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2010年4月11日 (日)

「浄土の方便の善」≠「善の実行」

昨日、『一念多念証文』の以下の御文について少し述べました。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

この「方便の善」は、浄土門の人も善をしなければならないと親鸞会では教えていますが、論理がおかしいのです。
『顕真』3月号には、上記のお言葉を挙げて、

 これら仏教で教えられる諸善万行は、『観無量寿経』に説かれる定散二善に集約される。
『観経』は、「弥陀の浄土に往生したい」と弥陀の救いを求める韋提希夫人と未来の人々(私たち)のために、釈尊が説かれたものだ。言うまでもなくそれは、善を実行させるためである。

 要ず通らねばならぬ門

 弥陀の本願一つを説くことを出世の本懐とされた釈尊が、なぜ廃悪修善をかくも勧められるのか。
 この修善の勧めが、弥陀の救いと無関係であるはずがない。
 親鸞聖人はズバリ、
「みなこれ浄土の方便の善なり」
「これみな浄土方便の要門なり」
と断定されている。
 すべては弥陀の本願(十八願)に相応させ、浄土往生を果たさせるためのご方便であったのだ。
 それは、釈迦の独断ではない。阿弥陀如来が、十方衆生を真実の十八願の救済に導かんがために、方便の十九願で「修諸功徳」と勧められているからである。

と書いていますが、「善を実行させるため」と勝手な解釈をしています。
つまり
浄土の方便の善」=「善の実行
としていますが、こんな意味である訳がないです。

昨日もいいましたし、mixiでも問題になっていましたが、親鸞聖人のお言葉を解釈する時の元になるのが御本典である『教行信証』です。『教行信証』化土巻の要門釈には、善の実行、善の勧めと解釈できそうなところは、全くありません。要門を勧められてもいません。

要門とは、聖道門の人を浄土門に入れるための門であって、浄土門に入った人が要門を通るのではありません。
たとえていえば、聖道仏教という地域から浄土仏教という地域の境界にあるのが、要門ですから、浄土仏教という地域にいる人が、要門を潜る必要はありません。聖道仏教という地域にいる人に、浄土仏教という地域に行きたいと思わせるのが、「方便」であり、「欣慕浄土の善根」なのです。

それが判れば、親鸞会の解釈が如何におかしいかが判られるのではないでしょうか。

『一念多念証文』の浄土真宗教学研究所による現代語訳を参考までに紹介しておきますので、これまでのことを踏まえて何度も読んで下さい。

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

親鸞会のトリックがお判りになりましたか?

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コメント

飛雲さんの言われる「聖道門の人」「浄土門の人」というのは、具体的にはどんな人のことですか。

山にこもれば「聖道門の人」でしょうか。

親鸞聖人の御教えを聴聞していれば「浄土門の人」でしょうか。

そうではないでしょう。

三重廃立は一念でなされる、ということが判っておられますか。

内外廃立がなされるのも、聖浄廃立がなされるのも、真仮廃立がなされるのも、信の一念だということです。

人間を「心」で分類すると、信心決定した人と、信心決定していない人の二通りしかありません。

信心決定した人だけが、真実の人であり、浄土門の人であり、仏教徒(内道の人)なのです。

信心決定していない人は、外儀の姿は千差万別ありましょうが、内心外道を帰敬しているから、外道の人だと親鸞聖人は言われています。

無意味な分類をしていると、正しい結論にたどりつけません。

「選択集」を拝読されるときも、気をつけられた方がよいです。

おせっかいですけど。

投稿: おせっかい | 2010年4月11日 (日) 23時50分

>おせっかいさん

初めて聞きました。
「教行証文類」のどこかに、そういうことが書いてあるんですか?

