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2010年4月

2010年4月30日 (金)

他力には義なきを義とす

行者のはからひは自力なれば義といふなり」のところで、『末灯鈔』の

如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。

を紹介しました。法然上人の「他力には義なきを義とす」というお言葉を、親鸞聖人は上記以外でも何回も使われています。

『正像末和讃』

聖道門のひとはみな
 自力の心をむねとして
 他力不思議にいりぬれば
 義なきを義とすと信知せり

「自然法爾章」
「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。

『三経往生文類』

これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。

『如来二種廻向文』

「他力には義なきをもつて義とす」と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。

『末灯鈔』

すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。

つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

『御消息』

また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。
かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。
他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。

親鸞聖人はこのように好んで使われたお言葉ではありますが、法然上人は頻繁に仰ったとは必ずしもいえません。現在確認できるものでは、

「護念経の奥に記せる御詞」の

浄土宗安心起行の事、義なきを義とし、様なきを様とす。浅きは深きなり。只南無阿弥陀仏と申せば、十悪五逆も、三宝滅尽の時の衆生も、一期に一度善心なきものも決定往生遂るなり。釈迦弥陀を証とす。

だけです。他にもあったという記録はありますが、現在では不明です。親鸞聖人は、これこそが捨自帰他を表す最適のお言葉であると思われたのでしょう。

行者のはからいは自力であり、はからいのないのが他力なのです。
はからいとは、もちろん阿弥陀仏の救いに対してのことです。18願に誓われていないこと、成就文で教えられていないこと、善知識方の仰っていないことを、これが正しい教えなり、と考えることは”はからい”以外の何物でもありません。

他力には義なきを義とす

こうへい氏のような屁理屈は一切不要です。教えられたことをそのまま受け取るのです。

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2010年4月27日 (火)

捨自(自力無功)帰他(他力全託)

mixiでの三願転入の議論は決着していますが、自力のことについて論点をずらしたいこうへい氏がしつこく書いていますので、親鸞聖人のお言葉から、自力について再度まとめておきます。

下手な解説を加えるよりも、そのまま読まれた方がよろしいとは思いますが、参考までに現代語訳を付けておきます。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

『一念多念証文』

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。

『末灯鈔』

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。

『教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

親鸞聖人は自力についていろいろの言い方をされています。

・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す

かなり具体的なところまで言及されています。最後の「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」は、親鸞会の教えと真っ向から対立するものです。

自力が廃るまでは「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す」が正しいのだ、と主張するでしょうが、そんなややこしいことをどこにも仰っていません。捨てよ、といわれたら、捨てればいいのです。それを、どうこういっているのが、「あしきこころをかへりみる」です。

自力を捨てるのは最後は阿弥陀仏のお力ではありますが、自分で捨てられるものは素直に捨てるのです。捨てようと思ってもどうしても捨てられない自力を阿弥陀仏にお任せするのです。それが捨自(自力無功)であり帰他(他力全託)なのです。

愚者になりて往生す」とは、そういうことだと味わっております。

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2010年4月25日 (日)

浄土宗の人は愚者になりて往生す

mixiでの三願転入の議論が事実上終了しました。こうへい氏は自分の主張の説明もせず、解釈が普通でないことに対する説明も裏付けも全くなく、一方的に質問をし続けましたので、こうへい氏との議論を打ち切ったということです。

最後にこれまでの議論の流れがまとめてありましたので、紹介しておきます。

もともと議論の中心は、要門釈のお言葉に対する解釈の違いです。

143においてこうへいさんの

>御本典の「化土巻」の要門釈に19願をお話しくだされている
>「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
>阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。」

>と言われている「群生海」とは、19願文の「十方衆生」です。
>19願の相手は、「群生海」なのです。
>明らかに、
>19願の対象は、「迷えるすべての人」と言われていると思います。

との発言から19願の対機の議論が始まりました。
それに対してるぅでるさんが172で

>「しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
>真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、
>虚なるものははなはだもつて滋し。」

>あなたが引用した要門釈のお言葉の前半部分がこれです(僕も引用したとおりです)。ここが抜けているから、そのようなおかしな疑問が出てくるのです。
>このお言葉の意味は、

>外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、
>実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり堅出堅超に入るといえども、真実のものは
>はなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

>そして次の

>「ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく
>諸有海を化したまふ。」

>に続くのです。
>ですから、要門釈のお言葉で「聖道門の人が対象」と親鸞聖人はハッキリ仰っているのです。

と反論され、その後『平等覚経』『大阿弥陀経』『選択本願念仏集』『西方指南抄』『尊号真像銘文』を根拠として加えられました。
るぅでるさんの解釈は、るぅでるさん独自のものではなく、『真宗大辞典』等にも代表されるように、先哲方に共通したごくごく「普通」の解釈です。

親鸞聖人は、19願を聖道門の人を浄土門に誘引する願とみられ、浄土門の人に対しては、化土往生を誓われた願であるから18願を願いなさい、としか仰っていないとるぅでるさんは主張されています。

しかし、こうへいさんは、るぅでるさんとは【解釈が異なる】と言われて、どこがどう違うのか説明をされずに出された根拠が、『一念多念証文』でした。

そこで、るぅでるさんは『教行信証』化土巻をもとに、先哲方と同じ「普通」の解釈をすれば、『一念多念証文』のお言葉はるぅでるさんの主張の正しさを証明するものでしかありません。

それに対してこうへいさんは、【解釈が異なる】といわれるのみで、どこがどう異なるのか一切説明されません。

また、『一念多念証文』の「方便の善」とは「宿善」とこうへいさんは解釈されましたので、私が『教行信証』化土巻の「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」というお言葉を挙げて、「宿善」という意味ではない、と説明しましたが、こうへいさんは、【解釈が異なる】といわれるのみで、やはり説明されません。

一方、根本的な問題としてこうへいさんが「親鸞聖人の三願転入の教え」と度々言われましたので、法然聖人、覚如上人、蓮如上人も三願転入については全く仰っていないし、親鸞聖人も御自身の体験として『教行信証』化土巻にのみ仰っているだけなので、「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉を示して下さい、との度重なる質問には、【一切無視】です。

こうへい氏は、得意(?)になって、未だに捨自帰他について質問し続けていますが、こうへい氏は、自力の意味さえも「普通」ではないので、最早、言語が異なっていると表現した方がよいと思います。同じ漢字を使っても、日本語と中国語では意味が異なることがあります。その状態です。

