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2010年3月12日 (金)

金剛心と暁

信心決定すると金剛心になるから大変わりする、と高森会長は教えていますが、これもおかしな解釈です。

二河白道の譬えを受けて、白道について『教行信証』信巻に

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

と教えられています。阿弥陀仏から回向された信心であるから、破壊されることがないということです。
その理由を次に

金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり

と『定善義』を引かれて仰っています。信心決定しても煩悩しかない有漏の身ですから、「無漏の体」とは阿弥陀仏の仏智です。阿弥陀仏から回向された信心が金剛心なのであって、信心決定した人の心が金剛心になるのではないのです。

『唯信鈔文意』にも

この信楽をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり

とあります。

また、信心決定すると日本晴れの心になると教えていますが、歪曲された誇大解釈です。

『尊号真像銘文』には

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。

と仰っています。「」とは、夜明け前の薄暗い状態です。信心をえると、漆黒の無明の闇から、ほんのり明るさが加わった状態になるということです。

『浄土文類聚鈔』にも、

かならず無上浄信の暁に至れば、三有生死の雲晴る。

と表現なされていますように、夜明けの曙にもなっていないのです。信心決定したならば、相当のことが判ると思っている会員ばかりですが、信心決定しても判ることは僅かです。

その参考になることが

「21世紀の浄土真宗を考える会」真宗安心五十問答(本願寺の本如上人と広如上人のご問答)

