「自力を捨てよ」が「善をせよ」と思う人は無宿善です
昨日は、往生と信心について述べました。真実信心のだけ人が報土往生できるのだと、親鸞聖人も蓮如上人も教えられています。
それでは、真実信心になるとは、どういうことなのかが次に知りたいところでしょう。
真実信心は捨自帰他です。ここだけは、親鸞会も正しいことを教えています。
『領解文』でいえば、
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
ということです。親鸞聖人も全く同じことを教えられていますことは、
のところで、詳しく解説されていますので、そちらを読まれるとよいでしょう。
それ以外で自力について書かれた根拠を挙げるなら、
『唯信鈔文意』には、
本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。
「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。
自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。
『一念多念証文』に
自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
と教えられています。
『末灯鈔』には、
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
とあります。自力を捨てよということは、他力に帰せ、と同じことです。
他力の真実信心を賜わるには、自力を捨てよ、これだけです。
「善のできない自分と知らされるまで善を精一杯しなければならない」
「諸善は獲信とよい関係にある」
「善をしなければ信仰は進まない」
というのは、すべて自力の心です。この心を捨てよと教えれているのです。上記の親鸞聖人のお言葉をよく読んで下さい。
「善のできない自分と知らされるまで善を精一杯しなければならない」
「諸善は獲信とよい関係にある」
「善をしなければ信仰は進まない」
これが正しいと主張している高森会長は、異安心か他の目的を持った邪心の人かのどちらかでしょう。
親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を読んでも、高森会長の主張が正しいと思う人は、残念ながら無宿善の人です。平生業成は諦めましょう。
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