親鸞聖人は『御消息集』の中で、法然上人のお言葉を紹介しておられます。

文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」

学者ぶった議論をして、いかにも賢そうに振舞っている人に対して、往生はどうであろうか、と法然上人が仰ったそうですが、これはまさにこうへい氏のことでしょう。賢そうに振舞ってはいますが、殆どが根拠のない空論でしかないところは、「文沙汰して」とは言い難いかもしれません。

親鸞会出身者は、言語の違いを修正するのに時間が掛ると思いますが、直接、お聖教を読むことで、少しずつ正しい意味が判ってくると思います。当ブログでも、そのお手伝いができるように、多くの根拠を挙げて説明していきたいと思っています。

もう一つの法然上人のお言葉

浄土宗の人は愚者になりて往生す

とありますように、善知識方の仰ったことを、素直に、そのまま受け取ることが大事です。

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2010年4月22日 (木)

行者のはからひは自力なれば義といふなり

昨日、自力と他力について少し述べましたが、ここは非常に重要ですので、昨日紹介しました『末灯鈔』のお言葉について、再度みてみましょう。

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
 しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。

参考までに、浄土真宗教学研究所の現代語訳も載せておきます。

 浄土真宗の教えでは、往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあります。このことはすでにインドの菩薩がたをはじめ、中国や日本の浄土の祖師がたが仰せになっていることです。
 まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土の往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然上人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないということです。
 ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。また自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。

如何でしょうか。自力といいましても、いろいろあるのです。親鸞会では、信一念で、すべての自力が一度に廃るという理解をしていますが、「余の仏号を称念」することは、浄土門に入る以前の話ですし、「余の善根を修行してわが身をたの」むことも、浄土門では最初に捨てるべきものです。信一念まで、「余の仏号を称念」することを信じているとでも思っているのでしょうが、余りにも御粗末です。

自力のあるままでは、報土には往けません。自分の行いの善悪を問題にすることが、自力のはからいです。善をしたら信仰が進むとか進まないとか、19願を必ず通るのだからとか、そんな低レベルの考えは、早く捨てないといけません。

親鸞会の教義は、言葉は浄土真宗でも、意味が全く違います。敢て言えば、親鸞会の理解は日蓮宗に近いと思います。

現会員さんは、親鸞聖人の御著書も読んだこともなく、言葉の意味も何も知らない高森会長をいつまで信じているのでしょうか。
親鸞聖人の御著書を拝読しましょう。『御文章』を拝読してください。
そうすれば、高森会長が如何に無知であるかがよく判ります。

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2010年4月21日 (水)

みづからが身をよしとおもふこころをすて

mixiで、こうへい氏は自己の主張を説明することさえ放棄して質問を繰り返すという、親鸞会のいつもの汚い論法を続けています。相手が呆れて退散するまでやり続けるのでしょう。教義だけでなく人間性までも崩壊しています。

ところで、こうへい氏がしつこく質問している「捨自帰他」について、今日は親鸞聖人のお言葉が紹介されていました。

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり、煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。(唯信鈔文意)

浄土真宗教学研究所の現代語訳では、

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無碍光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

とあります。親鸞会の心得違いを親鸞聖人が痛烈に非難されているものと思うのは私だけではないでしょう。
先哲の解釈を問題外と切り捨てる「自分自身を是とする思いあがった心」をもった親鸞会は、親鸞聖人が仰る自力の意味など、到底理解できる筈もないでしょう。

これ以外に親鸞聖人が自力について説明しておられるところは、

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文)

それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。(末灯鈔)

「他力には義のなきをもつて義とす」と、本師聖人(源空)の仰せごとなり。「義」といふは行者のおのおののはからふこころなり。このゆゑにおのおののはからふこころをもたるほどをば自力といふなり。よくよくこの自力のやうをこころうべしとなり。 (尊号真像銘文)

などです。
三願転入という概念にいつまでも囚われているばかりか、それを「教え」としているのは、歴代の善知識方も教えられなかった「教え」を説く、歴代の善知識方よりも勝れたことを教えているんだという「みづからが身をよしとおもふこころ」です。とんでもない自惚れです。

また、以前にも紹介しましたが、

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(教行信証化土巻)

と仰っていますように、因果の道理を信じて救われようとすることまでも、自力であると厳しく誡められています。

以上の親鸞聖人のお言葉を理解すれば、『本願寺なぜ答えぬ』にある

「獲信の因縁に、善をすすめる親鸞会は、間違いだ。
修善のいらぬ真宗に、善をすすめる文証など、あろうはずがない」
 耳目を疑う、本願寺の非難に、文証をあげて、親鸞会は、次のように、答えてきた。
"汝は、修善をすすめる弥陀仏の、十九の願を、お忘れか。
定散二善をすすめた観経の、釈迦の教説をしらざるや〟と。
 でなければ、本願寺サン。
"弥陀の十九願や、定散二善は、獲信の因縁として説かれたもの〟と、まだ、ご存知ない、としか考えられぬ。

などは、親鸞聖人と真逆のことを教えていることがお判り頂けると思います。

どこまで親鸞聖人の教えを曲げれば気が済むのでしょうか。

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2010年4月19日 (月)

今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず

mixiでは相も変わらず、こうへい氏が言い訳をしています。実に親鸞会らしい言動です。
未だに聖道門は、信の一念まで捨てられないということを言いたいようです。
何度も聖道門について書いているのは、そのためですが、理解力のない人物のために、もう暫くお付き合い下さい。
親鸞聖人は、聖道門と浄土門の違いについて、これまで挙げてきた根拠以外にも、仰っています。その1つがmixiに紹介されていました。

『教行信証』化土巻

また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む、すなはちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽す、すなはちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず。縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到りをはりて、さらに畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして、自利利他具足せざることなしと、知るべし

この解釈を梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』より引用

 つぎに「また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む」等といわれたのは、四修釈の結文である。はじめに「菩薩はすでに生死を勉れて」と訓点されているように分段生死をはなれている初地以上の大菩薩の自利利他の行相を挙げて、聖道門は、このような大菩薩であってはじめて如実に実践できる仏道であると示されるのである。それにひきかえ「今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず」といって、それは末法濁世の凡夫には堪えられない難行であることを知らせ、「縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん」と、聖道を捨てて易行易修の浄土門に帰し、往生浄土を期すべしと勧められている。しかしその「縁に随ひて起こした行」は、『法事讃』下に「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし」といわれた「随縁の行」であるから、無為涅槃界である報土の因となる本願の行ではなくて、化土の因でしかない定散行を勧められていることがよくわかる。したがってこれは『観経』の顕の義、すなわち要門が聖道門の機を浄土門へと導いていく有様を具体的に示された文であったといえよう。

