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2010年3月 1日 (月)

他力の三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり

前回エントリーのコメント欄で、19願意について意見が交わされています。
この参考になるのが、「安心問答」報土に生まれさせるが本願ですに書かれてありますので補足したいと思います。

「安心問答」で問題となったのが、『唯信鈔文意』の

「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。

「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

です。ここで親鸞聖人が仰っていることは、『観無量寿経』の三心についてです。予備知識がないと分かりにくいのですが、『観無量寿経』の顕説が19願意であり、隠彰が18願意です。それを『教行信証』化土巻に

問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

と親鸞聖人は書いておられます。つまり、『観無量寿経』には、方便の自力信心と真実の他力信心とが一緒に説かれているということです。

これを踏まえて『唯信鈔文意』をよく読まれればお判り頂けると思いますが、19願の方便自力信心では化土往生になり、化土往生後に報土往生するというが、それは極めて稀なことであるから、他力信心をえることをよくよく心得て願いなさい、と仰っているのです。最初から最後まで他力信心を目指すのです。

親鸞会の三願転入論についても、

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。

と表現なされていますが、その結論が

三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。

と親鸞聖人は化土往生、つまり19願の自力修善を厳しく誡めておられます。

どこを読んでも19願を実践してから20願、18願へ進みなさいとは仰っていません。

新たな宗派を立てられるのであれば、浄土真宗の看板を下ろさなければなりませんし、親鸞聖人のお名前を教団名に入れては、詐欺と言われても仕方がないでしょう。

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コメント

皆様

はじめまして。
阿弥陀仏の19願についての皆様のコメントを読み、教えていただきたいことがあり、投稿させていただきました。

尚、私は、あまり、浄土真宗の学問がなく、皆様のやりとりに理解がついてゆけないような者でございます。

質問の内容が、皆様にとって、失礼にあたるようなものでありましたら、大変申し訳ありません…。

質問:
以前、親鸞会で、「唯説弥陀本願海」の正信ゲのお言葉を通して、「釈迦が、仏教を説かれた目的は、阿弥陀仏の18願を説くためであった」と聞かされたことがあります。
この解釈は、正しいと考えてもいいでしょうか…?

投稿: 雨男 | 2010年3月 2日 (火) 19時29分

雨男 様

御質問、有難うございます。
これは親鸞聖人が仰ったことそのままですので、正しいです。
ただし、聖道仏教ではこれを認めませんので、その点だけは御了承下さい。

御質問は、荒らし等の目的でなければ、答えられる範囲でお答えします。

投稿: 飛雲 | 2010年3月 2日 (火) 19時47分

飛雲様

お答え頂き、ありがとうございます。
私は、荒らしのような目的は、まったくありません。
ただ、本当の教えを理解できれば…と思い、質問させて頂いた次第です。

いろいろなサイトがありますが、どれも、根拠が難しく…困っておりました…。宜しければ、引き続き、教えてください。

質問:
「聖道仏教ではこれを認めない」というのは、釈迦が、いろいろな善を勧められているからでしょうか…?

投稿: 雨男 | 2010年3月 2日 (火) 19時54分

雨男 様

そのように理解されていいと思います。

投稿: 飛雲 | 2010年3月 2日 (火) 20時12分

飛雲様

お答え頂きまして、ありがとうございます。

非常に素朴な質問で申し訳ないのですが、もう1つ教えてください。

質問:
阿弥陀仏の18願を説くために仏教を説かれた釈迦が、なぜ、
いろいろな善を勧めているのでしょうか…?

投稿: 雨男 | 2010年3月 2日 (火) 20時24分

以前にも書きましたが、釈尊が仏に成られる前は、仏教はもちろんなく、外道を信じている人しかいませんでした。
そんな人達に、いきなり阿弥陀仏の第18願を説いても信じることは到底できないでしょう。当時のインドでは因果ということについての考え方は広まっていました。釈尊は正しい因果の道理を明らかにされた上で、仏という最高のさとりを得るには、仏教で説かれる善をすることであると教えられました。
実際に、その善ができれば成仏できるものですからそれは嘘ではありません。そういう意味で、聖道門では諸善をすることで成仏できるとの教えが、釈尊の出世本懐と考えています。
それは間違いではないのですが、問題はその諸善のできる人がいるかどうかということです。
正法の時代には、諸善をしてさとりを開く人も現われると教えられていますが、末法の時代の我々凡夫では、それができるような器ではないのです。そんな者でも救うと誓われたのが阿弥陀仏の第18願です。
しかし、諸善ができる筈だから、底下の者の教えなど聞く気になるか、という聖道仏教を信じている人も多いので、それらの人も18願に導き入れるために、19願でワンクッション入れられたということです。
ですからごくごく一部の人のための聖道仏教ではなく、諸善のできない人も、そして今は聖道仏教を信じている人も、すべての人の為の教えである18願を説かれることが釈尊の本心であったと親鸞聖人は仰っているのです。

投稿: 飛雲 | 2010年3月 2日 (火) 20時53分

飛雲様

お答え頂き、ありがとうございます。
そういうことだったのですね。
少し、スッキリしました。

また、分からないことを質問させて頂くかと思いますが、そのときは、ぜひ、よろしくお願い致します。
今日は、ひとまず、これにて失礼させて頂きます。

ありがとうございました。

投稿: 雨男 | 2010年3月 2日 (火) 21時03分

雨男 様

また質問して下さい。

投稿: 飛雲 | 2010年3月 2日 (火) 21時51分

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