した結果、高森学徒に留まる人は、残念ながら「宿善の薄い人」と言わざるを得ません。

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2010年5月 6日 (木)

かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず

覚如上人が宿善という言葉を使われている根拠として、昨日mixiの書き込みから

『口伝鈔』第二章の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を紹介しました。ここでは
宿善あつきもの」=「浄土教を信受する機
宿福なきもの」=「浄土教を信受せざる機
という意味です。

また第四章にも宿善という言葉を使われていますが、これは上記の意味とは異なっています。 長いですが、全文紹介します。

一 善悪二業の事。

 上人[親鸞]仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。
 しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

 ここをもつて光明寺の大師(善導)、「言弘願者 如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまへり。文のこころは、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫の生るることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗りて増上縁とせざるはなし」となり。されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

 これによりて、あるときの仰せにのたまはく、「なんだち、念仏するよりなほ往生にたやすきみちあり、これを授くべし」と。「人を千人殺害したらばやすく往生すべし、おのおのこのをしへにしたがへ、いかん」と。ときにある一人、申していはく、「某においては千人まではおもひよらず、一人たりといふとも殺害しつべき心ちせず」と[云々]。上人かさねてのたまはく、「なんぢ、わがをしへを日ごろそむかざるうへは、いまをしふるところにおいてさだめて疑をなさざるか。しかるに一人なりとも殺害しつべき心ちせずといふは、過去にそのたねなきによりてなり。もし過去にそのたねあらば、たとひ殺生罪を犯すべからず、犯さばすなはち往生をとぐべからずといましむといふとも、たねにもよほされてかならず殺罪をつくるべきなり。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし」。

前段は、親鸞聖人のお言葉を書かれたものです。

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

とありますように、報土往生には、過去に行ってきた善悪は全く関係がない、ということです。

中段は、善導大師のお言葉から、

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と覚如上人御自身の考えを述べておられます。覚如上人がここで仰っていることは、
宿善あつきひと
=過去世において善に励み悪を慎んできて、「今生に善をこのみ悪をおそる」人
宿悪おもきもの
=過去世において善をせず悪行を重ねてきて、「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
ということです。親鸞会でいうところの宿善の厚薄に近い意味ですが、その結論が親鸞会とは全く違います。

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

過去に行ってきた善悪、言い換えれば「宿善あつきひと」か「宿悪おもきもの」かは、往生と関係付けてはいけないということです。

更に後段に親鸞聖人のお言葉を再度紹介されて、

善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり。しかればまつたく、往生においては善もたすけとならず、悪もさはりとならずといふこと、これをもつて准知すべし

と、過去世、現在世の善悪は、往生の助けにも障りにもならないと仰っています。

つまり、親鸞会で教えているような宿善の厚薄と往生とが関係あるとする考えを、前段・中段・後段で、繰り返し破邪しておられるのです。

こうへい氏は、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が教えの物差しであると言っていましたが、覚如上人の『口伝鈔』を物差しとすれば、こうへい氏の主張は、覚如上人から邪義扱いされたものになります。

何度も言いますが、少しはお聖教を読んでから親鸞聖人の教えを語らないと、子弟共に大恥を晒すだけですよ。

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2010年5月 5日 (水)

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり(補足)

法然上人は宿善という言葉を使われていますし、親鸞聖人が解説までされた聖覚法印の『唯信鈔』にも宿善は使われています。そのことは、

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは1

に書かれてありますので、そちらを参照して下さい。

ところが親鸞聖人は御著書のどこにも宿善という言葉を使われていません。敢て使われていないと考えられます。
『教行信証』総序の

遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

『浄土文類聚鈔』の

遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。

も、宿縁と仰っています。宿善ではありません。

その理由は、宿善の「善」が過去に自分の行ってきた行為、つまり自力を獲信と関係付けようと考える人が出てくることを懸念されてのことと思われます。

これまでに何度も述べてきましたが、親鸞聖人は自力を徹底的に排斥される言い方をされています。七高僧方がそこまで仰っていない自力念仏も、罪福信じる心さえも、自力だから捨てよ、と厳しく教えられた方が親鸞聖人です。

ましていわんや、自力修善は、法然上人がすでに厳しく誡められていますので、誤解を受けるような言葉を避けられたと考えるのがよいでしょう。よく知られているように親鸞聖人は、言葉遣いには大変に気を配られた方であったことからもそれが判るというものです。

ただし、宿善という言葉は他宗でも使われていましたので、覚如上人、蓮如上人は親鸞聖人の御心を踏まえられた上で、真宗における宿善を他宗とは別に定義されたものと思われます。
ですから、覚如上人、蓮如上人は、宿善という言葉を親鸞会で説明しているような意味で使われていません。

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは2
宿善とは3
宿善とは4

に、そのことが詳しく説明されています。
親鸞会で使う宿善の間違いの典型がmixiのこうへい氏の主張です。それをsutybi氏が指摘して、こうへい氏は全く反論できませんでした。それを再度紹介しておきます。

>こうへいさん

>お釈迦様の勧められている廃悪修善の教えに従っての諸善万行は、
>信前の善の物体は、すべて、
>信心獲得した暁からの一切過去における「宿善」に含まれる、
>というのが、私の主張であります。

この根拠が、『一念多念証文』のあのお言葉ということでしょうか?