菩薩の歩む道とは、聖道門であることは、親鸞聖人のお言葉からも明らかです。
『大無量寿経』19願の「十方衆生」にあたる『平等覚経』『大阿弥陀経』の部分には、「作菩薩道者」とありますので、19願はまさに聖道門の人を浄土門に導くための願です。

また同じ梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』より以下の部分が引用されていました。

 親鸞聖人が第十八願・第十九願・第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であって、古今に例を見ないところである。
(中略)
 ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』巻一に、

 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、
 況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。
 又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、
 二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、
 五つには唯除有無の異これなり。

といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、ただ名号の流布のみを強調されているということは、第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠であるというのである。そして、さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。
(中略)
 五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「若不生者」の釈につづいて、

 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、
 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ
 して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

といわれている。これによって第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり、正法を誹謗するような、極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。これに対して第十九願・第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、いずれも善人のみを所被の機とされていて、逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との違いが明らかになるというのである。このようにして生因三願を対照すると、第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており、第十九願・第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるのである。どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。
(中略)
 第十九願・第二十願は、自力の執着がふかく、罪(悪)福(善)の因果に則った廃悪修善の教えは信じても、善悪を超えた他力不思議の救いを受け容れることが出来ない未熟のものを育てるために施設された権仮方便の教えであるというのが親鸞聖人の領解であった。特に第十九願は、聖道門の機を浄土門に誘引するために諸行往生を誓われた方便の誓願であり、第二十願は、諸行往生の機を自力念仏の機に育て、さらに第十八願の他力念仏に入れしめるための方便願であるといわれている。

19願要門の対機について説明されたものです。悪人にとりましては、聖道門は「今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず」で難しいのですが、19願さえも対機ではないのです。19願からも漏れているのです。

当ブログの読者の方々の主張は、これらにも一致していますので、普通の解釈といえるでしょう。

しかし、こうへい氏は、誰がどんな解釈をしようがお構いなしで、親鸞会教義が正しいのだから正しいのだという論理展開です。

上から目線でしか話ができませんので、まともな議論は成立しないでしょう。

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2010年4月17日 (土)

聖道門とは

前回、親鸞聖人が聖道門についてどのように見られていたかを簡単に述べましたが、もう少し解説したいと思います。

『末灯鈔』に

聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。

と親鸞聖人は仰っています。聖道門とは、仏になられた方が還相の菩薩となって、わたしたちを導こうとされているものと位置付けられています。具体的には、禅宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗・法相宗・成実宗・倶舎宗及び小乗と仰っています。一般的に言われている聖道仏教です。
仏智を持たれて従果降因された菩薩が、様々な姿となって、自力に執着している人を調育誘引していかれると親鸞聖人は見られているのです。聖道仏教とは、浄土仏教とは別のものではありますが、浄土仏教へ導くための教えと親鸞聖人は仰っているのです。

阿弥陀仏と諸仏方が、聖道門から要門へ、要門から弘願へと導かれるのです。これを権仮方便といい、『教行信証』化土巻では、

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

とある中で最後に「方便権門の道路」と仰ったのです。18願をとても信じ切れない未熟の者達に対しての仮の教えです。それは機に応じてですので、皆が聖道門、要門を必ず通ると言うものではありません。

前回からここまでのところをよく理解されれば、権仮方便の意味がお判り頂けるのではないかと思います。

方便とは、阿弥陀仏、諸仏が私たちになされることであって、私が方便と思って何かをするのではないのです。私たちの機に応じて、聖道門を駆使されることもあるでしょうし、要門で調育されることもあるでしょう。それを、私たち自身が、要門にまだ入っていないから、要門に入るために善に励むなどというのは、自惚れも甚だしいことです。

高森会長は、自惚れているから善のできない自分と知らされるまで善をせよ、といいますが、それこそ仏にでもなったつもりなのでしょうか。

親鸞聖人は、聖道門から要門へ、要門から弘願へという「方便権門の道路」を示されましたが、親鸞会的な思考に従うならば、聖道門から始めなさいです。でも、俗人のトップから、聖道門から始めよとたとえ言われても、説得力は0ですねどね。

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2010年4月15日 (木)

聖道門と浄土門

先日、「聖道門の人」「浄土門の人」について少し書きましたが、mixiではそれが問題になっているようです。出されている根拠は、『教行信証』化土巻の

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。

です。この解説として山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』が紹介されていました。

 凡て釈尊一代の教法に就いて其の証果を獲るといふ結果の方面から観察するに、此の娑婆世界に於て聖果を獲るのを聖道門と名づけ、又これを修道の困難といふ点から難行道とも云はれてをる。この聖道門の中に大乗あり小乗あり、漸教あり頓教あり、菩薩一乗の法門あり、声聞縁覚二浄の法門あり、又声聞、縁覚、菩薩三乗の法門あり、又権教、実教、顕教、密教と分れ、又自力の漸教たる竪出の教、自力の頓教たる竪超の教がある。かやうに様々の教と分れてゐるけれども、深くこれ等諸教の帰一する意義を繹ぬるに、一括して自力教であるが、此の自力の法門を衆生に勧め給ふは還相廻向の菩薩である。此の菩薩は衆生済度の利他教化地の果より此の世に出現はれて、これ等自力の権仮方便の教をもって衆生を誘引して遂に真実門に入らしめんとし給ふものである。即ち釈尊一代の教へに聖道浄土と対立する二つの法門のある筈はない。其の所謂聖道門なるものは、浄土の還相の菩薩が衆生の機に応じて説き給ふ所の方便の門戸に過ぎないのである。この真実の見解に立てば、恰も千里の霧晴れて、碧空に銀輪の影さはやかなる如く、全法界をつくして他力真実の一法が長へに光を放ってゐるのみである。
 聖道門の此の土に証果を獲るに対して、安養浄土に於いて聖果を得る教を浄土門と名づけるのである。これを又、実修上より聖道門の難行道に対して易行道といふ。
 因みに易行といふことは、単に「行じ易い」といふ便宜的な功利的な表はしてゐるのではなく、真実の大道に入る説きは、自と自然法爾の道理にて易行といふ結果をもち来すので、これは其の儘、教の真実なることを反証してゐるのである。
 此の浄土門の中には要門自力の教へたる横出、弘願他力の教へたる横超の二がある。前者は権仮方便の教へ、後者は弘願真実の教へである。そして要門は漸教、弘願は頓教、又これは助正、雑行、雑修、専修等に分たれてある。

