« 『浄土論註』を読んだことがある訳ない | トップページ | 三乗の五逆罪 »

2010年3月23日 (火)

未造業はいないというワシの解釈が正しいから理屈抜きで信じよ

善導大師は『散善義』の中で、「抑止門」「摂取門」という観点から「唯除五逆誹謗正法」を捉えられました。

光明寺の和尚(善導)いはく(散善義)、 「問うていはく、四十八願のなかのごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、誹謗を簡ひて五逆を摂せるは、なんの意かあるやと。

答へていはく、この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。

もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。かしこに生ずることを得といへども、華合して多劫を経ん。これらの罪人、華の内にあるとき三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖衆を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じ。これを除きて以外は、さらにもろもろの苦なけん。『経』にいはく、〈なほ比丘の三禅の楽に入るがごときなり〉と、知るべし。華のなかにありて多劫開けずといふとも、阿鼻地獄のなかにして長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。この義、抑止門につきて解しをはりぬ」と。

これもなかなか難しい内容ですので、

「清森問答」親鸞会教義の相対化・28

でまとめられたものを見てみましょう。

2-2善導大師の解釈

問う。
『無量寿経』の四十八願の第十八願には、「ただ五逆と正法を誹謗するものを除く」とあって、これらの者の往生を許さないが、いまこの『観経』の下品下生のところでは、正法を誹謗するものをえらび除いて、五逆のものをおさめ取って、往生できるとしているのは、いったいどういう意図があるのか?

答える。
 このことについては、仏意を仰ぎおしはかって、抑えとどめる教えの上で解釈する。
 四十八願の中で、法を誹謗するものと五逆とを除いているのは、実にこの二つの悪業はその障りが非常に重く、衆生がもし犯したならば、ただちに阿鼻地獄におちて、途方もなく長いあいだ苦しみもがいて、ついに出る道がないから、ただ如来はこの二つの罪過を犯すことを恐れて、たくみなてだてとして制止し、往生できないと説かれのであって、これもまた、おさめとらぬというのではない。

 また下品下生の文の中で、五逆はおさめとって、正法を誹謗するものを除いているのは、五逆はすでに犯してしまっており、このまま見捨てて、迷いの世界に流転させることはできないから、かえって大悲をおこして、これをおさめとって往生させるのであるが、法を誹謗する罪はまだ犯していないから、これを制止して、もし法を誹謗するならば往生はできない、と説かれるのである。

 これはまだ悪業をつくっていない点について解釈するのであって、もし罪を犯したならば、かえってこれをおさめとって往生させるのである。

というように、

★「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」(『無量寿経』)という記述は、
まだ五逆罪と正法を誹謗する罪を犯していない者に対して、「もしこのような罪を犯したならば往生はできない!」と戒めて、おさえとどめるための教え
⇒抑止門(おくしもん)であると解釈されます。

★「五逆罪を犯したものでさえ、まごころをこめて、お念仏を申せば救われる」(『観経』)という記述は、すでに五逆罪を犯してしまった者であっても、阿弥陀仏は見捨てることなく、大悲をもって救い取って往生させることを示すための教え
⇒摂取門(せっしゅもん)であると解釈されます。

 つまり、最終的には『観経』の記述のように、五逆の罪を犯したものであっても救い取るのですが、人々がそのことに甘んじて罪を造ってしまうことを未然に防ぐために、『無量寿経』では、人々を巧みに導くために、「五逆と正法を誹謗した者は浄土往生から除く」と述べておられる。

そのように解釈されています。

善導大師も、未造業という点から抑止の意味と解釈なされていますように、すべての人が已造業とは考えておられないことが判ります。

ところが高森会長は『会報』第二集にこのように書いています。

 最後に、本願にも願成就文にも「唯除五逆誹謗正法」の八文字が説かれているが、これは抑止門、摂取門と教えられている。未造(まだ犯していない者)の者にはこの五逆罪と法謗罪は、永く無間地獄に堕在せねばならぬ大罪であるから、何とか犯させまいとの御心より抑え、たしなめる為に逆謗の人は助けないぞと抑止せられたが、已造(もうすでに犯してしまった者)の者には、止むを得ぬ、そのとがめだてはせずに助けてやると摂取するのだ。
 又永除か暫除か、或は実除か仮除か、味い方は色々にあるが、一体、誰が五逆を造っているのか、誰が法謗の大罪を重ねているのか、後生の一大事は観念の遊戯では解決は出来ない。
 吾々の足元をふり返ってみなければならない。

として、色々な味わい方を否定しながら高森会長の独善的味わい方を延々と述べています。高森会長の味わい方というよりも、大沼師の味わい方ですが、味わい方の前にあるものが教えです。
善導大師の解釈を一蹴して、突如、未造の者はいない、全人類は已造のものであると結論付けるのは、偏見も甚だしいです。歴代の善知識方の論理など無用というのならば、最初から善知識方のお名前を出すなと言いたいです。
単に権威付けの為だけに善知識方を引き合いに出すのは、実に卑怯です。最初から、

善導大師の解釈は間違っている、未造業はいないというワシの解釈が正しいから理屈抜きで信じよ

と言えばいいのです。無二の善知識ですから、後にも先にも自分を越える善知識はないと認めさせたいのでしょう。ハピーアドバイスの著者に診てもらうことをお勧めします。

|

« 『浄土論註』を読んだことがある訳ない | トップページ | 三乗の五逆罪 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1323088/33906969

この記事へのトラックバック一覧です: 未造業はいないというワシの解釈が正しいから理屈抜きで信じよ:

« 『浄土論註』を読んだことがある訳ない | トップページ | 三乗の五逆罪 »