投稿: せくはらぶちょう | 2010年4月12日 (月) 03時12分

おせっかい 様

親鸞聖人の御教えを聴聞していれば「浄土門の人」ですよ。

三重廃立は一念でなされるなどという教えはありません。

勝手な解釈をしているから、親鸞聖人の教えがわからないのです。高森教学は真宗教学とは全くの別物です。

高森教学で話をする前に、親鸞聖人のお言葉を前後を含めてしっかり読まれて、勉強してきてください。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2010年4月12日 (月) 06時35分

よくわからないので詳しく説明してほしいのですが…。

>親鸞聖人の御教えを聴聞していれば「浄土門の人」でしょうか。そうではないでしょう。
>信心決定した人だけが、真実の人であり、浄土門の人であり、仏教徒(内道の人)なのです。

 弥陀の浄土に生まれたい、と阿弥陀仏の救いを求めて、親鸞聖人の教えを聴聞したり、念仏称えている人でも、未信なら浄土門の人ではない、ということですね。その理由を詳しく教えて頂きたいです。


>信心決定していない人は、外儀の姿は千差万別ありましょうが、内心外道を帰敬しているから、外道の人だと親鸞聖人は言われています。

この根拠はなんでしょうか?
 五濁増のしるしには、この世の道俗ことごとく、外儀は仏教のすがたにて、内心外道を帰敬せり
↑このご和讃でしょうか。高森親鸞会独自の珍しい教えだと思いますが。

親鸞聖人が「この世の道俗ことごとく」と仰っていても、「信心決定していない人は」という意味になるのは何故ですか?
また「五濁増のしるしには」とも仰っていますが?


つまりおせっかい氏の主張は
「未信の人は、親鸞聖人の教えを聴聞していても、心は外道であって、内外廃立・聖浄廃立もされていない。だから浄土の方便の善を修する対象である」
ということでしょうか?

投稿: ちょこぼ | 2010年4月12日 (月) 09時08分

おせっかい様の主張は、未信の親鸞会会員(親鸞学徒)は外道ということでしょうか。

投稿: alex | 2010年4月12日 (月) 20時26分

なんと申しましょうか、憐れみを感じます。

投稿: 飛雲 | 2010年4月12日 (月) 22時00分

五濁増のしるしには
とあると、時代が限定されると言いたい人がいるのでしょうか?
阿弥陀経にあるとおり、釈迦の時代から五濁です。

それと、三重廃立を論ずるときは、
教相と信相で分けて理解したり、
外義と内心で別々に解説したりすれば
どちらの立場も通らない話ではありません。

信心決定が目的で説かれる教えを、
信心決定していなくても、その教えを信じていることになるものでしょうか。
心かもっとも大事というのは、このことではないでしょうか。

外義は浄土門でも、
その目的にかなっていない人
救われていない人
は、
廃立できた人でしょうか。

真宗の門におきてはいくたびも廃立を先とせり。
覚如上人

廃立為先、信心為先とも言います。
廃立が完成するとは、信心が完成することに他なりません。

廃立の意味も知らず邪義に迷わせる者、
血涙を流して覚如上人に懺悔せよ。

投稿: アンチKKK | 2011年8月16日 (火) 22時40分

三重廃立の
三重
とは
三回別々の
廃立ということではありません。

五重の義


がそうであるように、
バラバラに五つあっても往生はできません。

そうすると三重廃立
という言葉、
厳密なものであると讃嘆せずにおれませんね。

投稿: アンチKKK | 2011年8月16日 (火) 22時46分

追加

廃立肝要とも言われるのは、
これも一貫したものですね。

これは言わずにおれない。

肝要とは、親鸞聖人の
教えで、これ以上ない重いお言葉であるからです。

三回にわけて廃立がある人とは、
まさに唯一絶対、一味平等の他力の信心を、
三通りの他力信心があると言っているようなものです。

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の三方と違うと自白なされた方ですね。

真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。
覚如上人

投稿: アンチKKK | 2011年8月16日 (火) 22時59分

アンチKKさん

お久しぶりです。真偽検証での質問に全く答えてもらっていませんが、お忘れですか?