これが標準的な解釈だと思います。
また『末灯鈔』には

聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。

とあります。

ちなみに聖道門は竪出・竪超、浄土門は横出・横超です。

具体的には
竪超-華厳宗・天台宗・真言宗・禅宗
竪出-法相宗・三論宗
横超-18願
横出-19願、20願

となりまして、これを二双四重の教判といいます。

聖道門と浄土門との違いは簡単だと思いますけど難しくしたいのでしょうか。

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2010年4月13日 (火)

門八万四千に余れり

例の『一念多念証文』のお言葉は、もともと『教行信証』化土巻の要門釈をコンパクトにまとめられたものです。

以下の部分が特に関係の深いところです。

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

浄土真宗教学研究所編の現代語訳も載せておきます。

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義文)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

八万四千の法門を「仮門」と仰り、その他に十方衆生の救われる真実の法門、弘願があることを教えられているのです。
ここで八万四千の法門を、聖道門と要門に分けて仰ったのが、『一念多念証文』です。もう一度載せておきますので、よく見比べて下さい。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

聖道門を要門に誘引し、要門から弘願一乗へと導かれることを仰ったものです。ですから、落ち着いて考えて頂ければ判ると思いますが、聖道門の人を要門にですので、要門は聖道門の人のためのものです。
これを、浄土門の人も要門から、と読んでしまうからおかしくなるのです。

ここは善を勧められたのでもなければ、三願転入を説かれたのでもありません。要門の役割を仰ったものです。

親鸞聖人は要門19願を勧められていないことは、これまで何度も述べてきました。一度頭を空にして、お聖教を拝読するようにしてください。そうすれば、今まで繋がらなかったところが繋がって、親鸞聖人の教えが判ってくる筈ですが。先入観を抜くことは難しいでしょうかね。

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2010年4月12日 (月)

浅過ぎる御心も理解に苦しみます

昨日のエントリーに対して、親鸞会の会員と思われる方よりコメントがありました。またmixiでの「こうへい」氏の発言を見ていますと、このコメントと同様のことが書かれており、現在の親鸞会では、このように教えられているのかと想像しました。

高森会長が教えている三重廃立の内外廃立、聖浄廃立、真仮廃立は、阿弥陀仏に救われる一念でなされる、というものです。

三重廃立という言葉は、真宗学にはありませんので、誰かが考えたものを高森会長が使っているだけとは思いますが、それにしても突拍子もないことで、びっくりしています。

真仮廃立のことだけならともかく、阿弥陀仏に救われるまでは、外道も捨てていないし、聖道仏教も捨てていないということになりますが、それでいいのでしょうか?

深い御心は判らないといいますが、浅過ぎる御心も理解に苦しみます。

いちいち説明する必要があるのかとも思いますが、尋ねられていますので、答えておきます。

「聖道門の人」とは、聖道門の教えに従って修行をして、成仏を目指している人のことです。
「浄土門の人」とは、浄土往生を願っている人です。

何も難しい話ではありません。

どうも、19願の対機が「聖道門の人」ということに反応して、「浄土門の人」も実は「聖道門の人」だとしたいようです。実にややこしいことを考えたものです。
しかし、19願の対機を言い換えれば、「善人」ということですから、「悪人」は19願の対機ではないのです。したがって、19願の対機は限定された人になることは何も変わらず、親鸞会の矛盾は解消されていません。先のことまで考えられない浅過ぎる御心であり、愚かなカルト思考です。

「こうへい」氏もそうです。最初は何が言いたいのかよく判らなかったのですが、言葉の遊びをしているだけと判明しました。しかし本人は筋が通っていると本気で思い込んでいたようで、当ブログの読者の方から指摘されて、初めて気が付いた様子です。

親鸞会の論理を簡単に説明すれば、自分の言っていることは正しいという前提があるのだから、結論は自分の言っていることは正しい、ということです。話にならないのですが、本人はそれが正しい論理展開だと心の底から信じ込んでいます。

これでは、高森会長のマインドコントロールを解くことは、極めて難しいでしょう。

これまで何回か、真仮廃立ということについて説明してきましたが、親鸞会の理解はおかしいので、再度説明しておきます。

浄土に往生する因について3つありそれが18願・19願・20願であると親鸞聖人は明らかにされました。

この三願の中で、19願と20願は化土往生が誓われ、18願は報土往生が誓われていますので、化土往生の19願・20願を廃して、報土往生の18願を願いなさい、というのが真仮廃立です。ただし20願の自力念仏と18願の他力念仏の違いは仏智疑惑の有無であり、外見上の区別はつきません。それに20願は果遂の誓いですから、18願との関係もあり、間違えやすいのですが、19願だけは完全に別個の願です。

それと親鸞聖人は、19願の対機が聖道門の人と結論付けておられたこともありまして、浄土門の人にとって19願を最初から問題外という見方をなされています。親鸞聖人は、20願と18願との峻別に力を注がれたのです。
それは『正像末和讃』の誡疑讃で顕著です。誡疑讃は23首ありますが、19願について明確に仰ったは以下の1首のみです。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがえば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

あとは20願の誡めです。

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

などです。

ですから真仮廃立といいましても、19願を廃することは当たり前であって、20願を廃するようにと親鸞聖人は力を注がれて教えられているのです。

以上のことから、親鸞聖人が勧められるどころか、問題外と看做されていた19願を殊の外強調するのは、親鸞聖人の御著書を読んだことがないことと、親鸞聖人の教えを自己の欲望のために利用したかったのだと言えるでしょう。

カルト思考に陥って、正常な思考が全くできない講師部員、幹部会員にはそれが理解できず、救い難いといえますが、何かの縁で疑問が生じれば正常な思考回路が機能する可能性もあると信じて、ブログを書いています。

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2010年4月11日 (日)

「浄土の方便の善」≠「善の実行」

昨日、『一念多念証文』の以下の御文について少し述べました。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

この「方便の善」は、浄土門の人も善をしなければならないと親鸞会では教えていますが、論理がおかしいのです。
『顕真』3月号には、上記のお言葉を挙げて、

 これら仏教で教えられる諸善万行は、『観無量寿経』に説かれる定散二善に集約される。
『観経』は、「弥陀の浄土に往生したい」と弥陀の救いを求める韋提希夫人と未来の人々(私たち)のために、釈尊が説かれたものだ。言うまでもなくそれは、善を実行させるためである。