それならば、「浄土の方便の善」=「宿善

この意味が判りませんので、判るように説明をして頂けませんでしょうか。

>> 4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠
>>
>
>これは、確かに申し上げました。
>根拠は、
>
>「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)
>
>の一言で充分でありましょう。

宿世が判る判らないの話ではないです。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。
 

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。 

を受けて仰っています。
宿善の機とは、「
浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
蓮如上人の仰る「
宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

親鸞聖人がなぜ、宿善という言葉を使われなかったのか、覚如上人、蓮如上人がその親鸞聖人の御心を汲み取られてどのような意味で宿善を使われているのか、親鸞会会員は、よくよく考えてみるべきでしょう。

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2010年5月 3日 (月)

宗祖聖人や蓮如上人は信心を得たところから振り返って宿善を語られた

宿善という基本的な考え方については、紅楳英顕師の書かれた『派外からの異説について』に詳しい解説があります。ネット上でも公開されています。

「親鸞会教義の誤り」
紅楳英顕著『派外からの異説について』

宿善とは、獲信してから過去を振り返っていうことであって、それを未信の人が未来のこととして考えること自体おかしなことなのです。以下に抜粋しますので、よく読んで理解して下さい。

 そもそも宿善ということについては、私の論文にも述べているように、宗祖
聖人は、
  遇、行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『教行信証』総序)
  遇、信心を獲ば遠く宿縁を慶べ。(『浄土文類聚鈔』)

と仰せられてある。宗祖聖人が宿善とは宿因等といわず、宿縁といわれている
のは、『教行信証』も『文類聚鈔』も同じであるが、これは、その直前にある
「弘誓の強縁」(他力)の「縁」の語をうけているものと考えられる。だから、
「遠く宿縁を慶べ」とは、ひとえに他力のお育てによるところであったと慶ば
れているのである。蓮如上人も、
  遇獲信心遠慶宿縁と聖人のあそばし置れたるは、たまたまといふは過去に
  あふと云心なり。又、とおく宿縁をよろこぶといふは、今始めてうる信心
  にあらず、過去遠々の昔より以来の御哀にて今うる信心なり。(『拾遺御一代
  記聞書』)

と述べられている。信心を得たところで過去を振り返り、すべて他力のお育て
によるところであったと慶ばれたのが、宗祖聖人であり、蓮如上人である。
 この点高森親鸞会は、
  宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在
  において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来
  ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。
                          (『白道もゆ』212頁)
  まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ。イ、聴聞、ロ、
  破邪顕正。(『顕正新聞』第93号)
  真実を知らない人に真実をおしえ、求めねばならぬわけを説いているうち
  に、いや他人に説くことによって自分の聞法心も深まって来るのです。即
  ち宿善が厚くなるのです。法施は最上の布施行だからです。(『こんなことが知
  りたい』②87頁)
  真実の仏法のために浄財はすべて尊い宿善となります。この会費改正にあ
  たって進んで宿善を求めさせて頂きましょう。(『顕正新聞』第175号)

等と主張している。「過去に仏縁浅きものは現代において真剣に宿善を求めね
ばならない」とか「まず信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ」等とい
って、これから信心を得るために自力で宿善を積むことを勧めているわけであ
る。このような主張は、宗祖聖人や蓮如上人が信心を得たところから振り返っ
て宿善を語られたのと、基本的に相違しているといわねばならないであろう。
 私が論文に引用したように、大原性実師も「我々が今日弥陀法に遇い之を信
受奉行することを得し因縁となりしことを悉く宿善と称すべく……」と述べて
おられ、また『新・仏教辞典』(中村元監修)も「前世・過去世につくった善根功
徳をいう、また、人の一代に限って、今まで作った善根を指すこともある」と
出している。これらは、現在から過去を振り返っているのであって、これから
獲信のために修することを宿善といっているのではない。
 ところが、高森親鸞会は、大原師や『新・仏教辞典』の所説を、これから獲
信のために修する善のことであるかのように解釈して、「破邪顕正や財施が諸
善万行にはいるか、はいらないか」と質問してきている。私は、それらが諸善
万行にはいるかどうかは問題にしていないのであり、これから獲信のための宿
善として「破邪顕正や財施をせよ」というようなことは、宗祖聖人や蓮如上人
の上にはないと論じているのである。だから、私の意見に反論するのなら、宗
祖聖人や蓮如上人の上で、その文証を出してほしいと求めたわけである。

(中略)