批判だけして結局根拠は出せないアンチkkk氏
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-511.html

安心問答でも、あなたの主張の根拠について尋ねると沈黙

会長「19願も、20願も欲生我国とあるから皆18願に向かっている」(5月8日二千畳座談会参加者より頂いた情報より)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110512/1305148957

自分の言ったことに対する説明さえできない無責任な人物が、真宗の教義について語る資格はないです。

今回も同様の結果となるでしょうが、一応質問してみます。

1.三重廃立のお聖教上の根拠。
2.信一念まで、外道、聖道門を捨てることができないと仰った善知識方のお聖教上の根拠。


あなたの挙げたお聖教上の御文について、理解できないでしょうが、簡単に解説しておきます。改邪鈔に

しかるに聖道門のなかに大小乗・権実の不同ありといへども、大乗所談の極理とおぼしきには己身の弥陀・唯心の浄土と談ずるか。この所談においては、聖のためにして凡のためにあらず。かるがゆゑに浄土の教門はもつぱら凡夫引入のためなるがゆゑに、己身の観法もおよばず唯心の自説もかなはず、ただ隣の宝をかぞふるに似たり。これによりて、すでに別して浄土の一門を立てて、凡夫引入のみちを立せり。龍樹菩薩の所判あにあやまりあるべけんや。
真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。
「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよとなり。
「立」といふは、すなはち、弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。

とある「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。」を断章取義していっていますが、これは「聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道」という考え方を捨てよと教えられたのです。一般の真宗門徒で、こんな考え方をしている人はありません。聖道門の中の一部に、阿弥陀仏の本願があるというのが聖道門の考え方です。それを否定されたのが「真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。」です。
覚如上人が、当時蔓延っていた邪義について正されたのが改邪鈔です。親鸞聖人の教えられたことを正しく理解していた人に、お前も同じ邪義を抱えているぞ、と仰って書かれたものでないことは、文章を読めば誰でもわかります。親鸞会の会員は文章を読んでいないから、分からないだけです。

意味も知らないのに、偉そうにいうものではありませんよ。過去の恥を上塗りするだけのことです。

正像末和讃の

五濁増のしるしには
 この世の道俗ことごとく
 外儀は仏教のすがたにて
 内心外道を帰敬せり

これも、次の御和讃

かなしきかなや道俗の
 良時・吉日えらばしめ
 天神・地祇をあがめつつ
 卜占祭祀つとめとす

のことを仰っています。形の上では真宗門徒といいながら、占いを信じている人のことを言われたものですが、占いを信じていない人は、「外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり」に当たりませんが、それくらいのことも説明しないといけませんか?

なんでも適当なことを言えば、相手が黙ると思ったら大間違いですよ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年8月17日 (水) 03時57分

アンチKKK 様

自分では筋が通っているつもりなのかもしれませんが、全く頓珍漢で支離滅裂なコメントですよ。

三選の文

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

これも理解できないようでは、話になりません。
最初の

しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし

は、聖道門を信じている人に対して、浄土門を信じなさい、と仰ったお言葉です。七高僧方は、同じことを教えられました。
親鸞聖人の要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

も共通しています。
外道 → 聖道門 → 要門 → 弘願
という、【弘願を信じ求めることのできない人の道程】を仰ったものです。
アンチKKKさんの論理ならば、
外道 → 聖道門 → 要門
はない訳です。もっと言えば、三願転入もない訳です。19願から20願を通って、というのがないのですから、高森会長の邪義とも異なりますよ。

何でも言えばいいと思っているのでしょうが、単なる恥さらしにしかなっていませんよ。

根拠のない妄想を垂れ流すあなたが懺悔すべきですが、違いますか?

投稿: 飛雲 | 2011年8月17日 (水) 06時04分

私のコメントは通りすがり的に書いたので、法論する気でしたら、認識違いになり、もうしわけないです。

改めて、聖人90年の教え、長時間かける根気がなければ法論もなにも決着しないと知らされます。

最低限の言葉のみ、挙げました。お察しください。

この反省も込めて、今後は土俵を移すか、
少なくともコメント欄で挑み続けるつもりはありません。


こちらは散心なもので、
今日は気がむいたところをひとつ伺いたい。

これをもって、おのずと反論でもあります。

廃立の「立」は、「信を立てよ」という意味と理解をしているのですか。
それとも、「立宗」のような(イコールとも言いませんが)
信をえることはできておらずといえども、浄土真宗の枠組みの中に入れば「立」だという意味か。