 要ず通らねばならぬ門

 弥陀の本願一つを説くことを出世の本懐とされた釈尊が、なぜ廃悪修善をかくも勧められるのか。
 この修善の勧めが、弥陀の救いと無関係であるはずがない。
 親鸞聖人はズバリ、
「みなこれ浄土の方便の善なり」
「これみな浄土方便の要門なり」
と断定されている。
 すべては弥陀の本願(十八願)に相応させ、浄土往生を果たさせるためのご方便であったのだ。
 それは、釈迦の独断ではない。阿弥陀如来が、十方衆生を真実の十八願の救済に導かんがために、方便の十九願で「修諸功徳」と勧められているからである。

と書いていますが、「善を実行させるため」と勝手な解釈をしています。
つまり
浄土の方便の善」=「善の実行
としていますが、こんな意味である訳がないです。

昨日もいいましたし、mixiでも問題になっていましたが、親鸞聖人のお言葉を解釈する時の元になるのが御本典である『教行信証』です。『教行信証』化土巻の要門釈には、善の実行、善の勧めと解釈できそうなところは、全くありません。要門を勧められてもいません。

要門とは、聖道門の人を浄土門に入れるための門であって、浄土門に入った人が要門を通るのではありません。
たとえていえば、聖道仏教という地域から浄土仏教という地域の境界にあるのが、要門ですから、浄土仏教という地域にいる人が、要門を潜る必要はありません。聖道仏教という地域にいる人に、浄土仏教という地域に行きたいと思わせるのが、「方便」であり、「欣慕浄土の善根」なのです。

それが判れば、親鸞会の解釈が如何におかしいかが判られるのではないでしょうか。

『一念多念証文』の浄土真宗教学研究所による現代語訳を参考までに紹介しておきますので、これまでのことを踏まえて何度も読んで下さい。

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

親鸞会のトリックがお判りになりましたか?

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2010年4月10日 (土)

「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」

親鸞会では、『一念多念証文』の以下の御文をもって、親鸞聖人の善の勧め、19願の勧めと教えています。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

方便の意味が根本的に間違っていますので、そのような解釈しかできないのでしょう。
昨日も紹介しました『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

の意味を踏まえられれば、聖道門の人を浄土門に導き入れるものが、要門であり、仮門と言われているのです。
浄土の方便の善」を宿善と言い換えていますが、これも間違いです。この後の三経隠顕問答に、

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

とありまして、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」と仰っています。釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるための善ということです。

ここの部分の解釈を山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』から引用します。

『無量寿仏観経』を解釈せられた善導大師の御意見に依りて本経を考えて見るに、本経には顕の義と彰隠密の義の二面の意義がある。即ち一文に表裏の二義があるのである。彰は陰からあらはすこと、陰は顕に対して文の幽意を示し、密は如来の密義のこと。
(中略)
其の中、経の顕の義といふは、行の方面から云へば定善散善の諸善萬行をあらはしてあり、信の方面」から云へば上中下の三輩の機類に通ずる自力の三心を開説してあるのが夫である。『観経』一部を表面から見れば、この自力の信行のほかはない。然るに定善散善の二善、そして其の中の散善の内容たる三福九品の善根は、真実報土に往生する真因ではない。これ等、定善散善を修める機類は夫々根機が様々に分れてをるから、其の起す所の三心も各自の能力に応じて異ってゐる自力の三心であり、如来廻向の絶対他力の一心でない、相対有限の信である。即ち如来が特に方便を垂れ給ひて、自力修善に係ってゐる人々をして、浄土を欣慕せしめ給ふ方便の善根に過ぎないのである。されば本経一部の顕説は、他力の三心に引入せしめんがための方便たる定散二善であることが知られるのである。

ですから
「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」
です。あくまで自力修善に係ってゐる人々、つまり聖道門の人を浄土門へ導き入れるための方便ということです。

浄土門の人が善をして宿善となるものだと考えることは、大間違いです。

高森会長も、親鸞聖人の教えは『教行信証』によらなければならないと教えながら、『教行信証』の要門釈さえも知らないから、こんなデタラメの解釈をして平気でおれるのです。

mixiでも、「こうへい」氏は『一念多念証文』のこの御文を挙げて、浄土門の人にも善を勧められ、阿弥陀仏が宿善として下さると主張していますが、誤解も甚だしいです。

二善・三福は報土の真因にあらず

と親鸞聖人が仰っていることがまるで理解されていません。報土の真因ではないが、獲信の因縁(宿善)になるといっているのだ、と反論がありそうですが、なりません。そんなことは、どこを探しても書かれてありません。

宿善の意味は
「親鸞会教義の誤り」宿善とは
の部分を詳しく読んでください。

高森会長は無理ですが、親鸞会の講師部員は『教行信証』を真面目に読んでから、人に教えを伝えるべきでしょう。
高森会長の著書を読んで得られるものは、貧と恥のみです。

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2010年4月 9日 (金)

先哲にどんな解釈をされた方があったかは問題外です

mixiでのやりとりで、19願の対機が聖道門の人である根拠として挙げられているのが、以下です。

『教行信証』要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。
(中略)
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

『選択本願念仏集』

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。 いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)

我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。
來生我國。不爾者我不作佛。

『平等覚経』18願(『大経』19願)

我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者】。
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。
不爾者我不作佛

ここまでほぼ完璧と言える根拠を出されても、19願の対機は浄土門の人も含めていると主張しているのが、親鸞会講師部員らしき「こうへい」氏です。

チューリップ企画の法論を思い出しました。親鸞聖人のお言葉を、道理もへったくれもない解釈をして、それが正しいと言い張るのですからね。

さて、『平等覚経』が根拠として出されていますので少しだけ解説します。
浄土経典に詳しい方から訳を教えて頂きました。

『大無量寿経』18願の「十方衆生」=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
諸々の神々や人々やごそごそと這う虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生」=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

ここからも判りますが、明らかに『大経』18願と19願の「十方衆生」は違うのです。
『平等覚経』によれば、19願の「十方衆生」は聖道門の人です。

なお、もう一つの『大経』異訳本である『大阿弥陀経』では

『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)

使某作佛時。令我名字。皆聞八方
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大
坐中。説我功徳國土之善。
【諸天人民。蜎飛蠕動之類】聞我名字。
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)

