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2010年4月12日 (月)

浅過ぎる御心も理解に苦しみます

昨日のエントリーに対して、親鸞会の会員と思われる方よりコメントがありました。またmixiでの「こうへい」氏の発言を見ていますと、このコメントと同様のことが書かれており、現在の親鸞会では、このように教えられているのかと想像しました。

高森会長が教えている三重廃立の内外廃立、聖浄廃立、真仮廃立は、阿弥陀仏に救われる一念でなされる、というものです。

三重廃立という言葉は、真宗学にはありませんので、誰かが考えたものを高森会長が使っているだけとは思いますが、それにしても突拍子もないことで、びっくりしています。

真仮廃立のことだけならともかく、阿弥陀仏に救われるまでは、外道も捨てていないし、聖道仏教も捨てていないということになりますが、それでいいのでしょうか?

深い御心は判らないといいますが、浅過ぎる御心も理解に苦しみます。

いちいち説明する必要があるのかとも思いますが、尋ねられていますので、答えておきます。

「聖道門の人」とは、聖道門の教えに従って修行をして、成仏を目指している人のことです。
「浄土門の人」とは、浄土往生を願っている人です。

何も難しい話ではありません。

どうも、19願の対機が「聖道門の人」ということに反応して、「浄土門の人」も実は「聖道門の人」だとしたいようです。実にややこしいことを考えたものです。
しかし、19願の対機を言い換えれば、「善人」ということですから、「悪人」は19願の対機ではないのです。したがって、19願の対機は限定された人になることは何も変わらず、親鸞会の矛盾は解消されていません。先のことまで考えられない浅過ぎる御心であり、愚かなカルト思考です。

「こうへい」氏もそうです。最初は何が言いたいのかよく判らなかったのですが、言葉の遊びをしているだけと判明しました。しかし本人は筋が通っていると本気で思い込んでいたようで、当ブログの読者の方から指摘されて、初めて気が付いた様子です。

親鸞会の論理を簡単に説明すれば、自分の言っていることは正しいという前提があるのだから、結論は自分の言っていることは正しい、ということです。話にならないのですが、本人はそれが正しい論理展開だと心の底から信じ込んでいます。

これでは、高森会長のマインドコントロールを解くことは、極めて難しいでしょう。

これまで何回か、真仮廃立ということについて説明してきましたが、親鸞会の理解はおかしいので、再度説明しておきます。

浄土に往生する因について3つありそれが18願・19願・20願であると親鸞聖人は明らかにされました。

この三願の中で、19願と20願は化土往生が誓われ、18願は報土往生が誓われていますので、化土往生の19願・20願を廃して、報土往生の18願を願いなさい、というのが真仮廃立です。ただし20願の自力念仏と18願の他力念仏の違いは仏智疑惑の有無であり、外見上の区別はつきません。それに20願は果遂の誓いですから、18願との関係もあり、間違えやすいのですが、19願だけは完全に別個の願です。

それと親鸞聖人は、19願の対機が聖道門の人と結論付けておられたこともありまして、浄土門の人にとって19願を最初から問題外という見方をなされています。親鸞聖人は、20願と18願との峻別に力を注がれたのです。
それは『正像末和讃』の誡疑讃で顕著です。誡疑讃は23首ありますが、19願について明確に仰ったは以下の1首のみです。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがえば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

あとは20願の誡めです。

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

などです。

ですから真仮廃立といいましても、19願を廃することは当たり前であって、20願を廃するようにと親鸞聖人は力を注がれて教えられているのです。

以上のことから、親鸞聖人が勧められるどころか、問題外と看做されていた19願を殊の外強調するのは、親鸞聖人の御著書を読んだことがないことと、親鸞聖人の教えを自己の欲望のために利用したかったのだと言えるでしょう。

