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2010年3月30日 (火)

ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり

最近の顕正新聞、顕真を読むと、善のことばかりです。教義批判に敏感になっているのでしょうから、私のブログも多少なりとも影響しているならば、光栄です。

しかし、相変わらず内向きの反論しかしてきません。外部に向かって親鸞聖人のお言葉を出して反論は一切できないのです。

親鸞会の理論は、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人の理論とは全く異なります。その代表が善のすすめです。

3月号の顕真にある支部で信心の沙汰をした内容が掲載されていました。全部おかしいのですが、以前にも関連した内容を述べていますので、今回はその中の一部だけを取り上げてみます。

善に向かわない人に「雑行を捨てよ」とは言われぬ

支部長:この「雑行を捨てよ」というご教導は、どんな人に仰ったのでしょうか。
学徒:むろん、雑行をしている人だと思います。
支部長:そうですね。雑行の体は諸善万行ですから、善を実践している人です。タバコのまない人に「タバコのむな」とはだれも言いませんし、酒を飲まない人に「酒飲むな」とも言いません。昨年5月1日の『顕正新聞』に掲載されたお言葉を拝読しましょう。

「寝ていて転んだためしなし 裸で物を落とした者もなし」
 歩いたことのない人に転んだということはない。なにも持たぬ者が物を落としたという話も聞かれない。
 朝晩、拝読する「聖人一流章」には「もろもろの雑行をなげすてて」とあるが、浄土真宗の人達は雑行がなにやら全く知らない。
 だからいくら蓮如上人に「雑行をなげすてて」と教えられても、馬耳東風、流転を続ける。
 後生を案じ往生の間に合うと励む(自力)諸善を雑行というのだが、どだい後生が問題になっていないのだから、雑行が問題になるはずもない。信仰がそこまで進んでいないのだ。
 なぜ真宗の人達は後生が問題にならず諸善に向かわぬのか。三世因果の道理が教えられていないから、それは至極当然だろう。
 先ず、釈尊が因果の道理を説かれ、廃悪修善を徹底されたのはそのためだ。しかもそれは釈迦の勝手な判断ではなく、本師・弥陀が誓われた救済の要門だからである。
 親鸞聖人はそれを、善ができると自惚れている心(自力)を粉砕し、雑行をすてさすための阿弥陀仏の十九願であると教えられているのである。

支部長:雑行をやっている人に、「雑行を捨てよ」と仰っています。ところが、善に向かわず、雑行とは何かを知らない人は、馬耳東風、聞き流しているのです。それどころか、「善を捨てねばならない」とまで言う始末です。私たちは、雑行の意味をよく知らねばなりません。
学徒:こんな大事なお言葉なのに、知られていないんですね。
支部長:ここに、「後生を案じ往生の間に合うと励む諸善を雑行という」とあります。なぜ、雑行が問題にならないのですか。
学徒:後生が問題になっていないからです。
学徒:後生を心配して励む自力諸善を雑行というのだから、後生が問題にならなければ、雑行も問題にならないわけだ。
支部長:「自力」という言葉は、世間でも使われますね。
学徒:「遭難者が自力で下山した」とか、「自力優勝」とか。
学徒:自分でやること、自分の力という意味で使っています。
支部長:仏教では、後生の一大事を自分の力で助かろうとする心を自力といわれます。往生の資助(助け)にしようとする心です。だから、後生の一大事が分からないと、自力の心は出てきようがありません。自力の心でする善が雑行ですから、雑行も分からないのです。

如何でしょうか。このトリックが判りますか?

法然上人、親鸞聖人、蓮如上人は、善に向かっていない人に対しては、親鸞会同様善を勧められていたと言いたいのでしょうが、それについては根拠が全くありませんので、言及を敢て避けています。
法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が、御著書を書かれたのは、後生が問題になって雑行をしている人に対してのみという理屈です。現代ならば、親鸞会会員の極々一部にのみ限定で書かれた秘密の法文という訳です。親鸞会会員以外の人に対しては、読むことを禁じられたのに、意に反して大多数の対象外の人が読んでしまい、知ってはいけない教えが全国に広まってしまったと考えているのでしょうか。

以前にも
正常な思考とカルト思考
カルト思考の愚かさ

で書きましたが、カルト思考は実に愚かです。まともな思考ができないのです。
後生の意味も間違っていますし、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が、聖道門からの激しい非難の中、文字さえも読めない庶民に対して、雑行を捨てよと仰って、全国に教えを広められたことを何と心得ているのか。馬鹿にするにも程があるというものです。

