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2010年4月22日 (木)

行者のはからひは自力なれば義といふなり

昨日、自力と他力について少し述べましたが、ここは非常に重要ですので、昨日紹介しました『末灯鈔』のお言葉について、再度みてみましょう。

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。

参考までに、浄土真宗教学研究所の現代語訳も載せておきます。

 浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。
 まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土の往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないということです。
 ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。

如何でしょうか。自力といいましても、いろいろあるのです。親鸞会では、信一念で、すべての自力が一度に廃るという理解をしていますが、「余の仏号を称念」することは、浄土門に入る以前の話ですし、「余の善根を修行してわが身をたの」むことも、浄土門では最初に捨てるべきものです。信一念まで、「余の仏号を称念」することを信じているとでも思っているのでしょうが、余りにも御粗末です。

自力のあるままでは、報土には往けません。自分の行いの善悪を問題にすることが、自力のはからいです。善をしたら信仰が進むとか進まないとか、19願を必ず通るのだからとか、そんな低レベルの考えは、早く捨てないといけません。

親鸞会の教義は、言葉は浄土真宗でも、意味が全く違います。敢て言えば、親鸞会の理解は日蓮宗に近いと思います。

現会員さんは、親鸞聖人の御著書も読んだこともなく、言葉の意味も何も知らない高森会長をいつまで信じているのでしょうか。
親鸞聖人の御著書を拝読しましょう。『御文章』を拝読してください。
そうすれば、高森会長が如何に無知であるかがよく判ります。

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コメント

いつも読んでいますが解説わかりやすいです。
日蓮宗に近いというのは、どのあたりでそう感じられましたか?

投稿: Rudel | 2010年4月23日 (金) 06時29分

Rudel 様

正確にいえば、日蓮宗系の団体の教えです。
「一切衆生必堕無間」とか、「絶対の幸福」「相対の幸福」は有名ですが、「因果の道理」もそっくりということを聞きました。
教えではありませんが、正本堂という言葉もそうですし、布教の方法、組織などなど。

その他あるそうですが、私も全て確認した訳ではありませんので、事細かに説明はできません。
そこまで調べる余裕もないですが。

投稿: 飛雲 | 2010年4月23日 (金) 12時02分

なるほど、確かにそうですね。ありがとうございます。
真宗では殆ど聞かない「破邪顕正」という言葉を多用したがるのも似てますね。
というかS会では、普通一般に使われる「布教伝道」という言葉の代わりにこの言葉が使われてる気がします。

おそらく会長は若い頃、真宗の教義安心を学ぶ事を疎かにして、S会拡大のために、組織論や方法論を真似る目的で(あとは会員が折伏されないように)S価学会の出版物ばかり読んで研究してたんでしょうね。
設立された時代(昭和30年代初頭)はちょうどS価学会が大々的に「折伏大行進」を行っていた時期とも重なりますし、大々的に信者を獲得して組織を拡大させる姿をみて、二番煎じを狙ったんでしょうね。
もっとも、日蓮正宗やS価学会はもとより、その宗祖たる日蓮本人の教えや思想自体がカルト的な要素を多分に含んでますから、S価の組織論や方法論など、浄土真宗の教えと整合性がとれる訳がありませんよね。
カルト化を徹底的に戒められたのが親鸞聖人であり蓮如上人ですから…。
だから「三願転入」を全面に打ち出す以前に、設立当初から、S会はそのあり方に大きな矛盾を孕んでいて、
遅かれ早かれ真宗から逸脱する運命だったんだと思います。

投稿: Rudel | 2010年4月23日 (金) 19時16分

あらためて読んでいます。
本当にその通りだな・・と、ありがたく感じます。
阿弥陀仏が名号一つで助けると、願を建て成就して下さったのに、回向して下さる名号は無視して、自分の汚い雑毒の善を差し向けて、「阿弥陀仏に助けてもらおうと思って善をやるのはよいことだ」位に思っていたことは、うぬぼれも甚だしく、恩人に泥をかける行為であったと、申し訳なく思います。
知らないとはおそろしいことですね・・・。

投稿: mary | 2010年5月 5日 (水) 15時34分

mary 様

親鸞聖人の仰ることを素直にそのまま聞いて受け止める、これが正しい同行の心構えです。

そして、そのままお伝えするのが大悲伝普化です。

投稿: 飛雲 | 2010年5月 5日 (水) 20時35分

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