使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

ここでも『大経』19願の対機に当るのが、「菩薩の行を行う人」、つまり聖道門の人となります。

法然上人、親鸞聖人が仰っていることと一致します。当たり前のことです。

しかし当たり前のことを当たり前のことと絶対に認めないのが、親鸞会です。

「こうへい」氏はこんなことを書いています。

釈尊や親鸞聖人、蓮如上人、覚如上人は、別格として、

それ以外の先哲にどんな解釈をされた方があったかは問題外です。

とんでもない話です。文底秘沈か秘密の法文を自分達が独占しているとでもいうのでしょうか。

最近の親鸞会では、お聖教を読ませずに、高森会長の著書を根拠に話がなされているそうです。判りますよね。

親鸞会は、年々土蔵秘事に類するものへと変貌しています。そのうちに親鸞聖人も否定することでしょう。

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2010年4月 8日 (木)

18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」

当ブログの読者の方が、mixiで親鸞会講師部員らしき人物と三願転入についての議論をされています。

★親鸞聖人★ トピック 三願転入
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51573620&comm_id=1770759

私も見ていましたし、陰ながら応援しておりまして、関連するエントリーを書いてきました。

詳しい内容は、各自で御確認下さい。

現在問題になっているのが、18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」とは違うのかということです。
最近のエントリーを読まれた方ならばお判りかと思いますが、実は違います。

親鸞会では、同じ文字だから同じ意味と考えているようですが、親鸞聖人は違うと見られていたのです。

それが『教行信証』化土巻・要門釈の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

であり、『尊号真像銘文』の

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

なのです。

19願の「十方衆生」は聖道門の人のことと親鸞聖人はみておられたのです。

実はこの内容は
「21世紀の浄土真宗を考える会」
生因三願の「十方衆生」についての考察
十方衆生とはいうものの…
にすでに書かれてあります。

生因三願の「十方衆生」についての考察
の方を紹介しておきます。

無量寿経(大無量寿経)の第18願、第19願、第20願の三願は生因の願と言われます。
これらの願の対機はいずれも「十方衆生」ですが、異訳本と比較すると、同じ「十方衆生」でも意味が異なることが分かります。

現在残っている完本は、サンスクリット本、漢訳5種、チベット訳の合計7種あります。
漢訳5種、チベット訳の6本の原本は失われています。
つまり、同じ原本から訳されたものではないですし、漢訳5種の原本は現存のサンスクリット本ではないということです。
『大阿弥陀経(仏説阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経)』と『仏説無量清浄平等覚経』は「初期無量寿経」と言われ、阿弥陀仏の本願が24です。
『無量寿経』『無量寿如来会』『仏説大乗無量寿荘厳経』および、サンスクリット本、チベット訳は「後期無量寿経」と言われます。本願の数は『無量寿経』『無量寿如来会』が48、『仏説大乗無量寿荘厳経』が36、サンスクリット本が47、チベット訳が49です。

さて、『大無量寿経』の生因三願がそれぞれどのように対応しているかということですが、
大阿弥陀経の第5願ー平等覚経の第19願ー大無量寿経の第20願
大阿弥陀経の第7願ー平等覚経の第18願ー大無量寿経の第19願
大阿弥陀経の第4願ー平等覚経の第17願ー大無量寿経の第17願と第18願
の関係にあります。

そして大阿弥陀経と平等覚経の対機・往生の機根は

大阿弥陀経の第5願 大阿弥陀経三輩段中の下輩生 前世作悪者
大阿弥陀経の第7願 大阿弥陀経三輩段中の上輩生 出家の善男子善女人
大阿弥陀経の第4願 前半(大無量寿経の第17願に相当)は諸仏、後半(同第18願)が前世作悪者

平等覚経の第19願 他方仏国の人民(下輩生・前世作悪者)
平等覚経の第18願 諸仏国の人民(上輩生・出家者)
平等覚経の第17願 大阿弥陀経の第4願と同じ

となっています。

大阿弥陀経においては、第4願と第5願は関係が深いのですが、
平等覚経においては、第17願と第18願の関係は薄くなっています。
大無量寿経になると、第17願・第18願と第19願の関係はさらに希薄になります。

ちょっとややこしいですが、簡単に言うと、
・もともと、大無量寿経の第19願・第20願にあたる願文の対機は異なるものであった。
・大無量寿経の第18願は、第19願・第20願にあたる願文とは独立していた。大無量寿経で言えば第17願と密接な関係にあった。
・大無量寿経の対機が「十方衆生」と訳されるに伴い、第19願・第20願の対機も「十方衆生」と訳された。
・したがって、言葉は「十方衆生」と同じでも、意味は全く異なる。
・第19願・第20願では十方衆生が○○すると往生できると言われているのに対して、第18願では阿弥陀仏が十方衆生に向かって与えて往生させると言われている。
・親鸞聖人はこれらの点などを見られて、第18願を真実願、第19願・第20願を方便願とされた。
となります。

mixiでは読者の方が『平等覚経』まで出されていまして、濃い内容となっていますが、対する親鸞会講師らしき人物は、御粗末な親鸞会教義そのままです。

mixiは、親鸞会の会員も勧誘目的で見ているそうですので、この議論も見ている可能性があります。それでもまだ親鸞会教義の御粗末さに気が付かないとすれば、相当に重症でしょう。

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2010年4月 6日 (火)

このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり

大沼師の三願転入論を、自分の欲望を満たすために中途半端にパクリましたので、ヘンテコな教義が余計にヘンテコになりました。

それゆえ親鸞会の会員は、三願についての理解が歪です。三願を1セットのものと考えていますが、親鸞聖人は三願を別個のものと教えておられるのです。

「親鸞会教義の誤り」親鸞会は諸行往生13
より引用

18願、19願、20願は生因三願といわれます。衆生が浄土に往生する因について3通りあると親鸞聖人は解釈なされているのです。三願はそれぞれ独立したものということです。

生因三願と往生、『教行信証』の関係は以下の通りです。

18願──他力念仏往生(報土往生)──『教行信証』真仏土巻
19願──自力諸行往生(化土往生)──『教行信証』化土巻
20願──自力念仏往生(化土往生)──『教行信証』化土巻

また浄土三部経と生因三願の関係については

『大無量寿経』──18願意-他力念仏往生
『観無量寿経』──顕説(方便)19願意-自力諸行往生
         └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生
『阿弥陀経』──顕説(方便)20願意-自力念仏往生
        └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生

となります。

だから、方便の19願、20願を廃して真実の18願を立てよと真仮廃立を教えておられるのですが、親鸞会の会員は、18願に入るためには19願、20願を必ず通らなければならないとしか考えられないようです。