『一念多念証文』『唯信鈔文意』の最後に親鸞聖人は同じことを記しておられます。

ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。

超選民思想の親鸞会とは正反対です。現在の親鸞会を見ていますと、オウム真理教の末期状態に似てきたと思うのは私だけでしょうか。

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コメント

雑行とか、自力という意味を、会員はよく勉強した方がいいですね。
親鸞会の説明の仕方だと、阿弥陀仏や浄土という言葉が出てきませんから、聖道門の人に自力が出てきてもおかしくありません。

五種の正行を除いて以下を全て雑行といいますから、阿弥陀仏と疎遠な諸善万行は全て雑行といいます。
自力とは、自分の修めた善根功徳で浄土へ往生しようと思う心をいいます。

親鸞会でいう必堕無間の後生の一大事が知らされなければ出てこないというものではありません。
因果の道理を知らなくても自力はわかります。

肝心の「浄土往生」ということが抜けていますから、仏教でも何でもない気がするのは私だけでしょうか?

外から親鸞会を見てみると、活動が全て善だとしても雑行やりまくりの集団であることがよく分かります。諸仏や菩薩や神に仕える五雑行は徹底して廃するのですが、諸善の方はさっぱり。雑行すてるために雑行やれと教えているようなものです。

投稿: 淳心房 | 2010年3月30日 (火) 22時49分

淳心房氏と内容は重複しますが

善導大師は「観経疏」で
「次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。一には正行、
 二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、こ
 れを正行と名づく。・・・(中略)・・・
 この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。」

雑行とは何かをハッキリとおっしゃってるし、親鸞聖人も「教行信証」で

「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、
 三輩・九品、自力仮門なり。」

と何を雑行と呼ぶのか、明快に示してる。
その言葉を一言引用すれば雑行とは何かハッキリするのに、何故かそれはせずに、

1 「雑行」:自力の心でやる諸善万行
  「雑行を捨てよ」=「自力の心を捨てよ」
  (「善をするな」という意味では決してない)

みたいな、どこに文証があるのかわからないようなオリジナル解釈を持ち出してきてる。
親鸞聖人の言葉を無視し、親鸞聖人と違う解釈を持ってくる自称・親鸞学徒さんの団体…
「雑行とは何か全く知らない」のはどっちでしょうかね?

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余談ながら

 >タバコのまない人に「タバコのむな」とはだれも言いませんし、酒を飲まない人に「酒飲むな」とも言いません。

残念ながら、自分は物心つかない頃から両方言われ続けてきましたねぇ。
小児科の医師が「この子は呼吸器系が弱いからタバコは吸わせない方が良い」と言ったことを親が教えてくれました
今もタバコは吸ったことはないですし、ハンドルキーパーになって酒を飲まなくて済む理由をわざわざ作るくらいです

健康に気をつかう人であれば、タバコを吸わない人だってに「タバコは吸うなよ」と言います。
酒で大失敗した人、そういう人を見てきた人ならば、酒を飲まない人にも「酒を飲むな」くらいは言います。

タバコを吸わない人にまで「タバコを吸った事のない人に"タバコは止める"ことはできないから」とか言って
会員にタバコを吸うことを勧めてるのが親鸞会。最終的にタバコを吸うことを止めるわけでもなく、吸わせ続けられる。
(「善をするな」という意味では決して無い→仏教は廃悪修善=善を推奨)意味不明w

投稿: | 2010年3月31日 (水) 00時17分

マインドコントロール下では何でも屁理屈こね放題ですね。

>>支部長:雑行をやっている人に、「雑行を捨てよ」と仰っています。

ならば、余の菩薩や諸神などにもまず仕えてみなければなりませんね。

投稿: YGM | 2010年3月31日 (水) 09時02分

激しく同意。

親鸞会は、山にこもって聖道の修行にも打ち込まねばなりませんね。
「聖道の教えは捨て物だ」と言ってきても

・聖道の修行をやっている人に、「聖道の修行を捨てよ」と仰っています。
・釈迦は聖道の修行を教えられた。親鸞会は釈迦の教法を否定するのか。

とでも返答しておけばいいですね。

投稿: ちょこぼ | 2010年3月31日 (水) 13時52分

コメントを頂いた皆様

仰るとおりです。詭弁と屁理屈で作られた親鸞会教義ですので、矛盾だらけです。しかし、会の中にいると矛盾を感じても、深い御心と思ってそれ以上考えようとしなくなります。

一人でも矛盾に気が付いてくれるように、願っています。

投稿: 飛雲 | 2010年4月 1日 (木) 06時42分

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