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2010年3月 5日 (金)

聖道仏教は捨てるけれども、19願は拾うの?

前回、真仮廃立と従仮入真について書きました。親鸞聖人の教えを信じて、18願で救われたいと願っている人にとっては、19願と20願は廃すべきものになります。不要なものをなぜ説かれたのか、という疑問も当然出てくるでしょうが、何度も書きましたように、18願での救いを願わない人がいるから、権仮方便として説かれたのです。

親鸞会では、方便である19願の実践をやかましくいいますが、同じ方便である聖道仏教については、やる必要がないと教えます。矛盾ではないですか?
20願の実践を勧めない理由は、まだそこまで至っていないから、という理屈でしょう。

しかし、親鸞会の方便理論を当て填めれば、聖道仏教は必要だから説かれたので、聖道仏教から始めなければならない、となるのが筋でしょう。

比叡山に籠もられても、また19願を飛ばして20願の自力念仏を実践されても、親鸞会の金集め、人集めができません。結局は、親鸞会にとって都合がよいのが、19願なのです。だから、19願の実践なのです。

参考の為、方便の聖道仏教、特に『法華経』について言及された部分を列記しておきます。

「所謂真言止観之行」といふは、「真言」は密教なり、「止観」は法華なり。「ミ猴情難学」といふは、この世の人のこころをさるのこころにたとへたるなり、さるのこころのごとく定まらずとなり。このゆゑに真言・法華の行は修しがたく行じがたしとなり。
(『尊号真像銘文』)

「非権非実」(唯信鈔)といふは、法華宗のをしへなり。浄土真宗のこころにあらず、聖道家のこころなり。かの宗のひとにたづぬべし。
(『唯信鈔文意』)

いまの三経をもつて末世造悪の凡機に説ききかせ、聖道の諸教をもつてはその序分とすること、光明寺の処々の御釈に歴然たり。ここをもつて諸仏出世の本意とし、衆生得脱の本源とする条、あきらかなり。いかにいはんや諸宗出世の本懐とゆるす『法華』において、いまの浄土教は同味の教なり。『法華』の説時八箇年中に、王宮に五逆発現のあひだ、このときにあたりて霊鷲山の会座を没して王宮に降臨して、他力を説かれしゆゑなり。これらみな海徳以来乃至釈迦一代の出世の元意、弥陀の一教をもつて本とせらるる大都なり。
(『口伝鈔』)

むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達(提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。
(『御文章』4帖目第3通)

方便聖道仏教はその結論として、

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
(『教行信証』化土巻)

なのです。末法の我々は、浄土真宗である18願だけを願うべきなのです。

19願についても、聖道仏教に対してのお言葉と同様のことを善知識方は仰っています。それは、「親鸞会教義の誤り」を読まれればよく判ります。

聖道仏教は捨てるけれども、19願は拾うという矛盾点に気が付かないのも思考停止が理由なのでしょう。

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コメント

親鸞会ですすめられている善="六度万行"の内容で
「持戒」と「禅定」がおかしな解釈をされているところも、(持戒=言行一致、禅定=反省という解釈)
都合よく会の活動に集中させようとするためにわざわざ言い換えたものだとわかりますね。

六波羅蜜の各項目別にWikiで調べれば下のように、親鸞会の解釈とは全く違う。
禅定=「心を統一して瞑想し、真理を観察すること。またそれによって心身ともに動揺することがなくなった、安定した状態を指す。」
持戒=「戒を守ること(「持戒」)は、六波羅蜜のひとつである」

"六度万行"の中でこの持戒と禅定だけはどちらも出家(出家仏教・出家生活・出家修行)と切り離すことのできない項目、
文字通りの意味のまま「六度万行をすすめて」しまったら、出家者になるしかなくなってしまう。
だからわざわざこの二つだけは「在家生活の中でできるような」解釈に書き換えるしかなかったんでしょうね。
(ちなみに、六波羅蜜の「智慧」の解釈も強引で、おかしいと言われてもいいレベルですね。)

19願を勧めるのなら、願文の通りにまず「発菩提心」(本気で自力成仏を目指す)をせよ。
「六度万行」をすすめるのなら、出家をして戒律を守る生活に入り、止観を行じて禅定の境地を究めよ。

投稿: | 2010年3月 5日 (金) 10時38分

親鸞会では方便の理解がまるで間違っています。

「我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う」と教学聖典でも教えているため、会員は中々誤りに気づきません。

しかし、親鸞会の教学聖典通りの意味ならば、聖道門の教えもれっきとした方便の教えですから、聖道門からやらないといけないのではないですか?

このように支部長に質問した所、「君は本願寺のようなことを言うなぁ」と言われましたが、本願寺はまともだと思います。

投稿: 淳心房 | 2010年3月 5日 (金) 22時31分

初めてコメントさせてもらいますが、電話で何度かお話させてもらっています。

タイトル見ただけでなるほど!と思いました。
19願を実践する理由が、方便で絶対必要だから、とすれば聖道門仏教から始めなければならなくなってしまいますねΣ(゚д゚;)

投稿: alex | 2010年3月11日 (木) 07時53分

程度の低い詭弁に引っ掛かってしまったことを反省しています。
少しでも多くの会員に、判ってもらいたいですね。

投稿: 飛雲 | 2010年3月11日 (木) 12時51分

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