そして、「廃」と「立」は、一対の関係か。

「未信といえど、聖道をすてた人」にも、
真宗ではいくたびも聖道を捨てよ、ということを先とするのか。
そうだとすれば、なぜか。


聖教の意味は、その人の信心によって変わります。

観法を通る気のない者に、自己を見つめる罪悪観の話はわからぬでしょうが、
雑行雑修自力の「雑」は、自力の心のことだが、「通雑」の義があります。
臨終の心の動乱に、クリスチャンが念仏したり、無神論者がアーメンと言い出したりするように
罪悪に懼れる自力の迷心は、信に惑い行に迷い、それは五雑行にも及ばないとは限りません。
外道へもまた然り。

善悪総じてもって存知せず、是非も邪正もわからぬ、
さるべき業縁の催せば如何なる振舞もする自力の実態。

十方衆生、誰もみな他力に入るまで自力なのであるから、
その自力の心は雑修にも雑行にも通じており、五雑行でも外道でも
さるべき業縁を回避し難いのです。

重複しますが、「心が問題」です。
「欲生我国」も、「心」であり、「信心」です。
報土は無理だからと化土往生だけ願う自力の信心などということはないのです。
間に合うかどうかは違っても、「他力の信心」と共に、報土往生を欲する心です。

こんな短い言葉で解説終えるつもりなのではありません。
この文章への反論もされるつもりならそうですが、これまでのすれ違いからも、
深遠な親鸞聖人の教えを一言二言で決着できると思うとしたら、
難信の法ということを知らぬのだと、自戒も込めて、共通認識とさせて頂きたい。


ふかく後生大事に思う人には、得るところがあるだろうと念じてのことです。

主催者の想像とは目的違いで書いたため、そういう使い方をさせてもらったという点では、失礼を。

自力の心の実態を観ずれば、先に提示した覚如上人の「御心」も、通じてゆくことでしょう。

廃立を先とせよ、という言葉で、この覚如が聖道を捨てよと教えたことが、
信心決定せよという意味を持たない、としか受け取れないのか、と。

投稿: アンチkkk | 2011年8月18日 (木) 06時01分

アンチKKKさん

こちらの質問は無視ですか?

(再掲)
真偽検証での質問に全く答えてもらっていませんが、お忘れですか?

批判だけして結局根拠は出せないアンチkkk氏
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-511.html

安心問答でも、あなたの主張の根拠について尋ねると沈黙

会長「19願も、20願も欲生我国とあるから皆18願に向かっている」(5月8日二千畳座談会参加者より頂いた情報より)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110512/1305148957

自分の言ったことに対する説明さえできない無責任な人物が、真宗の教義について語る資格はないです。

今回も同様の結果となるでしょうが、一応質問してみます。

1.三重廃立のお聖教上の根拠。
2.信一念まで、外道、聖道門を捨てることができないと仰った善知識方のお聖教上の根拠。

あなたの妄想による解釈など読む気にもなりません。お聖教上の根拠を出して下さい。
改邪鈔のお言葉について、私は廃立について解説をしました。それに対しては具体的な反論はなしということでいいですね。

「心が問題」といいますが、親鸞会では未信の人は皆同じと考えるのが浅はかです。
このブログでも述べられているように、

外道を信じている人
聖道門を信じている人
19願を信じている人
20願を信じている人
18願を信じている人

これだけの違いがあります。同じ未信でも、18願を信じている人と外道を信じている人とは、雲泥の差があります。外道を信じている人が信心決定するまでには、多くのものを捨てなければなりません。外道の神をすて、外道の教えを捨て、仏を信じ、浄土を信じるということが必要ですが、18願を信じている人には、これらのハードルは既にクリアしているのですから、最後まで残った自力を捨てさえすればいいのです。
自力と言っても信前に捨てられるものも多いです。