利井鮮妙著『宗要論題決擇編』には

四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、五つには唯除有無の異これなり。

とあります。
48の願を要約した「重誓偈」にも諸行・植諸徳本は説かれず、名号流布を強調され、聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていない。
生因三願について5つの相違があるとして、「信行前後の異」、「信楽有無の異」、「乃至有無の益」、「得益定不の異」、「唯除有無の異」を挙げています。
この5つについて詳しく説明すると難しくなりますので、最も重要と思われる最後の「唯除有無の異」についてのみ説明します。
「唯除有無の異」とは、18願には「唯除五逆誹謗正法」とありますが、19・20願にはそれがありません。その相違をいったものです。
ところがそれがどんな意味を持つかを会員は考えたことなどないでしょう。実はここが重要なところなのです。

『尊号真像銘文』には、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と親鸞聖人は仰っています。これは、「唯除五逆誹謗正法」という抑止のお言葉によって、抑止すべき五逆罪、謗法罪を造っている極悪人も含めた一切の衆生が18願の救いの対象になっていると親鸞聖人は教えられています。念の為申しますと、一切の衆生が五逆罪、謗法罪の者という意味ではありませんので、間違われないようにしてください。
一方で、19・20願にはこの抑止のお言葉がありませんので、抑止する必要のない善人のみを対象とされているということです。
つまり、三願には共通の「十方衆生」と誓いの対象が同じお言葉で表現されていても、その内容が異なっているのです。18願の「十方衆生」は文字通りすべての人が対象で漏れている人はありません。しかし、19・20願の「十方衆生」はすべての人の中で善人のみが対象ということであって、悪人は対象外なのです。

十方衆生」の意味だけ見ても、三願を1セットで考えるということ自体おかしなことなのですが、三願転入という概念が頭から離れない親鸞会の会員にとっては三願が別個というのは理解し難いことでしょう。

親鸞聖人が仰っておられるお言葉を素直にそのまま受けとることが大事です。高森フィルターを外して下さい。

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2010年4月 4日 (日)

「三願転入の教え」の正体

三願転入については、一昨日、大沼法龍師の言葉を紹介しましたが、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』に書かれた三願転入の意味についても見ておきましょう。

  ◎(三三の法門)
 君達は学問の為の学問であって血の通うた、信仰に生きた学問は一寸もしては居ないではないか、祖師の求道を祖師の求道と眺めて、各自の実地の求道の手本には成ってはいないではないか。化土巻に
「是を以て愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ宗師の勧化によりて久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離れ、善本徳本の真門に廻入して偏に難思往生の心を発しき。然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海に転入し、速に難思往生の心を離れて難思議往生を遂げんと欲す、果遂の誓良に由ある哉、ここに久しく願海に入りて深く仏恩を知れり、至徳を報謝せんが為に真宗の簡要を拡うて、恒常に不可思議の徳海を称念す、弥斯を喜愛し特に斯を頂戴するなり」
と実地に求道されて開発の境地に到る指針であり、無明の闇夜を照す燈明台ではないか、この源泉を尋ぬれば真仏土巻に「然るに願海に就きて真あり仮あり、是を以て復仏土に就きて真有り仮有り、選択本願の正因に由りて真仏土を成就せり 乃至 既に真仮皆是れ大悲の願海に酬報せり。故に知んぬ報仏土なりといふことを、良に仮の仏土の業因千差なれば土復応に千差なるべし、是を方便化身化土と名く、真仮を知らざるに由りて如来広大の恩徳を迷失す」と弥陀の本願に真仮あり、これを釈尊開設して三部経となし、一代の説教を八万の法蔵に述べて群生を教化し調機誘引して一切経を自力の出世本懐たる法華経に集中して演説の最中、悲泣雨涙の韋提の請に応じて第十九願開設の観経の説法となり、法が自力、機が自力の要門を説き、遂に定散を捨てて念仏に皈せしめ、次に第二十願開設の小経に運んで法が他力で機が自力の真門を説き、嫌貶開示して名号の超過を教うれども機執が去らず、最後に第十八願開設の大経に趣入せしめて法が他力、機が他力の弘願の座敷に乗せるには唯除逆謗と悪人の正機を照し出し、自力を浄尽して不思議の仏智を廻向する、名号法爾の徳として顕示して居らるるを、祖師は如来所以興出世、唯説弥陀本願海と言い、蓮師は「八万の法蔵をしるといふとも後世をしらざる人を愚者とす、たとひ一文不知の尼入道なりといふとも後世をしるを知者とすといへり」と言って、自力の出世本懐より他力の出世本懐に趣入でしめるのが仏祖の真意ではないか。
 然るに真宗の学者は頭だけ初めから第十八願に据り込んで、実地の求道をして居ないではないか、祖師の苦心された三三の法門は骨董化して学問の羅列になり、蓮師の雑行雑修自力の心をふり捨ては自分とは無関係で、はいの返事も向うからと助かった積りで死後を夢見て居るが、何んと恐しい堕落だろう、脈が上って居るから処置なしだ。畢竟感情に瞞され、自惚れに酔うて実地の求道を抜きにして居るから三願転入の真意を無視して居るのだ、実地に通って居ないから真仮の分斉も知らず、信一念の極意も諦得せず、頭は合点しても腹は流転するのだ、俗人は気に掛るから熱心に法の話をするが、坊主はてんで気に掛らないから阿呆の話でもして居るのだ。君達は第十八願の真似をして有難がって布教しているのだ、大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ、これを異安心と言うのなら祖師も釈尊も弥陀も皆異安心ぞ、自分達の無安心を反省したらどうだ。

大沼師は三願転入をこの著書の中で、しきりと強調していますが、高森会長が言っていることと言葉は同じでも意味が違っています。
大沼師は、学問の為の学問をしていたという当時の勧学の無帰命安心を非難するために、信前信後のあることを三願転入で説明されているのです。最初から18願に入っている人はいない、親鸞聖人も18願に入られる前に、19願、20願にいたと告白なされているように、信前と信後の水際があることを言われているのです。19願、20願の行を勧められているのではありません。

高森会長も、それは判っているものと思われます。善の勧めを、宿善よりも強力な根拠として大沼師の三願転入論を途中から利用したのでしょう、大沼師の意図を無視して。

この著書の中でも大沼師は書いていますが、大沼師は自己の味わいとしてお聖教を解釈しているところが相当にあります。ですから大沼師の教えている通りに話をしていれば、一貫性もあったのでしょうが、高森会長が名利の為に利用しただけですので、高森会長の教えは大沼師とも違っていますし、ましてや親鸞聖人の教えとは天と地程異なっているのです。

親鸞会の会員は、高森会長のいう「三願転入の教え」の正体を凝視して欲しいものです。

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2010年4月 3日 (土)