 また『同書』(150頁)では、宿善があくまでも他力によるというならば、すべ
ての人の宿善が平等でなければならないといい、そして、
  本願寺は宿善の相違を認めないのであろうか、若しそうなら紅楳氏のよう
  な熱心なものもあれば、仏とも法とも思っていない人もいるという厳然た
  る事実をどう説明するのか。

と述べている。
 私は宿善の厚薄(相違)を認めないなどといっているのではない。しかし、私
がご法義を喜ぶ身にならせていただいたのは、自力の善を積んだからであると
は毛頭考えず、ひとえに仏のお導き、お育てによるものと味わっているのであ
る。
 この宿善の問題については、さらに『同書』(151頁以下)に『阿弥陀経』の
  已発願、今発願、当発願。
  若已生、若今生、若当生。

等の文をはじめ、覚如上人の
  十方衆生のなかに浄土経を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんと
  ならば『大経』の中に説くが如し、過去の宿善厚き者は今生にこの教えに
  値うてまさに信楽す、宿福なき者はこの教えに遇うといえども念持せざれ
  ばまた遇わざるが如し。(『口伝鈔』)

の文や、蓮如上人の
  陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて日
  陰の花は遅く咲くなり。かように宿善も遅速あり、されば已今当の往生あ
  り弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(『御一代
  記聞書』)

の文等を引いて、往生に遅速があるのは宿善が平等でないからであり、宿善が
平等でないことは他力ではないからであるという旨を述べている。
 この点については、すでに私の論文でもふれておいたが、本派の宗学上にお
いても、宿善自力説・宿善他力説・当相自力体他力説等と、学的見解の別れる
ところである。私は、宿善は他力と味わっているが、宿善自力というも、当相
自力体他力というも、それは獲信の立場から振り返って宿善の物体を論ずるこ
とであって、高森氏のように、これから獲信のために自力の宿善を修せよとい
うような宿善論は、先哲の説にもなく、もちろん宗祖聖人をはじめ覚如上人、
蓮如上人の上にも示されていないのである。
 高森親鸞会が引用している覚如上人の『口伝鈔』には、その文の次下に、
  しかれば往生の信心のさだまることは、われらが智分にあらず、光明の縁
  にもよをしそだてられて名号信知の報土の因を得としるべしとなり。これ
  を他力といふなり。

とあるように、覚如上人も、他力のお育てにより信を得ると仰せられてある。
蓮如上人が他力を慶ばれたことについては、今さら論ずるまでもないことであ
る。したがって、覚如上人・蓮如上人の所説に往生の遅速の問題があるからと
いって、宿善が他力のお育てによるとよろこぶことを否定する理由にはならな
いのである。

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2010年5月 2日 (日)

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり

mixiでは、こうへい氏が一部の質問に答えました。が、ぼこぼこにされています。

1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉については、

『教行信証』全体

というふざけた回答は論外ですが、もう一つは解説が必要です。

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

親鸞会の現会員、元会員の人は、納得してしまうかもしれません。しかし、大変な間違いです。
ここは、
「親鸞会教義の誤り」
宿善とは4

を読まれるといいですが、mixiの中で、sutybi氏が簡単に解説されています。

蓮如上人が仰る宿善(『御文章』3帖目第12通)

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

蓮如上人が仰っている宿善とは、『口伝鈔』の

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

を受けて仰っています。
宿善の機とは、「浄土教を信受する機」のことです。つまり、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人は、宿善の機であり、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人は、無宿善の機ということになります。
蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかです。

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」と、「浄土の方便の善」とは、直接の繋がりがないのです。

でも、

『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。

とあるから、過去に行ってきた善ではないのか、と思われる方があるかも知れません。しかし、「善本」の意味を考えられれば判られると思います。親鸞会でも「善本」とは、名号と教えています。根拠は、『教行信証』化土巻に

善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。

とある通りです。また「若人無善本不得聞此経」のお言葉を、親鸞聖人は化土巻の真門釈のところで引いておられます。要門釈ではありません。
高森会長も『会報 第三集』に

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

と書いています。参考までに「係念の宿善」という言葉は、浄土宗の鎮西派で使われるものです。
ですから、蓮如上人がここで仰っている「宿善」には、諸善の意味は含まれていないのです。

こうへい氏もそのことに気が付いて、反論できないのでしょう。もちろん、自分の非を認めることもしません。

親鸞会教学とは、単語、一つの文でしか理解していない、断章取義で貫かれています。前後の文章を読むだけで、意味が変わってきます。

宿善」については、真宗、浄土宗以外でも使われていまして、「宿世の善根」、というのが一般的な意味です。しかし真宗で使われている時は、ほとんどが「阿弥陀仏のお育て」という意味です。気を付けないと、親鸞会に騙されてしまいます。

『口伝鈔』も読んだことがない、と告白しているのですが、今や驚くことでもないですね。

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