に書いてありますので、長いですが紹介しておきます。上記の親鸞聖人のお言葉を踏まえて、読んでみて下さい。

御安心(加茂仰順師)より

問い は本如上人
答え は広如上人

(1)
問い、どのようにご安心を自督なされたか。
答え、雑行雑修自力の心をすてて、後生の一大事御助け候へとたのみ、御助け一定うれしやうれしやとよろこびまする。しかしその雑行とはどういうものであるか存じませぬ。
(2)
問い、そなたは知らぬものをどうして捨てなされたのか。
答え、どうして捨てましたやら、あんまりはやいお助けゆえ、その捨てようも存じません。
(3)
問い、それならば、阿弥陀様にはどのようにたのんだのか。
答え、後生一大事、御助け候へとたのみました。
(4)
問い、雑行の捨てもようも、雑修の離れもようも知らぬくらいで、弥陀のたのみようをどうして知られたのか。
答え、これは蓮如様のおかげで、聴聞いたしました。
(5)
問い、雑行も雑修も捨てたやら、捨てぬやら知られぬのに、弥陀をどのようにしてたのんだのか。
答え、ご教化を聴聞いたしましたゆえに、仰せの有難さに、捨てぶりも離れようも知らずにたのみました。
(6)
問い、近来阿弥陀様をたのむについて心得ちがいのことを聞いたが、お前は口でたのんだのか、心でたのんだのか。
答え、つねづねのご教化に、口でたのんだの心でたのんだのと、仰せらるるご教化をまだ聴聞いたしませんので、そのようなことは存じませぬ。
(7)
問い、それならば、なんとたのんだのか。
答え、なんとたのんでも安堵ができませんでしたので、仰せを聞いてたのみました。
(8)
問い、そのたのみましたとは、なにをたのんだのか。
答え、阿弥陀如来の仰せ一つをたのみました。
(9)
問い、仰せをたのむとはどういうことか。
答え、私を助くると仰せられる仰せのままを聞いて、お助けうれしやとよろこぶばかりでございます。
(10)
問い、御文章にはたすけたまへとふかく心に疑いなくともあり、また元祖(法然聖人)は心に助けたまへと思うばかりとも仰せられてあるが、要するに心で助けたまへとたのむのではないか。
答え、心でたのむこととは、聴聞いたしませんぬ。心に疑いなく、お助けをお受け申すことと聞きました。
(11)
問い、それならば、心にすこしも疑いはないかや。
答え、私のような疑い深い者を助けようとして、たびたび願を発してくだされたと聞いては、地獄へは堕ちようもなくて、うれしうございます。
(12)
問い、罪もさわりも往生の邪魔にはならねども、疑いばかりは、大きな往生のさわりと仰せられる。それゆえ御文章にも、つゆちりほども疑いなければと仰せられるのである。もしやそのさわりになる疑いがおこったならばどうするぞ。
答え、さわりになるべき疑いのおこるもおこらぬも、少しも屈託はいたしませぬ。疑いのおこるやらおこらぬやら、実は一寸先はやみの夜であり、それを知らないことほどうれしいことはございませぬ。
(13)
問い、それならもしや疑いがおころうかしらぬと、一生が間、安堵がならぬではないか。
答え、何事も知らぬほどの安堵はないと存じまする。
(14)
問い、もしやもし、そのさわりになる疑いがおこったらばどうじゃ。
答え、疑いがおこるおこらぬは、みな阿弥陀様の方でのお世話と存じまする。
(15)
問い、阿弥陀様の方でのお世話とは、一向に分からぬではないか。
答え、さようならば申しましょう。闇を晴らすは日輪のお世話、日のはたらきと存じます。ただお助けのかわらぬことがうれしうございます。
(16)
問い、助けたまへとたのむと、疑いないのと、信ずるのとは、二つか三つか。
答え、助けたまへとたのむ一念のとき、一つと聴聞いたしました。
(17)
問い、そのたのむ一念のときとは、どういう時であるか。
答え、弥陀の仰せを聞きうるときと存じまする。
(18)
問い、聞きうるときがたのむときとは、どういうときじゃ。
答え、助けてやるとの仰せを聞きましたれば、たのんで助かる世話をやめて、仰せのままをたのみました。
(19)
問い、それならば、仰せのまま、そのままというばかりでは、南無の二字が無いようではないか。
答え、南無の二字が無いゆえに、南無阿弥陀仏と六字ながらをこしらえて、助くると仰せられる阿弥陀様をたのみました。
(20)
問い、それならば、仰せを聞いたのじゃない。たのんじゃのじゃ。
答え、聞いたも、たのむも同じことと聞きました。
(21)
問い、聞いたと、たのむと同じことではつまらぬ。聞いてたのめとこそ仰せられ、たのんで聞けとはのたまわぬ。さあこれはどうじゃ。
答え、今までは聞かずに弥陀をたのみましたゆえに、たのんでその力にて助けてもらおうと、はたらきましたが、助けてやるの仰せを聞いてたのみましたれば、世話のいらぬ他力のままが知れました。
(22)
問い、弥陀をたのんで、凡夫が助かるならば、そのままとはいわれぬがどうか。
答え、たのんで助かるのなれば、たのむ世話がいりますが、願行共に成就して、そのまま助けると仰せらるるが先手ゆえ、いよいよ弥陀如来を後生の親とたのみました。
(23)
問い、そなたは、弥陀をたのみました、たのみましたと言うが、それはいつごろにたのんだのか。
答え、たのむというもいつごろたのんだのやら、あまり心易きゆえに存じませぬ。
(24)
問い、いかに心易きことなればとて、後生の一大事をいつたのんだのやら知らずにたのんだとは聞えぬ。どういうことぞ。
答え、聞いてみましたれば、いつのまにやらたのめてございました。妙なことでござります。
(25)
問い、いつのまにやらたのめたとはいかに。
答え、どうでも、こうでも助けねばおかれぬと仰せらるる御真実ゆえに、ただ助けてもらうよりほかに仕様はござりませぬ。
