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2010年3月 7日 (日)

簡単に信心決定などできる筈がない!

私が30年近く前に聞いてきた高森会長の話と現在とでは大変な違いがあります。30年前もおかしかったのですが、昔は正しいところもそれなりにありました。しかし、現在は徹底的に間違っていますので、正しいところがどこにあるのかと探さなければならないほどで、そんな教えでは何十年聞き続けていても信心決定できないのは当然なことでしょう。

それで最近、
簡単に信心決定などできる筈がない、簡単に信心決定したと言っている者は異安心に決まっている。
とやたらと強調している有様です。

信心決定した人は、国に一人郡に一人、と言われた昔昔の時代からみれば、人口は何倍にも増えていますし、様々な意味で遥かに便利になって教えを聞く回数も増えれば、単純計算はできないとはいえ、県に十人の獲信者がいても不思議ではないと思います。

しかし親鸞会では、平気で上記の様な言葉を吐き捨てます。

『教行信証』信巻に

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

と親鸞聖人は書いておられますように、信心決定することは掌を返すように大いに易しいことではありますが、余りにも易し過ぎるが故に信じることができず、『大無量寿経』に「易往而無人」と説かれているのです。難信であることは間違いないのですが、親鸞会でいっているような無茶苦茶な”条件”をクリアしての難信ではありません。親鸞会では難信の前に、難行があるのです。

『教行信証』化土巻では

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と教えられていますように、己の能力を考えれば、「ただ弥陀を称せよ」が結論です。条件はこれだけです。訳の判らない”善”という難行など無関係です。

そんなことをいっても、難信なんだから、現実的には今生では簡単に救われるものではない。多生で救われればそれで良いのだ。

と反論してきた講師もあったと聞きます。
平生業成など、とっくに諦めているのが親鸞会の会員でしょう。私もそうでした。しかし、それは間違いです。現在、信心決定できていなくても嘆くことはありません。必ず信心決定できると法然上人も仰っています。

『十二箇条問答』

問いていわく、往生を願わぬにはあらず、願うというともその心勇猛ならず。また念仏を卑しと思うにはあらず、行じながら疎かにして明かし暮らしそうらえば、かかる身なればいかにもこの三心具したりと申すべきもなく。さればこの度の往生をば思い絶えそうろうべきにや。

答えていわく、浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。
日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善知識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

今生での信心決定を断念した親鸞会の会員に、平生業成ということはありません。親鸞会は平生業成の教えではありません。しかし、諦めずに平生業成の教えを聞いていくならば、必ず往生できるのです。だからこそ、平生業成の教えなのです。

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コメント

高森会長から話を聞けば、平生業成など夢の又夢としか思えませんでした。
次期会長も未信、最高幹部も未信、支部長も未信、支部幹部も未信。
30年、40年聞いたくらいでわかるものではない、と会長からいわれてなるほどその通りだと思いました。

しかし、それは親鸞聖人の教えではなかったのです。多くの批判ブログで親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を聞かせて頂けば、如何に狂った教えを会長が説いていたかが知らされます。

断章取義の親鸞会教義には、会員も気が付き始めています。ただ、今更辞めれないから、現会長が亡くなるのを見届けてから考えるという会員も多いのです。

求道ごっこには付き合い切れませんので、私は辞めました。

投稿: 元現役会員 | 2010年3月 8日 (月) 09時53分

そういえば、会長は二十歳前後で「獲信」してたんでしたっけ。

 >簡単に信心決定などできる筈がない、簡単に信心決定したと言っている者は異安心に決まっている。

自分はできる(できた)けど、会員は無理ってことでしょうかね。
よくもまあこんな都合のいい理屈並べ立てられるもんですね。

投稿: | 2010年3月 9日 (火) 09時06分

高森会長は無二の善知識ですから、特別な方という理解でしょう。

特別と言うよりは、特異な人格と言った方がいいでしょうね。

投稿: 飛雲 | 2010年3月 9日 (火) 12時43分

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