カルト思考に陥って、正常な思考が全くできない講師部員、幹部会員にはそれが理解できず、救い難いといえますが、何かの縁で疑問が生じれば正常な思考回路が機能する可能性もあると信じて、ブログを書いています。

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コメント

>高森会長が教えている三重廃立の内外廃立、聖浄廃立、真仮廃立は、阿弥陀仏に救われる一念でなされる、というものです。

これはほぼ全ての会員が思っていることだと感じます。
(親鸞会的)因果の道理をいくら聞いていても「自因自果」と思えない外道の心があるから、実際は内外廃立もできていないという理屈でしょう。
それで阿弥陀仏に救われたら、内外廃立が徹底し、「自因自果間違いなしと知らされる」とでも思っているのではないでしょうか?

高森教にどっぷり浸かっている人を見ると哀れです。
管理人さんも仰っているように「自分が正しい」が前提で、根拠も論破されているのに自説にしがみついています。
「自分の信じる会長先生に間違いがあるはずがない」と信じ込んでいますから、法論をしていても、正しい教えを明らかにするのではなく、いかに相手の主張を捻じ曲げるかに目的がすり替わっています。
一度親鸞会を離れて見てみると、とんでもないものを掴まされていると痛感させられます。
早く覚醒してもらいたいものです。

投稿: 淳心房 | 2010年4月12日 (月) 23時52分

S会は、またしても珍説を作ったのですね・・。
在籍時も「三願転入は一念におさまる」などど講師に言われ、???でしたが、何でもかんでも一念の時にすべては明らかになるのだ~で押し通そうとしている感じです。だから未信のものにはわからないのだ、という理屈でしょうか。
ひどい話です。

投稿: mary | 2010年4月13日 (火) 07時33分

『一念の体験』というものへの憧れを強く持たせれば持たせるほど、それを体験した会長のカリスマ性がupupwardrightすると見込んでいるのでしょうか。
カリスマ性up ⇒ 会長崇拝・無条件服従 ⇒ なにしろ頑張る ⇒ 今生で人・金集め、新館建設etc.
                         ↓
                        宿善up   ⇒ 多生かかって獲信

投稿: | 2010年4月13日 (火) 09時04分

「信一念で聖浄廃立がなされる」とかねぇ・・・(苦笑)

S会は聖道門における「自力の菩提心」と、真宗における「自力の心」=「阿弥陀仏の本願に対する計らい、疑い」を見事に混同しているから、「こうへい」氏のようなヘンテコな理屈が出てくるんだと思います。
言葉の上では同じ「自力」でも中身も対象もまったく違いますね。
S会は浄土門にも聖道門にもなっていない、要するに外道だということがよく分かりますね。

投稿: Rudel | 2010年4月13日 (火) 10時17分

「こうへい」氏は、保身のために謗法罪も平気で造っているのですね。

あのような人間にはなりたくないと思います。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年4月13日 (火) 10時34分

「こうへい」氏は、あれでいいのです。チューリップ企画の法論と同じで、あれを見て退会者が出てくるでしょう。

決着がついているのだから、早目に逃亡しておけば傷は浅かったのに、いつまでも訳のわからない言い訳をしているから、信用を失うのですよ。

今後もおもしろい言い訳をたのむよ、「こうへい」氏。

投稿: H田K平 | 2010年4月13日 (火) 11時53分

こうへいさん、笑えます。もう少しましな誤魔化し方ができないものでしょうか。
相手が呆れているのに、自信満々でカキコしているのが、なんとも笑えます。

親鸞会もT社法論から、急速に笑いのタネになってしまいました。当の本人は、御満悦みたいですけど、やはり笑えます。

投稿: 元会員 | 2010年4月13日 (火) 17時02分

ちょっと情けないです。三願転入の話に一念をからめていこうという作戦でしょうが、19願の対機と関係のない話をすること自体間違っています。論点ずらしをさせないようにしているのは、いいことでしょう。

投稿: | 2010年4月13日 (火) 21時34分

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