(26)
問い、それでは、たのむということが抜けてあるではないか。
答え、抜けるも抜けぬも、私が仕事ではございませぬゆえ、一向に存じませぬ。
(27)
問い、それならば、お前はたのまなんだのか。
答え、いやいや、たのみました。
(28)
問い、たのんだのであれば、私の仕事ではないとはどうで云えるのか。
答え、たのむ機までもないやつゆえ、彼尊の方に成就して下されたと聴聞いたしました。
(29)
問い、それならば、聞いたばかりではないか。
答え、悪いことの仕様のないようにして下されたことを聞きましたれば、たのむも信ずるも一緒に頂きました。
(30)
問い、聞いたれば、たのむ信心も一緒に頂くとはどうじゃ。
答え、たのむの機までもこしらえて、ただ助けるとの仰せを聞きましては、どうも首の振りようがございませぬ。
(31)
問い、それならば、首の振りようのないのが、たのんだのか。
答え、首の振りようがないゆえに、仰せに順いました。
(32)
問い、仰せに順うたのがたのんだのか。
答え、助くるとある仰せに順うばかりゆえに、助けたまうは弥陀のはからいかと存じます。
(33)
問い、たのめとある仰せに順うなれば、助けたまへというのじゃないか。
答え、全体たのめと仰せらるることは、自力のはたらきをすてよ。弥陀が願行成就して助くるぞよと仰せらるる仰せの通り、自力の世話をすてることと存じまする。
(34)
問い、それならば、すててたのめと仰せらるるはどうしたものじゃ。
答え、世話をやめて、彼尊の仰せにまかずばかりと存じまする。
(35)
問い、それでも雑行雑修自力の心をふりすてて、弥陀をたのめと仰せらるるからは、すててからたのめではないか。
答え、もとよりよいように仕上げたからには、役に立つ世話をやめよ。そちが往生は成就したぞよと仰せらるるご教化を聴聞いたし、一向に弥陀にまかせて、あらあらうれしやと安堵してございます。
(36)
問い、そのように、その方は、何もかも心得たで、それが安心というのか。
答え、心得たのが助けて下さるるとは存じませぬ。ただ助けて下さるると心得ました。
(37)
問い、ただということは、どういうことじゃぞ。
答え、どういうことやら知らずに、お助けにあずかることと存じます。
(38)
問い、信機信法ということは、どうじゃ。
答え、自力をすてて、彼尊様をたのむことと聴聞しました。
(39)
問い、それならば、自力をすてたのが信機か。
答え、すてまいと思うても役に立たねばすたります。それゆえ、私は役に立たず、彼尊のお慈悲一つと、ただ弥陀のお手元に目のつくようになったのが信機信法かと存じます。
(40)
問い、心をひとつにせよと仰せられるのが一つになったのか。
答え、参らるるように思ううちは、二つも三つも、参られぬ一つよりほかにござりませぬで、ひとりでに心が一つになりました。
(41)
問い、助けたまへと申すとは、口で申すことではないのか。
答え、口で申してらちあけようとするのが自力の心じゃと聞きました。
(42)
問い、そんなら何で申すのじゃ。
答え、聴聞申し訳候とは、私は口では申しませなんだ。
(43)
問い、同業者の三業と、弥陀の三業と一体になると仰せらるるとはどういうことじゃ。
答え、煩悩だらけの心中へ、助けるぞよとの勅命を申し受けたら、もう彼尊がよいようにしてお助け下さるるぞと聴聞いたしました。
(44)
問い、仏の広大なお慈悲が、いよいよ実と受け取られて、喜びづめになろうものか。
答え、いや、忘れたり、よろこんだりであります。
(45)
問い、忘れていたときの心持ちはどうじゃ。
答え、そりゃ何ともない。色も香りもなし。また思い出したときは、あらうれしやとほんのりいたしまする。
(46)
問い、とんとお慈悲を忘れてしもうたらどうする。
答え、とんと忘れてしまう私がいるで、ご教化が絶えて下さりませぬと存じます。
(47)
問い、思い出したときは丈夫なのか。また忘れたときはどうじゃ。
答え、思い出せば丈夫なことを思い出し、忘れているのでいよいよ丈夫な味が知れまする。
(48)
問い、そんならいつもうれしいか。
答え、うれしうなったで、もう悲しいところは少しもございませぬ。
(49)
問い、なにがそのようにうれしいぞ。
答え、ただ助けて下さるるお手元一つがうれしうござります。はい。
(50)
問い、そちもよくよく、御開山の腹中をのみこんだのお。
答え、いや、私は知らねども、彼尊のおかげでのみこましてもらいましたで、ひとえに御開山聖人御出世の御恩といただかれます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

[解説]
 この安心五十問答は、滋賀県坂田郡入江村大字磯第百二三番地椋田与市氏(世間に有名な与市同行)が施主となって、伝えるところの本願寺第十九世本如上人と同第二十世広如上人御父子のご問答を拝写して遺して下さったものであります。いまそれを拝借して皆さまの法味の助縁にと思い、誌すものであります。

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コメント

この問答は、携帯電話にメモしてたびたび読んでおります。
大変有難くておもしろいです。

投稿: YGM | 2010年3月15日 (月) 08時29分

YGM 様

私も気に入っている問答で、仰るとおり、有難くておもしろいですね。

投稿: 飛雲 | 2010年3月16日 (火) 05時57分

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