「信前信後の水際」のネタ本

昨日紹介した大沼法龍師の『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』の内容を知りたいと言われる方がありました。読まれればわかりますが、高森会長の『会報』と瓜二つです。言い回しまでそっくりです。本願寺を批判しているポイントも同じです、というよりも大沼師の真似をすれば、本願寺が困るという計算があったものと思います。

高森会長の主張する「三願転入の教え」や本願文のヘンテコ解釈の原点は大沼師にあることは疑いようのないことです。大沼師がおかしいということではなく、大沼師の意図を汲み取れない高森会長の能力の低さが、トンデモ教義を創作する結果となったようです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』の内容を一部紹介します。

  ◎(第十八願の真似)
 浄土真宗と言う狭い漬物桶に押込められて居る佐々木、小山、大江の勧学は六字を通しての仏法の大海を知らないのだ、第十八願の一本槍で進まうとして、他力そ唯ぞ其儘ぞ出来上った事を聞け、我機に用事はないと無帰命安心を平気で教えて居るがそれでよいか、三業安心の余波を受けて、己を抜にして槍放しを無我のように思い、無努力を他力廻向のように心得て居るがそれでよいか、真宗が衰滅して行く原因が何処に有るか御承知か、新興宗教が潮の如く漫延して行くのは既成宗教が骨董化して時代を救い切らない事を御承知ないのか、新興宗教を迷信じゃ邪教じゃ、濁り水を飲むな、腐り水を飲むなと攻撃するよりは、こちらに清いな水が有るから存分飲みなさいと何故汲み上げて飲まさないのだ、誰も濁水の飲みたい者は居ないのだ、戦後思想が混乱して乾き切って居るから清濁の判断がつかないのだ、無上の妙法だ、無上宝珠の清水だと誇大な広告はして居るけれども、自分は泥酔無能で一句の法門も説き切らず、たまたま大音声で説教しても、何時の事かと思えば心だ先の夢物語りで現在が救われるか、衰微するのが当然と言う事が当局にはまだ眼が覚めないのか。
 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

親鸞会で昔よく聞いた信前信後の水際のところです。ここを覚えていれば、昔の高森会長の様な説法は信心に関係なく誰でもできると思います。
ネタばらしをすれば、無二の善知識もその辺の俗人以下だったとなります。

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2010年4月 2日 (金)

大沼は三願転入を根基として布教している居るのだ

「三願転入の教え」と高森会長はいいますが、そもそも「三願転入の教え」とは何でしょうか?

三願転入について仰ったのは、親鸞聖人だけです。覚如上人も、蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人も『教行信証』化土巻にのみ仰っただけで、他のところでは仰っていません。

善知識方の御著書を読んだことのない高森会長は、そんなことはもともと関係ないのでしょう。

三願転入が親鸞聖人の教えの根基

と高森会長はいっていますが、その出典が判明しました。
大沼法龍著『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』

大沼は三願転入を根基として布教している居るのだ

とあります。本のタイトルも、どこかで見たようなものです。本願寺批判の内容までもそっくりです。昭和30年に大沼師が本願寺を批判して著したものです。

それは兎も角として、大沼師が本願寺批判の際に強調していた三願転入が真宗の常識のように装って「三願転入の教え」としてしまうところが、姑息な高森会長らしいです。

しかし、三願転入とはいいながら親鸞会で説いていることは19願のことだけです。18願に入るためには万人共通で19願から始めなければならないというものです。

昨日も述べましたが、親鸞聖人は19願を、方便化土への往生を誓われた願と、聖道門の人を浄土門へ誘引させる願という二面でみられていました。親鸞会の主張とはかなりの隔たりがあります。

では法然上人は19願をどのようにみられていたのでしょうか。

『漢語灯録』には、

上の本願の願成就文に、但念仏を明すといえども、上の来迎の願等の中、及び次の三輩の文、助念往生、諸行往生を明かせり

とあります。「来迎の願」とは19願のことであり、19願を『大無量寿経』三輩段にある諸行往生を誓われた願とみられていました。
また『西方指南抄』には、

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしめむと也

とありまして、聖道門の人を浄土門へ誘引させるという親鸞聖人の19願観の元になったものと思われます。

法然上人にも三願転入という教えはもちろんありません。

大沼師の著書を参考にする程度の学識で本願寺を批判し、真宗の教義が誰よりも判った顔をしている無恥の善知識様は、いつまで迷走を続けるつもりでしょうか?

批判している方が恥ずかしくなります。

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2010年4月 1日 (木)

半満・権実の法門?

ある会員の方から、質問を頂きました。

18願へ入るためには19願を絶対に通らねばならないのでしょうか。

この答えを親鸞聖人は『教行信証』化土巻の要門釈で仰っています。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

ここに書かれてあることは、外道から聖道門に入った人を浄土門へと導くために釈尊は『観無量寿経』を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、ということです。

ところが、親鸞会ではこの御文を全く違う意味で理解しています。
『教学聖典(9)』の問23に

内外廃立の中々できないことを嘆かれたお言葉を、『教行信証化土巻』で示せ。

とあり、その答えが上記の御文になっています。
これでは19願の御心など判る筈がありません。

参考までに、親鸞会で教学的にはほぼ完璧とまで絶賛されていました『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)の解釈では

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

とあります。

半満・権実の法門」とは、半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の声縁乗・縁覚乗・権大乗)、実教(聖道門内の実大乗)のこと、つまりは聖道仏教のことです。

ですから、19願の対象は聖道門の人であると親鸞聖人は見られたのです。
聖道門の学僧達が法然門下を非難した内容の1つが、19願の軽視です。

『興福寺奏状』「七、念仏を誤る失」には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありますし、明恵高弁の『摧邪輪』には

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と「第十九の願」と明記されています。
これらの非難に対して親鸞聖人が著されたのが『教行信証』ですから、19願の位置付けを聖道門の人を浄土門へ導き入れる為の法門とされたのです。それを御自身の体験を通して仰ったのが三願転入の御文です。

一方で浄土門の人にとっての19願は、化土にしか往けないから、報土往生の18願を願求しなさいと仰っていることは、これまで何度も述べてきた通りです。

ですからただの1箇所も、19願を勧められた親鸞聖人のお言葉がないのです。

浄土門の人にとって19願は、廃捨すべきものであって、19願から始めるなどという「曠劫多生の目的」にしてはならないのです。

親鸞会は浄土門の外にあるのですが、「半満・権実の法門」になるのでしょうか? ここにも入りませんね。

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