末灯鈔

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。

聖道門を信じている人にとっては、「余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ」という自力がありますので、浄土門を信じるようになれば、、「余の仏号を称念し」は捨て去ります。18願を信じている人には、こんな心は最初からありません。

19願を信じている人は、「わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふ」という善にこだわる心を捨てなければ18願を信じることはできません。

20願を信じている人は、

化土巻・真門釈

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

という因果の道理を信じて念仏を称える心を捨てなければなりません。18願を信じている人との違いは微妙ですので、信前の同行を20願の行者と呼ぶ学者がいるのも、一理あるところです。


自力の心がどんなものかも知らず、お聖教の根拠に基づかないあなたの妄想をいくら述べられても無意味ですよ。

法論する気があるなら、

mixiの「信仰と対話」コミュニティ内「*「三願転入」議論継続トピック*」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313

にくればいいですよ。ただし、妄想を並べるだけなら、相手にされないでしょうけどね。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年8月18日 (木) 07時36分

アンチKKKさん

「廃立肝要」って
誰のお言葉?

投稿: ついでに質問 | 2011年8月18日 (木) 22時45分

反論になっていないと思うのはお互いのようです。

それほど酷な人格批判がないだけ有難いとおもいました。

質問が多いですが、廃立の二字さえあきらかになれば
問題にならない疑問が多いようです。

上記反論で、五雑行と、諸善を雑行と言われるものとを混同しているようですが、種々の立場が異なるために止むをえないのでしょうか。

善導大師と親鸞聖人の雑行釈は、全く同じではないはずです。

行をやめよと言われるものと行をやめよといわれないものとがある。

三世流転の本源は、自力の迷情ひとつ、ということを押さえて解説しているようには思えない、というか、たよりないといったら失礼でしょうか。

論破するには、破られる側にも教学が必要なので。

中々捨てさせられない訳です。


散乱の心が凝らせたら、
またここで解説するかも知れません。

実際にお会いしたら人間としては仲良くなれるかもしれないともおもいますが、
悪縁を避けたいことは、お察しください。

失礼か知れませんが、私はこれらのサイトの一生懸命な読者では、
断じてありませんので。

投稿: アンチkkk | 2011年8月20日 (土) 08時15分

補足


生死流転の本源は唯一であり、他にはありません。

本願疑惑心ひとつなくならない限り
弥勒といえど迷いの衆生です。

さとりの退転はなくても、どんな悪道に沈んでもおかしくないのです。

弥陀の救いにあってさえ、地獄は一定と聖人は告白されている。

少しく善人になると思っているのと、勘違いしている「心」がないか、
禅定されたら良いかと。

さるべき業縁のもよおせば、いかなる振舞もすべし

といわれながら、
信前でもこんなことは絶対にしなくなる、
というお言葉があれば、どうぞ。

投稿: アンチKKK | 2011年8月20日 (土) 08時23分

補足


生死流転の本源は唯一であり、他にはありません。

本願疑惑心ひとつなくならない限り
弥勒といえど迷いの衆生です。

さとりの退転はなくても、どんな悪道に沈んでもおかしくないのです。

弥陀の救いにあってさえ、地獄は一定と聖人は告白されている。

少しく善人になると思っているのと、勘違いしている「心」がないか、
禅定されたら良いかと。

さるべき業縁のもよおせば、いかなる振舞もすべし

といわれながら、
信前でもこんなことは絶対にしなくなる、
というお言葉があれば、どうぞ。

投稿: アンチKKK | 2011年8月20日 (土) 08時23分


念のためですが、
ついでに
雑行をすててから
雑修をすてて、
そのあとで自力を捨てるのだ
と誤解している人は、多くないでしょうか。

あなたを支持する人にも、そんな誤解ある人がないか
心配になりませんでしょうか。

もし順番に捨てていって、それで救われる、
というのであれば、その根拠も、お示しを。

投稿: アンチkkk | 2011年8月20日 (土) 08時27分

アンチKKKさん

あいかわらずの根拠のない妄想ですね。
私は根拠を挙げて説明しています。どこがどのように間違っているかを、根拠を挙げて説明してもらわなければ、単なるあなたの妄想です。

質問をされる前に、まずこちらからの質問の1つでも答えられたら如何でしょうか。

親鸞会のやり方は、質問に答えないで、質問をし続ける。根拠いのない妄想を書き続けてそれが答えだと主張するが、ではその根拠はと尋ねると答えない。

何なんですかね。議論以前の問題ですけど。

雑行については、このブログで詳細に解説されています。
読む気がないのか、理解したくないだけのことでしょうが、
親鸞会で分けている諸善万行と五雑行は、同じ雑行として同列にしてしか善知識方は仰っていません。

このブログでも

みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-48aa.html

でも書かれてあります。以下引用。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

親鸞聖人は『一念多念証文』で、

「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰っています。「余の善」と「余の仏」とは同格です。

蓮如上人も『御文章』2帖目第9通で、

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と教えられていますように、「一切の諸神・諸仏・菩薩」と「万善万行」とは同格です。
諸善に向うことも、諸神・諸仏・菩薩に向うことも共に”雑行”です。諸神・諸仏・菩薩は、親鸞会でも最初に捨てよと教えていますが、獲信のために諸善をせよ、といいます。

雑行は獲信の一念で捨てさせられるのならば、諸神・諸仏・菩薩も獲信までは捨てることができず、五雑行が問題になっていない会員には、問題になるまで五雑行を勧めねば筋が通りません。

寝ているものに転んだということがないように、五雑行をしていない者に、五雑行を捨てたということはありません。

とは絶対に言いませんが、おかしいですよね。仏教では、阿弥陀仏以外の諸仏に礼拝、称名、讃嘆、供養することも勧められていますので、諸善万行だけを獲信と関係付ける理由が見当たりません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

意味解りますか?
浄土門に入ったときには、阿弥陀仏以外の諸仏に礼拝、称名、讃嘆、供養することは行も心も捨て去っているのです。もちろん、他宗教の神を信じる心も行も捨て去っています。
当たり前のことです。

高森会長が

19願 → 20願 → 18願

と説明しているのも嘘だというのが、あなたの理解ですね。
あなたの理解では

外道
聖道門
19願  → 18願
20願


つまり三願転入を否定されていることになります。

高森会長は、「19願から20願に入って」と説明しているのですからね。

あなたがされるべきことは、これまで無視し続けている質問に対する回答をすること。
その上で、私がこれまで挙げた根拠に対してのあなたの解釈をのべることです。


それと、法論の場を用意するようにあなたが要望したから、mixiへ行きましょうとと誘ったのに、これも無視ですね。

親鸞会は、議論のルールというものを守ったためしがありません。

口先だけの威勢の良さは、負け犬の遠吠えとしかみなされていませんよ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年8月20日 (土) 13時15分

アンチKKKさん

これまでの質問をまとめておきます。簡単にお答え頂けると思いますので、早急にお答えください。


1.逆に『御文章』のどこから往生・獲信のために私達に19願が必要という意味をひろってくるのか、蓮如上人が仰っている『本願』を「三願」と読める所は具体的にどこなのか?


2.19願がすべての人に必要と仰った根拠は、皆無です。ただ親鸞会理論で言えば、19願の「十方衆生」だけですが、善知識方を含めて、聖道門の学僧でさえも、「十方衆生」とあるからすべての人に19願が必要、と言われた方はありません。あるなら教えて下さい。


3.三重廃立のお聖教上の根拠。


4.信一念まで、外道、聖道門を捨てることができないと仰った善知識方のお聖教上の根拠。


5.「廃立肝要」は誰のお言葉?

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年8月20日 (土) 13時26分

アンチkkkさまへ

貴方が何をおっしゃりたいか、さっぱり理解できません。
申し訳有りませんが、冷やかしてコメントされるなら他へ行ってください。
皆さんの質問に答えられないなら、読むだけにしてください。

よろしくお願いします。

投稿: とくよしみね | 2011年8月22日 (月) 21時48分

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